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#9:紅蓮剣

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-05-19 20:14:34

(に、逃げようにも逃げようが……ねぇ……っ!)

 もがいても、無駄だった。

 腕を引こうとすれば、関節が悲鳴を上げる。身体を捻ろうとすれば、重心がさらに崩れる。抵抗するたびに痛みが増すのは自分だけで、押さえ込んでいるエレンは、何ひとつ乱れていなかった。涼しい顔で、ただそこにいる。まるで、これが当然の帰結だと言わんばかりに。

 観客席が、静まり返っていた。

 歓声も怒号も、いつの間にか消えていた。何が起きているのか理解できないまま、数万の目が闘技場の中央に注がれている。しんと張り詰めた空気の中に、砂を踏む音ひとつ立たない。

 その沈黙を、一つの声が破った。

「グレン!! なんだその情けない姿は!!」

 観客席の一角から、よく通る怒声が降ってきた。甲冑を纏った青紫の髪の男が、身を乗り出すようにして立っている。傭兵崩れのような荒削りな体格に、場慣れした眼光。騎士団の型を身につけながらも、どこか戦場の泥を引きずったような、そういう男だった。

 観客の視線が、一斉にそこへ向く。グレンの目も向く。そして、エレンの赤い瞳も、ゆっくりとその男を捉えた。

「……だそうだ。グレン」

「だ、団長……っ!」

「情けないにも程がある!! たったの数度の攻めで、そんなどこの馬の骨ともわからん奴に組み伏せられるなどと!!」

「ほぉ? 言うじゃないか」

 エレンの口元が、わずかに動いた。

 その一言が、グレンの中で何かに火をつけた。

「こ、こんのぉぉぉぉぉ!!!!」

 腕に力が集まる。折られないよう角度を保ちながら、それでも強引に身体を起こす。関節が悲鳴を上げるのも構わず、グレンは地面を蹴った。

「……これは驚いた」

 エレンが、素直にそう言った。拘束を外されたことへの驚きではない。その意地の力に対する、純粋な評価だった。

 立ち上がったグレンの手が、今度はエレンの腕を掴む。

「おらぁぁぁ!!」

 逆に叩きつけてやろうという意図は、明確だった。空中へ引き上げ、そのまま床へ叩き落とす。単純で、力任せで、だからこそ速い。

 だが、空中は、エレンの庭だった。

 不安定な力場の中で身体がどう動くか、どこに重心が生まれ、どこに隙が走るか。それをエレンは熟知していた。引き上げられた勢いを殺さず、むしろ乗り換えるように軌道を変える。次の瞬間、砂の上に叩きつけられていたのは、再びグレンだった。

「うぐぅ……!!」

(団長が、見てる……ッ!! 恥はかかせらんねぇ!!)

 それだけが、頭の中にあった。痛みより先に、その一念が身体を動かす。グレンはすぐさま立ち上がり、両の手のひらに炎を集めた。

 火球が、連続して放たれる。一つ、二つ、三つ。間を置かず、角度を変え、エレンへと殺到する。

 エレンは弾いた。剣の腹で、腕の軌道で、身体の向きで、次々と軌道を逸らしていく。弾かれた火球のいくつかが、闘技場の外へ向かって飛んでいった。

 観客席から、悲鳴が上がる。

 だが、火球は観客には届かなかった。

 ドン、と鈍い音とともに、火球が弾ける。観客席を覆うドーム状のシールドが、静かにその衝撃を受け止めていた。マギアを化学の技術によって結晶化させた障壁。それが今、闘技場の外縁を守っている。炎は散り、光だけが一瞬、観客席を照らした。

