鐘が三度、湿った石の大聖堂に鳴り渡った。
香の煙は青く、壁の魔紋が微かに光っていた。 条約婚の儀は、公の視線の中で淡々と進んだ。「誓うか」
大司教の声は低い。皇子は一歩、前に出た。
衣は銀。喉仏が小さく上下する。 王子は半歩、背に添う。 視線だけで合図を交わした。「誓う」
「支える」言葉は短く、触れた手の温度の方が雄弁だった。
掌に描いた薄い護符の感触。紙は冷たく、指先は火照っている。 民のどよめきが、石床を震わせた。《契約は愛より先、だが愛を置く土壌を用意する》
取り決めは覚悟の証だ。 王子が巻物を差し出す。 合意契約書。可・不可、合図、アフターケアまで明文化されている。「公開」
大司教は頷いた。 文言が読み上げられる。可──命令口調、腕の保持、衣の管理、呼称の変更。
不可──露出、痛みを目的とする行為、跪きを長時間強要すること。 合図──言葉「藍」、右手三度のタップ、息を止める仕草の禁止。 アフターケア──甘い茶と湯、毛布、額の接吻、言葉による確認。「週一回のスイッチ・デー、評議日の終わりに」
王子の声に笑いが零れた。 大聖堂に柔らかい波紋が広がる。 誤解した侍従が慌てて耳打ちした。 「本日は六の市ではありません」 「明日ではなかったか?」 「明後日です」 二人は同時に小声で「了解」と言い、場は和んだ。地下街の組頭は、香の供給権をちらつかせていた。
納骨堂の守り手は、祖霊の前での誓いを要求した。 双方の使いが目線だけで動く。 政の駆け引きは、儀礼の陰で始まっていた。儀が終わると、石の冷たさが残る回廊を抜けた。
扉が閉じる音。私室は布と木の匂いが濃い。 初夜と呼ばれる夜だが、彼らにとってはプロトコルの検証の夜だった。「水はここ」
王子が水差しを示す。 「光は低く」 皇子は火を落とし、蝋燭を一本だけ残した。炎の鼓動が壁を揺らす。「確認する」
王子は手帳を開いた。 「呼称」 「公では殿下。私室では君」 「命令」 「短く。三語以内」 「触れ方」 「手首は包む。捻らない」 「不可」 「痛み、露出、長時間の跪き。しない」 皇子の喉が乾いた音を立てた。 緊張ではなく、覚悟の音だと王子は知っている。「試すか」
王子が問う。 「試す」 皇子が答える。王子は絹の紐を取り出した。柔らかい。艶がある。
「合意」 「ある」 手首に一重、ゆるく巻く。 締めない。皮膚の上を滑らせ、結び目は解けやすく。 王子の親指は脈に触れ、速度を測った。「命じる」
「うん」 「目を、閉じろ」 皇子は従う。睫毛が頬に影を落とした。 呼気が熱い。肩が上がる。 「ここまで」 王子が囁く。 「……藍」 皇子が発した。 すぐに紐は解かれた。 王子の手が肩に回る。温度を渡す。「水」
「飲む」 甘い茶に蜂蜜を一匙。喉が鳴る。 額を合わせる。汗の匂いが互いの心拍を落ち着けた。「止めた理由」
王子が短く問う。 「声が揺れた。合図の確認をしたかった。怖くはない」 皇子は目を開けた。 瞳に炎が映る。小さな火が芯を照らしていた。 「合図は機能する。君は守る。私は言える」 「言える」 言葉は合意の対位法だ。命令と停止、その間に信頼が生成される。「もう一度」
皇子が言う。 王子は頷く。 今度は王子が仰向けになった。 「スイッチ・デーの練習」 「今日ではない」 「二分だけ」 二人は笑った。 「了解。命じて」 皇子の声は低くなった。 「手を、見せて」 王子は掌を上に。指を軽く握られる。包まれる感覚が心地よい。 「終わり」 皇子が小さく告げる。 合図は互いに通じた。それだけで十分だった。外から、地下街のざわめきが風に乗って届く。
香を仕切る組頭の駒が、大聖堂の供物台の周りを歩いているのだろう。 納骨堂の扉は重い。祖霊の名は簡単には借りられない。 昼間、守り手の老婆は言った。 「祖霊は約束の音に敏いよ」 だから二人は、約束の音を揃えたのだ。「明日は壇上に立つ」
