式から四日、二人は都に入った。城門前には旗。乾いた土と香の匂い。鐘が一打、風で低く揺れた。
皇子は外套の襟を指で摘まんだ。手汗。指先が冷たい。隣の王子がささやく。 「息、二拍で吸って、四拍で吐く」 「できる」 短く答えた。できる、と言った自分に少し驚いた。森の夜より人の目が怖い。今日、条約婚は公開儀礼で結ばれる。帝国の継承と王国の交易をつなぐ政治。その中心に自分。逃げたくなる。だが、彼は隣にいる。約束どおり半歩下がって。 大聖堂の親扉が開く。冷えた石の匂い。天蓋の魔紋が薄く光る。侍従長が合図し、二人は誓台の前へ。公では皇子が前に出る。王子は背で支える。それが二重統治の最初の形。 「帝国皇子、来殿」 「王国王子、来殿」 声が反響した。祭司長が銀墨の筆を差し出す。契紋は手首に描く。皇子は筆先の冷たさに息を飲み、用意した文言を口にのせた。王子が背で静かに呼吸を合わせる。呼吸の数で落ち着く。不思議と声が出た。 「我ら、条約婚を成す。公では帝国の段に立ち、私では互いを守る。不可侵の骨を侵さず、商の血を汚さず、城の階を乱さず」 祭司長が頷き、魔紋が淡く絡む。銀の線が二人の手首で一瞬だけ交わり、消えた。契紋は見えないように埋められるのがこの国のしきたりだという。派手さはない。だが重さがある。人々が息を合わせて手を打った。 通路の端で、地下街の顔隠しの女将が目礼を寄越した。黒いヴェールの下に笑い。納骨堂の守り手は杖を突き、石床を一度だけ叩いた。大聖堂、地下街、納骨堂。三つの視線がここにある。権力は香のように混ざると扱いづらい。彼は肩でそれを感じた。 儀礼の後、私室へ。扉が閉まる音で、体のこわばりがやっとほどけた。王子が机に羊皮紙を広げる。契約。二人の合意を文にする時間。 王子は短く言う。 「可、不可。合図。ケア。四つだけ」 「四つ」 「書く。君の言葉で」 皇子は深く息を吸った。政治はいつも長い言葉を求める。だが今は短くていい。 「可は、手首までの固定。命令の語気。跪礼。口づけ」 王子が頷く。筆が走る。 「不可は、傷が残るもの。痣を見せる部位。第三者の関与。嘘」 筆先が一瞬止まり、王子が顔を上げた。 「嘘は不可、いいね」 「不可」 王子の目尻が少し柔らいだ。その一瞬の甘さが、書く勇気を増やす。 「合図は……色の言葉は公で使う。私では一つだけ。セーフワードは『砂時計』」 「理由は」 「流れを止める言葉。二度言えば、即時中止。扉を開ける」 「運用は、声に出せない時は君の左手。三回叩く」 皇子は左手を机に置いて軽く叩いた。王子の視線がそこに落ちる。合図は身体に刻むほうが早い。 「ケアは、温かい飲み物。体温の確認。言葉の確認。湯」 「甘いものも」 「……蜂蜜を一本」 王子が笑った。筆は四つの柱をまとめ、末尾に一行を添える。 「週に一度、スイッチ・デーを設ける。公私を問わず、主従を入れ替える練習日」 皇子の喉が乾いた。公でも?と思って王子を見る。王子は首を振る。 「公は段取りだけ。君が前に立ち、私が補助に回る配分を変える。私では役割を入れ替える。本番は週一回でいい。焦らない」 「焦らない」 「署名」 二人は印を押す。王子は蝋を落とし、指で王家の紋を押し込む。皇子も印章を押す。ふっと、胸の奥が軽くなった。愛より先に契約。だが、契約の墨が乾く間に、信頼の種が置かれた気がした。 扉を叩く音。侍従が予定を告げる。 「次は地下街の代表と納骨堂の守り手の面会を、同時刻で」 二人は同時に眉を上げた。王子が短く聞く。 「同時?」 「ええ。両者とも譲らず」 王子は皇子の視線を一度探し、それから言う。 「なら、分かれる。公の君は大聖堂の中庭で守り手と会う。私は地下へ行く。終わりに合流して三者会談」 皇子はうなずく。王子は外套を肩にかけ、扉に手をかけた。 「君は前。私は支える。忘れないで」 「忘れない」 中庭の石畳で、納骨堂の守り手が待っていた。