LOGIN鐘は三度、香の煙は高く。大聖堂の天蓋は青金にきらめき、壇上の二人の影を長く伸ばしていた。
半歩、前に出たのはルシアンだった。肩甲で光を返しながら、声は澄んでいた。 「帝国皇子ルシアンは、王国王子アルトリウスと条約婚を結ぶ。交易路の保護、共同徴税の透明化、戦時にはー—」 咳払いがひとつ。背後のアルトリウスが、ごく小さく首を傾けた。合図だ、とルシアンは気づく。文言の順序、決めていた。 「—戦時には、両朝の評議を先行し、兵の動員は三日を限度に延期する。以上を、公開儀礼において宣する」 予定より二語、少なかった。けれど会衆は息を吐き、聖職者は巻物の封蝋を割った。壇の正面、魔紋が光った。二人の手首に、細い銀の文様が浮かぶ。共同統治の契印。今は薄く、触れればかすかな熱だけを残す。 指輪は、最後の段。ルシアンがアルトリウスの左薬指に滑らせる。すべった。手袋の上からだった。 「あ」 「……手袋」 笑いが広がる前に、アルトリウスが指先で手袋を外し、掌を差し出す。指の骨格はしなやかで、体温は落ち着いている。やり直し。指輪はぴたりとはまった。大聖堂に柔らかい笑いが走り、緊張がほどけた。 儀礼は続く。条約の板文が掲げられ、最後の項に会衆がざわめく。「共治評議会」——皇子と王子を頂点に、貴族・司祭・市民の三身から代表を選び、帝都統治の改革に道を開く草案。最終承認は来季の議会、と付されている。それでも、ここに初めて公に置かれた。 壇上から降りれば、前後は変わる。公では皇子が先導する。しかし儀礼の「後」は、すぐに駆け足でやってくる。 聖歌の余韻が消える前に、納骨堂への階段に人垣ができた。聖職者たち、地下街の顔役、遺骨守の老人たち。権利だ、権威だ、道の幅だ。声が重なる。 ルシアンは、視線を一度だけ横に流した。アルトリウスが頷く。三度、彼の手首を軽く叩いた。合図。「言い切れ」の合図だ。 ルシアンは一歩進む。 「納骨堂の管理権は、聖と俗の共同に置く。地下街の搬送路は夜明けから黄昏まで開放、夜は封鎖。鍵は三本。聖職、地下街、そして皇子府。三者で開閉する。骨壺の販売には『灯の税』のみ認める。供儀の徴は禁ずる」 しん、と音が変わる。地下の空気は乾いて、冷えた石が吐く匂いがある。老人が杖を床に打った。 「誰が責任を負う」 「私だ」 ルシアンは答えた。喉が鳴るのを自覚する。心拍を整える暇はない。それでも背にある視線が、彼を支える。アルトリウスの視線はいつも、押し出すのではなく背骨を沿わせる。 聖職者が反論した。「聖骨への触れは聖の許でーー」 アルトリウスが控えの位置から一言だけ添えた。「許は三者の合意のもとに。争いは評議に上げる。今日のところは、皇子の決に従え」 場は、収まった。完璧ではない。けれど、その日を進めるだけの秩序はできた。 幕が閉じるのは、私室に戻ってからだった。厚いカーテン、ガラスの向こうの冬空、温められたワイン。アルトリウスは外衣を脱ぐルシアンの手を取って、椅子に座らせた。 「息。二拍吸って、四拍吐く」 「今、吐いている」 「偉い」 子ども扱いではない。身体の扱いだ。ルシアンは肩から熱が抜けていくのを感じた。手首の銀の文様が、ひときわ温かい。 机の上には、もう一枚の契約書が用意されていた。二人だけの合意契約だ。黒いインクで、はっきり書かれている。 「不可は三つ。痕が残る行為。公での命令口調。眠りを削る長時間の拘束」 アルトリウスが読み上げる。声は低く、淡々としている。 「可は四つ。布での拘束。命令は二人きりで。指示が不明な時は問う。中断と修正はいつでも可能」 ルシアンは頷いた。「合図は」 「緩めては、手首を二度。止めては、三度。撤収は、セーフワードを」 アルトリウスが微笑む。「セーフワードは『羅針』にしよう。行き先が分からなくなったら、指南を請う」 「『裸身』?」 「違う。羅針」 扉の向こうから、控えの従者がくすっと笑い、すぐに咳払いで誤魔化した。