LOGIN聖都の鐘が昼の光を揺らした。森を抜け、二人が次の目的地に選んだのは大聖堂のある丘だった。皇子は既に成年の礼を済ませており、王子もまた王国の後継として公務に耐える骨格を持っていた。旅立ち、森で出会い、互いの役割を嗅ぎ分けるまでに時間はかからなかったが、ここからは契約のかたちが要る。
「条約婚を締結します」 皇子が前に出た。石床の冷たさが薄い靴底を通って脛に刺さる。大聖堂の柱陰では老司教がうなずき、参列の使節たちが息を詰めて見守った。王子は一歩引き、銀の盆に羊皮紙を載せて手渡す。文字列は政治と私室を同じ線上に置いていた。 ——公務契約 ・両国間の往来と関税を三期にわけて緩和 ・納骨堂の通気改修費用は共同負担、入札は地下街ギルドの監督下で行う ・大聖堂の祭儀権は保持、巡礼税は透明化 ——私室契約 ・可:拘束(軽度)、跪礼、指示語による主導権訓練、口付け ・不可:呼吸を妨げる行為、痕が残る強度の打擲、第三者の介入 ・合図:手首への二度の軽いタップで「ゆっくり」、三度で「中止」 ・セーフワード:「アマランス」 ・アフターケア:温い茶、甘味、保湿油、肯定の言葉を交わすこと 「同意します」 王子の声は短く低く、柔らかく落ちた。皇子の喉仏がわずかに上下する。金糸の紐がふたりの手を結び、教会の蝋が印章を受け止めるはずだったのだが——。 「熱っ」 王子の指に蝋が垂れた。小さな声が石壁に跳ねる。司祭が目を剥く前に、皇子が手を取った。 「待て。冷やす」 息を吹きかけ、指の腹に唇をあてる。短く、音もなく。参列の列から忍び笑いが走り、老司教が咳払いで鎮める。 「王国式の祝福、だそうです」 王子がさらりと言い、印章を押し直した。妙な間は笑いで溶け、公と私の境にひとつの合意が置かれた。 式の後、二人は地下街に降りた。湿った香辛料とランプ油の匂いが鼻を刺し、石段の裏側では古着の商人が腕を組んで待っていた。地上では老司教が祭儀の権利を手放したくない。地下ではギルドが納骨堂の下に走る古い通風穴を物流に使いたがっている。骨を祀る場所を風が抜けず、夏ごとに黴が出るという苦情もある。 「誰の骨を湿らせたまま儲けるつもりだ」 地下街の顔役が吐き捨て、背後で若い香辛料売りが肩をすくめた。皇子は目を合わせ、短く返す。 「儲けてもらう。その代わり、乾かす」 王子が一歩引いて手首に指を添える。二度、軽いタップ。ゆっくり。皇子は息を整え、言い切った。 「鍵は二本。祭壇側と地下側。両方が開ける時だけ通す。費用は折半。検数は共同」 「司祭さまは何と言うかね」 「言わせる」 皇子は視線で押した。森で狼に道を譲らせた時と同じ圧だが、今は言葉で路を拓く。王子が喉の奥で笑い、袖の影で小さく親指を立てた。 夜。私室。公では皇子が前に出た。その分、私室では王子が支える番だ。机上には午後に交わした羊皮紙の控えと、もう一枚の紙が広がる。「スイッチ・デー」と書かれている。 「週に一度。火星の日に」 皇子が提案した。王子は顎に指を当てる。 「断食日とかぶるな」 「え」 「大聖堂の厨房が休む。アフターケアの甘味が手に入らない」 沈黙。次に上がったのは吹き出すような笑いだった。 「木星の日に」 「了解。木星の日」 王子は椅子から立ち、軽く跪いた。髪がじわりと膝に沿う。今日はスイッチ・デーの予行。皇子が主導する。 「目を、こっちに」 少し震えたが、言えた。王子の瞳が上がる。 「次。命令を」 「手を、ここに。胸の……上。重さを感じたい」 手が置かれる。布越しの温度が心臓の鼓動を拾う。皇子は息を吐き、指示語の先に自分の意思が立てることを知った。 「……いい。