骨壺の冷たい重みの話、祖霊の静けさ。守り手は、婚礼の契紋を納骨堂の前で一度だけ見せる儀の許可を求める。祖霊に見せなければ、彼らの中で婚は成らないのだと。 「条約婚は血だけではない。骨にも見せよ」と守り手。 皇子は考え、答える。 「夜、灯を最小に。足音を少なく。あなたの杖で一度だけ床を叩く。それが合図。人は五人まで」 守り手の目が細くなり、口元がほどけた。 同じ時刻、王子は地下街でヴェールの女将と向き合っていた。女将は税の軽減と安全な通路の保証を求める。王子は短く笑う。 「税は軽減。通路は大聖堂の地下納骨堂の脇を通す。その代わり、盗品の搬入は禁止。『砂時計』と言ったら商談は一旦止める」 女将が首を傾げた。 「砂時計?」 「私室でも政で使う合図だ。止めるための言葉。市場でも同じにする」 「面白いね。商人は合図が好きさ」 約束は枝を伸ばす。大聖堂は骨を守り、地下街は血を巡らせ、納骨堂は静けさを守る。三者の手が、一本の蔓で結われていく感触。 夜。納骨堂に下る。石の匂い。蝋燭の小さな火。守り手が杖で床を叩く。音が骨に染み込む。皇子は手首を差し出し、王子と互いの契紋を一瞬だけ露わにする。祖霊に見せるための一瞬。炎が揺れ、空気が震え、静けさが戻る。これでこの都の骨も、この婚を受け入れた。 私室に戻ると、王子は湯を用意している。蜂蜜の香り。湯気が首の後ろを撫でる。皇子は椅子に座り、靴を脱ぐ。足裏の熱が抜けていく。 王子が膝をつき、手の甲に口づける。 「よく前に立った。声がよかった」 「支えがあったから」 「支える」 短い言葉の往復。柔らかい。王子は契約書を指で叩く。 「最初の運用、試す。軽いもので。私が命じ、君が拒む練習」 皇子は頷き、息を整える。王子が軽く右手を取る。触れ方は学びの手つき。 「跪け」 皇子は膝を折り、目を上げる。王子の瞳はいつもと同じ高さにあった。命令の音が落ち着いている。心拍が整っていく。次の瞬間、外から歓声。遅くまで続く市の祭の音が窓を揺らした。胸の奥にざわり。これが合図の練習だ、と自分に言い聞かせるより先に、口が動いた。 「砂時計」 言葉が空気を切る。王子の手が即座に離れ、額に指が置かれた。止まった。約束どおり。 「中止。蜂蜜を」 「蜂蜜」 笑ってしまう。王子が蜂蜜を湯に落とす。匙で何度か回し、唇に寄せる。甘さが舌を満たす。喉が緩む。自分で言った合図が、確かに二人を守った。合意の形は、こうして体に落ちる。 その時、扉が控えめに開いた。侍従が顔だけ覗かせる。 「失礼を。明日の『スイッチ・デー』の準備を——」 「明日?」 二人は同時に言った。侍従が巻物を慌てて広げる。 「はい、大聖堂の協議と重なっておりまして、段取りを——」 王子が苦笑し、蜂蜜湯を皇子にもう一口飲ませる。 「明日は無理。『スイッチ・デー』は週に一度でいい。君が最も休める日へ。侍従、日をずらす」 「は、はっ」 扉が閉まる。皇子は肩を上下させて笑った。 「段取り、難しい」 「段取りは難しい。だからこそ、合図と契約が要る」 王子は隣に腰を下ろし、皇子の頭を肩に寄せた。髪を撫でる手。言葉のケア。心が落ち、筋肉が眠りを思い出す。公の前で前を歩いた足に、今、私の時間が戻ってきた。 「明日、君は中庭で最初の提案を言う。地下街の税の話。短く、三文で」 「三文」 「一文目で目的、二文目で対価、三文目で合図。『砂時計』を政策にも入れる。止める権利を誰にでも」 皇子は目を閉じ、声に従って三文を心の中で並べた。雄になる訓練は、ここから政治へ連動する。合図をもらえる民は、声を持つ。砂時計は都のことばになる。そんな未来図が、蜂蜜の甘さの奥でぼんやり光った。 「君の声は、さらによくなる」 「君の支えは、変わらない」 言葉が重なり、夜が静かに下りる。私室の扉は閉じている。合意と契約が中に灯をともしている。