Masuk「……悪いとは思ったんだけど」ヴェルムはため息まじりに俯いた。「アンタとさっき電話をした後に、クリストに全部話したんだ。もう一度、確認する為にね」「……何を?」クラエスは先程よりは冷静を取り戻していたが、探るような眼で問い掛けた。それにはクリストが答えた。「確認と言うか、別れ話さ。俺は“またか”って思ったけど」クリストはため息混じりにヴェルムに視線を移す。「正直今まで何回もしてきたよ。下らない喧嘩の度にね。ただ俺の会社が関わって来たのは今回が初めてだ」「……」「そして言われた。俺や会社に迷惑を掛けるくらいなら別れた方がいいんじゃないか、って」クラエスは依然として険しい表情のままだが、口を挟むことはせず、黙って聞いている。「だけど俺はどんな理由を持ってこられても別れる気はない。ヴェルムも泣きながら俺に懇願してきたよ。俺と別れるぐらいなら死ぬとか言って……」「おい、捏造すんな」脚色してるにも程がある。本当はもっと反論したかったが、ヴェルムは話の腰を折らない様に怒りを抑えた。「とにかくな、クラエス。仮にこいつが別れるって言っても、俺が別れる気がないんだ。頼む相手を間違えたってことで、諦めてくれ」軽い調子で淡々と話すクリストだが、その瞳は決して軽くなかった。「俺が同性愛者だと広まっても、会社に損害なんて飛躍した話にはならない。それはヴェルムを脅す為の口実だろう? ……でも、確かにイメージは悪くなるな。だから俺は会社を辞める。いつまでも親父の世話になるつもりはなかったし」「な、何を言ってるんですか。貴方が辞める必要はないんですよ」クラエスは今までになく焦り出し、荒々しく席を立った。しかしクリストは対照的に落ち着いている。「会社から完全に身を引くことが、今の俺にできる最善の策だ。だから色々悩んでくれたお前には悪いけど、俺はここでリタイアするよ」「…ま…まさか、駆け落ちのような真似をするおつもりですか? それこそ、社長……貴方のお父様が黙ってませんよ」「そうだな。情けない話、俺はこの歳までずっと親父の言いなりだった」クリストの表情はどこか寂しかった。ただ静かに、想いの内を吐き出す。「最初で最後の反抗だよ。親と、自分に対して」世界を見ろ。それが父の口癖だ。クリストはその教えの通り、視野を広げてきたつもりだ。大抵の事は守っている
クリストにもまだ伝えてない事柄だけに、後ろめたかった。『穏便に彼と別れる方法を一緒に考えよう。君も彼も傷つかない最善の策を』「……さっきも言ったけど、気持ちの整理をつけさせてください。俺はクリストと別れたくないんですよ……本当は一秒だって長く一緒にいたい」段々彼に合わせるのが億劫になって、大袈裟な台詞が飛び出してしまった。寝起きだからだろうか。投げやりな気分になっている。それでも淡々と説明した。彼の立場や将来を案じて、悩んだ末に貴方の考えに賛同した。今あれこれ言われても混乱するだけだ、と。迷惑がってると受け取られても仕方ない返答をした。やっぱりまずかったかもしれない。電話の先からは何も聞こえない。しかし少しすると、いつもと変わらない声が聞こえた。『……わかった。強要して悪かったね。とりあえずじっくり考えてくれ』じゃあまた、と電話は切れてしまった。意外と簡単に折れた。向こうも譲歩してくれたという感じか。しかしそれもシャクだ。感謝してやる義理はない。今日はとりあえず撃退できたが、時間の問題だ。明日以降引き伸ばそうとすれば怪しまれる。どうするか……。「ヴェルムじゃんか。こんなところで何してんだ」「わ、レイグール……」前方に目をやると、不機嫌そうな顔をした彼が立っていた。「今から家に帰るところ。そっちは?」「決まってんだろ、出勤だよ。それにしても……何かお前、頭ボサボサじゃないか? それ寝癖?」「え、そんな酷い?」ヴェルムは髪を指で梳く。自分では分からないが失敗した。寝起きなんだから店を出る前に鏡を見れば良かった。「そんな目立つって程じゃねえから大丈夫だけどよ」レイグールは愛想なく答える。それはいつもの事だ。彼は他の人物に対してはそれなりに愛想をふりまくが、ヴェルムに対しては未だ一定の距離を置いている。それでも、昔よりはマシだった。「そういえばさ、まだ付き合ってんのか? 例の彼と」レイグールの質問に、ヴェルムは少し冷や汗をかいた。「あぁ。普通に付き合ってる」「ふうん。よく続くな」ヴェルムは視線を外し、遠くの建物を捉えた。正直、彼相手にクリストの話はしたくない。何が地雷か分からないからだ。「それじゃあ俺は行くから。……今日も、皆をよろしく」上手く立ち去る……いや、逃げようとした。こんな関係、本当は駄目なんだと自分
