Masuk澪は、真っ赤な顔のまま綾人を見つめていた。「そ、そのうち会うことになるって……」 ようやく絞り出した声は、澪自身も驚くほど小さかった。 綾人は完成した作品へもう一度だけ視線を向け、椿の向きをほんの少しだけ整える。「ああ」 あまりにも落ち着いた返事。まるで「今日は少し冷えますね」と言われてそれに返事をするかのような軽さだった。「そんなに驚くことか」「驚きます!」 澪は思わず声を上げた。「ご、ご両親ですよ!? 緊張します!」 綾人はようやく澪へ目を向ける。「そうか」「そうです!」 澪は何度もこくこくと頷いてみせる。「だって……あ、綾人くんは、ご両親にどうやって私のことをお話されたんですか?」 聞きたいことは山ほどあるけれど、まずはそれからだと澪は綾人に問いかける。 その言葉に、綾人は少しだけ考えるように軽く首を傾げて、顎に手をやった。「そのままだが」「そのまま?」「ああ」 綾人は頷く。「好きな人ができた、と」 その返事に澪の頬が一瞬で赤く染まる。「一緒に暮らしている、と」「……っ」「ああ、あと、花屋で働いている、とも言ったか」 ついに澪は両手で顔を覆った。「そ、それだけですか……?」「それだけ? 十分だろう」「十分、なんですかね?」 職業は良いとして、と澪は小さく息を吐く。まさか綾人が、自分の知らぬところで両親に「好きな人ができて、一緒に暮らしている」なんて話しているとは思わなかった。恥ずかしさで今にもその場へしゃがみ込みたくなる。綾人はそんな澪を見て、小さく口元を緩めた。「ご両親は……何と?」 恐る恐る澪が尋ねると、綾人
玄関へ飾られた冬の花を眺めながら、綾人は静かに息を吐いた。 しばらく黙っていたが、やがて口を開く。「親父は、厳しい人だった」 澪は黙って耳を傾ける。「朝から晩まで稽古だった」 姿勢。 礼儀。 花。 書。 茶。 神宮寺の跡取りとして必要なことは、幼い頃からすべて叩き込まれた。「遊んだ記憶は、ほとんどない」 綾人は小さく笑う。その笑みには、どこか懐かしさが混じっていた。「昔、一度だけ屋敷を抜け出したことがある」「えっ?」 澪が思わず目を丸くする。「そんなこと、綾人くんが?」「ああ」 短く頷く。「公園へ行った」 ベンチに座って。 花の本を開いて。 でも、一文字も読めなかった。「……つまらなかったからな」 その一言で、澪は自分の記憶の引きだしを開け、幼い綾人の姿を思い浮かべた。 誰にも甘えられず。 誰にも弱音を吐けず。 小さな背中で、一人抱えていた男の子。 あのときの綾人は、そんな風に生きていたのかと、胸が締め付けられた。「お母さまは……?」「優しい人だ」 綾人は即答した。「だが、親父には逆らえなかった。だから母も、『お父さんの言う通りにしなさい』ってそう言うしかなかった」 綾人は静かに続ける。「今なら分かる。二人とも、神宮寺を守ることに必死だった」 跡取りを育てる責任。 伝統を守る責任。 その重さを背負っていた。「だから、恨んではいない」 澪は静かに綾人を見る。 責めるでもなく。 美化するでもなく。 ただ事実として受け止めている横顔だった。
