三年前、中村圭吾(なかむら けいご)は刃物を持った男に襲われそうになっていた森下優奈(もりした ゆうな)を助けた。 その出来事がきっかけで、二人の縁は始まった。 この三年間、彼は彼女に深い愛情を注ぎ、家族を失った悲しみの時期を支え続けた。 だが三年後、莫大な借金を抱えた圭吾を残し、優奈は彼の敵である西川律人(にしかわ りつと)と結婚の手続きをした。 半月ほど前に知ってしまったのだ。 恋人の破産は芝居であり、自分は彼にとって、大切な初恋相手の代わりにすぎないことを。 その初恋相手が再び現れて挑発してきても、彼が嘘を重ね、その女ばかりかばい続けても、優奈の心にはもう静けさしかなかった。 もうどうでもよかった。三日後には律人と結婚式を挙げる。式が終われば、圭吾と顔を合わせることは永遠にない。
View More二人が食卓に戻ったとき、執事が入ってきた。「奥様がまだ外に立っておられます。中に入ろうとされず、大雪の中でずっと待っていて……このままでは倒れてしまいかねません。お正月にそんなことがあったら縁起でもないので……」優奈はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「……行って、会ってくる」玄関に出ると、里穂が駆け寄ってきた。「瑠莉、やっと会ってくれたわね、私の娘!」中村瑠莉(なかむら るり)――それは里穂が娘に名付けた名前だ。大切な宝物という思いを込めて。「……私は瑠莉じゃない。おばあちゃんの姓を名乗ってるの。森下優奈っていうの。だからもう来ないで。私はあなたを母とは思わないし……大嫌い」その言葉に、里穂の呼吸が詰まった。胸が押し潰されるように痛み、目に涙が溢れる。「……悪かったわ、あの時は本当に分からなかったのよ。あなたが私の子だって気づけなくて……ごめんなさい。きっと圭吾のことが許せないんでしょう?でももう二人とも家から追い出したわ。戻ってきてくれるなら、この家も財産も全部あなたのもの。失った年月を、必ず埋め合わせるから!」優奈は振り返らずに歩き出した。「……帰って」里穂の必死の声が背中を追いかけてきた。「瑠莉!……優奈!」連休が終わると、律人の祖母はまた世界一周の旅へ出発した。優奈も姉を連れて市を離れ、各地を巡りながら心を休めた。二年後、ようやく戻ってきた。帰国の二か月前、見知らぬ番号から短いメッセージが届いていた。【ごめん、愛してる】その数日後、圭吾が亡くなったと友人から聞かされた。あの日、母に家を追い出され、彼は歩けない体を抱えて転げ落ちるように生きてきた。苦しかったのはお金ではなく、かつて中村社長と呼ばれた自分が一気に谷底へ落ち、人々の嘲笑にさらされ続けたこと。精神的な苦痛のほうが、よほど耐え難かった。美鈴はそばにいて、望むならすべてを差し出す覚悟だったのに、彼は一度も受け入れなかった。最後の数年は、十数平米の汚れた安アパートで過ごしたという。自ら命を絶ったわけではなく、長く病を抱え、二年耐えた末の死だった。生命力が強いとさえ言えた。訃報を聞いても、優奈の心は静かだった。ただ一つ思ったのは、あの過去は、ようやく完全に終わったのだということ。これで本当に過去を手放せる。そして、新しい
