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朝も夜も、もうあなたはいない

朝も夜も、もうあなたはいない

By:  金稼Completed
Language: Japanese
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三年前、中村圭吾(なかむら けいご)は刃物を持った男に襲われそうになっていた森下優奈(もりした ゆうな)を助けた。 その出来事がきっかけで、二人の縁は始まった。 この三年間、彼は彼女に深い愛情を注ぎ、家族を失った悲しみの時期を支え続けた。 だが三年後、莫大な借金を抱えた圭吾を残し、優奈は彼の敵である西川律人(にしかわ りつと)と結婚の手続きをした。 半月ほど前に知ってしまったのだ。 恋人の破産は芝居であり、自分は彼にとって、大切な初恋相手の代わりにすぎないことを。 その初恋相手が再び現れて挑発してきても、彼が嘘を重ね、その女ばかりかばい続けても、優奈の心にはもう静けさしかなかった。 もうどうでもよかった。三日後には律人と結婚式を挙げる。式が終われば、圭吾と顔を合わせることは永遠にない。

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Chapter 1

第1話

新春を迎える前日、森下優奈(もりした ゆうな)は恋人の敵と共に市役所に行った。

西川律人(にしかわ りつと)は彼女をからかうように見つめながら言った。「よく考えろよ。俺と婚姻届を出したら、圭吾とはもう終わりだ」

優奈はしばらく黙り込み、やがてうなずいた。「……うん」

手続きはすぐに終わり、二人は婚姻証明書を手にして市役所を出た。その時、律人は不意に彼女の手をつかみ、強引に家宝の腕輪をはめた。

「契約結婚だろうと、形だけは必要だ。三日後に式を挙げる。これは西川家の大切なものだ。外すなよ」

律人は昔から強引な人だ。優奈に拒む余地はなく、仕方なく受け入れるしかなかった。

市役所を出たあと、彼女は借りている部屋に戻った。玄関を開けると、料理の香りが漂ってくる。

キッチンから顔を出した中村圭吾(なかむら けいご)が優しい笑顔を向けてきた。「出張から帰ったのか?すぐにご飯できるよ、手を洗っておいで」

その声を聞いた瞬間、優奈の胸には痛みと怒りが同時に込み上げた。

彼と付き合って三年。二年前、彼の会社が破産して多額の借金を抱えた時、優奈は彼のために昼夜働き詰めで、四つも五つも仕事を掛け持ちした。食費も衣服も切り詰め、百円のミルクティーさえためらう生活を送ってきた。

苦しくても、いつか報われると信じていた。

だが十日前。ジュエリーのオークションで通訳のアルバイトをしていた彼女は、そこで圭吾を見かけた。

仕事でも探しているのかと思ったが、次の瞬間、彼は人気女優の清水美鈴(しみず みすず)を抱き寄せ、会場中の宝石をまとめて買い取ったのだ。

経営者たちは彼に媚びるように笑い、つい先ほどまで優奈をこき使っていた責任者も、彼の前では恭しく頭を下げていた。

信じられない光景だった。問いただそうと近づこうとしたが、マネージャーに止められた。「やめなさい! あの方はうちの超VIPだ。機嫌を損ねたら、あなたの仕事なんてなくなるよ!」

「超VIP?」優奈は呟いた。「彼、破産して借金まみれじゃなかったの?」

「冗談でしょ!」マネージャーは鼻で笑った。「あの人は世界有数のお金持ち、中村家の跡取りよ。さっき何百億円分も一括で買ったの。破産なんて、ありえない。どこでそんな馬鹿げた噂を聞いたの?」

優奈は呆然と立ち尽くした。

お金持ちの御曹司? 彼は小さな会社の社長だと言っていたのに。

マネージャーはさらに言った。「聞いた話じゃ、清水さんとは幼なじみなんだって。三年前に別の人と結婚したけど、中村さんはずっと彼女を待っていたそうよ。先月離婚して帰国した途端、また付き合い始めたらしいわ。やっぱり初恋相手は特別なのね」