朝食を終えた澪は、窓辺に飾られた花へ新しい水を注ぎながら、小さく微笑んだ。 穏やかな朝に、ほっと心がほどけていく。「澪さま、ご報告がございます」 そのとき、相良が一通の封筒を手に、静かにリビングへと入ってきた。 澪は水差しを両手で抱えながら、ゆっくりと相良へ向き直る。「白石家の件でございます」 その言葉だけで、澪は内容を察した。少しだけ息を整え、小さく頷く。「はい、教えてください」 相良は静かに封筒を開き、落ち着いた声で続けた。「ホテルでの件につきましては、防犯カメラの映像も含め、事実関係が確認されました」 澪は静かに耳を傾ける。「神宮寺家の顧問弁護士を通じ、白石家には今後、澪さまへの直接の接触を一切お断りする旨を正式に通知しております」 相良は一度言葉を区切った。「また、今後は白石家から何らかの接触があった場合も、すべて弁護士を通して対応いたします」 もう澪が一人で向き合う必要はない。 そういう意味だった。 澪はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。「……終わったんですね」「ああ」 同じ部屋でソファに座り、新聞を読んでいた綾人が、短く答えた。 弁護士については綾人が決めたことなのだろう。特に大きな驚きもない様子だった。 澪は窓の外へ目を向ける。すっかりと冬の色を濃くした空は、どこまでも高く澄んでいる。 胸の奥へ残っていた最後の重苦しさが、その青空へ溶けていくようだった。「行くぞ」 不意に綾人が立ち上がった。「え? どこに?」「花を替える」 綾人のその言葉に、首を傾げていた澪はすぐに表情を和らげた。「はい」 そう頷いて、綾人の後ろをついていく。 ◇ 離れにある華道室には、すでに今日使う花材が並べられていた。 椿に、
夕暮れの陽射しが、アンジェリケの店内を窓ガラス越しに優しく照らしていた。 店内には花の香りが漂い、閉店時間が近づくにつれ、お客様の姿も少しずつ少なくなっていく。「ありがとうございました」 澪は最後のお客様を見送り、店の入口に「CLOSE」の札を掛けた。「ふぅ……」 エプロンの紐をほどき、小さく息をつく。「今日もあっという間だったなぁ」 花日和をきっかけに来店してくれるお客様は今日も多かった。 花を一本だけ抱えて嬉しそうに帰っていく姿を見るたび、心が温かくなる。「澪ちゃん、そろそろじゃない?」 店長が時計をちらりと見て笑った。「え?」 澪が首を傾げた、そのときだった。 店の外に、一台のボルドーカラーの車がゆっくりと停まる。 澪が綾人の車だと気付くのと同時に、窓際で花を片付けていたスタッフが外を見て、小さく笑った。「あ、神宮寺先生だ」「今日もぴったりですね」「本当に時間が正確」 誰も驚かない。いつの間にか綾人の車のことをみんなが覚えている。むしろ、どこか微笑ましそうだった。 澪はちょっとだけからかうようなスタッフたちの声に頬を染めた。「澪ちゃん、お迎えだよ」 店長がくすりと笑う。「今日は残業禁止ね」「え、でも、まだ……」 少しだけやり残している業務があり、澪は戸惑う。「彼を待たせたらかわいそうでしょう?」 周りのスタッフも一斉に頷いた。「そうですよ」「今日の片付けは、私たちがやります!」「ゆっくり神宮寺先生と帰ってください」「み、みんな……」バックヤードのほうへ背中を押されて、澪は困ったように笑った。「ありがとうございます」 バックヤードでエプロンを外し、自分のロッカーからバッグを取り出して肩に掛ける。 そして表に戻ると、店長と他のスタッフたちに深く頭を下げた。「お疲れさまでした」「はい、お疲れさま。気をつけて帰ってね」 優しい声に見送られながら、澪は店をあとにした。 ◇ 自動ドアを抜けると、秋の夕風が頬を撫でた。 車のそばには綾人が立っている。 澪の姿を見つけると、静かに歩み寄ってきた。「お疲れ様」「はい。綾人くんも、お疲れさまです」 澪は柔らかく微笑む。 綾人は自然な動作で澪の肩からバッグを受け取った。「ありがとう」「気にするな」 それだけの短いやり取り。けれ