「ちょっと、先に離して……息ができない」優奈がそう言うと、律人は我に返ったように腕をゆるめた。彼は深く息を整え、里穂が会社に押しかけてきた件を話す。「……会ってみる気はある?」優奈は首を横に振った。この十数年、親がどんな人なのか考えたことは何度もあった。けれど初めて再会したその日に、カードを投げつけられ「うちの息子に近づくな」と突き放されるなんて想像もしなかった。二度目に会ったときは、自分の息子がどんな罪を犯したか知っていながら庇い、逆に自分を平手打ちにした。そして「捨てられるのも無理はない」などと言い放った。そんな母親を受け入れることなんてできない。必要もない。「分かった。そう伝えるよ」少しの沈黙のあと、律人が問いかける。「……お姉さんも目を覚ました。これからどうするつもり?」「契約通りなら、一年は夫婦を演じて、そして離婚する。その後は姉さんと一緒に、国内をいろいろ回ってみたい」「その契約書、俺の分はもう破いた」「……え?」「つまり、君は自由だってこと。行きたい時に、行きたい場所へ行けばいい。契約なんて気にしなくていいし、祖母のことも心配いらない。連休が終われば、また長い旅に出るから」優奈はしばらく彼を見つめ、言葉を失った。二日後、大晦日。彼女は西川家の本宅で新年を迎えた。外では白い雪が舞い、夜空には花火がきらめいていた。家の中では、大勢が集まって年越しのごちそうの最後の一品を仕上げていた。優奈は、こんなふうに幸せを感じたのは本当に久しぶりだった。鍋からはいい匂いが漂い、姉と律人の祖母は並んで座り、窓に飾る切り絵を作っていた。その間、優奈と律人はベランダに出て、外で盛大に打ち上がる花火を眺めていた。しばらく花火を見つめたあと、優奈がふいに口を開く。「……あなた、私のこと好きなの?」思いがけない言葉に、律人は一瞬ぽかんとし、心の中で苦笑する。彼女の鈍さなら、この答えに気づくまで十年はかかると思っていたのに。だが同時に知っていた。優奈の前の恋は、ただの失敗ではなく、人生を壊しかねないほど痛ましいものだった。圭吾は彼女の全てを傷つけた。あの影を完全に手放すには、時間と勇気がいる。彼女に重荷を背負わせたくなくて、否定しようとした瞬間。「おばあさんに聞いたわ。あなた、嘘をつく時いつも鼻を
心のつかえが解けたことで、優奈の表情は明るくなり、笑顔も増えていった。けれど圭吾の日々は、地獄のように重かった。生きる気力はとうに尽きていた。それでも自ら命を絶たなかったのは、優奈との約束を破りたくなかったからだ。彼女が今、この世で一番自分を憎んでいると分かっていても。「圭吾くん、ご飯少しでも食べて」美鈴は食事を並べ、箸を差し出した。けれど圭吾は彼女を見ようともせず、手の中の写真を指でなぞっていた。それは彼が安アパートで見つけた、幼い頃の優奈の写真だった。「俺たちの婚約はとっくに解消されてる。もう俺のところに来て時間を無駄にする必要なんてない」美鈴は長く黙り込んだ後、低い声で言った。「圭吾くん、私たち六歳のときから知り合いよね。あなたが二十年以上も好きでいてくれたのに……私はずっと、あなたを都合のいい彼氏みたいに思ってた。婚約解消されたら、きっとまた政略結婚させられる。なら、知らない誰かより、あなたと一緒になればいいって。ずっとそんなふうに考えてたの。「でも帰国した時、あなたの隣にはもう別の人がいた。その時、どうしようもなく嫉妬して、悔しくて仕方なかった……最初はただ私の彼氏を誰かに取られたのが悔しいんだと思った。でも、あなたがこんなふうになってしまった今、それでも一緒にいたいと思ったの。……その時やっと気づいたの。私、本当にあなたを愛してるんだって」圭吾の目は揺れなかった。何十年想われた告白でさえ、彼にとっては「今日は天気がいいね」と同じ程度の響きにしかならなかった。「美鈴……もう昔のことだ。俺はもう、君を愛していない」美鈴は顔を伏せ、涙をこぼした。「……うん、分かってる。私たち、ほんとに馬鹿ね」彼女が自分の想いに気づいた時、彼はすでに別の人を愛していた。そして彼が優奈を愛していると自覚した時には、すべてを壊す過ちを犯した後だった。できることといえば、これ以上失わないように嘘で塗り固めることだけで、挽回の余地などどこにも残されてはいなかった。二人の愛は、いつもすれ違っていた。美鈴が去った後、里穂が病室を訪れた。生気を失った長男の姿に、ほんの少し胸が痛んだ。だがそれ以上に腹立たしかった。どうしてこうも情けないのか。彼女には分からなかった。なぜ優奈がここまで彼を、そして西川家の息子まで夢中にさせるのか