アルトリウスが額に手を当てる。 「今のは私の滑舌が悪い。あとで菓子を差し入れよう」 「指輪の件もあるし、二個だな」 緊張に小さな笑いが差し込まれる。こういうひび割れが、呼吸の通り道になる。 週に一度、役割を入れ替えるスイッチ・デーも明文化した。火曜日の暮れ、評議のあと。公では皇子が前。私室では王子が支える。それでも、週に一度は逆にする。命じる側の孤独と、従う側の重さを両方知るためだ。 「今夜は、通常運転だ。君が先に」 アルトリウスが立ち、膝をついた。ルシアンは一瞬だけ目を見開き、すぐに目を細めた。喉の奥で言葉が溶ける。命令は短いほど効く。彼は学んできた。 「立て」 アルトリウスは立ち、胸を張る。「次」 「外衣をたたんで。向かいの椅子に」 動作は自然、手付きは丁寧。ルシアンの視線が着地点を探す。命じていいか。どこまでが可か。机上の紙が背中を押す。可・不可は、今ここに明文化されている。 布の帯が差し出された。ルシアンはそれを手に取り、アルトリウスの手首に回した。柔らかい。皮膚は温かい。結び目は強すぎず、弱すぎず。指二本が入るくらい。彼は確認した。 「痛い?」 「心地よい」 「緩めて」 アルトリウスが手首を二度叩く。ルシアンは、すぐに結び目を整えた。運用できる、という手応えが胸に落ちる。 「……水を飲みたい」 アルトリウスが言う。今度は、彼がセーフワードに頼るまでもなく、欲求を言葉にする。ルシアンは頷き、杯を渡した。「羅針でもよかった」 「言えたなら、それで十分だ」 アフターケアは、その場だけで終わらない。温い湯を張り、肩を揉み、声の出し方を整える。アルトリウスは、喉の位置を指で示しながら言った。 「壇上では、もう半音下げてもいい。胸に響かせる。語尾は落とす。『だ』と『である』は使い分けたね。良かった」 「途中で、手首を三度やられた」 「言い切ってよかった。あれは、『止めて』じゃない。『今、君の時間だ』の三度」 細部の共有が、信頼の種になる。愛より先に契約があった。契約より先に、合図があった。合図を運用できるから、愛が甘くなる。 夜更け、二人は暖炉の前で毛布に肩を寄せた。外は路面の湿りが光り、地下街のほうには提灯が流れている。納骨堂は静かだろう。聖と俗の間に置いた鍵は、今夜は眠る。 「明朝、地下街の水路の分配図を見に行く。森の外縁に繋ぐ古い導水路がある。出発は日が昇る前」 アルトリウスが予定を確認する。旅立ち、森での出会い、次の目的地。あの日からの線は、今も同じ方向を指している。 ルシアンは頷いた。「評議会の前文は、来月には仕上げる。共治の確立まで、息切れしない」 「今日の壇上は、前哨戦だ。君は、雄だった」 その言葉に、ルシアンは目を閉じた。甘やかしの言葉は、体のどこか深いところに溜まって、あとでじんわりと効く。重たい一日が、柔らかく終わっていく。 次回、第5話:スイッチ・デーの約束大聖堂のステンドグラスが、夜を青い刃で裂いていた。香と油の匂いが重い。金糸の結び紐が、二人の手首をゆるくつなぐ。条約婚は成立、公開儀礼は穏やかな終章へ――そのはずだった。矢が鳴った。骨の羽が、細い音で空気を切る。最初に血が咲いたのはアルトリウスの左肩。銀青の礼衣に赤。膝が落ちかけ、踏みとどまる。視線は前を外さない。「下がれ」ルシアンの声は鈍い鉄。体は勝手に前へ――だが結び紐が引き戻す。公では皇子が前に立つ。二人で刻んだ条。忘れてはいない。けれど血は、本能を呼ぶ。「紅葉」アルトリウスが口の内で告げる。セーフワード。不可侵の停命。ルシアンの靴裏が石に戻る。「公は私が前だ」「……命令か」「契約に基づく要請だ」低い対話ののち、ルシアンは一歩退いた。アルトリウスが右手を上げ、祭司と民へ短く通す。「背を見せるな。祈りは解く。扉は閉じず、出入口は監視。狼煙は上げない」声は細る。合図は正確。護衛の影が伸びる。内陣で羽音、二本目。ルシアンは礼装の青帯を掴む。「それは葬儀用で――」と祭司。