物置小屋での秘密の生活が、一週間ほど続いた。アメリアは昼間は侍女として働き、夜になればレイモンドの元へ通い、彼の看病と情報収集の任務に当たった。レイモンドの傷は、アメリアの献身的な介抱の甲斐あって、少しずつ回復に向かっていた。熱も下がり、顔色も以前よりは良くなっている。だが、彼は依然として小屋の中に潜伏し、外界との接触を避けていた。
アメリアが持ち込む食事を口にするレイモンドの視線は、以前の刺すような鋭さから、わずかに和らいでいるように感じられた。彼が時折見せる、深い思索に沈むような横顔を見るたび、アメリアの胸には、彼の背負う重みが伝わってくるようだった。
ある夜のことだった。アメリアが、その日集めた情報をレイモンドに報告し終えると、小屋の中に沈黙が訪れた。雨音はもう止み、夜空には星が瞬いている。小屋の小さな窓から差し込む月明かりが、レイモンドの顔をぼんやりと照らしていた。
「……アメリア」
レイモンドが、静かにアメリアの名を呼んだ。その声は、いつもより少しだけ、感情を含んでいるように聞こえた。アメリアは、彼の言葉を待った。
「お前は、なぜ、俺を助けた」
彼の問いに、アメリアは少し戸惑った。理由は、単純なものだった。
「貴方が、このままでは死んでしまうと思ったからです。それだけです」アメリアがそう答えると、レイモンドはアメリアの瞳をまっすぐに見つめた。その琥珀色の瞳の奥に、何か複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。
「……この世界で、見知らぬ人間に、そこまで手を差し伸べる者は少ない。ましてや、危険を冒してまで、だ」
レイモンドの言葉は、彼の過去に、何か深い影があることを示唆しているようだった。アメリアは、彼がこれまでにどれほどの裏切りや冷酷さに触れてきたのだろうかと、想像した。彼の孤独な境遇に、アメリアの心は深く同情を覚えた。
「私は……ただ、貴方が、生きていてほしいと、そう思いました」
アメリアは、自分の正直な気持ちを伝えた。彼の言葉の通り、彼女はごく普通の侍女で、特別な力など持たない。しかし、目の前で苦しむ人間を見過ごすことはできなかった。それが、彼女の信じることだった。
レイモンドは、アメリアの言葉に、ゆっくりと目を閉じた。そして、深く、息を吐いた。その吐息には、長年の重圧が混じっているかのようだった。
「……俺は、この国の、いや、この大陸の命運を左右する、ある秘密を追っている」
レイモンドが、ついに重い口を開いた。彼の言葉は、アメリアの想像をはるかに超えるものだった。彼の抱える問題が、単なる貴族間の権力争いをはるかに超える規模だということに、アメリアは驚きを隠せなかった。
「俺の一族は、代々、王家を影から支え、この国の安定を維持する役割を担ってきた。しかし、ここ数年、国内では不穏な動きが活発化している。王宮の内部にまで、不穏な影が差し込んでいるのだ」
彼の言葉には、強い使命感が込められている。アメリアは、彼の話に真剣に耳を傾けた。
「俺は、その真の首謀者を突き止めるため、密かに調査を進めていた。だが、俺が掴んだ証拠が、あまりにも大きすぎた。奴らは、俺を排除しようとした。その結果が、あの夜の襲撃だ」
レイモンドの声は、悔しさを含んでいた。彼の話を聞くにつれ、アメリアの心には、彼への尊敬の念が募っていった。彼は、己の命を危険に晒してまで、国のために戦っているのだ。
「俺が追っているのは、ある古文書だ。それは、この国の根幹を揺るがすほどの、重大な秘密を記している。奴らはそれを手に入れ、国の秩序を破壊しようとしている」
レイモンドは、そう言って、痛むであろう傷口にそっと触れた。彼の背負うものが、どれほど重いものか。その時、アメリアは初めて、彼が単なる貴族の嫡男ではなく、この国の平和を護るために命を賭している「騎士」なのだと、深く理解した。
「……私に、何ができますか」