病室の外で待っていた里穂は、入口に立ち尽くす匠真を見て、不思議そうに声をかけた。「どうして入らないの?入口で立ってるだけなんて」「母さん、中には優奈がいるから……俺は遠慮しておくよ」その答えに里穂は一瞬きょとんとしたが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴った。「まさか……優奈を呼んだのはあなたなの!?この馬鹿息子!」彼女がドアを開けようとした時、タイミング悪く優奈が笑顔で出てきた。「お久しぶりですね、中村さん」匠真は母がなぜ急に怒ったのか分からなかった。だが病室を覗いた瞬間、ベッドの上で血を吐く兄の姿を見て愕然とした。「兄さん!どうしたんだ!」慌てて医者を呼びに走る。病室の外では、里穂が優奈の頬を思いきり平手で打ちつけた。彼女は圭吾に対して母子の情などほとんど持っていなかった。だが、十数年かけて育て上げた後継者であり、いつか娘を見つけた時には、その支えとして残しておくつもりだったのだ。それを今の状況で駄目にされたのだから、怒りを抑えられるはずがなかった。「分かってるのよ!あなたがあの夫婦をそそのかして圭吾に復讐させたんでしょ?全部、昔あの子が恭介に住所を漏らした報いを受けさせるために!」優奈は唇の血を拭うと、逆に里穂の頬へ手を振り抜いた。「彼がこうなったのは自業自得よ。私はただ真実を伝えただけ。恭介の両親には知る権利があるでしょう?」そう言って背を向けると、背後から里穂の罵声が飛んだ。「やっぱり捨てられるはずだわ。そんな冷酷で意地の悪い女、親だって怖くて育てられないわよ!」優奈は振り返り、氷のような視線を投げた。もう一度、彼女の頬を打ってやりたい衝動が湧いたその時。不意に携帯が鳴り、画面に「病院」の文字。「森下さん、あなたのお姉さんが……今、目を覚ましました!」一瞬、呆然とした。だがすぐに我に返り、何もかも忘れて駆け出した。三年間眠り続けた姉が、ようやく目を覚ました。病室のベッドの上、彼女はまだ言葉がたどたどしく、記憶も三年前で止まったまま。「……おばあちゃんは?おばあちゃんはどこ?」優奈の胸が締めつけられる。祖母は若い頃、夫の暴力に耐えかねて身を投げようとした時、川辺で捨てられていた赤ん坊――姉を拾った。それがすべての始まりだった。祖母は姉を抱きしめ、村を出て、都会で最も過酷で給料の安い仕事をしながら必死に育てた
数日後、優奈はニュースで恭介の両親の名前を見た。彼らは車で中村家の長男の車に突っ込み、大事故を起こしてその場で死亡。圭吾は重傷を負い、病院に運ばれたが生死は不明だという。優奈はニュースを消し、つまらなそうに吐き捨てた。残念、死んでなかったのね。翌日、姉の様子を見に病院へ行くと、医者から「順調に回復していて、目を覚ます可能性が高い」と聞かされた。優奈は毎日、昏睡した姉に語りかけに通っていたが、その日、廊下で匠真に呼び止められた。彼は疲れ切った様子で、充血した目を潤ませながら言った。「優奈……お願い。兄さんに会ってやってくれないか」優奈が無表情で通り過ぎようとすると、彼は頭を掻きむしり、今にも泣き出しそうな声を絞り出した。「兄さん、事故にあって命は助かったけど……両脚を切断したんだ。生きる気力を全部なくしてて……頼む、会ってやってくれよ」その言葉に優奈は足を止め、口元に笑みを浮かべた。「そうなの。可哀そうね。