もっと、近く」 王子が近づき、額を預けてくる。呼吸が揃う。ほんの少しだけ強く、指先を握る。 「アマランス」 王子が囁いた。即座に皇子は手を離し、一歩引いた。胸に空気が戻る。 「中止。水」 「はい」 この運用の速さが信頼の種になる。王子は器に水を注ぎ、皇子の手に乗せた。緊張が滑り落ちたところで、アフターケアの約束が始まる。温い茶、蜂蜜を垂らした干果、肩口に保湿油。王子は短く言う。甘い言葉で背骨を撫でる。 「よく命じた。短く。美しかった」 「笑ったろ」 「少し。かわいかったから」 皇子は唇を引き結び、すぐほころばせた。命じることが奪う行為ではなく、与える順序だと体で学ぶ。雄になる訓練は、政治の自立に接続していくはずだ。 翌朝。大聖堂の回廊で老司教と対面した。納骨堂の再編についての草案を出す。王子が資料を掲げ、皇子が口火を切る。 「聖遺骨の保管は祭儀の核心だ。だからこそ、風を通す。信徒の献金の用途を公開する。地下街の者らは灯りと通気の維持を負い、祭日に通行を止める」 老司教は沈黙の後、うなずいた。利の配分が礼を維持する線まで後退している。妥協の形が石に刻まれる直前、蝋の封を落とす役が王子に回ってきた。王子は一拍置き、今度は布を手に取って蝋の下に添え、笑ってみせる。 「学習した」 「うむ」 皇子が短く笑い、横に立つ。公では皇子が前に、私室では王子が支える。二重の統治が歩き出した手応え。地下街の顔役は鼻を鳴らし、しかし紙に印を押した。納骨堂の風は夏までに通るだろう。 その日の黄昏、二人は市壁の上で風を受けた。遠くに森の線が見える。あの出会いの場所。王子が肩に外套を掛け、皇子の耳元に短く落とす。 「木星の日、楽しみにしている」 「甘味は忘れるな」 「侍女長に頼んだ」 「早い」 「段取りは愛だ」 くだらない会話が、政治の隙間に溶けていく。触れて、離れる。言葉で合意し、体で確かめる。鐘がまた鳴る。次は誰の合図で、どちらが前に出るか。決めたのは二人だった。 次回、第6話:侍女長の匙加減大聖堂のステンドグラスが、夜を青い刃で裂いていた。香と油の匂いが重い。金糸の結び紐が、二人の手首をゆるくつなぐ。条約婚は成立、公開儀礼は穏やかな終章へ――そのはずだった。矢が鳴った。骨の羽が、細い音で空気を切る。最初に血が咲いたのはアルトリウスの左肩。銀青の礼衣に赤。膝が落ちかけ、踏みとどまる。視線は前を外さない。「下がれ」ルシアンの声は鈍い鉄。体は勝手に前へ――だが結び紐が引き戻す。公では皇子が前に立つ。二人で刻んだ条。忘れてはいない。けれど血は、本能を呼ぶ。「紅葉」アルトリウスが口の内で告げる。セーフワード。不可侵の停命。ルシアンの靴裏が石に戻る。「公は私が前だ」「……命令か」「契約に基づく要請だ」低い対話ののち、ルシアンは一歩退いた。アルトリウスが右手を上げ、祭司と民へ短く通す。「背を見せるな。祈りは解く。扉は閉じず、出入口は監視。狼煙は上げない」声は細る。合図は正確。護衛の影が伸びる。内陣で羽音、二本目。ルシアンは礼装の青帯を掴む。「それは葬儀用で――」と祭司。「借りる」帯は一瞬で止血帯に変わり、肩へ巻かれる。痛みで眉が寄る。その隙に黒衣の影が祭壇脇の扉へ滑り、地下へ。石段の冷気。「地下街に抜ける」ルシアンは即座に采配した。若い従者へ目だけで命じる。「鐘楼は黙らせろ。市門は閉じるな。地下の吐き口四つだけ封鎖」「は、はい! ただ今夜、スイッチ・デーの帳面が――」「延期。記録に『不可・危急対応』。明日は倍、撫でる」従者が真っ赤で走る。空気が一瞬ほどける。別の従者が結び紐を解こうと近づき――「まだだ」アルトリウスは静かに首を振る。「結びは解かない。民の前で戻る」痛みの中の頑固さ。雄になる訓練は、こういう場面に通う。公でまず立ち、
