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鐘が七つ。鳴り終える余韻までを合図に、王都の大聖堂に静けさが落ちた。彩色ガラスの青と赤が壇上の石肌を洗い、白い香煙が細くほどけて天井へ吸い込まれていく。中央で、アルトリウス王子は指先の汗を小さく拭った。視線の先、金糸で縁取られた外套の裾を整えながら、ルシアン皇子が肩で息を整える。二人とも成人。戦と商路、その重さをもう知っている年だ。
「条約婚は、盾ではなく橋である」
司教の低い声が石壁に柔らかく反響する。両国の紋章旗は高窓からの風にゆるくはためき、磨かれた石床は踏み込むたび、靴音を氷のように刺して返した。
呼吸を合わせる。ルシアンの瞳が一瞬、こちらを探す。頷く。——いける。視線でそう告げる。
——橋。壁よりも維持費がかかる。けれど、渡ってきた者の数だけ意味が増す。アルトリウスはそう教えられて育った。今日は、その一本目を架ける日だ。小礼拝堂の壁には野花のステンドがある。青が多い。冷静であれ、という王家の戒めに似ていた。けれど、中央にだけ金の小さな果実が描かれている。実を結べ、だ。
「我らは国境関税を半減し、塩と布の双の路を開く。山間の水門は共同で守り、納骨堂の修復費を折半する」
宰相が巻紙を繰り、利得を一つずつ読み上げるたび、ざわめきが盛り上がっては沈む。商人は頷き、兵は腕を組み、修道士の何人かは組んだ指の結びを固くした。潜る者は潜る。大聖堂の影で黒いフードが一つ、香炉の鎖を短く鳴らす。地下街の顔役は回廊の柱の後ろで、笑わずに笑った。納骨堂の守り人は鍵束を音もなく懐へ消す。反対の火は消えない——ただ、表で燃やさない。
「アルトリウス王子」
取り決め通り、公では皇子が前に。ルシアンが一歩、石床に音を置いた。
「この婚約は、帝国の恥ではない。選択だ」
短い。だが芯に熱がある。アルトリウスはその背に立ち、視線で支えた。震えは膝ではなく喉に来ている。強くなる訓練は、筋ではない。声だ。視線だ。沈黙の使い方だ。
「……共に、雄になろう」
最後の一文に、アルトリウスの胸が熱を帯びる。雄——おずおずと礼だけを取る皇子ではなく、自ら条件を示し、頷きを引き出す者へ。あの言葉を、国民の前で言えた。今日の到達点としては、十分だ。
指輪交換は、少しだけ滑った。侍従が差し出した小さなクッションに、なぜか税目の目録が刺さっている。
「……これは」
「経理が、興奮して」
司教の咳払いで笑いは霧のように消え、代わりのクッションが駆けてきた。こういうぬるさは悪くない。場は柔らぎ、目録は後で役に立つ。
儀礼の締めくくり。「感応紋」の魔法陣が開き、薄い光が二人の足元に描かれた。蔦の紋が手首へ這い、肌の内側へ吸い込まれていく。痛みはない。ほんの少し、冷たい。二つの鼓動が重なる瞬間があった。縁結びの紋は見えない。見えないからこそ、言葉で重ねる。
「婚約を公に証す」
拍手は大きすぎず、小さすぎず、木壁にやわらかく返ってきた。
儀礼が終わるや、二人は小礼拝堂へ移される。公では前に。私室では——支える。扉が閉まる。香の匂いが薄れ、蜜蝋の甘さが残る。
「息、浅い」
囁くと、ルシアンは喉を撫でて見せた。頑張ったね、の代わりに、指で短く撫でる。抱き締めたい。だが先に、約束だ。
「契約を」
「うん」
書記官が二人に向けて巻紙を開く。言葉は政治と同じ、明文化する。体のことも政治の延長だ。交渉のために、合意がいる。
「合意契約。可、不可、合図、アフターケア、読み上げます」
ちょうどそのとき、合唱隊の準備の鐘が鳴った。扉の向こうで少年らが「合図」の cue を今だと勘違いし、一節を歌いかけて、祭壇裏がばたばたする。司教の苦い咳払いが二度。静かになった。
アルトリウスは笑いを呑み込み、ルシアンへ視線で問う。続けよう。そう言う。
「可:手首への軽い拘束、頸への口付け、指示に従う訓練。不可:痛みを目的とする行為、跡の残る強い拘束、呼吸に影響する行為」