そう言って優奈を見つめ、感心したように笑った。「それにしても、あなたと清水さんってすごく似てるわね」

雷に打たれたような衝撃で、優奈は体が冷たくなった。

二人が出会ったのは空港だった。あの時、刃物を持った男が無差別に暴れていて、優奈に刃が振り下ろされようとした瞬間、彼は身を挺して庇い、そのまま意識を失った。血まみれの中で彼が最後に漏らした言葉は、「君が……無事なら、それでいい……」だった。

病院で目を覚ました時、彼は優奈の顔を見てこう言った。「やっぱり……彼女じゃなかったんだな」

その時は深く考えもしなかった言葉が、今になって一つの答えへとつながっていく。それでも、優奈は信じたくなかった。

三年前、祖母と姉が交通事故に遭い、祖母は即死、姉は植物状態になった。絶望の中で寄り添ってくれたのは圭吾だった。彼は優奈にとって、失えない唯一の支えだったのだ。

だから優奈は初めて自分の誇りを捨て、都合のいい思い込みにすがった。「さっきのは見間違いかもしれない……」

しかし、わずか三十分後。意外なことが起きた。

美鈴のアシスタントから呼び出され、初めて訪れた高級レストランに行くと、美鈴は余裕の笑みを浮かべて待っていた。

「今日は圭吾くんの代わりに謝りたくてね。彼があなたを選んだのは、私を愛していたからなの。結婚してしまった私の代わりに、あなたを代わりの人にしただけ。怒らないであげて」

対面に座る華やかな美鈴と、鏡に映る自分の姿を見比べた瞬間、二人が似ていることを認めざるを得なかった。

だが、青白い顔色、安っぽい服、休めない生活でできた隈が、その差をさらに際立たせていた。

その時、心に湧いたのは怒りではなく、抑えようのない劣等感だった。

優奈は深呼吸して気持ちを押さえ込んだ。「……たとえそうでも、今の彼女は私なの」

「彼女?」美鈴は鼻で笑った。「じゃあ聞くけど、彼が本当の身分を教えたことある?この店が一番好きだって知ってた?あなたの誕生日プレゼントを彼が身につけたことは? ……全部ないでしょう。彼は安物なんて絶対つけない。あなたみたいな恥ずかしい女を、彼の本当の世界に連れて行くわけない」

