LOGIN秋の深まりとともに、神崎本邸の冷え切った空気はより一層重苦しさを増していた。セキュリティガードに囲まれた監禁生活の中、葵の身体には大きな変化が訪れていた。妊娠初期特有の激しい眠気だった。昼夜を問わず抗いがたい睡魔が襲い、頭がぼんやりと重い。(……っ、また、この眠気が……)自室のデスクに座り、隠し持った端末で論文のデータを読もうとしても、文字がかすんでまともに頭に入らない。かつては最先端の創薬研究を寝食忘れてリードしていた天才頭脳が、今はホルモンの変化と極度のストレスによって削り取られていくようだった。さらに、玲司によって大学やアーク・バイオテックでの仕事はすべて強制的に辞めさせられており、葵に残されたのは「神崎家の檻の中で息を潜めること」だけだった。そんな葵の平穏をかき乱すように、リビングの扉が勢いよく開いた。「ねえ、玲司様! 今日も可愛いミルクの様子を見に来たのよ!」軽やかな足音とともに、西園寺莉乃がキャリーケースを抱えて入ってきた。先日子どもを威嚇させたあの白い猫——『ミルク』だ。莉乃は我が物顔でリビングのソファに腰掛け、キャリーケースを開けて猫を部屋に放した。「莉乃、またそれを連れてきたのか」執務室から出てきた玲司が、わずかに眉をひそめて言った。莉乃は甘えるように玲司の腕にすがりつく。「だって、うちの旦那様が『猫アレルギーだから家で飼えない』って言うんですもの。だから、ここに預けさせてもらうわ。ね、いいでしょう?」莉乃が言う「旦那様」とは、玲司の異母弟であり、神崎家の次男である神崎陸のことだった。陸と莉乃はすでに婚約関係にあったが、それは恋愛感情によるものではない。莉乃は「神崎家の長男である玲司のそば(本邸の出入り)に居続けるため」、陸は「莉乃の実家の政治的・経済力を利用して、神崎家内部での発言力を強めるため」という、互いの利害が一致した政略的な結びつきだった。そのため、陸自身は常識ある紳士であり、周囲に対して無用な波風を立てることを好まない。今日も莉乃に半ば強引に連れ回される形で、遅れて本邸の玄関をくぐってきた。「失礼します、兄さん。……おや、葵さんもいらっしゃるのですね」落ち着いたスーツ姿の陸がリビングに姿を現した。彼は神崎家の複雑な権力闘争の渦中にいながらも、葵に対しては「兄
神崎本邸の敷地内には、玲司の手配したセキュリティガードが昼夜を問わず配置されていた。庭園の要所や門の前、屋敷の出入口には黒いスーツを着た男たちが立ち、葵の外出を厳重に監視している。もはや家というよりは、高度な防犯設備を施された牢獄だった。廊下でガードマンの姿を見かけた葵に、書斎から出てきた玲司が冷淡な声をかける。「無駄な抵抗はやめろ。この敷地から一歩も外へ出られると思うな。……お前の『戦う』などという言葉が、いかに虚しいものか理解したか」葵は足を止め、玲司をまっすぐに見据えた。「ガードを何人配置しようと関係ありません。私があなたと戦い、この家を出る決意は変わりません」一歩も引かない葵の態度に玲司が不快感を露わにしたその時、重厚な玄関のドアが開き、西園寺莉乃が足早に入ってきた。その腕には、小さなキャリーケースが抱えられている。「玲司様! 急に押しかけてごめんなさい。実は知り合いから血統書のいい珍しい猫を譲り受けたの。見せたくて連れてきちゃった」莉乃は甘えた声で言うと、葵を無視してキャリーケースのロックを外した。中から飛び出してきたのは、毛並みの手入れされた白い猫だった。葵の身体が瞬時に硬直する。幼少期に野良猫に激しく腕を引っかかれ、流血したトラウマから、葵は昔から猫が極度に苦手だった。「……っ!」葵が咄嗟に後退ろうとした瞬間、見知らぬ場所に興奮した猫が鋭い爪を立てて葵の足元へ跳びかかってきた。「来ないで……っ!」葵は息を飲み、反射的に手を振って猫を払い飛ばした。着地に失敗した猫が「シャーッ!」と威嚇の声を上げて物陰に逃げ込む。すかさず莉乃が芝居がかった悲鳴を上げた。「まあ! 葵さん、なんてことするの!? 嫌いだからって、そんな乱暴に追い払うなんてひどいわ!」泣き出しそうな顔で葵を非難する莉乃。以前の葵であれば、胸を痛め、居心地の悪さに言葉を飲み込んでいた場面だった。しかし、今の葵の瞳に動揺や怯えの色は一切なかった。葵は乱れた衣服を冷ややかに整えると、静かな声でと言い放った。「……飼い主に似たんでしょうね。ずいぶん礼儀のない猫」「な……っ!? なんですって!?」莉乃の顔が屈辱と驚愕で一瞬にして強ばる。傍らで見守っていた玲司も、葵の容赦のない返しに息を呑んだ。感情的になって泣き叫ぶわけ