ルシアンの喉が小さく上下する。アルトリウスは続ける。
「合図。口頭のセーフワードは『アマランス』。発声できない場合は左手を三度叩く」
「三度?」
「二度は癖で出るって、前に言ってた」
「……覚えてたんだ」
短いやり取りで、安心が流れるのがわかる。近い。けれど触れない。順序がある。
書記官が羽根ペンを止める。
「アフターケア。温かい飲み物。抱擁と体温の共有。魔紋の冷却処置。入浴の介助。翌朝の体調確認。加えて、感情の確認を言葉でする」
「言葉で」
壇上のときより少しだけ、素で柔らかい声。
「週一回のスイッチ・デーを設ける。火の曜日。公務後に時間を確保する」
「公では、私が前に。私室では、君が支える」
「うん。火の曜日だけ、交代」
短い文を積み上げる。政治と同じ。曖昧は流血を呼ぶ。体でも同じだ。
巻紙に二人の名が並ぶ。アルトリウスは筆を置き、ルシアンの手の甲を親指で軽く押して、「ありがとう」と言った。おめでとう、ではない。ありがとう、だ。
扉がこんこんと叩かれ、宰相が顔をのぞかせる。
「地下街の顔役が、挨拶を望んでおります。大聖堂の外階段にて」
「今?」
「はい。大通りは祝祭で塞がっておりますので、納骨堂の回廊を」
納骨堂。冷える場所だ。反対派が潜るには都合がいい。アルトリウスはルシアンを見る。誰が前に立つか。ここは公。皇子の名が先に出る場だ。
「……私が行く」
「隣に立つ」
決めごとは、支えるためにある。
納骨堂の階段は薄暗く、蝋燭の灯が骨壺の白さを鈍く照らす。香はない。石の匂い。水の冷たさ。足音は響きやすい。つまり、逃げる音も追う音も知らせてしまう。
射し口に、男が一人。地下街の顔役——金の歯を見せない笑い。背後に影、三。武器は持っていない。ここで抜く者は愚かだ。
「おめでとうございます」
低く頭を下げる。礼は深い。だが目は笑わない。
「祝宴の露店、税を少し軽くしていただけると、下の者が泣いて喜びますが」
「半減の通達は出してある」
ルシアンは即答した。声は壇上より自然で、芯は残る。
「当日分だけ免除しよう。屋台一つに一枚銀——従来の徴収法は見直す。次の市までに詳細を詰めたい」
顔役の目がわずかに動く。驚き。押し返された、と理解した表情。
「……話が早い」
「時間がないから」
ルシアンの指が、ほんのわずかにアルトリウスの袖を探す。アルトリウスは袖越しに指先を返す。視線は崩さない。雄になる訓練は、唇より先に足裏から始まる。ここで一歩も退かない。退くときは、二人で合図して退く。
「納骨堂への寄進は、変わらず続けます」
顔役が付け加える。階段上には司教の影。力の線は三つ——大聖堂、地下街、王族。今日から、四つ目が生まれる。二人の線だ。二重統治は常に揺れる。揺れを揺れとして受け取るのも、また訓練。
祝祭は夜まで続いた。やっと自室に戻る。扉が閉まる。廊下のざわめきが薄まる。
「……どうだった」
「怖かった。でも、逃げなかった」
「よくやった」
アルトリウスはようやく胸に引き寄せた。重さを預ける練習は、抱擁から始める。ルシアンの肩が小さく落ちる。力を抜く、という技術。
「火の曜日、忘れないで」
「忘れない。合図は?」
「『アマランス』」
「うん。君の声で、言ってほしい」
赤くなる。視線を逸らす。可愛い。けれど、可愛いだけでは終わらない。彼は今日、地下の影に向かって「今は免除」と言えた。短く、効果的に。雄の声だった。
「明日は出立だ。森を抜けて、帝都へ——橋の、もう一方の岸へ」
「森で、何が待つかな」
「狼煙か、歌か。どちらでも対応できるように」
「ああ」
灯りを落とす。二人は手を繋いだ。指の蔓紋がほんのり温かい。言葉にしたから、触れられる。触れられるから、次がある。
次回、第2話:合意契約、可と不可