優奈の胸の奥に、苦しさが波のように広がった。本当は叫びたい。「違う、彼は私を愛している」と。

だが、彼の行動の数々が、その言葉を口にする勇気を奪っていた。

涙をこらえ、ただ黙ってその言葉を受けるしかなかった。

最後に、美鈴は勝ち誇ったように立ち上がり、優奈の肩を軽く叩いた。「あなたは何も知らない。所詮、彼の暇つぶしよ。信じられないなら、賭けをしましょうか」

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第1話
新春を迎える前日、森下優奈(もりした ゆうな)は恋人の敵と共に市役所に行った。西川律人(にしかわ りつと)は彼女をからかうように見つめながら言った。「よく考えろよ。俺と婚姻届を出したら、圭吾とはもう終わりだ」優奈はしばらく黙り込み、やがてうなずいた。「……うん」手続きはすぐに終わり、二人は婚姻証明書を手にして市役所を出た。その時、律人は不意に彼女の手をつかみ、強引に家宝の腕輪をはめた。「契約結婚だろうと、形だけは必要だ。三日後に式を挙げる。これは西川家の大切なものだ。外すなよ」律人は昔から強引な人だ。優奈に拒む余地はなく、仕方なく受け入れるしかなかった。市役所を出たあと、彼女は借りている部屋に戻った。玄関を開けると、料理の香りが漂ってくる。キッチンから顔を出した中村圭吾(なかむら けいご)が優しい笑顔を向けてきた。「出張から帰ったのか?すぐにご飯できるよ、手を洗っておいで」その声を聞いた瞬間、優奈の胸には痛みと怒りが同時に込み上げた。彼と付き合って三年。二年前、彼の会社が破産して多額の借金を抱えた時、優奈は彼のために昼夜働き詰めで、四つも五つも仕事を掛け持ちした。食費も衣服も切り詰め、百円のミルクティーさえためらう生活を送ってきた。苦しくても、いつか報われると信じていた。だが十日前。ジュエリーのオークションで通訳のアルバイトをしていた彼女は、そこで圭吾を見かけた。仕事でも探しているのかと思ったが、次の瞬間、彼は人気女優の清水美鈴(しみず みすず)を抱き寄せ、会場中の宝石をまとめて買い取ったのだ。経営者たちは彼に媚びるように笑い、つい先ほどまで優奈をこき使っていた責任者も、彼の前では恭しく頭を下げていた。信じられない光景だった。問いただそうと近づこうとしたが、マネージャーに止められた。「やめなさい! あの方はうちの超VIPだ。機嫌を損ねたら、あなたの仕事なんてなくなるよ!」「超VIP?」優奈は呟いた。「彼、破産して借金まみれじゃなかったの?」「冗談でしょ!」マネージャーは鼻で笑った。「あの人は世界有数のお金持ち、中村家の跡取りよ。さっき何百億円分も一括で買ったの。破産なんて、ありえない。どこでそんな馬鹿げた噂を聞いたの?」優奈は呆然と立ち尽くした。お金持ちの御曹司? 彼は小さな会社の社長だと言って
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第2話
美鈴が持ちかけた賭けは単純だった。「一週間、出張ってことにして家を空けてみなさい。その間、圭吾が自分から連絡してくるかどうか、試してみて」最初、優奈は勝てると思っていた。あの日々を思い出す。彼が何度も告白してきて、二十回以上も断ったのに諦めず、ちょうど祖母と姉が次々に不幸に見舞われたとき、彼は支えてくれた。その優しさに心を動かされ、二人は付き合うようになった。付き合ってからの三年間、圭吾は毎日送り迎えしてくれ、優奈が出張の時は二時間ごとに電話かメッセージを寄越した。返事が遅れると心配しすぎて警察に連絡したことすらある。だから、この七日間も、優奈は寝る時でさえスマホを抱きしめて待っていた。一本の電話も、一通のメッセージも逃すまいと。けれど、日が経っても――何もなかった。一度も連絡は来なかった。「何度も呼んだのに返事しないなんて、何考えてるんだ?」テーブルに料理を運んできた圭吾が、いつものように優しく額に口づけしようとした。優奈はさりげなく顔をそらす。彼は一瞬驚いたが、すぐに柔らかく笑った。「怒ってるのか?一週間、忙しくて連絡できなかったから?