アメリアは、静かに尋ねた。恐怖はまだある。だが、それ以上に、彼を支えたいという気持ちが強くなっていた。
レイモンドは、アメリアをまっすぐに見つめた。
「お前は、既に多くの助けとなっている。この屋敷は、彼らが捜索の手を緩めない以上、安全な隠れ家ではない。だが、お前の機転と、屋敷の侍女という立場は、彼らにとっては盲点だ」彼は、アメリアに具体的な指示を与えた。それは、レイモンドが潜伏できる安全な隠れ家の情報を集めること、そして、彼が連絡を取るべき相手を秘密裏に探すことだった。危険な任務だ。しかし、アメリアに迷いはなかった。
その夜から、アメリアはレイモンドの命を繋ぎ止めるだけでなく、彼の「戦い」をも支える存在となった。日中の侍女の仕事に加え、夜は密偵のように王都の情報を集めた。これまで何の変哲もなかった街並みが、アメリアの目には、様々な情報が隠された迷宮のように見え始めた。
レイモンドは、アメリアの働きぶりを、以前のように冷静に観察するだけでなく、時折、彼女を気遣うような言葉を口にするようになった。
「……無理はするな。無茶をして、見つかれば意味がない」
アメリアが疲労で顔色を悪くしているのを見た時、レイモンドはそう言った。彼の言葉には、感情は込められていない。しかし、その短い言葉の中に、アメリアは彼の優しさを感じ取った。
「大丈夫です。慣れてきましたから」
アメリアがそう答えると、レイモンドは僅かに目を細め、どこか遠い場所を見つめるような表情を見せた。その時、アメリアは、彼の心の内にある、深い孤独を垣間見た気がした。
レイモンドが自分の過去や抱える問題を語ってくれたことで、アメリアと彼の間の心の距離は、確実に縮まった。それは、単なる契約関係以上の、信頼と共感に基づいた絆へと変化していた。アメリアは、彼に触れるたび、彼のか細い息遣いを聞くたび、彼がこの危険な世界で、一人きりで戦っていることに胸を痛めた。
そして、その感情は、やがて、アメリア自身も気づかぬうちに、微かな恋心へと姿を変え始めていた。冷徹な仮面の下に隠された彼の優しさや、国のために命を賭す彼の崇高な使命感に、アメリアの心は強く惹かれていた。
雨が止んだ夜、物置小屋の小さな空間は、二人の秘密と、そして、少しずつ芽生え始めた新たな感情で満たされていた。この危険な協力関係が、アメリアの人生に何をもたらすのか。まだ誰も知らない未来が、静かに、そして確かに、動き始めていた。
レイモンドが自身の過去と、背負うべき重い運命の核心を語ってくれた後、物置小屋の中の空気は、以前よりも温かいものに変わっていた。アメリアは、彼がどれほど過酷な状況で生きてきたのかを知り、彼への尊敬と共感の念を一層深くした。そして、彼の話を聞いたことで、アメリアもまた、自分の心の内を彼に語りたいという衝動に駆られていた。 ある夜、アメリアがレイモンドの傷の様子を確認している時のことだった。彼は静かにアメリアの顔を見上げた。その瞳には、以前のような警戒心はなく、穏やかな光が宿っている。「アメリア、お前は……なぜ、この屋敷で侍女を?」 彼の問いは、アメリアの個人的な領域に踏み込むものだった。しかし、彼の声には、好奇心よりも、純粋な関心と、彼女の過去を知りたいという静かな願いが込められているように感じられた。アメリアは、ためらいつつも、ゆっくりと口を開いた。「私は……この王都の、ずっと北にある小さな村の出身です。父は木彫り職人で、母は…」 アメリアは、幼い頃の思い出を語り始めた。両親とのささやかながらも温かい日々。小さな木彫りの鳥を見せて、父がどれほど器用だったかを話した。母の優しさや、故郷の豊かな自然のこと。彼女の声は、語るにつれて、懐かしさと、そして、微かな悲しみを帯びた。「でも、私が幼い頃に、疫病が流行って……。両親を、一度に亡くしてしまいました」 その言葉を口にすると、アメリアの目には、薄く涙の膜が張った。