「借りる」帯は一瞬で止血帯に変わり、肩へ巻かれる。痛みで眉が寄る。その隙に黒衣の影が祭壇脇の扉へ滑り、地下へ。石段の冷気。「地下街に抜ける」ルシアンは即座に采配した。若い従者へ目だけで命じる。「鐘楼は黙らせろ。市門は閉じるな。地下の吐き口四つだけ封鎖」「は、はい! ただ今夜、スイッチ・デーの帳面が――」「延期。記録に『不可・危急対応』。明日は倍、撫でる」従者が真っ赤で走る。空気が一瞬ほどける。別の従者が結び紐を解こうと近づき――「まだだ」アルトリウスは静かに首を振る。「結びは解かない。民の前で戻る」痛みの中の頑固さ。雄になる訓練は、こういう場面に通う。公でまず立ち、
鐘が六つ、白い石を震わせた。大聖堂の段に朝陽が跳ね、旗の紋が風で鳴る。香草の甘い匂いが鼻の奥に落ちた。王子は皇子の革当てを締め直す。指は容赦なく、体温はやさしい。「深呼吸」「……吸う、止める、吐く」チェックは短く、抜けがない。「合図」「左手二度。呼吸を二つ。停止語は――石榴」「可」「手首まで。刃は寸止め。命令語は短く」「不可」「首輪の露出、公での跪拝、痕」「アフター」「甘味、温水、肩を揉む。翌朝の政務は短縮」王子が頷く。「週に一度、反転。――スイッチ・デー」皇子はわずかに笑った。震えより笑いが勝ち始める。若い従者が帯を抱えて駆け込む。出したのは赤。
朝の光が城門の金具を白く撫で、街路の旗が同じ方向へ揃った。王都は祝いの装いだ。石畳の継ぎ目に、薄い花の影。太鼓が二度、鐘が三度。人のざわめきがふくらんで、やがて一つの音になる。王子は皇子の右手の帯を整えながら、呼吸を数えた。四拍で吸って、四拍で止めて、四拍で吐く。「主導は呼吸から」皇子が小さく頷き、半歩、前に出た。公では彼が前に。私室では王子が支える。いつもの合意が、今日は街じゅうの目に触れる。広場の壇には、三つの印が並んだ。大聖堂の銀、地下街の銅、納骨堂の骨白。そして中央に、二人の共治紋。王妹フローラが視線だけで合図を送る。――段取りは整った、行ける。大司教が杖を横にし、開式の言葉を短く置く。皇子は前へ出て、掌をひらりと見せた。「条約婚は、ここから運用に入る。祈りは内に、法は外へ。今日は“見える手当て”を置く」王子が巻紙を開き、読み上げは簡潔に。・共同監査局の設置(大聖堂・地下街・納骨堂の三者と王宮使い)・共同の箱(鍵は三本、開封は三印一致)・地下通路の夜半巡回と、灯り・蓋の費用負担の分担・広場掲示の公開台帳――税と寄進と支出の見える化ざわめきが波紋になる。地下街の行商長は腕を組み、納骨堂の守り手は数珠を転がす。大聖堂の副祭司は羽根を揺らして、頷いた。王子は巻紙の下段を指でなぞり、もう一つ、声を落とす。「合図の項。公の場にも“止める仕組み”を置く」・異議(議場の手順)と停止(関係の手順)を分ける・停止語は当事者の発声に限って効力(外部の発声は確認ののち再開)・嘲笑目的の模倣は禁止、侮辱罪に準ず・鐘の合図は三つ(合流・開印・避難)、小鐘は子どもと司祭がともに引く人々の顔がほどけていくのがわかる。見えないところにあった“止め方”が、今、広場に置かれたからだ。王子は袖の内側で、皇子の手の甲を二度、軽く叩いた。緩めて。皇子はうなずき、息を少しだけ落とす。
鐘の音が石壁を震わせた。冷えた香の匂い。白い布の海。大聖堂の中央で、皇子は胸の鼓動を数えていた。彼の前に立つ王子が、掌を差し出す。指先が触れた。温度が移る。「契約を読む」大司教の声は乾いた羊皮紙の音に似ていた。条約婚。互いの国境の緩衝。使節往来の自由。軍の統制権の共有。その中に、皇子が昨夜まで書き直し続けた一段が挟まる。「合意の規定。可。抱擁、口づけ、手を引く。不可。公の場での命令口調、同意なき接触。合図。三度の指先タップ。セーフワード。琥珀」ざわめきが一波だけ起こり、消えた。王子は笑わなかった。ただ親指で皇子の手の甲を一度撫でて、囁く。「運用までが契約だ」「知ってる」皇子は息を整えた。