鐘が三度、都の空を割った。香の匂いが白い柱をのぼり、光は大聖堂のステンドを焦がすみたいに濃かった。 皇子は一歩前へ出た。外では彼が先頭に立つ。王子は半歩後ろで外套の裾を整え、肩甲の紐を結び直しながら低く言った。 「歩幅、合わせる」 皇子は小さく息を吸い、頷いた。膝が笑わない。訓練の成果だ、と彼は胸奥で言い聞かせた。公開儀礼は、条約婚から始まった。帝国と王国の戦を終わらせ、二つの王統を結ぶ文言は羊皮紙に古い魔紋で縫い込まれている。老司教が巻物を掲げ、群衆は静まった。 「契りの第一条。戦は条約で終え、同床ではじまらないこと」 王子は笑いを堪え、皇子は喉の奥で笑いそうな自分を飲み込んだ。愛より先に契約、契約より先に信頼の種。二人で決めた順番だ。続いて、二人だけの合意契約が読み上げられる。可の範囲、不可の範囲。合図。アフターケア。 「拘束は軽度のみ。痕を残さない。侮蔑語は用いない。合図は左手二指の上げ下げ、または三度の掌打。セーフワードは『雪』」 司教が「ゆき」と発音した瞬間、地下街の頭領がくしゃみをした。緊張が少しだけほぐれ、笑いが波紋のように広がる。王子は皇子の指を握り、指輪の内側に刻んだその文字を撫でた。 「アフターケア。温かい飲み物、体温の維持、言葉での確認。拒否の理由を尊重し、再交渉は別日に」 朗々とした声が石壁に返る。儀礼の場でこんなに具体的な合意を明文化するのは前代未聞だったが、拍手は止まらなかった。二人の間に走った信頼の糸が、群衆の間にも一本ずつ投げ渡されたように見えた。聖具の箱が運ばれてきたとき、段取りが一つ転んだ。儀具の箱と器具の箱が同じ意匠で、文官が取り違えていたのだ。王子用のサインペンの代わりに、私室で使うソフトカフが金糸の布の上に鎮座してしまった。 「これは……革新的だな」 老司教が目を白黒させる。王子がひょいとカフを掲げ、群衆に向かって言った。 「公では皇子が前に、私室では私が支える。それだけの印だ」 笑いの渦が起こり、老司教
鐘の音が白い塔を震わせた。大聖堂の床は陽光に温まり、石の匂いがかすかに甘い。皇子は一歩、前に出た。公では彼が前に立つ。それが二人で決めたやり方だった。王子は半歩後ろ。視線で「呼吸」と告げる。皇子は息を数えた。肩に落ちる影が、いつもの合図のように優しい。森で出会った日の、彼の指の温度を思い出す。迷いを撫でて、背骨を立てさせた指だ。堂内は満員だった。条約婚の公開儀礼。帝国と王国の境で何度も頓挫した文言は、今朝ようやく一本線になった。二人の右手首に巻かれた白紐に、魔紋の燐光が走る。誓約魔法は、契約の条と合意の条を同列に刻む。「合意契約を読み上げる」皇子の声は良く通った。王子が喉の奥で小さく「いい」と呟く。承認の合図。皇子は続けた。「可は、互いの命令を公共目的に限ること。不可は、身体の安全と尊厳を損なう命令すべて。合図は、手の甲を二度叩くこと。そのときは即座に中止する。セーフワードは『灯』。口にされたときは、理由を問わず一切を止め、アフターケアとして水、甘味、毛布、そして抱擁を提供する」ざわめきが生まれ、すぐに収まった。王子が一歩進み、同じ条を繰り返した。響きの正確さが彼の性質を示す。最後に、王子が笑って付け加えた。「週1回のスイッチ・デーを設ける。公は皇子が前、私室では私が支える。逆の日は、私が前で、皇子が支える。政と心を、週ごとに点検するためだ」年配の臣が咳払いをしたが、隣の司祭に肩を小突かれて黙る。場の空気が柔らかくなったところで、事故は起きた。侍従が運ぶはずの儀礼の腕輪が、なぜか見慣れた革の箱に入っている。王子は開けて、乾いた笑いを漏らした。柔らかい黒革。金具。見覚えしかない。「……誰だ、寝室の箱を堂内便に混ぜたのは」侍従が青ざめた。皇子はすっと手を上げた。合図。笑って首を傾げる。「灯」王子が即座に箱を閉じ、水差しを差し出した。堂内が笑ってほどける。皇子は一口飲み、息を整え、正しい箱を受け取った。儀礼の腕輪は凛とした銀。革の方は、後で笑い話になる。扉が、外からどんと叩かれた。鐘がひとつ、ふいに止む。旧摂政派だ、と