会社のことで手一杯だったんだ。許してくれるか?」その言葉に、優奈は思わず笑った。自分は十日間、家を空けていたのだ。以前なら、彼は「五日と六時間二十八分ぶりだ」と正確に数えていたのに。今では、彼女が何日いなかったのかさえ気にしていない。はっきりした。自分はもう、彼にとってただの「代わり」にすぎない。初恋相手が戻ってきた今、自分の存在はどうでもよくなったのだ。怒鳴りたい気持ちはあった。どうして? なんでこんな仕打ちを受けなきゃならないの?だが、口から出たのはため息だけだった。疲れ切って、もう争う気力もない。三日後、結婚式を挙げる。彼とは二度と会わないのだから。「別に怒ってないよ。ちょっと出張で疲れただけ。食べよう」そう言ってテレビをつけると、芸能ニュースが流れていた。人気女優・美鈴、ホテル前で謎の男性とキス画面に映るぼやけた横顔を、優奈は一瞬で見抜いた。圭吾だった。当の本人は、心臓を鷲掴みにされたような顔をして、慌てて彼女を見やった。だが優奈は黙って食事を続ける。安堵したのか、彼は急いでテレビを消した。「最近のニュースはくだらないな。芸能人の話ばかりだ」
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第3話
撮影に戻って間もなく、圭吾からメッセージが届いた。【会社の外にいる。少し顔を見せて】外に出ると、彼は笑顔で手を振り、小さな箱を差し出した。「たまたま近くに来たから寄ったんだ。フルーツポンチ、買ってきたよ」以前なら、こんなことで一日中嬉しくなれた。けれど今は違う。さっきまで美鈴と会っていたその足で、今度は自分に。彼女には高級なアフタヌーンティー、自分にはスーパーの割引フルーツ。そういう扱いなのだろう。安い物をあげれば、それで満足する女――そう思われている。「昼も夜も働いて、大変だったろ」労わる声に、優奈はかすかに笑い、淡々と返した。「清水さんの彼氏がさっき差し入れてくれたから、お腹いっぱい。これは自分で食べて」背を向けて撮影所に戻ると、圭吾はしばらく立ち尽くした。胸の奥に、理由の分からない不安が広がっていく。その後の撮影は順調に進み、早ければ三日ほどで終わりそうだった。夜、帰宅すると、向かいの奥さんが買い物帰りに声をかけてきた。「いい匂いがしてるわねぇ。あなたの彼氏、本当にいい人だね。背も高いし顔もいいし、毎日ご飯まで作って待っててくれるなんて」優奈は微笑むだけで答え、玄関の扉を開けた。中に入ると、勢いよく抱きついてくる影があった。「優奈!帰ってきたんだな!一学期ぶりだ、会いたかった!」圭吾の弟・中村匠真(なかむら たくま)だ。彼は大学一年になったばかりの少年だった。最初、彼は優奈を激しく嫌っていた。「厄病神」だと罵り、祖母や姉の不幸を全部彼女のせいにした。優奈を育てたおばあちゃんは早く亡くなり、優しくしてくれていたお姉さんまで病院に入ってしまって。そりゃ、生まれたときに捨てられてもおかしくないって。「金目当てで兄さんに近づいたんだろ」とまで言った。そんな言葉にどれだけ傷ついたか。一人で泣いた夜も少なくなかった。けれど、圭吾を愛していたから。彼が家族と自分の間で苦しむのを望まなかったから。全部黙って耐え、匠真の世話も続けた。二年前、圭吾が破産したと告げた時も。「もう何もない。借金しか残ってない。なのに、どうして君はまだいるんだ?」そう問いかけられた時、優奈は笑って彼の顔を両手で包んだ。「バカだね。私が愛してるのはあなただもの。お金なんて関係ない。あの時、私が一番辛い時にそばにいてくれたのはあなた。だから今度は
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第4話