手触りのある安堵が、二人の間に布のように敷かれた。 次回、第3話:初夜のプロトコル大聖堂の白い床に、魔紋の輪が二つ重なった。皇子と王子の足がその内側に吸い込まれ、聖火の熱が頬に届く。鐘が一つ鳴り、司祭服の裾が静かに揺れた。「条約婚、此処に成立」司祭は短い言葉だけ置いた。群衆は息を呑むだけで、歓声は慎ましかった。政治の儀は派手でなくていい。王子は短く頷き、皇子の左手の甲に口づけた。青銀の魔紋が触れた瞬間、二人の指輪が淡く応じ、契約文の一節が浮かんで消えた。可と不可、合図と手当。文は既に明文化されている。不可は刻まれたまま変更不可。可は季ごとに見直し。合図は言葉と触れの二重化。セーフワードは「林檎」。声が出ない時は右手に三度の軽打。アフターケアは温い茶、軟膏、言葉での確認。週に一度のスイッチ・デーは八日毎の暦に合わせる。公では皇子が前に立ち、私室では王子が支える。二人の結び方に、誰も割り込めない。儀礼が終わるや、階段下で大聖堂の執務官と地下街の顔役、納骨堂の司書が小声でぶつかった。香炉の煙が細く絡む。「次は誰の番だ」「献灯の油は我らが」「系譜の閲覧は納骨堂の許」火花は小さく、長い。王子は会釈だけして通り過ぎ、皇子の脈を手首で確かめた。少し早い。人前の熱の名残。王子は囁いた。「水分」皇子は短く「うん」と応じた。二人の間に置かれた銀杯が、契約文の延長に見えた。私室に戻れば空気がゆるむ。侍女長マリエラが一歩進み、完璧に準備された部屋を示した。燭台は目に刺さらない高さへ。水カラフェは手を伸ばせば届く位置へ。帳の内側には色の違う紐が三本。赤は停止、青は緩め、白は続行。扉の近くには小さな鈴。呼べば静かな従者が来る。テーブルには薄い冊子。契約の改訂欄が開かれている。膝掛けは重ねて三枚。軟膏は冷えた石皿の上。スイッチ・デーの暦は壁の小さな黒板に記された。「手順は左から右へ。合図の確認は毎回欠かさず。セーフワードの試運転、今夜一度」マリエラの声は水のように平らだった。王子が短く礼を言うと、彼女は微笑を一瞬だけこぼし、すぐに引っ込めた。軽い騒動もあった。赤い紐を窓の寄り紐と取り違えて、新任の従者が一人で大騒ぎしたのだ。マリエラの眉が紙のように動き、寄り紐は即座
聖都の鐘が昼の光を揺らした。森を抜け、二人が次の目的地に選んだのは大聖堂のある丘だった。皇子は既に成年の礼を済ませており、王子もまた王国の後継として公務に耐える骨格を持っていた。旅立ち、森で出会い、互いの役割を嗅ぎ分けるまでに時間はかからなかったが、ここからは契約のかたちが要る。 「条約婚を締結します」 皇子が前に出た。石床の冷たさが薄い靴底を通って脛に刺さる。大聖堂の柱陰では老司教がうなずき、参列の使節たちが息を詰めて見守った。王子は一歩引き、銀の盆に羊皮紙を載せて手渡す。文字列は政治と私室を同じ線上に置いていた。 ——公務契約 ・両国間の往来と関税を三期にわけて緩和 ・納骨堂の通気改修費用は共同負担、入札は地下街ギルドの監督下で行う ・大聖堂の祭儀権は保持、巡礼税は透明化 ——私室契約 ・可:拘束(軽度)、跪礼、指示語による主導権訓練、口付け ・不可:呼吸を妨げる行為、痕が残る強度の打擲、第三者の介入 ・合図:手首への二度の軽いタップで「ゆっくり」、三度で「中止」 ・セーフワード:「アマランス」 ・アフターケア:温い茶、甘味、保湿油、肯定の言葉を交わすこと 「同意します」 王子の声は短く低く、柔らかく落ちた。皇子の喉仏がわずかに上下する。金糸の紐がふたりの手を結び、教会の蝋が印章を受け止めるはずだったのだが——。 「熱っ」 王子の指に蝋が垂れた。小さな声が石壁に跳ねる。司祭が目を剥く前に、皇子が手を取った。 「待て。冷やす」 息を吹きかけ、指の腹に唇をあてる。短く、音もなく。参列の列から忍び笑いが走り、老司教が咳払いで鎮める。 「王国式の祝福、だそうです」
