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第2話:合意契約、可と不可

作者: fuu
last update 最終更新日: 2025-09-05 23:00:54

式から四日、二人は都に入った。城門前には旗。乾いた土と香の匂い。鐘が一打、風で低く揺れた。

皇子は外套の襟を指で摘まんだ。手汗。指先が冷たい。隣の王子がささやく。

「息、二拍で吸って、四拍で吐く」

「できる」

短く答えた。できる、と言った自分に少し驚いた。森の夜より人の目が怖い。今日、条約婚は公開儀礼で結ばれる。帝国の継承と王国の交易をつなぐ政治。その中心に自分。逃げたくなる。だが、彼は隣にいる。約束どおり半歩下がって。

大聖堂の親扉が開く。冷えた石の匂い。天蓋の魔紋が薄く光る。侍従長が合図し、二人は誓台の前へ。公では皇子が前に出る。王子は背で支える。それが二重統治の最初の形。

「帝国皇子、来殿」

「王国王子、来殿」

声が反響した。祭司長が銀墨の筆を差し出す。契紋は手首に描く。皇子は筆先の冷たさに息を飲み、用意した文言を口にのせた。王子が背で静かに呼吸を合わせる。呼吸の数で落ち着く。不思議と声が出た。

「我ら、条約婚を成す。公では帝国の段に立ち、私では互いを守る。不可侵の骨を侵さず、商の血を汚さず、城の階を乱さず」

祭司長が頷き、魔紋が淡く絡む。銀の線が二人の手首で一瞬だけ交わり、消えた。契紋は見えないように埋められるのがこの国のしきたりだという。派手さはない。だが重さがある。人々が息を合わせて手を打った。

通路の端で、地下街の顔隠しの女将が目礼を寄越した。黒いヴェールの下に笑い。納骨堂の守り手は杖を突き、石床を一度だけ叩いた。大聖堂、地下街、納骨堂。三つの視線がここにある。権力は香のように混ざると扱いづらい。彼は肩でそれを感じた。

儀礼の後、私室へ。扉が閉まる音で、体のこわばりがやっとほどけた。王子が机に羊皮紙を広げる。契約。二人の合意を文にする時間。

王子は短く言う。

「可、不可。合図。ケア。四つだけ」

「四つ」

「書く。君の言葉で」

皇子は深く息を吸った。政治はいつも長い言葉を求める。だが今は短くていい。

「可は、手首までの固定。命令の語気。跪礼。口づけ」

王子が頷く。筆が走る。

「不可は、傷が残るもの。痣を見せる部位。第三者の関与。嘘」

筆先が一瞬止まり、王子が顔を上げた。

「嘘は不可、いいね」

「不可」

王子の目尻が少し柔らいだ。その一瞬の甘さが、書く勇気を増やす。

「合図は……色の言葉は公で使う。私では一つだけ。セーフワードは『砂時計』」

「理由は」

「流れを止める言葉。二度言えば、即時中止。扉を開ける」

「運用は、声に出せない時は君の左手。三回叩く」

皇子は左手を机に置いて軽く叩いた。王子の視線がそこに落ちる。合図は身体に刻むほうが早い。

「ケアは、温かい飲み物。体温の確認。言葉の確認。湯」

「甘いものも」

「……蜂蜜を一本」

王子が笑った。筆は四つの柱をまとめ、末尾に一行を添える。

「週に一度、スイッチ・デーを設ける。公私を問わず、主従を入れ替える練習日」

皇子の喉が乾いた。公でも?と思って王子を見る。王子は首を振る。

「公は段取りだけ。君が前に立ち、私が補助に回る配分を変える。私では役割を入れ替える。本番は週一回でいい。焦らない」

「焦らない」

「署名」

二人は印を押す。王子は蝋を落とし、指で王家の紋を押し込む。皇子も印章を押す。ふっと、胸の奥が軽くなった。愛より先に契約。だが、契約の墨が乾く間に、信頼の種が置かれた気がした。

扉を叩く音。侍従が予定を告げる。

「次は地下街の代表と納骨堂の守り手の面会を、同時刻で」

二人は同時に眉を上げた。王子が短く聞く。

「同時?」

「ええ。両者とも譲らず」

王子は皇子の視線を一度探し、それから言う。

「なら、分かれる。公の君は大聖堂の中庭で守り手と会う。私は地下へ行く。終わりに合流して三者会談」

皇子はうなずく。王子は外套を肩にかけ、扉に手をかけた。

「君は前。私は支える。忘れないで」

「忘れない」

中庭の石畳で、納骨堂の守り手が待っていた。骨壺の冷たい重みの話、祖霊の静けさ。守り手は、婚礼の契紋を納骨堂の前で一度だけ見せる儀の許可を求める。祖霊に見せなければ、彼らの中で婚は成らないのだと。