市井の香りは甘かった。焼いた蜂蜜菓子、石臼で挽いた麦の匂い、油の焦げる音。皇子は人の波に肩を預けながら息を整えた。森を抜け、白樺の風を背に受けてここへ来た。大聖堂の鐘は祭りの開始を告げ、地下街の太鼓は胸の底で鳴っていた。納骨堂の若い守り手たちは香を焚き、先祖の名を囁いていた。三つの力が同じ通りに立っている。珍しい光景だ、と皇子は思った。彼の隣で、王子が文書筒を開いた。羊皮紙の契約が涼しい音でほどける。蝋印はふたりの紋を重ねた形だ。 「本日、可は手首のリード、腰への触れ、頬まで。不可は跪拝の強制と跡の残る拘束」 王子が短く読み上げる。皇子は喉を動かした。「合図は?」 「三度のタップで緩める。セーフワードは『柘榴』」 「アフターケアは?」 「水、陰、言葉の確認。俺が責任を持つ」 互いに頷くと、王子が目尻を和らげた。「それと、今日は週に一度のスイッチ・デーだ」 皇子は一瞬まばたきし、思わず笑いそうになった。「曖昧な天は厄介だな」 「公では君が前。私室では俺が支える。だが今日の私人の分は日没からにしよう。臨時条項、どうだ」 「受け入れる」 羊皮紙の隅に短い文言が追記され、蝋で封じられた。契約が身体に落ちる感覚を、皇子は好きだった。愛より先に契約。契約より先に信頼。その順番が彼を楽にした。広場の石畳には白い粉で踊り紋が描かれていた。螺旋が三度、中心で交わる。太鼓持ちが「踊れ」と笑い、屋台の娘が「ふたり、先に」と背を押した。皇子は一歩、前へ。公では彼が先に立つ。王子は半歩後ろ、指先で手首を支える。合意済みの熱が皮膚越しに伝わった。太鼓が三つ、鐘がひとつ。皇子は踊り紋に従って足を運んだ。右へ、二歩。左、止まる。王子の短い声が背に落ちる。 「息」 彼は息を吐いた。腰に軽く触れる手。力はない。ただ方向だけがある。雄になる訓練、と王子は呼ぶ。支配ではなく、選ぶこと。選ぶための筋肉。皇子は両手を広げ、群衆の円に向けて合図した。 「一緒に」
鐘の余韻が大聖堂の高い穹窿に絡み、薄い香が白い煙になって昇っていった。祭壇の上、皇子は前に立ち、王子は半歩うしろに寄り添った。公では皇子が先に、私室では王子が支える──二人が選んだ二重の秩序だ。「条約婚を、ここに成立させる」皇子の声はよく通った。胸の中央で淡い金の魔紋がひらき、誓いの文言が空気に溶ける。王子は短くうなずき、誓書の巻末に自筆の印を押した。契約は二重。国家間の条約として、そして二人の関係のルールとして。「可は、合意のもとに。不可は、口頭で明確に」皇子が読み上げる。その指先に、王子がそっと触れた。「合図は三つ。手を二度叩く、指輪に指を添える、視線を落とす」王子が続ける。書記が速記羽根で音を刻む。最後に、セーフワード。「葡萄。これで即時中止。誰であれ尊重する」大司教が「証」と低く唱え、祭壇石に光が弾けた。群衆は息を呑み、次いで歓声に変わる。条約婚の成立と公開儀礼。二人の連続する短い言葉が、国の法と身体の合意を同じ重さで縫い合わせた。地下街は、昼でも薄暗い。式ののち、二人は外套を纏い、石段を降りた。床石は油で滑り、香辛料と金属の匂いが混ざる。「税を上げる話ではない。任命を変える話だ」王子が穏やかに切り出し、地下街の顔役が腕を組む。血統で独占されてきた末端の監督職を、住区ごとの投票で選ぶ。皇子は前に出る。「候補は血筋からも出る。ただし、最終は票だ」短い。だが硬い。顔役は底を測るように皇子の目を見る。王子は身体の角度をわずかに変え、支えの気配だけを渡す。合図は要らなかった。皇子の背筋は伸びていた。納骨堂は冷たかった。骨壁に刻まれた名が規則正しく光る。司の灯が揺れ、古い権利書が開かれる。「祖霊が継承を指名する。これが我らの掟」司の目は細かった。皇子は手の甲に描かれた魔紋に息をかけ、静かに返す。「祖霊の灯守は、施主たちが選ぶ。毎年、花の季に。灯守の印は納骨堂が授ける」血は敬う。だが意思は生きている者の側に置く。王子が文案を差し出す。灯守は儀礼の長だが、王座の代行ではない。司はしば