午後、美鈴がスタジオにやって来て、撮影は再開された。ところが途中で、会社の会長の息子が現れる。彼は美鈴の熱狂的なファンで、美鈴がここにいると聞いてすぐに駆けつけてきたらしい。撮影は中断され、スタッフ全員が彼と美鈴のツーショットを待つはめになった。その間、優奈が椅子に腰かけていると、またもや圭吾が姿を現した。マスクで顔を隠し、こっそり中へ入り込み、子どもみたいに不満をこぼす。「今日は俺の誕生日だぞ。おめでとうの一言もないのか?プレゼントもなし?」優奈の視線は、彼の腕時計に落ちた。圭吾は時計が好きだった。毎年、借金返済や姉の医療費で生活が苦しくても、彼女はなんとかお金を工面して百万円の時計を買い、誕生日に贈ってきた。圭吾が生まれてきた日が、優奈にとっては特別な意味を持っていたからだ。その日があったからこそ、二十六年後に彼と出会えたのだ、と。けれど、彼はその時計を一度も身につけたことがない。「高価すぎて使えない」と言ってしまい込んでいた。今になってようやく分かる。本当は、安物だと見下していただけだったのだ。「忙しいの」優奈は淡々と答えた。「今は暇だろ?」圭吾は真剣に彼女を見つめる。「最近おかしいぞ。なんでそんなに冷たい?一緒にいるのに飽きたのか?」優奈は彼をじっと見つめ、胸の奥で知らない人を見ているような気がした。三年間ともに暮らしたはずなのに、どうして平気で自分を遊び相手として扱いながら、こんなにも愛してるように演じられるのだろう。それとも、そうやって弄ぶほうが面白いとでも思っているのか。声を荒げようと立ち上がったその時。「何するの!」美鈴の悲鳴が響いた。彼女はスカートの裾を握りしめ、恐怖と怒りの入り混じった目で会長の息子を睨んでいる。圭吾の顔色が変わった。すぐさま駆け寄り、美鈴を庇う。彼女は泣きながら彼に飛び込み、訴えた。「圭吾くん!あの人、私の足に触ったの!」次の瞬間、圭吾の拳が相手に叩き込まれた。「何様のつもりだ!俺に口出しできると思ってんのか!」会長の息子が怒鳴る。圭吾は冷たく笑い、マスクを外した。「俺が何様かって?よく見ろ」「な……中村さん……!」男は顔を青ざめさせ、その場に崩れ落ちた。震えながら謝り続ける。「すみません!清水さんとの関係を知らなくて……目が曇ってました!」自分の頬
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第5話
優奈がどれくらい気を失っていたのか、自分でも分からなかった。けれど「生きたい」という本能だけが、彼女を無理やり覚醒させた。車はすでに郊外へ差しかかろうとしていた。スマホの画面には、彼女が最後に打った「助けて」という文字がそのまま残っている。けれど圭吾からは返信も着信もなかった。胸の奥に絶望が広がる。目は覚めても、身体は鉛のように重く、指一本まともに動かない。もうSOSを打つ力すらなかった。それでも必死に画面を叩いた数秒後、再び闇に落ちていく。瞼が閉じる最後の瞬間、心の中で叫んでいた。助けて。死にたくない。次に目を開けたとき、そこは病院のベッドだった。「起きた?どこか痛むところはない?」耳に飛び込んできたのは律人の声だった。ベッドのそばに座って、じっと彼女を見守っていた。優奈はしばらくぼんやりしてから、自分の鼓動を確かめるように胸に手を当てる。「……私、生きてるの?」「当たり前だろ、バカ」彼は軽く額を指で弾いた。「でもよくやったな。気を失う前に、俺にメッセージを送ってきたんだ」「……私、メッセージ?何を?」「文字化けみたいなやつ」律人は大きく息をついた。「今思い出しても背筋が寒くなる。ちょうど寝る前で起きていたから気づけたんだ。普段そんなことをしてこない優奈が意味不明なものを送ってくるなんて、酒に酔ってるか、事件に巻き込まれたかのどっちかだ」彼はすぐ警察に連絡し、さらに西川家の力を借りた。十五分後、郊外でそのタクシーを止めたのだ。運転していたのは、指名手配中の連続殺人犯だった。あと数分遅れていたら……考えるだけで背筋が凍った。「ありがとう。本当に、命を救ってくれて」優奈が震える声で言うと、律人は笑って耳元に顔を近づけた。「忘れたのか?俺たち、今は夫婦だぞ。夫が妻を守るのは当然だ……だから礼なんかいらない」その言い方があまりに含みを帯びていて、契約結婚だと分かっているはずの彼女の頬が一瞬で赤く染まる。彼はそれを見て満足そうに笑い、腰を伸ばした。「会社に戻らなきゃ。急ぎの仕事があるんだ。何かあったら電話しろ」彼が出て行ったあと、病室の空気がやけに重く感じられた。優奈は少し歩きたくなり、下の芝生広場へ向かった。そこで目にしたのは車椅子に乗った美鈴と、それを押す圭吾だった。「脚、まだギプスしたばっかりだろ