「……私自身が、一番にあなたと向き合い、戦わなければいけないのよ!」 神崎家の書斎に響いた葵の声には、今まで一度も見せたことのない強い響きが宿っていた。 玲司の眉根がピクリと跳ね上がる。 かつて自分の顔色を伺い、冷たい言葉に傷ついては静かに涙を飲んでいた「扱いやすい妻」の面影は、そこには微塵もなかった。 「戦う、だと……?」 玲司は冷笑を浮かべ、葵との距離をさらに詰めた。 圧倒的な体格差と圧迫感。だが、葵はもう一歩も後退しなかった。 「ええ。橘さんや結衣に迷惑をかけ、彼らの陰に隠れて逃げ回っていれば済むと思っていた。……でも、それは間違いだったわ。あなたのその歪んだ執着と卑劣なやり方に、最初から私自身が正面から立ち向かうべきだったのよ」 「……卑劣?」 玲司の黒い瞳に、暗い不快感が渦巻く。 「俺は神崎の当主として、所有物を正しく管理しているだけだ。……橘の会社を潰すのも、お前の親友を追い詰めるのも、すべてはお前が身の程を弁えず俺から逃げ出そうとしたからだ」 「所有物」という単語を何のアレルギーもなく口にする夫。 葵の胸の奥で、激しい怒りと冷徹な悟りが交錯する。 (やっぱり、この人は何も分かっていない。……私がどんな人間で、何を考えて生きているのかすら、見ようともしなかった) 「いいでしょう。ならば、はっきり宣言します」 葵はすっと背筋を伸ばし、玲司の冷酷な瞳を逃げずに見つめ返した。 「橘さんの会社への圧力を今すぐやめてください。結衣への嫌がらせも一切やめて。……その代わり、私は逃げ隠れしません。裁判でも、調停でも、あなたと対等に正面から戦って、正々堂々と離婚してみせます」 「……調停だと?」 玲司は冷ややかに鼻で笑った。 「言ったはずだ。俺が認めない限り、この家から出すつもりはない。お前がどれだけ法律を振りかざそうと、神崎の権力を使えば調停などいくらでも先延ばしにできる」 「先延ばしにできても、私の心まで縛り続けることはできないわ」 葵の毅然とした言葉が、書斎の冷え切った空気を鋭く切り裂く。 「あなたがどれほどお金と権力を使って私をこの家に閉じ込めようと、私の心はもう二度とあなたに屈しない。……私は絶対に、神崎葵に戻るつもりはありません」
買い出しのために、葵は大きめの帽子を目深に被り、マスクで顔を半分隠した変装姿でマンションのエントランスを出た。弁護士を通して接触禁止を申し立ててはいるものの、玲司がいつ動き出すか分からないという警戒心から、ここ数日は最低限の外出以外を控えていたのだ。秋の冷たい風を肌に感じながら、近くのスーパーへ急ごうと角を曲がったその瞬間——。「……お探しいたしましたよ、奥様」目の前に、ピシッとしたスーツに身を包んだ見覚えのある男が立ち塞がった。玲司の側近である秘書だった。その背後には、黒塗りの高級セダンが音もなく控えている。「っ……!」葵が息を呑んで後ろに下がろうとしたが、すでに退路は断たれていた。「お一人でこのような場所に出歩かれては、旦那様がご心配なさいます。……さあ、車にお乗りください」「いやです! 私はもう神崎家に戻るつもりはありません。弁護士を通してください!」必死に声を張り上げて拒絶したが、秘書は冷徹に首を振った。「お一人で抵抗なさらぬ方がよろしいかと。……どうしてもと言われるなら、あなたの周囲の大切な方々に、それなりの『ご迷惑』をおかけすることになりますが」その言葉に含まれた冷酷な脅しに、葵の身体が凍りついた。◇連れ戻されたのは、神崎本邸の重厚な書斎だった。ガチャン、と背後で重くドアが閉ざされ、鍵がかけられる音が響く。部屋の中央のデスクの前に立っていたのは、何日も寝ていないのか、目の下に薄っすらとクマを浮かべながらも、底知れない狂気を湛えた瞳をした神崎玲司だった。「……ようやく、戻ってきたな。葵」低く這うような声。葵は恐怖で足がすくみそうになりながらも、必死に背筋を伸ばし、玲司をまっすぐに見据えた。「勝手に連れ戻すなんて、そんなこと許されないわ……! 私たちはすでに離婚調停に入っているのよ!」「離婚?」玲司は冷笑を浮かべ、ゆっくりと葵に近づいてきた。その圧倒的な圧迫感に、葵は一歩、また一歩と後じさる。「裁判所を使おうが、弁護士を盾にしようが、俺の許可なくお前が俺から逃げられると本気で思っていたのか? ……甘いな、葵」「っ……!」「お前が隠れている間、周囲がどうなっているか知っているか?」玲司は冷酷な響きを帯びた声で、次々と残酷な現実を突きつけた。「お前を匿っているあの男—