それじゃ、一緒に行ってあげる。ちゃんと励ましてあげなくちゃ」「……ほんとに?」匠真の顔に喜びが広がったが、その奥には寂しさも混じっていた。彼にとって兄は恋敵でもあったが、一緒に育った家族だ。だからこそ、愛する優奈に頼んででも兄に生きる希望を与えたかった。けれども、彼女が素直に頷いたことで、心の奥底に嫉妬が芽生えた。ここまで関係がこじれてしまったのに、兄が事故に遭ったと聞いた優奈は、憎まれ口を叩くどころか見舞いに行くと応じた。彼は思った。優奈はかつて、本当に兄のことを愛していたのだろう、と。複雑な気持ちを抱えながら、彼は優奈を連れて中村家の私立病院へ向かった。病室の扉を開けた瞬間、コップが飛んできて壁にぶつかった。低く押し殺した声が響く。「出ていけ、今は誰にも会いたくない」閉まる音が聞こえないことに気づき、圭吾はいら立ったように顔を上げた。「……優奈?」その瞬間、瞳が大きく揺れ、光が宿った。「来てくれたんだな……やっぱり、まだ俺のことを想ってくれてるんだ」だが次の瞬間には慌てて布団を引き寄せ、自分の体を隠した。「見るな!……」この姿を……記憶に残すな……優奈は鼻で笑った。「前に言ったわよね。私がもう一度チャンスをあげるなら、何だってすると。じゃあ一つだけお願いがあるの。何があっても、生き続けるって
あの時、車で祖母を轢き殺した犯人の名前は藤原恭介(ふじわら きょうすけ)だった。恭介の両親は息子を甘やかして育て、裁判の前には死刑を免れようと、優奈に嘆願書を書かせるためにあらゆる手を使った。だが結局、恭介はその場で死刑を言い渡された。逆上した両親は刃物を手に優奈に襲いかかり、道連れにしようとしたが、警察に取り押さえられて数年の刑を受けた。今年、ちょうど刑期を終えて出所したはずだ。優奈は彼らの居場所を調べ、手紙を送って午後に会う約束を取りつけた。二人は承諾した。当日、優奈は一時間前にカフェに到着した。経験豊富なボディーガードを数人雇い、隣の席に座らせる。落ち着いたところで、小さな花束を抱えた少女が近づいてきた。「お姉さん、隣のお兄さんが渡してって」優奈は受け取らず、少女の視線を追った。カフェのピアノのそばに圭吾が立っていて、彼女をじっと見つめていた。あふれそうな想いを隠そうともせずに。優奈の体は一瞬で硬直した。全力で抑え込まなければ、目の前のナイフを掴んで刺してしまいそうになる。「優奈……」圭吾が近づく。「少し話をさせてくれないか」その時、助手が小さな箱を持ち込んだ。圭吾は中身をひとつずつ取り出す。蓮の形をしたランプ、パズル、手編みの安物のミサンガ――すべて二人の記憶に結びついたものばかりだった。「最初、君と一緒にいた時、俺は確かに美鈴の代わりだと思っていた」言い終えるより早く、熱いコーヒーが二杯、彼の顔に浴びせられた。優奈の本音は、コーヒーをかけるどころか、本当にその場で殺したいほどだった。顔を焼く痛みに耐えながら、圭吾はかすかに笑う。だが心の痛みの方が何倍も強い。「でも……君が一緒に借金を返すと言ってくれたあの瞬間から、俺の気持ちは本物だった。この品々が証拠だ、俺たちは確かに愛し合っていたんだ」「証拠?」優奈は冷たく笑う。彼女は机の上の品を一つずつ箱に放り込み、ボディーガードに命じて暖炉へ放り込ませた。火はすぐに燃え広がり、圭吾が気づいた時にはほとんど焼け落ちていた。彼は慌てて駆け寄り、手を火に突っ込んでかき出そうとしたが、助けられたのは黒く焦げた蓮のランプだけだった。「俺のランプ……」圭吾は震える手でそれを抱えた。そのランプを優奈は奪い取り、床に叩きつけ、靴で粉々に踏み潰し
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