「条約婚は血だけではない。骨にも見せよ」と守り手。

皇子は考え、答える。

「夜、灯を最小に。足音を少なく。あなたの杖で一度だけ床を叩く。それが合図。人は五人まで」

守り手の目が細くなり、口元がほどけた。

同じ時刻、王子は地下街でヴェールの女将と向き合っていた。女将は税の軽減と安全な通路の保証を求める。王子は短く笑う。

「税は軽減。通路は大聖堂の地下納骨堂の脇を通す。その代わり、盗品の搬入は禁止。『砂時計』と言ったら商談は一旦止める」

女将が首を傾げた。

「砂時計?」

「私室でも政で使う合図だ。止めるための言葉。市場でも同じにする」

「面白いね。商人は合図が好きさ」

約束は枝を伸ばす。大聖堂は骨を守り、地下街は血を巡らせ、納骨堂は静けさを守る。三者の手が、一本の蔓で結われていく感触。

夜。納骨堂に下る。石の匂い。蝋燭の小さな火。守り手が杖で床を叩く。音が骨に染み込む。皇子は手首を差し出し、王子と互いの契紋を一瞬だけ露わにする。祖霊に見せるための一瞬。炎が揺れ、空気が震え、静けさが戻る。これでこの都の骨も、この婚を受け入れた。

私室に戻ると、王子は湯を用意している。蜂蜜の香り。湯気が首の後ろを撫でる。皇子は椅子に座り、靴を脱ぐ。足裏の熱が抜けていく。

王子が膝をつき、手の甲に口づける。

「よく前に立った。声がよかった」

「支えがあったから」

「支える」

短い言葉の往復。柔らかい。王子は契約書を指で叩く。

「最初の運用、試す。軽いもので。私が命じ、君が拒む練習」

皇子は頷き、息を整える。王子が軽く右手を取る。触れ方は学びの手つき。

「跪け」

皇子は膝を折り、目を上げる。王子の瞳はいつもと同じ高さにあった。命令の音が落ち着いている。心拍が整っていく。次の瞬間、外から歓声。遅くまで続く市の祭の音が窓を揺らした。胸の奥にざわり。これが合図の練習だ、と自分に言い聞かせるより先に、口が動いた。

「砂時計」

言葉が空気を切る。王子の手が即座に離れ、額に指が置かれた。止まった。約束どおり。

「中止。蜂蜜を」

「蜂蜜」

笑ってしまう。王子が蜂蜜を湯に落とす。匙で何度か回し、唇に寄せる。甘さが舌を満たす。喉が緩む。自分で言った合図が、確かに二人を守った。合意の形は、こうして体に落ちる。

その時、扉が控えめに開いた。侍従が顔だけ覗かせる。

「失礼を。明日の『スイッチ・デー』の準備を——」

「明日?」

二人は同時に言った。侍従が巻物を慌てて広げる。

「はい、大聖堂の協議と重なっておりまして、段取りを——」

王子が苦笑し、蜂蜜湯を皇子にもう一口飲ませる。

「明日は無理。『スイッチ・デー』は週に一度でいい。君が最も休める日へ。侍従、日をずらす」

「は、はっ」

扉が閉まる。皇子は肩を上下させて笑った。

「段取り、難しい」

「段取りは難しい。だからこそ、合図と契約が要る」

王子は隣に腰を下ろし、皇子の頭を肩に寄せた。髪を撫でる手。言葉のケア。心が落ち、筋肉が眠りを思い出す。公の前で前を歩いた足に、今、私の時間が戻ってきた。

「明日、君は中庭で最初の提案を言う。地下街の税の話。短く、三文で」

「三文」

「一文目で目的、二文目で対価、三文目で合図。『砂時計』を政策にも入れる。止める権利を誰にでも」

皇子は目を閉じ、声に従って三文を心の中で並べた。雄になる訓練は、ここから政治へ連動する。合図をもらえる民は、声を持つ。砂時計は都のことばになる。そんな未来図が、蜂蜜の甘さの奥でぼんやり光った。

「君の声は、さらによくなる」

「君の支えは、変わらない」

言葉が重なり、夜が静かに下りる。私室の扉は閉じている。合意と契約が中に灯をともしている。手触りのある安堵が、二人の間に布のように敷かれた。

次回、第3話:初夜のプロトコル

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