案の定、ヴェルムの嫌な予感は的中してしまった。「こんばんは。先程はどうも」閉店後、駐車場に向かっていたヴェルムの前に、先程の男性が現れた。一緒にいた眼鏡の男の姿は見えない。どうやら彼一人のようだ。しかし行きずりと言うにはあまりにわざとらしい。仕事以外では(仕事でも)極力関わりたくない人種だと、内心舌を出した。「こちらこそ、ありがとうございました。楽しんでいただけけましたか?」「えぇ、それはもう」彼は笑顔を崩さずにヴェルムに近付く。「それでは、帰りはお気をつけて……」ヴェルムは反対に、自分の車の方へ後ずさろうとしたが、男性はその様子に目敏く、すかさず口を開いた。「クリストさん。ってご存知ですよね?」どんな誘いも断ろうと決めていたが、意外な人物の名を出され、振り返ってしまった。「良かった、その顔は人違いじゃないみたいだ。……ちょっとお付き合いいただけませんか? 大事な話があるんです」「……ここでは駄目なんですか?」「長くなるかもしれないので。立ったままは疲れるでしょう」相手が誰であろうと安易に誘いに乗るべきじゃない。しかしクリストが絡んだ話なら無闇に切ってしまうのも危険に思えた。「……わかりました。どこへ行きます?」ヴェルムは意を決して両手を翳す。「そうですね。こう見えて私も立場があるので、できれば人目につかない場所が良い。私が泊まってるホテルに向かいましょうか」「……」ホテルなんて、嫌にも程がある。絶対に行きたくない場所ナンバーワンだったが、向こうは譲らないだろう。彼の車を追って渋々ついていくことにした。ホテルへ着き、チェックインを済ませ、真っ先に彼が泊まっている部屋へと向かった。「どうぞ、楽にしてください」ヴェルムは適当にすすめられた椅子に腰かけた。「少し飲みましょうか」すると彼は上等なウィスキーを出してきたので、ヴェルムは慌てて断った。「俺は車で帰るつもりなんで」「大丈夫ですよ。帰る時は私の部下を呼んで送らせますから」「そこまでしていただかなくて結構ですよ」正直ありがた迷惑だ。しかし彼は食い下がってくれず、ヴェルムのグラスに注いだ。「まぁまぁ、ちょっとなら大丈夫でしょう」グラスを押し出してくる、鼻につく強引さ。仕方なく一口だけ飲んだ。その後は手をつけないつもりで。「それとお互い敬語はやめないか。プラ
今日も店はいつも通りだ。客と店員の会話を除けば、耳に入るのはBGMぐらいのもの。ヴェルムは軽くホールを覗き、裏へ引っ込んだ。パソコンの電源を入れ、酒や食材等の物品の発注をする。今日はシフトの作成やスタイリストの手配など、事務的なことしかしない。そういえばまた近くに新しい店が出るらしい。場所によるが、それなら挨拶に行かないと。ここは競争社会。近隣にも目を配らないと取り残される。昔から乱れた区域だが、これからも変わることはなさそうだ。売上を見ながらマウスを叩いてると、一人のスタッフがカウンターに入ってきてヴェルムの耳元に囁いた。「ヴェルム、三番テーブルの客が呼んでるよ」「トラブル?」一瞬、鼓動が速まる。しかし彼は首を横に振った。「そういう感じじゃないな。挨拶をしたいんだと。お前を名指しで呼んでるんだ。知り合いじゃないのか?」ヴェルムは奥に入り、監視カメラで確認した。「知らないな。見たこともない」「一見さんだよ。紹介も特になかった」「分からないけど、行くしかないか。さっきホールに出てるから居留守は使えないし」ヴェルムは身なりを整えると、指定された席へと向かった。少しして到着すると、そこには店員の女性が二人、そして客の男性が二人座っていた。態度や様子から、この二人は仕事繋がりだと推察する。眼鏡をかけた男性は姿勢が良い。緊張しているようだ。女性に対してではない。恐らく、もう一人の男に対して。その男は、癖のあるブロンドと非常に整った顔をしており、気品があった。仕事でもプライベートでも相当なやり手だろう。穏やかな笑顔を浮かべているが、相手をよく観察しているような視線が纏わりつく。こういう人間は大抵、自分に絶対的な自信を持っている。自分も似たような類だけど、共感はできても意気投合するとは思えない。ヴェルムは一瞬の間にこのような妄想をするのが楽しくなっていた。「お待たせいたしました。何かお困りでしょうか」「初めまして。わざわざ呼びつけてしまって申し訳ありません」彼は声まで魅力的、女性を虜にしてしまいそうなバリトンボイスをしていた。「ここは居心地のいい店ですね。非常に満足しています。……ですからもう少し寛ぎたくて。時間、閉店まで伸ばせませんか?」「あぁ、問題ありません。ありがとうございます」ウチは時間制だ。確かにこのテーブルの客はそろ