レイモンドは、アメリアの言葉を、ただ黙って聞いていた。彼の視線は、アメリアの顔から離れることなく、その感情の変化を、全て見守っているようだった。「身寄りがなくなり、村にいることも難しくなって……。一人で、この王都まで出てきました。何とか、生きていくために、この屋敷で、侍女として雇ってもらって…」 アメリアは、自身の孤独な境遇を語り終えた。彼女の人生は、レイモンドのような壮大な使命とは程遠い、ただ生きるための戦いだった。しかし、彼女の言葉には、決して諦めない強さと、ひたむきな努力が滲み出ていた。 話し終えると、小屋の中に、深い静寂が訪れた。レイモンドは、アメリアに何も言わなかったが、彼の瞳の奥に、深い共
物置小屋での秘密の生活が、一週間ほど続いた。アメリアは昼間は侍女として働き、夜になればレイモンドの元へ通い、彼の看病と情報収集の任務に当たった。レイモンドの傷は、アメリアの献身的な介抱の甲斐あって、少しずつ回復に向かっていた。熱も下がり、顔色も以前よりは良くなっている。だが、彼は依然として小屋の中に潜伏し、外界との接触を避けていた。 アメリアが持ち込む食事を口にするレイモンドの視線は、以前の刺すような鋭さから、わずかに和らいでいるように感じられた。彼が時折見せる、深い思索に沈むような横顔を見るたび、アメリアの胸には、彼の背負う重みが伝わってくるようだった。 ある夜のことだった。アメリアが、その日集めた情報をレイモンドに報告し終えると、小屋の中に沈黙が訪れた。雨音はもう止み、夜空には星が瞬いている。小屋の小さな窓から差し込む月明かりが、レイモンドの顔をぼんやりと照らしていた。「……アメリア」 レイモンドが、静かにアメリアの名を呼んだ。その声は、いつもより少しだけ、感情を含んでいるように聞こえた。アメリアは、彼の言葉を待った。「お前は、なぜ、俺を助けた」 彼の問いに、アメリアは少し戸惑った。理由は、単純なものだった。 「貴方が、このままでは死んでしまうと思ったからです。それだけです」 アメリアがそう答えると、レイモンドはアメリアの瞳をまっすぐに見つめた。その琥珀色の瞳の奥に、何か複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。「……この世界で、見知らぬ人間に、そこまで手を差し伸べる者は少ない。ましてや、危険を冒してまで、だ」 レイモンドの言葉は、彼の過去に、何か深い影があることを示唆しているようだった。アメリアは、彼がこれまでにどれほどの裏切りや冷酷さに触れてきたのだろうかと、想像した。彼の孤独な境遇に、アメリアの心は深く同情を覚えた。「私は……ただ、貴方が、生きていてほしいと、そう思いました」 アメリアは、自分の正直な気持ちを伝えた。彼の言葉の通り、彼女はごく普通の侍女で、特別な力など持たない。しかし、目の前で苦しむ人間を見過ごすことはできなかった。それが、彼女の信じることだった。
秘密の契約が結ばれた翌朝、アメリアは再び物置小屋へと向かった。昨夜のことは夢だったのではないかと、現実感が薄い。しかし、手に残るレイモンドの体温と、決意を込めて告げた自身の言葉が、それが紛れもない現実だと告げていた。 小屋の扉を開けると、レイモンドは既に身を起こしていた。彼の顔色は、まだ蒼白いものの、以前のような死人のような色ではなく、微かに生気が戻っているように見えた。彼はアメリアが入ってきたことに気づくと、一瞬、視線を向けたが、すぐに小屋の窓の外へと目を戻した。依然として警戒を怠らない様子だ。「おはようございます、レイモンド様」 アメリアは、昨日よりも少し丁寧に挨拶した。この日から、二人の関係は「救助された者と救助した者」から、「契約者と協力者」へと変わるのだ。その変化を、アメリアはまだ掴みかねていた。 レイモンドは、静かに頷いた。「今日の昼過ぎには、追手の探索隊がこの周辺を再度調べるだろう。用心が必要だ。