鐘が六つ、白い石を震わせた。大聖堂の段に朝陽が跳ね、旗の紋が風で鳴る。香草の甘い匂いが鼻の奥に落ちた。王子は皇子の革当てを締め直す。指は容赦なく、体温はやさしい。「深呼吸」「……吸う、止める、吐く」チェックは短く、抜けがない。「合図」「左手二度。呼吸を二つ。停止語は――石榴」「可」「手首まで。刃は寸止め。命令語は短く」「不可」「首輪の露出、公での跪拝、痕」「アフター」「甘味、温水、肩を揉む。翌朝の政務は短縮」王子が頷く。「週に一度、反転。――スイッチ・デー」皇子はわずかに笑った。震えより笑いが勝ち始める。若い従者が帯を抱えて駆け込む。出したのは赤。
朝の光が城門の金具を白く撫で、街路の旗が同じ方向へ揃った。王都は祝いの装いだ。石畳の継ぎ目に、薄い花の影。太鼓が二度、鐘が三度。人のざわめきがふくらんで、やがて一つの音になる。王子は皇子の右手の帯を整えながら、呼吸を数えた。四拍で吸って、四拍で止めて、四拍で吐く。「主導は呼吸から」皇子が小さく頷き、半歩、前に出た。公では彼が前に。私室では王子が支える。いつもの合意が、今日は街じゅうの目に触れる。広場の壇には、三つの印が並んだ。大聖堂の銀、地下街の銅、納骨堂の骨白。そして中央に、二人の共治紋。王妹フローラが視線だけで合図を送る。――段取りは整った、行ける。大司教が杖を横にし、開式の言葉を短く置く。皇子は前へ出て、掌をひらりと見せた。「条約婚は、ここから運用に入る。祈りは内に、法は外へ。今日は“見える手当て”を置く」王子が巻紙を開き、読み上げは簡潔に。・共同監査局の設置(大聖堂・地下街・納骨堂の三者と王宮使い)・共同の箱(鍵は三本、開封は三印一致)・地下通路の夜半巡回と、灯り・蓋の費用負担の分担・広場掲示の公開台帳――税と寄進と支出の見える化ざわめきが波紋になる。地下街の行商長は腕を組み、納骨堂の守り手は数珠を転がす。大聖堂の副祭司は羽根を揺らして、頷いた。王子は巻紙の下段を指でなぞり、もう一つ、声を落とす。「合図の項。公の場にも“止める仕組み”を置く」・異議(議場の手順)と停止(関係の手順)を分ける・停止語は当事者の発声に限って効力(外部の発声は確認ののち再開)・嘲笑目的の模倣は禁止、侮辱罪に準ず・鐘の合図は三つ(合流・開印・避難)、小鐘は子どもと司祭がともに引く人々の顔がほどけていくのがわかる。見えないところにあった“止め方”が、今、広場に置かれたからだ。王子は袖の内側で、皇子の手の甲を二度、軽く叩いた。緩めて。皇子はうなずき、息を少しだけ落とす。
鐘の音が石壁を震わせた。冷えた香の匂い。白い布の海。大聖堂の中央で、皇子は胸の鼓動を数えていた。彼の前に立つ王子が、掌を差し出す。指先が触れた。温度が移る。「契約を読む」大司教の声は乾いた羊皮紙の音に似ていた。条約婚。互いの国境の緩衝。使節往来の自由。軍の統制権の共有。その中に、皇子が昨夜まで書き直し続けた一段が挟まる。「合意の規定。可。抱擁、口づけ、手を引く。不可。公の場での命令口調、同意なき接触。合図。三度の指先タップ。セーフワード。琥珀」ざわめきが一波だけ起こり、消えた。王子は笑わなかった。ただ親指で皇子の手の甲を一度撫でて、囁く。「運用までが契約だ」「知ってる」皇子は息を整えた。魔紋の刻印師が膝をつき、朱を指に乗せる。王子の手首に銀糸の紋が浮き、皇子の指輪に淡い光の鱗が走った。魔紋は互いの脈拍と同期する。鼓動が重なったところで、大司教が最後の巻物を広げる。上下が逆だ。王子が片眉を上げた。「反転。