マンションの窓から差し込む朝の光が、静かにデスクの上を照らしていた。 神崎本邸の重苦しい空気とは対照的な、柔らかく静謐な空間。葵は温かいノンカフェインのハーブティーにゆっくりと口をつけながら、画面に並ぶ複雑な分子構造のシミュレーションデータに視線を走らせていた。 「よし……ここまでのデータ解析は完了」 小さく息を吐き、葵はお腹にそっと手を当てた。 つわりの症状はまだ残っているものの、あの冷酷な檻を抜け出し、精神的な圧迫から解放されたことで、身体の重さは驚くほど軽くなっていた。 「待っていてね。お母さん、絶対にこのプロジェクトを成功させて、あなたを安心して育てる場所を作るから」 自らの手で掴み取った自由と、母としての覚悟。 失われていた研究者としての情熱が、葵の胸の中で力強く脈打っていた。 午前十時。 チャイムの音とともにドアを開けると、弁護士のスーツを着た真面目そうな男性と、結衣、そして橘蓮の姿があった。 「葵、こちらが紹介した離婚専門の佐藤弁護士よ」 結衣の紹介に、葵は丁寧に頭を下げた。 「一ノ瀬葵です。本日はよろしくお願いします」 部屋に入り、テーブルを挟んで座ると、佐藤弁護士は書類を広げながらまっすぐ葵を見つめた。 「一ノ瀬さん。相沢様と橘様から事情は伺っております。神崎玲司氏との離婚調停および、接近禁止命令の申し立てについてですが……準備はすべて整いました。相手が神崎グループの当主である以上、かなりの抵抗や圧力が予想されますが、覚悟はよろしいですか?」 「はい」 葵の答えに迷いは微塵もなかった。 「財産分与も、慰謝料も、何も要りません。……ただ、あの人と完全に縁を切り、私の尊厳とこの子の未来を守りたいだけです」 「分かりました。では、本日付けで内容証明郵便にて離婚協議の申入書および婚姻費用分担請求、ならびに直接の接触を禁じる警告書を神崎氏宛に送達いたします。これ以降、神崎氏からの連絡や接触はすべて私を通すことになりますので、ご安心ください」 佐藤弁護士の心強い言葉に、葵は胸のつかえが少しだけ降りるのを感じた。 ◇ 打ち合わせが終わり、弁護士と結衣が帰った後、橘だけが部屋に残っていた。 橘は葵の顔色を注意深く伺うと、優しく微笑みかけた。 「葵さん、顔色がだいぶ良くなりました
総合病院の特別室。 点滴の処置が続けられる静かな病室で、目を覚ました葵は、結衣と橘に支えられながら少しずつ気力を取り戻していなかった。 「葵、お医者様からの許可が出れば、退院は明後日でも大丈夫よ。マンションの手続きはもう済ませてあるから、退院したらそのまま私の車で直行しましょう」 ベッドの傍らに座る結衣が、心配そうに葵の顔を覗き込みながら言った。 葵は青白い顔のまま、ゆっくりと首を縦に振った。 「……ありがとう、結衣。迷惑かけてごめんね……」 「バカね、迷惑だなんて思ってないわよ。私たちは相棒でしょ」 結衣が優しく微笑み、葵の手を握る。その温もりに包まれながら、葵は自分のお腹へとそっと視線を落とした。 (よかった……この子は、無事だった……) 夫である玲司に知られれば、間違いなく冷酷な檻に再び閉じ込められ、この子の未来まで奪われてしまう。そうならなかったことへの安堵と、これからは絶対に守り抜くという強い決意が、葵の胸の奥で静かに炎を灯していた。 「僕の方からも、法的な手続きの準備を進めています」 窓際に立っていた橘蓮が、静かなトーンで話し始めた。 「相沢さんが手配してくれた離婚専門の弁護士とはすでにオンラインで初期面談を済ませました。葵さんが退院し、アパートへ入居したその日に、正式な接近禁止命令と離婚調停の申し立て書類を神崎家へ送達できるように段取りをつけています」 橘の迅速かつ的確なサポートに、葵は驚きと感謝の入り混じった瞳で彼を見上げた。 「橘さん……そこまで、本当にありがとうございます。私、どうお礼を言えばいいか……」 「お礼なんていりません。それに、僕にとってもこれは『優秀な研究パートナー』を理不尽な害悪から守るための正当な防衛ですから」 橘は少し照れくさそうに笑い、それから真剣な表情に戻って付け加えた。 「ただ、一つだけ注意しなければならないのは、神崎玲司の動きです。彼は一筋縄ではいかない男だ。病院を引き下がったとはいえ、すでに水面下であらゆる手段を使って葵さんの居場所を探しているはずです」 その言葉通り、神崎本邸の書斎では、冷酷なまでの執念を燃やす男が動いていた。 ◇ 漆黒の闇に包まれた神崎家の書斎。 デスクの前に座る玲司の目の前には、数枚のタブレット端末と書類が広げられていた。