数日後の朝。 澪は鏡の前で髪を後ろでひとつにくくり、身だしなみを整えていた。服にヨレや乱れがないかをチェックして、「よし」と一声発すると、芹香がそっとバッグを差し出した。「今日はアンジェリケの日ですね」 芹香が優しく微笑む。「はい」 澪も自然と笑顔になって頷いた。 最近はキアーロとの仕事や神宮寺家の仕事も増えたため、以前と同じような出勤ではなくなっていた。店長ともしっかりと話し合いをした結果、『無理のない範囲でいいから、いつでも戻っておいで』 そう言ってくれて、アンジェリケにも澪の居場所を残してくれている。 温かく紡がれたその言葉が、澪はとても嬉しかった。出勤できる日は少なくなってしまったけれど、それでもアンジェリケは澪にとっても大切な場所であることは変わりない。 だからこそ、出勤できる日は全力で頑張ろうと思っている。澪は、もう一度小さく気合を入れ直すと、芹香からバッグを受け取った。 ◇「行ってきます」 玄関で靴を履き、見送りをしてくれる使用人たちを振り返ると、仕事へ向かう仕度を終えた綾人も玄関先へと現れた。「今日はアンジェリケか」「はい。がんばってきます」 綾人は小さく頷いた。「帰りは迎えに行く」「えっ?」 澪が目を丸くする。「でも、綾人くんのお仕事は……」「終わる」 短くきっぱりと吐かれた言葉に、澪は思わず苦笑した。「終わる」ではなく、「絶対に何がなんでも終わらせる」という顔をしているから。「じゃあ……待ってますね……?」 ダメだと言っても来るのは分かっているし、そんな綾人に甘い自覚が澪にもあった。「ああ」 綾人は澪の頭をぽんと軽く撫でると、相良と共に玄関を出て行った。「澪さまも。いってらっしゃいませ」 佐伯の言葉とともに、使用人たちの頭が一斉に下がる。澪は少しだけ背筋を伸ばすと、「はい。いってきます」 一度、深く息を吸い込んでから、にっこりと笑い屋敷を後にした。 ◇「おはようございます!」 アンジェリケの扉を開けると、店いっぱいに広がる花の香り。 そして、いつもの優しい空気。 胸がときめくと同時に、帰って来たと肩の力が抜ける。「澪ちゃん!」 店長が満面の笑みで迎えてくれた。「おかえり!」「ただいま戻りました」「発表会見たよ!」 同僚のスタッフの一人も駆け寄って
神宮寺家に戻ってくると、玄関には、柔らかな灯りがともっていた。 澪はその明かりを見つめ、小さく微笑む。「皆さん、まだ起きていらっしゃるんですね」「待っているんだろう」 そのとき、そっと玄関扉が開いた。現れた相良が丁寧に頭を下げる。「お帰りなさいませ、綾人さま。澪さま」「はい。ただいま戻りました」 澪がそう返しながら、玄関へと一歩足を踏み込んだ、その瞬間だった。「澪さまっ!! お帰りなさいませ!」 勢いよく飛び出してきたのは、ひまわりだった。「ひ、ひまわりさん!」 まるで小型犬のように抱き着いてくるひまわりと澪は困惑しながら受け止める。 その後ろで佐伯が苦く笑い「ひまわり」と嗜める。「落ち着きなさい」「無理ですー」 澪から体を離したひまわりは両手を胸の前で握り締める。「今日のこと、ずーっと気になってたんですから!」 瞳をキラキラとさせて、今日の話を今すぐにでも聞かせて欲しいと言わんばかりのひまわりに、澪も苦笑した。嫌な気持ちではないけれど、何だか照れくさい。 佐伯の隣で、芹香と桜が穏やかに頭を下げた。「お帰りなさいませ、澪さま」「お、お帰りなさい……」 そのふたりの笑顔と、改めて同じように頭を下げたひまわりと佐伯を見て、澪の肩から力が抜ける。「……ただいま」 いつの間にか、自然とそう口にできるようになっていた言葉。