皇子が呟く。 王子は頷いた。 「前に出ろ。私は背で支える」 「公では私が前。私室では君が支える」 「二重統治」 「うん」 言葉は短いのに、肩に落ちる重さは心地よかった。王子は地図を広げる。森の端に描かれた納骨堂の印。地下街へ下る階段の印。大聖堂の尖塔の影。
「三つ巴」 皇子が指先でなぞる。 「香の税で揺さぶる地下。祖霊の権威で牽制する骨蔵。聖の儀式で包もうとする堂」 「演説で条件を置く」 王子が言う。 「合意と合図」 「それで進める」 二人の契約は政の抽象にも転写できる。安全装置のある約束。停止の言葉が用意された交渉。 組頭が食い下がるなら、「藍」を使えばよい。撤退の合図を事前に決め、次の場で再開すればいい。 納骨堂には短く頭を下げる。祖霊に嘘はつかない。言える規模だけを言う。「もう一度、確認」
王子は巻物をひろげる。 「公の呼称」 「殿下」 「私室」 「君」 「命令の長さ」 「三語以内」 「停止の合図」 「藍、右手三度」 「アフターケア」 「茶、湯、毛布、言葉」 「スイッチ・デー」 「明後日」 二人は同時に笑った。扉が小さく叩かれた。
侍従が頭を下げる。 「地下街の代表が、献香の比率について」 「明朝に」 皇子が即答する。 「納骨堂の守り手より、祖霊の前での文言修正の申し入れ」 「受ける。三語以内に直す」 王子が紙を受け取り、赤い墨で線を引いた。侍従は去る前に小声で言った。
「殿下、今夜は……」 「訓練だ」 王子が静かに答えた。 「初夜のプロトコル」 侍従は頷き、微笑を残して消えた。誤解も、お互いの一言で解ける。甘やかな事故は、心を柔らかくする。灯りを落とす。
布擦れの音。互いの体温が、石の部屋から冷えを追い出す。 王子は皇子の首筋に額を預けた。 「君は前へ」 「君は背で」 「一緒に」 言葉が合わさるたび、政治と愛の手触りが一つに重なっていく。 信頼の実験は成功だ。 明日、壇上で皇子は雄になる。雄とは、命じ、止め、守ること。支える背中があることを知っている者の声だ。遠く、鐘が一つ鳴った。
夜は深く、心は静かだった。次回、第4話:壇上の前後
聖都の鐘が昼の光を揺らした。森を抜け、二人が次の目的地に選んだのは大聖堂のある丘だった。皇子は既に成年の礼を済ませており、王子もまた王国の後継として公務に耐える骨格を持っていた。旅立ち、森で出会い、互いの役割を嗅ぎ分けるまでに時間はかからなかったが、ここからは契約のかたちが要る。 「条約婚を締結します」 皇子が前に出た。石床の冷たさが薄い靴底を通って脛に刺さる。大聖堂の柱陰では老司教がうなずき、参列の使節たちが息を詰めて見守った。王子は一歩引き、銀の盆に羊皮紙を載せて手渡す。文字列は政治と私室を同じ線上に置いていた。 ——公務契約 ・両国間の往来と関税を三期にわけて緩和 ・納骨堂の通気改修費用は共同負担、入札は地下街ギルドの監督下で行う ・大聖堂の祭儀権は保持、巡礼税は透明化 ——私室契約 ・可:拘束(軽度)、跪礼、指示語による主導権訓練、口付け ・不可:呼吸を妨げる行為、痕が残る強度の打擲、第三者の介入 ・合図:手首への二度の軽いタップで「ゆっくり」、三度で「中止」 ・セーフワード:「アマランス」 ・アフターケア:温い茶、甘味、保湿油、肯定の言葉を交わすこと 「同意します」 王子の声は短く低く、柔らかく落ちた。皇子の喉仏がわずかに上下する。金糸の紐がふたりの手を結び、教会の蝋が印章を受け止めるはずだったのだが——。 「熱っ」 王子の指に蝋が垂れた。小さな声が石壁に跳ねる。司祭が目を剥く前に、皇子が手を取った。 「待て。冷やす」 息を吹きかけ、指の腹に唇をあてる。短く、音もなく。参列の列から忍び笑いが走り、老司教が咳払いで鎮める。 「王国式の祝福、だそうです」