お前は、いつも通りに振る舞え。不自然な行動は、かえって疑いを招く」 彼の言葉は、簡潔で、感情がこもっていない。まるで、軍の指揮官が部下に命令を下すかのようだった。アメリアは、その冷徹な指示に、一瞬身をすくませた。これが、彼の本性なのだろうか。「かしこまりました」 アメリアは、小さく答えた。彼の言葉に従い、この日もアメリアはいつも通り、屋敷での侍女の仕事に精を出した。洗濯物を中庭に干す際も、庭の手入れをする際も、常に周囲に目を光らせた。普段は気に留めることのなかった、門の向こうの往来や、空を飛ぶ鳥の動きまで、彼女の視界に鋭く捉えられるようになった。 昼過ぎ、レイモンドの言った通り、見慣れない男たちが屋敷の周辺をうろついているのを、アメリアは目にした。彼らは旅人にしては身なりが整いすぎている。鋭い視線で周囲を窺うその姿は、まるで何かを探しているようだった。アメリアは、洗濯物を干す手を止めず、さりげなく彼らを観察した。そして、彼らの視線が物置小屋へと向けられた瞬間、アメリアの心臓が強く跳ねた。(まさか、見つかる?) 恐怖に全身が震えそうになったが、アメリアは表情を変えなかった。洗濯物を抱え
物置小屋の中に、沈黙が降りた。レイモンドと名乗った男性の瞳は、アメリアをじっと見つめている。その視線は鋭く、まるで彼女の心の奥底を見透かすかのようだった。彼の纏う空気は、この屋敷の主人さえも凌駕するほどの、圧倒的な威厳に満ちている。アメリアは、自分が想像していたよりもはるかに高貴な人物を助けてしまったのだと、改めて実感した。 どれほどの時間がそうして流れただろうか。小屋の外では、依然として雨が降り続いている。その雨音が、二人の間の張り詰めた空気を、一層際立たせていた。 やがて、レイモンドが口を開いた。彼の声はまだかすれていたが、確固たる意志を感じさせた。「……アメリア、と申したな。お前に、いくつか聞きたいことがある」 彼の言葉に、アメリアは小さく頷いた。正直なところ、恐怖がないわけではなかった。彼の素性が高ければ高いほど、秘密を共有してしまった自分に、どのような結末が待っているのか、想像もつかなかったからだ。しかし、彼の命を救ったことに後悔はなかった。 レイモンドは、ゆっくりと体を起こそうとした。しかし、その動きはまだ鈍く、ひどい傷が彼を捕らえていることが分かる。アメリアは思わず手を差し伸べようとしたが、彼の視線がそれを制した。彼は僅かに眉をひそめ、自力で上体を起こし、干し草に体を預けた。「……俺は、この国の王家にも近い、ある名門貴族の嫡男だ」 その言葉に、アメリアは息を呑んだ。やはり、想像以上だった。王家にも近い名門貴族。そんな人物が、なぜこんな裏庭で、血塗れになって倒れていたのだろうか。アメリアの頭の中を、無数の疑問が駆け巡ったが、彼女は何も尋ねることができなかった。彼の言葉の続きを、ただ黙って待った。 レイモンドは、ゆっくりと話を始めた。彼の声は低く、淡々としていたが、その言葉の端々には、計り知れない重みが込められているようだった。「俺は、ある陰謀に巻き込まれた。家族の名誉、そして、この国の未来さえ左右するような、巨大な陰謀だ。証拠を掴み、真実を暴こうとしていた矢先、追手に襲われた。それで、この屋敷の庭に…」 彼の言葉には、多くが語られていない。しかし、その短い説明だけでも、レイモンドがどれほど