鐘は三度、香の煙は高く。大聖堂の天蓋は青金にきらめき、壇上の二人の影を長く伸ばしていた。 半歩、前に出たのはルシアンだった。肩甲で光を返しながら、声は澄んでいた。 「帝国皇子ルシアンは、王国王子アルトリウスと条約婚を結ぶ。交易路の保護、共同徴税の透明化、戦時にはー—」 咳払いがひとつ。背後のアルトリウスが、ごく小さく首を傾けた。合図だ、とルシアンは気づく。文言の順序、決めていた。 「—戦時には、両朝の評議を先行し、兵の動員は三日を限度に延期する。以上を、公開儀礼において宣する」 予定より二語、少なかった。けれど会衆は息を吐き、聖職者は巻物の封蝋を割った。壇の正面、魔紋が光った。二人の手首に、細い銀の文様が浮かぶ。共同統治の契印。今は薄く、触れればかすかな熱だけを残す。 指輪は、最後の段。ルシアンがアルトリウスの左薬指に滑らせる。すべった。手袋の上からだった。 「あ」 「……手袋」 笑いが広がる前に、アルトリウスが指先で手袋を外し、掌を差し出す。指の骨格はしなやかで、体温は落ち着いている。やり直し。指輪はぴたりとはまった。大聖堂に柔らかい笑いが走り、緊張がほどけた。 儀礼は続く。条約の板文が掲げられ、最後の項に会衆がざわめく。「共治評議会」——皇子と王子を頂点に、貴族・司祭・市民の三身から代表を選び、帝都統治の改革に道を開く草案。最終承認は来季の議会、と付されている。それでも、ここに初めて公に置かれた。 壇上から降りれば、前後は変わる。公では皇子が先導する。しかし儀礼の「後」は、すぐに駆け足でやってくる。 聖歌の余韻が消える前に、納骨堂への階段に人垣ができた。聖職者たち、地下街の顔役、遺骨守の老人たち。権利だ、権威だ、道の幅だ。声が重なる。
鐘が三度、湿った石の大聖堂に鳴り渡った。香の煙は青く、壁の魔紋が微かに光っていた。条約婚の儀は、公の視線の中で淡々と進んだ。「誓うか」大司教の声は低い。皇子は一歩、前に出た。衣は銀。喉仏が小さく上下する。王子は半歩、背に添う。視線だけで合図を交わした。「誓う」「支える」言葉は短く、触れた手の温度の方が雄弁だった。掌に描いた薄い護符の感触。紙は冷たく、指先は火照っている。民のどよめきが、石床を震わせた。《契約は愛より先、だが愛を置く土壌を用意する》取り決めは覚悟の証だ。王子が巻物を差し出す。合意契約書。可・不可、合図、アフターケアまで明文化されている。「公開」大司教は頷いた。文言が読み上げられる。可──命令口調、腕の保持、衣の管理、呼称の変更。不可──露出、痛みを目的とする行為、跪きを長時間強要すること。合図──言葉「藍」、右手三度のタップ、息を止める仕草の禁止。アフターケア──甘い茶と湯、毛布、額の接吻、言葉による確認。「週一回のスイッチ・デー、評議日の終わりに」王子の声に笑いが零れた。大聖堂に柔らかい波紋が広がる。誤解した侍従が慌てて耳打ちした。「本日は六の市ではありません」「明日ではなかったか?」「明後日です」二人は同時に小声で「了解」と言い、場は和んだ。地下街の組頭は、香の供給権をちらつかせていた。納骨堂の守り手は、祖霊の前での誓いを要求した。双方の使いが目線だけで動く。政の駆け引きは、儀礼の陰で始まっていた。儀が終わると、石の冷たさが残る回廊を抜けた。扉が閉じる音。私室は布と木の匂いが濃い。初夜と呼ばれる夜だが、彼らにとってはプロトコルの検証の夜だった。「水はここ」王子が水差しを示す。「光は低く」皇子は