鐘は三度、香の煙は高く。大聖堂の天蓋は青金にきらめき、壇上の二人の影を長く伸ばしていた。 半歩、前に出たのはルシアンだった。肩甲で光を返しながら、声は澄んでいた。 「帝国皇子ルシアンは、王国王子アルトリウスと条約婚を結ぶ。交易路の保護、共同徴税の透明化、戦時にはー—」 咳払いがひとつ。背後のアルトリウスが、ごく小さく首を傾けた。合図だ、とルシアンは気づく。文言の順序、決めていた。 「—戦時には、両朝の評議を先行し、兵の動員は三日を限度に延期する。以上を、公開儀礼において宣する」 予定より二語、少なかった。けれど会衆は息を吐き、聖職者は巻物の封蝋を割った。壇の正面、魔紋が光った。二人の手首に、細い銀の文様が浮かぶ。共同統治の契印。今は薄く、触れればかすかな熱だけを残す。 指輪は、最後の段。ルシアンがアルトリウスの左薬指に滑らせる。すべった。手袋の上からだった。 「あ」 「……手袋」 笑いが広がる前に、アルトリウスが指先で手袋を外し、掌を差し出す。指の骨格はしなやかで、体温は落ち着いている。やり直し。指輪はぴたりとはまった。大聖堂に柔らかい笑いが走り、緊張がほどけた。 儀礼は続く。条約の板文が掲げられ、最後の項に会衆がざわめく。「共治評議会」——皇子と王子を頂点に、貴族・司祭・市民の三身から代表を選び、帝都統治の改革に道を開く草案。最終承認は来季の議会、と付されている。それでも、ここに初めて公に置かれた。 壇上から降りれば、前後は変わる。公では皇子が先導する。しかし儀礼の「後」は、すぐに駆け足でやってくる。 聖歌の余韻が消える前に、納骨堂への階段に人垣ができた。聖職者たち、地下街の顔役、遺骨守の老人たち。権利だ、権威だ、道の幅だ。声が重なる。
鐘が三度、湿った石の大聖堂に鳴り渡った。香の煙は青く、壁の魔紋が微かに光っていた。条約婚の儀は、公の視線の中で淡々と進んだ。「誓うか」大司教の声は低い。皇子は一歩、前に出た。衣は銀。喉仏が小さく上下する。王子は半歩、背に添う。視線だけで合図を交わした。「誓う」「支える」言葉は短く、触れた手の温度の方が雄弁だった。掌に描いた薄い護符の感触。紙は冷たく、指先は火照っている。民のどよめきが、石床を震わせた。《契約は愛より先、だが愛を置く土壌を用意する》取り決めは覚悟の証だ。王子が巻物を差し出す。合意契約書。可・不可、合図、アフターケアまで明文化されている。「公開」大司教は頷いた。文言が読み上げられる。可──命令口調、腕の保持、衣の管理、呼称の変更。不可──露出、痛みを目的とする行為、跪きを長時間強要すること。合図──言葉「藍」、右手三度のタップ、息を止める仕草の禁止。アフターケア──甘い茶と湯、毛布、額の接吻、言葉による確認。「週一回のスイッチ・デー、評議日の終わりに」王子の声に笑いが零れた。大聖堂に柔らかい波紋が広がる。誤解した侍従が慌てて耳打ちした。「本日は六の市ではありません」「明日ではなかったか?」「明後日です」二人は同時に小声で「了解」と言い、場は和んだ。地下街の組頭は、香の供給権をちらつかせていた。納骨堂の守り手は、祖霊の前での誓いを要求した。双方の使いが目線だけで動く。政の駆け引きは、儀礼の陰で始まっていた。儀が終わると、石の冷たさが残る回廊を抜けた。扉が閉じる音。私室は布と木の匂いが濃い。初夜と呼ばれる夜だが、彼らにとってはプロトコルの検証の夜だった。「水はここ」王子が水差しを示す。「光は低く」皇子は