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第6話
圭吾の顔は真っ青だった。震える指で何度も優奈の携帯番号を押す。だが、返ってくるのは無情な「電源が入っていません」の声ばかり。「圭吾くん、どうしたの?急にそんな顔して……お医者さん呼ぶ?」美鈴が不安そうにのぞき込む。けれど圭吾の耳には何も入ってこなかった。手は小刻みに震え、スマホを握ることすらできない。なぜ繋がらない?まさか……まさか何かあったのか!?胸の奥をわし掴みにされるような痛みに、思わず心臓を押さえる。息が詰まり、足元もおぼつかないまま、彼は廊下へ飛び出した。ありとあらゆる人脈を使い、警察にも駆け込んだ。その途中、ふと病室前ですれ違った患者たちの会話が耳に入った。「知ってる?あの連続殺人犯、昨日捕まったんだって。車に女の子を乗せてたらしいよ。名前が森下……森下優奈?」圭吾の足が止まる。血の気が一瞬で引き、死人のように青ざめた顔で、かすれた声を出す。「……彼女は……どうなった?」相手は記事を最後まで読んでいなかったらしく、軽い調子で答える。「連続殺人犯の車に乗ったんでしょ?他の被害者と同じだよ、きっとバラバラに……」心臓が止まった。確かに、今、鼓動が消えた。優奈が死んだ?彼女はどんな気持ちで絶望に沈んでいったのだろう。最後の最後まで、助けを信じて自分にすがったのに、自分は知らぬ顔で、別の女のそばにいた。あの瞬間、彼女は自分を恨んだのだろうか。圭吾は壁に手をつき、ふらふらと二歩進んだところで、血を吐いて崩れ落ちた。意識を取り戻すと、ベッドの周りには美鈴と匠真、そして知らせを聞きつけた友人たちが並んでいた。里穂も一度は顔を出したが、医師から「命に別状はない」と聞くと、すぐに会社へ戻ってしまった。養子たちに情はなく、ただの後継ぎ候補としか見ていない。彼女が執着してきたのは、幼い頃に行方不明になった実の娘ただひとりだった。「……優奈は?どこにいる!」目を覚ました圭吾が、開口一番に叫んだ。美鈴の顔色が変わる。自分は真横に座っているのに、彼が探しているのは代わりの女。「圭吾くん……まだ目覚めたばかりで混乱してるんじゃない?」美鈴は無理やり笑顔を作ったが、声は震えていた。「来てない……」直前の記憶がよみがえる。涙が止まらずあふれ出す。「彼女は死んだ……俺のせいだ。なぜあのメッセージを見なかった
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第7話
その頃。夕方、優奈から電話を受けた律人は、すぐに彼女を迎えに来て実家へ連れて帰った。仕事も放り出し、家の中を案内してまわる。夜の食卓で、優奈は二人の出会いを思い出していた。彼と知り合ったのは、たった五日前のこと。その頃の彼女は、一週間ものあいだ圭吾からの連絡を待ち続け、結局一言もなく過ぎ去った七日間でようやく悟ったのだ。三年間の自分は、彼にとってただの空白を埋める遊びでしかなかったのだと。その夜、優奈はひとり川辺に座り込み、嗚咽が止まらず、身体が痙攣するほど泣き続けた。情けない、と心底思った。三年も弄ばれたというのに、浮かんでくるのは怒りではなく、胸を裂かれるような痛みだった。あの人は三年ものあいだ、本当に一度でも自分を見てくれたことがあったのだろうか。いつも誰か別の人の影を透かして見ていたのではないか。長く泣きすぎて、胸が苦しく、頭もくらくらし、立ち上がって深呼吸をしようとしたその瞬間。ぐいと腕を引かれ、温かな胸に倒れ込んだ。「おい、こんな寒い夜に何してるんだ。死にたいなら、もう少しマシな方法を選んだ方がいい」これが、律人との最初の出会いだった。そのあと、彼は優奈を近くのカフェへ連れて行き、そこで「契約結婚」を提案した。「どうして私なの?」と優奈が尋ねると、彼は静かに笑った。「半年前、横断歩道でおばあさんを助けたこと、覚えてる?」