鐘が三度、鳴った。香の煙が白く漂い、聖油が肌にひやりと触れた。大聖堂の中央、皇子は胸に手を当て、王子の差し出す掌に指を重ねた。司祭の声は短く、魔紋が手首に浮かび、青金色の光で互いの脈を結んだ。公開儀礼は、淡々と、だが確かに終わった。地下街の代表は袖の陰で数え、納骨堂の管理長は無言で頷き、列柱の影には押し合う視線。権利の取り合いは終わっていない。むしろ、ここからだ。皇子は息を吸い、前に立ち、簡潔に宣言した。「共に治める」王子は一歩、半歩だけ後ろへ。掌の力だけで支える。その距離感が、公の合図だった。夜。私室に移ると、カーテンは厚く、焔は低く、窓は鍵が下りていた。机の上に羊皮紙、銀の印章、細い羽根ペン。王子は外套を脱ぎ、皇子の喉元の赤い印を指先で確かめる。「痛むか」「平気だ。儀礼の油の匂いがする」「なら、始めよう。私的条項の更新だ」二人は椅子に並んで座り、文字を交互に置いていった。可、と不可。合図、順序、アフターケア。王子が短く読み上げ、皇子が短く頷いた。「可。命令の口上。視線の固定。跪礼」「不可。痕の残る拘束。首を圧す行為。公の場での混同」皇子は指先を軽く上げた。「要確認。手枷は絹のみ。鍵は見える場所に」王子が笑う。「絹以外は、納骨堂から怒られる」ここで扉が軽く叩かれた。侍従が青い顔で羊皮紙の束を差し出す。「先ほどのドラフト、誤って納骨堂に回してしまいまして……戻ってきました」束の表紙には、赤い書き込み。「骨壺区域に金属鍵は禁止」。二人は声を殺して笑った。皇子は耳朶まで赤い。「返事を書こう。金属鍵は私室用だって」王子は「了解」とだけ言って、可の欄に一行足した。「合言葉の運用。セーフワードは『灯』。ささやきで発する。三度、手を叩く動作と併用」皇子はその言葉だけで喉が動いた。「……『灯』」「今は運用の確認だ。言えば、すべて止める。水を出す。手を包む。説明は求めない。再開の合図は『続ける』。それがなければ、夜は終える
軍鼓が二つ、違う拍を刻んでいた。広場の石畳にひびく重音が片や三歩、片や四歩。列が蛇のようにうねり、槍の穂先が互いの肩に刺さりそうになった。「止め」皇子が前に出て、掌を立てた。春の光が外套の縁を白く縁取り、彼の耳は緊張でほんのり赤かった。王子は半歩後ろで、視線だけで行軍長に合図した。「原因は?」「太鼓頭がふたり、殿下」「それは知っている」王子が小さく笑って、皇子の腰骨に目に見えない支えの手を置いた。触れはしない。だが皇子の肩の呼吸が一つ整った。公では皇子が前。私室では王子が支える。その二重の歩調を、軍にも教える必要があった。《『軍の歩調って本当に歩調だよな』》彼らは大聖堂の影で条約婚を成立させたばかりだった。公開の儀礼では、白砂糖で磨かれた石の階段を、皇子が先に上がり王子が背面を守った。誓約の巻紙には「支配と委ね」の章があり、政治の合意と同じ体裁で、私室の契約が明文化された。可・不可、合図、アフターケア。セーフワードは薄荷。指先三回の合図で緩め、薄荷の言で即時停止、そして蜂蜜茶とぬるい湯、それから背に描く温めの魔紋。官能の言葉が、法律の言い回しで刻まれているのは、少し可笑しくもあり、安心でもあった。問題は、軍だった。二頭制と告げただけでは、現場は迷う。誰の号令に従い、どの旗を見るか。大聖堂は儀礼の権威を主張し、地下街は糧秣の配分権を握り、納骨堂は戦没者の名の扱いをめぐって口を出してきた。権力が絡まれば軍鼓も乱れる。「手引きを出す」王子が言い、地下街の書写工と取引した。地上の印刷は大聖堂の発願が必要だが、地下なら早い。薄い羊皮を重ねた掌サイズの冊子に、魔紋の透かしを入れた。表紙には二つ首の鷲の紋。左は蒼、右は朱。蒼は皇子、朱は王子。公務の場では蒼の旗が前、私室と戦術即応時は朱が支えに入る。その切り替えを明確にするために、「週一のスイッチ・デー」を軍も採用した。毎週火の六日、旗の位置が入れ替わる。笑った兵も多かったが、笑いが溶かす誤解もある。「スイッチって、その……」若い隊士が耳を赤くした。王子が片目をつむった。「公務