式から四日、二人は都に入った。城門前には旗。乾いた土と香の匂い。鐘が一打、風で低く揺れた。皇子は外套の襟を指で摘まんだ。手汗。指先が冷たい。隣の王子がささやく。「息、二拍で吸って、四拍で吐く」「できる」短く答えた。できる、と言った自分に少し驚いた。森の夜より人の目が怖い。今日、条約婚は公開儀礼で結ばれる。帝国の継承と王国の交易をつなぐ政治。その中心に自分。逃げたくなる。だが、彼は隣にいる。約束どおり半歩下がって。大聖堂の親扉が開く。冷えた石の匂い。天蓋の魔紋が薄く光る。侍従長が合図し、二人は誓台の前へ。公では皇子が前に出る。王子は背で支える。それが二重統治の最初の形。「帝国皇子、来殿」「王国王子、来殿」声が反響した。祭司長が銀墨の筆を差し出す。契紋は手首に描く。皇子は筆先の冷たさに息を飲み、用意した文言を口にのせた。王子が背で静かに呼吸を合わせる。呼吸の数で落ち着く。不思議と声が出た。「我ら、条約婚を成す。公では帝国の段に立ち、私では互いを守る。不可侵の骨を侵さず、商の血を汚さず、城の階を乱さず」祭司長が頷き、魔紋が淡く絡む。銀の線が二人の手首で一瞬だけ交わり、消えた。契紋は見えないように埋められるのがこの国のしきたりだという。派手さはない。だが重さがある。人々が息を合わせて手を打った。通路の端で、地下街の顔隠しの女将が目礼を寄越した。黒いヴェールの下に笑い。納骨堂の守り手は杖を突き、石床を一度だけ叩いた。大聖堂、地下街、納骨堂。三つの視線がここにある。権力は香のように混ざると扱いづらい。彼は肩でそれを感じた。儀礼の後、私室へ。扉が閉まる音で、体のこわばりがやっとほどけた。王子が机に羊皮紙を広げる。契約。二人の合意を文にする時間。王子は短く言う。「可、不可。合図。ケア。四つだけ」「四つ」「書く。君の言葉で」皇子は深く息を吸った。政治はいつも長い言葉を求める。だが今は短くていい。「可は、手首までの固定。命令の
鐘が七つ鳴り、王都の大聖堂に沈黙が降りた。彩色ガラスの光が壇上を洗い、白い香煙が天へほどける。その中央で、アルトリウス王子は指先の汗を小さく拭った。視線の先、金の縁どりの外套をまとったルシアン皇子が肩で息を整えていた。二人とも成人。戦と商路の重さを知る年だった。「条約婚は、盾ではなく橋である」司教の声が広間を渡る。両国の紋章旗がゆるくはためき、石床に靴音が刺すように反射した。呼吸を合わせる。ルシアンの瞳が一瞬、アルトリウスを探した。頷く。いける。そう合図したつもりだった。「我らは国境関税を半減し、塩と布の双の路を開く。山間の水門は共同で守り、納骨堂の修復費を折半する」宰相が次々と利得を読み上げるたび、ざわめきが揺れ、やがて静まった。商人達は頷き、兵は腕を組み、修道士の何人かは指の結びを固くした。潜る者は潜る。大聖堂の影で、黒いフードが一つ、香炉の鎖を短く鳴らした。地下街の顔役が、回廊の柱の後ろで笑わずに笑った。納骨堂の守り人は、鍵束を音なく懐へ消した。反対の火は消えない。ただ、表で燃やさない。「アルトリウス王子」ルシアンが一歩、前へ出た。公では皇子が前に。そう取り決めた通りに。「この婚約は、帝国の恥ではない。選択だ」言葉は短く、芯に熱があった。アルトリウスは、その背に立ち、視線で支えた。ここで膝が震えるだろう、と予想していたけれど、震えは喉に来ていた。強くなる訓練は、体だけではない。声だ。視線だ。沈黙の使い方だ。「……共に、雄になろう」最後の一文に、アルトリウスの胸が熱くなった。雄。政治の場で、おずおずと礼を取るだけの皇子ではなく、自ら条件を示し、首を縦に振らせる者へ。あの言葉を、国民の前で言えた。それで今日は十分だ。指輪交換は、少しだけ滑った。侍従が差し出した小さなクッションに、なぜか税目の目録が刺さっている。「……これは」「経理が、興奮して」司教の咳払いで笑いが止まり、代わりのクッションが走ってきた。こういうぬるさが残るのは悪くない。場は柔らぐし、目録は後で役立つ。儀礼の最後。「感応紋」の魔法陣が開き、薄い光が二人の足元に描かれた。蔦の紋が手首へ這い、内側に吸い込まれる。痛みはない。ほんの少し、冷たい。鼓動が二つ、重なる瞬間があった。縁結びの紋は見えない。見えないからこそ言葉で重ねる。「婚約を公に証す」拍手は大きすぎず、小さ