確かにそんなことがあった。退勤した後、バイトに向かう途中、信号を無視して猛スピードで突っ込んでくる車が見えた。狙われたのは目の前の老人だった。その光景に全身が凍りついた。頭に甦ったのは、あの日のこと。祖母が車に撥ねられ即死し、姉は重傷を負ったあの事故。あの日、彼女は姉と祖母の三人で年越しの買い物に出かけていた。ほんの少し目を離して、焼き栗を買いに行ったその時、車がまっすぐ姉の方へ突っ込んできた。その結果、祖母はその場で命を落とし、姉は重傷を負った。後になって警察が犯人を捕まえたのだが、それは姉をしつこく追いかけていた男だった。性格がひどく歪んでいて、何度も振られた末に姉を殺そうと何度も企んでいたらしい。その男から逃れるために、三人は街を変えて暮らしていたのに、どういうわけかまた居場所を突き止めて追ってきたのだ。事故のあと、加害者は死刑判決を受けたが、自分の壊れ
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第8話
一方その頃。優奈が無事だと聞いた圭吾は、ベッドから飛び起きて彼女の会社へ駆けつけ、上司の千夏を探し出した。優奈が心を許している相手なら、きっと行き先を知っているはずだと思ったのだ。「私も知らないのよ。五日前に仕事を辞めて、その後は広告撮影の仕事があったから残ってただけ」辞めた?そんな大事なこと、なぜ一言も教えてくれなかったんだ。胸がざわめき、ふと彼は病院で眠っていた彼女の姉——森下友香(もりした ゆか)のことを思い出した。きっと姉のそばに行ったのだ、と。慌てて病院に駆け込むと、医師はこう答えた。「森下さんにお見舞いですね?昨夜、妹さんが退院の手続きをされました。どこで治療を続けるかまでは、こちらも存じません」圭吾は立ち尽くした。どうして。黙って姉を連れ出したのは、きっと昨夜の出来事で自分に失望したからだろう。だが、五日前の時点でもう会社を辞めていたなんて。出張から戻った後の彼女の冷たい態度を思い返し、背筋を這い上がるような恐怖に襲われた。「圭吾くん!」息を切らした美鈴が追いつき、腕をつかむ。「起きたばかりなのに、何で走り回ってるの。さあ、病院に戻るのよ」「邪魔するな!」苛立った圭吾は、彼女を乱暴に振り払った。これまでそんな扱いを受けたことのない美鈴は、呆然と立ち尽くし、すぐに涙で目を潤ませた。「頭おかしくなったの?来週には私たちの婚約式なのに!なのにあなたは何をしてるの。あの女のせいで吐血して自殺未遂までして……今度は狂ったように探し回って……私を何だと思ってるの!」足を止めて振り返った圭吾は、涙を浮かべる美鈴を見つめた。この瞬間、彼自身も不思議に思った。かつて少年の頃に心から愛した女性が目の前に立ち、自分のしたことに傷ついて涙を流しているのに、心には何の波も立たなかった。ただ、見知らぬ人を眺めているかのように感じていた。彼は何も言わず、再び歩き出した。その夜、圭吾は優奈の知り合いという知り合いを片っ端から訪ね歩いたが、誰も居場所を知らなかった。翌朝十時半。執事がやって来て圭吾に言った。「西川家の婚礼がまもなく始まります。奥様からのご命令で、今すぐご出席を」圭吾の表情が沈んだ。中村家と西川家の仲は悪くはない。だが幼い頃から、彼と律人は犬猿の仲だった。子どものころは殴り合い、大人になれば仕事で
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第9話
「優奈……本当に、君なんだ!」圭吾は興奮したように両手を広げ、抱きしめようとした。だが優奈は一歩下がり、その腕を避けて冷たく言い放った。「中村さん、距離をわきまえてください」その声の冷たさに、圭吾の胸がきしむように痛んだ。「優奈、そんな言い方はやめてくれ。あの時、君からのメッセージに返事できなかったこと……怒ってるのは分かる。でも、ちゃんと説明するから」「説明?何を?」優奈は鼻で笑った。「美鈴と一緒にいたこと?三年間も貧乏を装って私を騙してたこと?それとも私を美鈴の代わりにしてたこと?どれを弁解するつもり?」圭吾の顔色が一瞬で悪くなった。