「く、くそっ……!」

 焦りが、グレンの全身に絡みついていた。

 団長の声が頭の中で反響する。観客の視線が肌に刺さる。それらが足枷になっていると、グレンにはわかっていた。わかっていても、振り払えない。

「……グレン」

 エレンの声が、静かに割り込んだ。

「私を見ろ」

「な、なに……っ?」

 エレンの瞳が、真っ直ぐにグレンを射抜いていた。赤い双眸に、揺らぎは一切ない。ただ、見ている。闘技場の中で今この瞬間、エレンが見ているのはグレンだけだった。

「お前はそんなにも、周りの目が気になるのか?」

 一拍。

「……はっ。随分と余裕なんだな」

 わざとらしいほど、はっきりとした笑みだった。嘲りではない。挑発でもない。ただ、事実を突きつけている。お前はまだ、私以外のものを見ている、と。

「んだと……!」

 頭に血が昇った。

 痛む腕をかばいながら、グレンは無事なほうの手で剣を握り直す。そのまま踏み込んだ。接近戦。距離を潰して、力で押し切る。それしか、今のグレンには残っていなかった。

 だが、剣の重さが違った。焦りと痛みが積み重なり、さっきまでの半分も力が乗っていない。エレンにとって、それはもはや脅威にすら届かなかった。

 縦に振り下ろす。弾かれる。横に薙ぐ。流される。回転の勢いを乗せた一撃。それも、あっさりと受け流された。どれひとつ、エレンに通じない。剣が空を切るたびに、グレンの消耗だけが積み上がっていく。

「く、くそ……! こんな!」

 その一瞬の隙に、エレンの拳が飛んだ。

 顔面への直撃。衝撃が頭の芯まで響く。視界が白く飛んだ次の瞬間、今度は腹部に重い衝撃が刺さった。回転の勢いを乗せた蹴りが、グレンの身体を真横に吹き飛ばす。

「グレン。先ほどまでの勢いはどうした?」

 エレンの声は、変わらず静かだった。

「それとも、怖い団長に見られて、緊張しているのか?」

「うぐぅ……! う、うるせぇ! オレは……!」

 次の瞬間、エレンの姿が消えた。

 いや、動いた。ただ、グレンの目がその軌道を追えなかっただけだ。

「っ……! しまっ……!」

 背後に、気配。振り返る間もなかった。エレンの蹴りがグレンの顔面を正確に捉え、その身体を地面へと叩き落とす。砂の上に転がり、グレンは俯いたまま動けなかった。

(つ、強えなんてもんじゃねぇ……! まるで歯が立たねぇ……っ!)

 息が、うまく吸えない。身体のあちこちが悲鳴を上げている。それでも頭だけは動いていて、ただその一事実を繰り返していた

「やれやれ……。外野なんぞに気を止めるからだ」

 床の上で、グレンの肩が揺れた。

 一度、二度。息を整えるように、荒い呼吸を繰り返す。それでも足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。膝が笑っていた。それでも、立った。

「おおおおおッ!! っはぁ……っはぁ……!」

「グレン」

 エレンの声は、静かなままだった。

「お前は何と戦っている? 私か? それとも、他人の視線か?」

 グレンの身体が、ぴたりと止まった。

「……!」

「ここまで言うのも癪だが、言ってやる」

 エレンが、一歩だけ前に出た。剣を構えるわけでも、間合いを詰めるわけでもない。ただ、真っ直ぐに立って、グレンを見ている。

「焦りを捨てろ。お前が立ち向かうべきは、あの男ではない。私だ。お前と今この舞台で剣を交えている、私なんだ」

 言葉が、静かに落ちた。

「他人の目など気にするな。それに……」

 口元が、わずかに動いた。

「存外、あの男も、私と剣を交えたらこうなるのかもしれんぞ?」

 グレンは、すぐには言い返せなかった。

 エレンが強いことは知っていた。唯一騎士の称号を持ち、前回の接続者選抜戦で圧倒的な戦いぶりを見せた、あのエレンだ。だが、今エレンが言ったのはそういうことではない。世界でも有数の規模を誇る騎士団の一つを束ねる団長と、自分を肩に並べるだけでは飽き足らず、同じ結果になるだろうと、当然のように言い切った。怒りが湧くより先に、グレンの胸の奥で、確かに、という感情が静かに芽生えていた。

「……」

「なればこそ、あの男の戯言など、気に求める必要などあるまい?」

「くそ……っ! ヤツめ、好き勝手言ってくれるではないか……!!」

 観客席から、怒りを滲ませた声が降ってくる。エレンは視線だけを横に流した。甲冑の男が、身を乗り出したまま顔を赤くしている。その様子を一瞥して、エレンはグレンへと視線を戻した。