人と繋がるのは、怖い。関係は不安定で老朽化した吊り橋だ。嫌われたり、好かれたり、その繰り返し。嫌だけど、それでも最後は誰かと繋がりたい。「ランディ?」名前を呼ばれた瞬間、暗かった周りが明るくなった。いや、元々周りは明るかった。闇を錯覚したのは、ずっと瞼を閉じていたせいだ。あれ。俺寝てた……。ランディは見覚えのある……店の休憩室で目を覚ました。確か、仕事に戻ったウォルターを待っていて……。「ランディ!」少し強い調子で名前を呼ばれ、ランディは身体を震わせた。目の前には、心配そうにこちらを見つめる恋人の姿。「あ……ウォルター。仕事終わったの?」「だいぶ前にな。でもお前が全然起きそうにないから……」声をかけた、とウォルターはソファに座った。「そっか、ごめん。ねぇ、ところでウォルターは」ランディは瞬きもせずに宙を見た。「何で俺と付き合うのOKしてくれたんだっけ?」「………」その質問の後、沈黙が流れた。「ウォルター、聞いてる?」「聞いてるけど……何だ、唐突に。寝惚けてるのか」ウォルターは少し心配そうにランディの隣へと移動した。「夢見てたんだ。ウォルターとまだ付き合う前の夢」あんな夢を見た原因は分かってる。店の廊下でウォルターと話していた時が、本当に不安で仕方なくって。まるで彼に告白した時のような、胸が押しつぶされそうな心境だったんだ。「思えばウォルターにはたくさん迷惑かけたなぁと思って」「確かにお前は手のかかる奴だよ。現在進行形で」彼は苦笑してから、前に屈んだ。「恋愛沙汰に発展するかどうかは俺自身分からなかったけど、あの時のお前は冗談抜きで消耗してたからな。ほっとけなかったよ」「うん」「ヴェルムを忘れるぐらい、お前のことばっかり考えていたから。俺の役目は、お前を支えることだと思って……って、こんな話、恥ずかしいからやめようか」ウォルターは珍しく顔を赤くして、額に手を当てた。それが逆に面白く、笑ってしまう。「いいじゃん。もっと聞かせてよ」「……」ウォルターは身を乗り出して、ランディの頬にキスをした。「いいけど、後でな。最近は本当に歯止めがきかなくて、俺も困ってるんだ。お前にもっと触りたくて」互いの指が絡まり合う。二人の息が、熱で溶け合った。「こんな場所でやって大丈夫かな。ヴェルムに見つかったら今度こそク
青年が帰ると、案の定気まずい空気になった。「あ、あの……」何から話すのがベストだろう。隠すところだけ布団で隠してるけど、この状況は本当に酷い。自分の今の姿は目も当てられないはずだ。「どういうことか説明してもらおうか」ランディは俯いたまま、顔を上げることができなかった。彼と目を合わせる資格がない。後ろめたさが勝って、唇を噛んだ。「最近、お前が複数の客と関係を持ってるって情報が入っててな。信じたくなかったんだけど」ウォルターは少しずつ歩みを進めて、ランディの前に膝をついた。「……本当だったみたいだな」「……っ」怖い。彼に心の底から失望されたと……わかってしまった。「って、おい? 泣いてるのか」ウォルターは目を見開く。確かに、自分は涙を流し、嗚咽していた。「泣くことないだろ。むしろ泣きたいのはこっちだよ」ウォルターは困ったように頬を掻くと、ランディの頭に手を当てた。「まさかこんな風に男と寝るなんて……襲われそうになったお前を助けた俺の行動は何の意味もなかったわけだ」息が詰まりそうな空間だ。ランディは彼のもっともな言葉に何も返せず、しかし涙も止まることなく流れ続けた。「強引に雇ったヴェルムにも非はあるけど、わかるよな? お前がした事は店の存続に関わる問題だってこと……俺もあいつも、前のオーナーが残してくれたあの店が大事なんだ。店を守るためなら何でもやる」「………」ウォルターの言葉に、静かに頷いた。彼らの大事なものを汚した自分は責任を取らなければいけない。迷惑をかけるだけかけた上での決断を。「ごめん……俺もう、店を辞めるよ。他に償えることがあれば、何でもする」ようやく発した言葉は何とも情けなかった。「本当に……本当にごめんなさい……」どれだけ憎まれても、どんな罰を受けても仕方ないと思った。しかしウォルターは落ち着き払った様子で、ランディを見据える。「……話してくれないんだな」その声には、少しだけど寂しさが漂っていた。「俺はよっぽどのことがなきゃ、お前がこんな事するとは思えないよ」ウォルターはランディの身体を引き寄せた。その温もりを感じて、また辛くなる。思わず彼の優しさにすがりつきたくなってしまいそうで怖かった。「したかった事があるんだ」消え入りそうな声で、ランディは言った。「恋人の真似事みたいな……」「