式から四日、二人は都に入った。城門前には旗。乾いた土と香の匂い。鐘が一打、風で低く揺れた。皇子は外套の襟を指で摘まんだ。手汗。指先が冷たい。隣の王子がささやく。「息、二拍で吸って、四拍で吐く」「できる」短く答えた。できる、と言った自分に少し驚いた。森の夜より人の目が怖い。今日、条約婚は公開儀礼で結ばれる。帝国の継承と王国の交易をつなぐ政治。その中心に自分。逃げたくなる。だが、彼は隣にいる。約束どおり半歩下がって。大聖堂の親扉が開く。冷えた石の匂い。天蓋の魔紋が薄く光る。侍従長が合図し、二人は誓台の前へ。公では皇子が前に出る。王子は背で支える。それが二重統治の最初の形。「帝国皇子、来殿」「王国王子、来殿」声が反響した。祭司長が銀墨の筆を差し出す。契紋は手首に描く。皇子は筆先の冷たさに息を飲み、用意した文言を口にのせた。王子が背で静かに呼吸を合わせる。呼吸の数で落ち着く。不思議と声が出た。「我ら、条約婚を成す。公では帝国の段に立ち、私では互いを守る。不可侵の骨を侵さず、商の血を汚さず、城の階を乱さず」祭司長が頷き、魔紋が淡く絡む。銀の線が二人の手首で一瞬だけ交わり、消えた。契紋は見えないように埋められるのがこの国のしきたりだという。派手さはない。だが重さがある。人々が息を合わせて手を打った。通路の端で、地下街の顔隠しの女将が目礼を寄越した。黒いヴェールの下に笑い。納骨堂の守り手は杖を突き、石床を一度だけ叩いた。大聖堂、地下街、納骨堂。三つの視線がここにある。権力は香のように混ざると扱いづらい。彼は肩でそれを感じた。儀礼の後、私室へ。扉が閉まる音で、体のこわばりがやっとほどけた。王子が机に羊皮紙を広げる。契約。二人の合意を文にする時間。王子は短く言う。「可、不可。合図。ケア。四つだけ」「四つ」「書く。君の言葉で」皇子は深く息を吸った。政治はいつも長い言葉を求める。だが今は短くていい。「可は、手首までの固定。命令の
鐘が七つ鳴り、王都の大聖堂に沈黙が降りた。彩色ガラスの光が壇上を洗い、白い香煙が天へほどける。その中央で、アルトリウス王子は指先の汗を小さく拭った。視線の先、金の縁どりの外套をまとったルシアン皇子が肩で息を整えていた。二人とも成人。戦と商路の重さを知る年だった。「条約婚は、盾ではなく橋である」司教の声が広間を渡る。両国の紋章旗がゆるくはためき、石床に靴音が刺すように反射した。呼吸を合わせる。ルシアンの瞳が一瞬、アルトリウスを探した。頷く。いける。そう合図したつもりだった。「我らは国境関税を半減し、塩と布の双の路を開く。山間の水門は共同で守り、納骨堂の修復費を折半する」宰相が次々と利得を読み上げるたび、ざわめきが揺れ、やがて静まった。商人達は頷き、兵は腕を組み、修道士の何人かは指の結びを固くした。潜る者は潜る。大聖堂の影で、黒いフードが一つ、香炉の鎖を短く鳴らした。地下街の顔役が、回廊の柱の後ろで笑わずに笑った。納骨堂の守り人は、鍵束を音なく懐へ消した。反対の火は消えない。ただ、表で燃やさない。「アルトリウス王子」ルシアンが一歩、前へ出た。公では皇子が前に。そう取り決めた通りに。「この婚約は、帝国の恥ではない。選択だ」言葉は短く、芯に熱があった。アルトリウスは、その背に立ち、視線で支えた。ここで膝が震えるだろう、と予想していたけれど、震えは喉に来ていた。強くなる訓練は、体だけではない。声だ。視線だ。沈黙の使い方だ。「……共に、雄になろう」最後の一文に、アルトリウスの胸が熱くなった。雄。政治の場で、おずおずと礼を取るだけの皇子ではなく、自ら条件を示し、首を縦に振らせる者へ。あの言葉を、国民の前で言えた。それで今日は十分だ。指輪交換は、少しだけ滑った。侍従が差し出した小さなクッションに、なぜか税目の目録が刺さっている。「……これは」「経理が、興奮して」司教の咳払いで笑いが止まり、代わりのクッションが走ってきた。こういうぬるさが残るのは悪くない。場は柔らぐし、目録は後で役立つ。儀礼の最後。「感応紋」の魔法陣が開き、薄い光が二人の足元に描かれた。蔦の紋が手首へ這い、内側に吸い込まれる。痛みはない。ほんの少し、冷たい。鼓動が二つ、重なる瞬間があった。縁結びの紋は見えない。見えないからこそ言葉で重ねる。「婚約を公に証す」拍手は大きすぎず、小さ