今は縁起が良い、そういうことに」皇子が小声で助け舟を出すと、大司教の耳まで赤くなった。笑いが風のように広がり、緊張がほどける。王子はひと言だけ。「助かった」「スイッチ・デー、今週はあなたの日」「了解」公では、皇子が半歩前に立つ。私室では、王子が支える。そう決めた。互いの位置を確かめるように、王子はわずかに背を引いた。群衆の前で、皇子は名を名乗り、誓う。声は震えず、床の石が乾いていくみたいに静かに通った。◆◆◆儀礼を終え、側廊の控え室。羊皮紙の束。老宰相が鼻眼鏡の下からこちらを射抜く。地下街の顔役、大司教、納骨堂の管理者も並ぶ。石膏の白さが厳しい。王子が書簡の一枚をすっと前に出す。新条項。主従の交換条項。毎週一度、主と従を定め、互いに委任し合う。それを政治にも写す。「政治会議の議長を交互制に」王子は短く言った。皇子の肘が熱くなる。老宰相が苦
夕刻の写本室は、蜜蝋の香りと乾いた紙の音で満ちていた。外では鐘の余韻。中では羽根ペンの先が、誓詞の行間を静かに縫う。王子は灯をひとつ落とし、羊皮紙を二枚、左右に並べた。左は公の条約文。右は私室の合意契約。どちらも昨日までの“正しさ”だが、今朝の紙切れ—風聞—が、言葉の継ぎ目に新しい綻びを示した。「再構成しよう」王子が言った。「うん。誓いは壊れたわけじゃない。けれど、曲げられた」ルシアンは袖口を正し、背筋を伸ばした。公では彼が前に立つ。影の位置に王子の熱がある。二重統治の約束は、ここでも有効だ。王妹フローラが小走りで入ってくる。「三者、揃えたわ。大聖堂、地下街、納骨堂。小礼拝堂で短い公聴を—“文言の手入れ”として」王子は頷き、右の紙に細字で一行、書き足す。付記:セーフワードの効力は当事者の発声に限定。外部の発話は一度停止して確認、異常なしなら再開。「風聞は“合図の言葉を叫べば止まる”に賭けた。外からの手は切る」王子が言い、ルシアンが続ける。「公でも同じだ。『異議』と『停止』を分ける。異議は議場の手順、停止は関係の手順」フローラが笑んだ。「言葉の綱引きは、こちらの得意分野」◆◆◆小礼拝堂。白い壁に金の縁取り。参列は最小限。大司教、地下街の長、納骨堂の守り手。王妹。書記官は一人—銀糸の仮面は外され、素顔は緊張で固い。王子が短く説明する。「誓いは二つ。公と私。今日はその“接合部”の再構成です」ルシアンは壇に出て、言葉を整えた。「跪礼は祈りに限る、が誤読された。だから追記する。『跪礼は主従でなく、共同体への敬意』。また、『合図は相互の救済手順であり、嘲笑の道具に非ず』」地下街の長が鼻で笑い、すぐ真顔に戻る。「商いでも同じだ。手仕舞いの合図を外から壊されたら、粉が散る」守り手が数珠を転がした。
鐘が七つ、蜜蝋の滴る音さえ柔らかく呑み込み、葡萄の酸が夜気にほどける。白布で覆われた長卓、天井から垂れる蔓灯、床石に散らされた香草の粉。仮面の宴は、匂いと光でしか素顔を許さない。皇子は銀青の仮面。頬の縁に極細の双権紋。胸元には半輪の小紋章。王子は黒檀に鈍金の縁取り——影の意匠。半歩うしろで灯を遮り、視線の矢を折る。(公では皇子が前、影は王子。)取り決めは姿勢にまで染みている。「手を」皇子。「合図は二回」王子。「うん。危険は二回、撤退は三回」短い復唱は、羊皮紙に刻んだ合意の再点検。条約婚の夜に交わした四つの枠——可・不可・合図・アフターケア——は、今宵の仮面にも効く。可:儀礼内の口上命・姿勢の誘導・絹の拘束(短時間)。不可:跪礼の強要・痕を残す示威・公衆での屈辱。合図:二圧=危険/三圧=撤退。セーフワード:「青磁」。週一のスイッチ・デー厳守。破れた週は日の出前のケアで穴を埋める。