最初は「おかえりなさい」と言われることさえぎこちなかったのに。 自分の場所はここなのだと改めて実感して、澪はゆっくりと息を吸い込んだ。 ◇ リビングに入ると、温かいお茶が用意されていた。「どうぞ」 芹香が澪の前に湯呑みを差し出す。「ありがとうございます」 澪が受け取るや否や、ひまわりがぐいっと身を乗り出した。「それで、澪さま!」「えっ?」 ひまわりの顔が近く、澪は軽く顎を引いた。ひまわりの大きな目に、困惑した澪が映っている。「どうでした!?」「な、なにが?」「植物園です! 夜ご飯です! 今日の、デートです!!」 一気に三連発。澪は思わず目をぱちぱちさせる。「で、デートじゃ……」「違うんですか!?」 ひまわりが食い気味に聞き返す。 澪は真っ赤になった。「そ、それは……」 どう答えようか困っていると、隣にいた綾人が静かに口を開いた。休日に一緒に出掛けた。ふたりきりの
車のドアが静かに閉まる。外の雨音が遠くなった。 澪は膝の上で手を握る。 隣には、先程出会ったばかりの男性が、窓際に頬杖をついて流れる景色を見ている。 車内は驚くほど静かだった。 隣に座っているだけなのに緊張する。 けれど……なぜだろう。不思議と怖くはない。 むしろ……どこか居心地の良ささえ感じてしまっているような――。「……寒くないか」 不意に掛けられた言葉に、澪の肩がびくりと跳ねた。「は、はいっ」 思わず声が裏返る。「全然、寒くないです」「それならいい」 「じ……神宮寺さんは、」 寒くないですか、と言いかけた言葉は、「綾人」 と短い声に遮られた。「え?」
「……澪?」 聞き慣れた声だった。 その瞬間、澪の体は強張る。 振り返った先には、息を切らせた拓真が立っていた。 雨に濡れた髪。 乱れた呼吸。 まるで必死に追いかけてきたみたいだった。「澪……!」 澪の姿を見て、安堵したように表情を緩めた拓真が、一歩近づいてくる。 けれど澪は思わず一歩足を後ろに引いた。 その仕草に、拓真の顔が傷付いたように歪む。「待ってくれ。話を聞いてほしい」「……」「誤解なんだ」 その言葉に、澪は思わず顔を上げた。 誤解。 その言葉が胸に刺さる。 だって澪は見たのだ。確実に。この目で。 ホテルの前で。 拓真が美羽に口づける姿を。「誤
温かかった。 冷え切っていた体が、じんわりと熱を取り戻していく。 雨の音が遠い。 白石澪は、抱き締められていることに気付いてからも、しばらく動けなかった。「……あの」 震える声が漏れる。 すると、男――神宮寺綾人は、ようやく我に返ったように目を伏せた。「……すまない」 けれどその腕は、なかなか離れない。 まるで、離したら消えてしまうものを抱えているみたいに。「あ、あの……」 澪がもう一度そう口を開くと、綾人はようやくゆっくりその腕を離した。 黒い手袋越しの指先が、最後まで名残惜しそうに澪のブラウスの袖に触れていたことに、澪は気付かない。「怪我
白石澪は、二十六年間の人生の中で、自分が『誰かに選ばれる人間』だと思ったことがない。「ごめんね、お姉ちゃん。私、ほんとダメでぇ……」 ソファに座った妹の美羽が、困ったように眉を下げる。 ふわふわに巻いたグレージュの髪。淡いピンクのネイル。思わず守ってあげたくなるような可愛らしい顔。「バイト先でも失敗ばっかりで……」「ううん。気にしないで。それよりも、美羽は早く休んで? 体に障るわ」 澪は笑った。美羽の代わりにノートパソコンの前に座って、大学の課題のレポートに向き合う。 澪が働く花屋は、比較的穏やかな客が多い、しかし今日は珍しくクレーム対応をして、頭