嵐の夜から、アメリアの日常は一変した。 物置小屋に匿った騎士は、一晩中高熱にうなされ続けた。荒い息が途切れるたび、アメリアの心臓は締め付けられる。夜が明けても、彼の状態は芳しくなかった。傷口は熱を持ち、苦しげな呻き声が時折、小屋の中に響いた。 アメリアは、昼間は侍女としての仕事をいつも通りこなした。疲労困憊の体を引きずりながら、誰にも気づかれぬよう、細心の注意を払う。いつもより顔色が悪いと他の侍女に指摘されないよう、努めて明るく振る舞った。心の奥底では、物置小屋に横たわる男性のことが常に頭を離れなかった。 仕事を終え、皆が寝静まった深夜。アメリアは再び、手燭を手に物置小屋へと向かった。夜が深まるほど、ひっそりとした屋敷は、その秘密をより一層深く包み込むようだった。小屋の扉をそっと開くと、むっとするような熱気と、血と汗の混じった匂いが鼻をつく。彼の状態は、悪化しているように見えた。「どうか…」 アメリアは震える声で呟き、傍らに跪いた。額に触れると、灼けるように熱い。傷口はまだ血が滲み、熱を持っている。屋敷の薬箱にあった薬草だけでは、足りない。もっと効き目のある薬が、あるいは、専門の医術が必要だと、アメリアは直感した。だが、医者を呼ぶなど、もってのほかだ。彼を匿っていることが、即座に露見してしまう。 アメリアは、屋敷の薬草の知識を総動員し、少しでも熱を下げるための方法を考えた。冷たい井戸水で絞った布を彼の額に何度もあてる。体にまとわりつく濡れた衣類を拭き取り、清潔な布に替える。その度、彼の鍛えられた肉体が露わになるが、アメリアに羞恥を感じる暇などなかった。ただ、彼の命が尽きないようにと、一心不乱に介抱を続けた。 三日、そうしてアメリアは昼夜を問わず、彼の看病に当たった。日中の仕事の合間を縫って、こっそり食べ物を運び、水を与えた。主人の目を盗んでの行動は、常に緊張を伴った。いつ見つかるか分からないという恐怖が、彼女の心に重くのしかかる。しかし、そんな恐怖よりも、目の前の命を救いたいという思いが、アメリアを突き動かし続けた。 三日目の夜明け前。 彼の呼吸が、僅かに落ち着いたように感じられた。額の熱も、昨日よりは下がっている。アメリア
アメリアは、手燭の光をわずかに高く掲げた。裏口の扉を押し開くと、冷たい雨粒が容赦なく顔に叩きつけられた。風が強く、手燭の炎は今にも消えそうだ。闇が深く、視界はほとんど効かない。しかし、彼女の鼻腔を刺激する、あの奇妙な匂いは一層強くなっていた。生々しい鉄の匂い。紛れもなく血の匂いだ。 心臓が早鐘を打ち、全身から血の気が引く。恐怖がじわりと背筋を這い上がってくるが、アメリアは後戻りできなかった。何かに導かれるように、足元の泥濘も気にせず、音のした方へと進む。庭の奥、大きな木が雨風に晒されてざわめくその影に、何かがある。 手燭の光が、その影の輪郭を捉えた瞬間、アメリアは息を呑んだ。 庭の隅にある大きな樫の木の下で、何かが横たわっていた。それは人間だった。しかも、銀色の鎧を身につけている。騎士だ。雨に濡れた鎧は鈍く光り、その下には濃い色の布地が見え隠れしていた。しかし、その布地はひどく濡れており、そして、夥しい量の血で黒く染まっていた。流れ出した血は、雨水と混じり合い、地面を赤黒い澱のように広がり、不吉な模様を描いていた。 男性はうつ伏せに倒れており、身じろぎ一つしない。死んでいるのか。それとも──。恐る恐る、アメリアは数歩近づいた。足元は滑りやすく、泥が靴底にまとわりつく。手燭の小さな灯りが、彼の顔の半分を照らした。端正な横顔は青ざめ、苦悶に歪んでいる。黒い髪が額に貼りつき、冷たい雨粒が頬を伝っていた。そして、かすかに聞こえる、荒い息遣い。か細く、今にも途絶えそうな、生命の音。 生きている。だが、その息は途切れ途切れで、生命の灯火が今にも消えそうだった。彼の背中には、おそらく剣によるものだろう、大きく深い傷が開いている。そこから流れ出た血が、まるで地面に描かれた不吉な模様のように広がっていた。冷たい雨が、容赦なく彼の体を打ち続ける。 アメリアは呆然と立ち尽くした。誰かに見つかれば、大変なことになる。夜中に屋敷の裏庭で倒れている騎士など、尋常ではない。屋敷の主人に知られれば、自分まで巻き添えを食らい、この唯一の居場所を失うかもしれない。それは、身寄りのないアメリアにとって、何よりも恐ろしいことだった。だが、このまま放っておけば、彼は確実に死ぬだろう。この場で死なせてしまえ