魔紋の刻印師が膝をつき、朱を指に乗せる。王子の手首に銀糸の紋が浮き、皇子の指輪に淡い光の鱗が走った。魔紋は互いの脈拍と同期する。鼓動が重なったところで、大司教が最後の巻物を広げる。上下が逆だ。王子が片眉を上げた。「反転。今は縁起が良い、そういうことに」皇子が小声で助け舟を出すと、大司教の耳まで赤くなった。笑いが風のように広がり、緊張がほどける。王子はひと言だけ。「助かった」「スイッチ・デー、今週はあなたの日」「了解」公では、皇子が半歩前に立つ。私室では、王子が支える。そう決めた。互いの位置を確かめるように、王子はわずかに背を引いた。群衆の前で、皇子は名を名乗り、誓う。声は震えず、床の石が乾いていくみたいに静かに通った。◆◆◆儀礼を終え、側廊の控え室。羊皮紙の束。老宰相が鼻眼鏡の下からこちらを射抜く。地下街の顔役、大司教、納骨堂の管理者も並ぶ。石膏の白さが厳しい。王子が書簡の一枚をすっと前に出す。新条項。主従の交換条項。毎週一度、主と従を定め、互いに委任し合う。それを政治にも写す。「政治会議の議長を交互制に」王子は短く言った。皇子の肘が熱くなる。老宰相が苦
夕刻の写本室は、蜜蝋の香りと乾いた紙の音で満ちていた。外では鐘の余韻。中では羽根ペンの先が、誓詞の行間を静かに縫う。王子は灯をひとつ落とし、羊皮紙を二枚、左右に並べた。左は公の条約文。右は私室の合意契約。どちらも昨日までの“正しさ”だが、今朝の紙切れ—風聞—が、言葉の継ぎ目に新しい綻びを示した。「再構成しよう」王子が言った。「うん。誓いは壊れたわけじゃない。けれど、曲げられた」ルシアンは袖口を正し、背筋を伸ばした。公では彼が前に立つ。影の位置に王子の熱がある。二重統治の約束は、ここでも有効だ。王妹フローラが小走りで入ってくる。「三者、揃えたわ。大聖堂、地下街、納骨堂。小礼拝堂で短い公聴を—“文言の手入れ”として」王子は頷き、右の紙に細字で一行、書き足す。付記:セーフワードの効力は当事者の発声に限定。外部の発話は一度停止して確認、異常なしなら再開。「風聞は“合図の言葉を叫べば止まる”に賭けた。外からの手は切る」王子が言い、ルシアンが続ける。「公でも同じだ。『異議』と『停止』を分ける。異議は議場の手順、停止は関係の手順」フローラが笑んだ。「言葉の綱引きは、こちらの得意分野」◆◆◆小礼拝堂。白い壁に金の縁取り。参列は最小限。大司教、地下街の長、納骨堂の守り手。王妹。書記官は一人—銀糸の仮面は外され、素顔は緊張で固い。王子が短く説明する。「誓いは二つ。公と私。今日はその“接合部”の再構成です」ルシアンは壇に出て、言葉を整えた。「跪礼は祈りに限る、が誤読された。だから追記する。『跪礼は主従でなく、共同体への敬意』。また、『合図は相互の救済手順であり、嘲笑の道具に非ず』」地下街の長が鼻で笑い、すぐ真顔に戻る。「商いでも同じだ。手仕舞いの合図を外から壊されたら、粉が散る」守り手が数珠を転がした。
鐘が七つ、蜜蝋の滴る音さえ柔らかく呑み込み、葡萄の酸が夜気にほどける。白布で覆われた長卓、天井から垂れる蔓灯、床石に散らされた香草の粉。仮面の宴は、匂いと光でしか素顔を許さない。皇子は銀青の仮面。頬の縁に極細の双権紋。胸元には半輪の小紋章。王子は黒檀に鈍金の縁取り——影の意匠。半歩うしろで灯を遮り、視線の矢を折る。(公では皇子が前、影は王子。)取り決めは姿勢にまで染みている。「手を」皇子。「合図は二回」王子。「うん。危険は二回、撤退は三回」短い復唱は、羊皮紙に刻んだ合意の再点検。条約婚の夜に交わした四つの枠——可・不可・合図・アフターケア——は、今宵の仮面にも効く。可:儀礼内の口上命・姿勢の誘導・絹の拘束(短時間)。不可:跪礼の強要・痕を残す示威・公衆での屈辱。合図:二圧=危険/三圧=撤退。セーフワード:「青磁」。週一のスイッチ・デー厳守。破れた週は日の出前のケアで穴を埋める。