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第4話:壇上の前後

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-09-07 23:00:23

鐘は三度、香の煙は高く。大聖堂の天蓋は青金にきらめき、壇上の二人の影を長く伸ばしていた。

半歩、前に出たのはルシアンだった。肩甲で光を返しながら、声は澄んでいた。

「帝国皇子ルシアンは、王国王子アルトリウスと条約婚を結ぶ。交易路の保護、共同徴税の透明化、戦時にはー—」

咳払いがひとつ。背後のアルトリウスが、ごく小さく首を傾けた。合図だ、とルシアンは気づく。文言の順序、決めていた。

「—戦時には、両朝の評議を先行し、兵の動員は三日を限度に延期する。以上を、公開儀礼において宣する」

予定より二語、少なかった。けれど会衆は息を吐き、聖職者は巻物の封蝋を割った。壇の正面、魔紋が光った。二人の手首に、細い銀の文様が浮かぶ。共同統治の契印。今は薄く、触れればかすかな熱だけを残す。

指輪は、最後の段。ルシアンがアルトリウスの左薬指に滑らせる。すべった。手袋の上からだった。

「あ」

「……手袋」

笑いが広がる前に、アルトリウスが指先で手袋を外し、掌を差し出す。指の骨格はしなやかで、体温は落ち着いている。やり直し。指輪はぴたりとはまった。大聖堂に柔らかい笑いが走り、緊張がほどけた。

儀礼は続く。条約の板文が掲げられ、最後の項に会衆がざわめく。「共治評議会」——皇子と王子を頂点に、貴族・司祭・市民の三身から代表を選び、帝都統治の改革に道を開く草案。最終承認は来季の議会、と付されている。それでも、ここに初めて公に置かれた。

壇上から降りれば、前後は変わる。公では皇子が先導する。しかし儀礼の「後」は、すぐに駆け足でやってくる。

聖歌の余韻が消える前に、納骨堂への階段に人垣ができた。聖職者たち、地下街の顔役、遺骨守の老人たち。権利だ、権威だ、道の幅だ。声が重なる。

ルシアンは、視線を一度だけ横に流した。アルトリウスが頷く。三度、彼の手首を軽く叩いた。合図。「言い切れ」の合図だ。

ルシアンは一歩進む。

「納骨堂の管理権は、聖と俗の共同に置く。地下街の搬送路は夜明けから黄昏まで開放、夜は封鎖。鍵は三本。聖職、地下街、そして皇子府。三者で開閉する。骨壺の販売には『灯の税』のみ認める。供儀の徴は禁ずる」

しん、と音が変わる。地下の空気は乾いて、冷えた石が吐く匂いがある。老人が杖を床に打った。

「誰が責任を負う」

「私だ」

ルシアンは答えた。喉が鳴るのを自覚する。心拍を整える暇はない。それでも背にある視線が、彼を支える。アルトリウスの視線はいつも、押し出すのではなく背骨を沿わせる。

聖職者が反論した。「聖骨への触れは聖の許でーー」

アルトリウスが控えの位置から一言だけ添えた。「許は三者の合意のもとに。争いは評議に上げる。今日のところは、皇子の決に従え」

場は、収まった。完璧ではない。けれど、その日を進めるだけの秩序はできた。

幕が閉じるのは、私室に戻ってからだった。厚いカーテン、ガラスの向こうの冬空、温められたワイン。アルトリウスは外衣を脱ぐルシアンの手を取って、椅子に座らせた。

「息。二拍吸って、四拍吐く」

「今、吐いている」

「偉い」

子ども扱いではない。身体の扱いだ。ルシアンは肩から熱が抜けていくのを感じた。手首の銀の文様が、ひときわ温かい。

机の上には、もう一枚の契約書が用意されていた。二人だけの合意契約だ。黒いインクで、はっきり書かれている。

「不可は三つ。痕が残る行為。公での命令口調。眠りを削る長時間の拘束」

アルトリウスが読み上げる。声は低く、淡々としている。

「可は四つ。布での拘束。命令は二人きりで。指示が不明な時は問う。中断と修正はいつでも可能」

ルシアンは頷いた。「合図は」

「緩めては、手首を二度。止めては、三度。撤収は、セーフワードを」

アルトリウスが微笑む。「セーフワードは『羅針』にしよう。行き先が分からなくなったら、指南を請う」

「『裸身』?」

「違う。羅針」

扉の向こうから、控えの従者がくすっと笑い、すぐに咳払いで誤魔化した。アルトリウスが額に手を当てる。

「今のは私の滑舌が悪い。あとで菓子を差し入れよう」

「指輪の件もあるし、二個だな」

緊張に小さな笑いが差し込まれる。こういうひび割れが、呼吸の通り道になる。

週に一度、役割を入れ替えるスイッチ・デーも明文化した。火曜日の暮れ、評議のあと。公では皇子が前。私室では王子が支える。それでも、週に一度は逆にする。命じる側の孤独と、従う側の重さを両方知るためだ。

「今夜は、通常運転だ。君が先に」

アルトリウスが立ち、膝をついた。ルシアンは一瞬だけ目を見開き、すぐに目を細めた。喉の奥で言葉が溶ける。命令は短いほど効く。彼は学んできた。

「立て」

アルトリウスは立ち、胸を張る。「次」

「外衣をたたんで。向かいの椅子に」

動作は自然、手付きは丁寧。ルシアンの視線が着地点を探す。命じていいか。どこまでが可か。机上の紙が背中を押す。可・不可は、今ここに明文化されている。

布の帯が差し出された。ルシアンはそれを手に取り、アルトリウスの手首に回した。柔らかい。皮膚は温かい。結び目は強すぎず、弱すぎず。指二本が入るくらい。彼は確認した。

「痛い?」

「心地よい」

「緩めて」

アルトリウスが手首を二度叩く。ルシアンは、すぐに結び目を整えた。運用できる、という手応えが胸に落ちる。

「……水を飲みたい」

アルトリウスが言う。今度は、彼がセーフワードに頼るまでもなく、欲求を言葉にする。ルシアンは頷き、杯を渡した。「羅針でもよかった」

「言えたなら、それで十分だ」

アフターケアは、その場だけで終わらない。温い湯を張り、肩を揉み、声の出し方を整える。アルトリウスは、喉の位置を指で示しながら言った。

「壇上では、もう半音下げてもいい。胸に響かせる。語尾は落とす。『だ』と『である』は使い分けたね。良かった」

「途中で、手首を三度やられた」

「言い切ってよかった。あれは、『止めて』じゃない。『今、君の時間だ』の三度」

細部の共有が、信頼の種になる。愛より先に契約があった。契約より先に、合図があった。合図を運用できるから、愛が甘くなる。

夜更け、二人は暖炉の前で毛布に肩を寄せた。外は路面の湿りが光り、地下街のほうには提灯が流れている。納骨堂は静かだろう。聖と俗の間に置いた鍵は、今夜は眠る。

「明朝、地下街の水路の分配図を見に行く。森の外縁に繋ぐ古い導水路がある。出発は日が昇る前」

アルトリウスが予定を確認する。旅立ち、森での出会い、次の目的地。あの日からの線は、今も同じ方向を指している。

ルシアンは頷いた。「評議会の前文は、来月には仕上げる。共治の確立まで、息切れしない」

「今日の壇上は、前哨戦だ。君は、雄だった」

その言葉に、ルシアンは目を閉じた。甘やかしの言葉は、体のどこか深いところに溜まって、あとでじんわりと効く。重たい一日が、柔らかく終わっていく。

次回、第5話:スイッチ・デーの約束

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