「もう一度言う」

 静かな声が、闘技場の中央に落ちる。

「お前が向き合うべきは、観衆でもあの男でもない。私だ」

 赤い瞳が、真っ直ぐにグレンを見据えた。

「私を見ろ」

 エレンの言葉が、ようやくグレンの頭の中へ、すうと染み込んだ。

(そうだ。オレは……)

 ぐらつく視界の奥で、自分自身の輪郭を、もう一度見つめ直す。

 団長の声に揺れた。観衆の沈黙に飲まれた。あの男の前で恥はかけないと、目の前の相手から目を逸らした。剣を握る手の中で、いつの間にか、相手が「エレン」ではなくなっていた。

 ——焦っていた。

 ただ、それだけのことだったのだ。

 グレンは、ふっと息を吐いた。

 吐ききったところで、長い沈黙が、肺の底にだけ残った。背骨が、ゆっくりと伸びる。剣を握る指の力が、無駄なところから抜けていく。

「……すまねぇな」

 ぽつりと、グレンが言った。

「アンタに、わざわざ言わせちまった」

 その顔から、迷いが消えていた。

 憑き物が落ちたような、と言うには静かすぎる表情。負けを認めたわけでも、諦めたわけでもない。ただ、自分が立つべき場所を、ようやく自分の足元に取り戻した者の顔だった。

「もうボロボロだけどよ」

 唇の端が、不器用に持ち上がる。

「俺の切り札、見せるぜ」

「……ああ」

 エレンの返事は、短かった。

「来いッ」

 次の瞬間。

 グレンが、両手で剣を掲げた。

 高く、まっすぐ、頭上へ。両の腕を伸ばしきり、刀身を天へ向けて立てる構え。儀礼の所作にも似た、けれど無防備にすら見えるその姿勢に——

 炎が、宿った。

 はじめは、刀身を撫でる程度の燻りだった。それがすぐに、刃の輪郭をなぞる赤い線となり、次の一拍で渦を巻き、そのまた次の一拍で、咆哮した。

 ゴゥッ、と。

 炎が、垂直に伸び上がった。

 刀身を起点に、橙色の柱が天へ伸びる。風を巻き上げ、熱気が観客席にまで届く。前列の幾人かが、思わず腕で顔を覆った。

 炎の柱は、コロッセオの石壁を超え、抜けるような青空へと、まっすぐに伸び上がっていく。

 太陽の光が、その熱に滲んで歪む。

 空が、揺れた。

「……っ!」

 エレンの瞳が、わずかに細まった。

「見事だ……!」

 声には、紛れもない感嘆があった。

 その全身を、ひとすじの汗が走り抜ける。背筋から、首筋へ。エレンが——ここまで一度も呼吸を乱さなかったエレンが——初めて、生理的な反応として、汗をかいた。

「これは、全てを焼き尽くす……っ!」

 グレンが、咆哮を上げた。

「名を、紅蓮剣!」

 炎の柱が、ぐぅん、と一段、空へ伸びる。

「行くぜぇぇぇッ!!!」

 ——けれど。

 その圧倒的な熱量を真正面から浴びながら、エレンの心の内は、まだ、凪いでいた。

 冷や汗は、本能の反応だ。生き物としての警鐘だ。

 だが、警鐘が鳴ったからといって、思考まで揺れるわけではない。エレンの紅の瞳は、すでに、グレンの構えの一点一点を、舐めるように見ていた。

(自分の名を冠する大技、か)

 肩の角度。両腕の伸び。剣を握る指の位置。腰の捻り。踵の浮き。

(しかし——隙だらけだな)

 すべてが、見えていた。

 頭上に掲げられた刀身は、確かに膨大な力を蓄えている。けれど、それは「振り下ろす」までの間、その出力を完全に拘束されている、という意味でもある。両腕を伸ばしきった姿勢では、軌道の変更は利かない。一度振り下ろし始めれば、もう止められない。

 そして——

(属性を持たぬ私でも、正面から破る手段が、ひとつ)

 炎が、唸りを上げる。

 グレンが、振り下ろした。

 頭上の炎の柱が、太い槍となり、垂直に落ちてくる——その、はずだった。

 エレンの足は、退かなかった。

 退くどころか、踏み込んだ。

 炎の真下へと。

 

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