知ってる?どうして……あんなに隠してたのに。「どうして私が知ってるのか、不思議でしょ?」優奈は一歩ずつ近づいていく。「あの日、アルバイトで入ったオークション会場で見たのよ。あなたに贈り物を買いたくて必死でお金を稼いでたのに、目の前で、あなたは美鈴に400億も平然と使ってた。破産したふりして、私が必死で借金返すのを面白がって見てたんでしょ?」「違うんだ!そんなつもりじゃ……」圭吾は必死に否定しようとする。彼は言いたかった。こんなに長く騙すつもりなんてなかった、と。二年前には打ち明けようと思っていたのに、怖かったのだ。優奈が真実を知ったら二度と許してくれないのではないかと。その恐れに縛られ、嘘をつき続けるしかなく、ついには隠しきれなくなる日を迎えてしまった。言い訳の言葉を口にする前に、圭吾の耳に鋭い音が二度響き、その直後、頬に焼けつくような痛みが走った。優奈が彼に二発の平手打ちを叩き込んだのだった。「……吐き気がする」冷ややかな瞳で吐き捨て、優奈は踵を返してエレベーターへ向かった。「待ってくれ!」圭吾は慌ててその手をつかみ、初めて必死に頭を下げた。「悪かった! 殴るなり罵るなり好きにしていい。ただ……わざとじゃなかったんだ。お願いだ、もう一度だけチャンスをくれないか?」優奈の足が止まった。希望を見出した圭吾は、手を挙げて必死に誓う。「もしもう一度許してくれるなら、必ず幸せにする。絶対に君に辛い思いはさせない!」だが返ってきたのは、またもや二度の平手打ちだった。「……くだらない男。消えて」圭吾は呆然と立ち尽くす。夢でも見ているようだった。あんなに自分を想ってくれていた優奈が、自分
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第10話
しばらく呆然としたあと、圭吾は突然優奈の手首をつかみ、必死な目で縋りついた。「嘘だろ?俺を試してるだけなんだろ?そうだよな?」「私があなたを試すために、わざわざ誰かと結婚すると思う?」優奈は冷ややかに笑った。「圭吾、自分を買いかぶりすぎ。あなたにそんな価値ないわ」彼女が本気だと気づいた瞬間、圭吾は恐怖で頭が真っ白になった。どうして優奈と律人が出会い、結婚まで決めたのかなんて考える余裕もなく、ただ必死にすがる。「ダメだ……優奈、あいつと結婚しちゃダメだ!あいつにできることは、俺だって全部できる!頼むから、やめてくれ!」優奈は静かに手を引き抜いた。「私が彼と結婚する理由、知りたい?お姉ちゃんに最高の医療チームをつけてくれるって約束してくれたからよ」「俺だってできる!今すぐ手配する!一緒に帰ろう、結婚なんてやめてくれ……愛してる」圭吾は泣きそうな顔で彼女の手を再びつかんだ。優奈は長い沈黙のあと、かすかに笑った。けれどその笑みは自分自身を哀れむようなものだった。「じゃあ、なんで今まで何もしなかったの?本気なら一言で済んだはず。今日になるまで放っておいて……結局、私なんてただの遊び相手だったんでしょ。今さら愛してるなんて、笑わせないで」優奈は再び手を振り払った。だが圭吾はその場に崩れ落ちるように膝をついた。「俺が悪かった!本当に分かったんだ!もう一度だけ……お願いだ!」圭吾は壊れた人形のように、同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。優奈が口を開く前に、エレベーターが「チン」と音を立てて開き、律人が姿を現した。彼は優奈を自分の後ろに引き寄せ、にやりと笑いながら土下座する圭吾を見下ろす。「どうして俺の妻に土下座をしてるんだ」一番嫌いな相手の登場に、圭吾の全身が怒りで震えた。殺したいほど憎い。燃えるような眼差しで立ち上がると、拳を振りかぶり律人の顔めがけて殴りかかった。しかし律人は軽く身をかわし、薄笑いを浮かべる。「どうした?怒ってるのか」圭吾はさらに掴みかかろうとしたが、両脇から駆け寄った警備員に押さえ込まれた。その目は血走り、優奈と律人が腕を組んで宴会場へ向かう姿を睨みつけるしかできなかった。「待ってくれ!優奈!」声は張り裂けんばかりだった。昔なら、人混みの中でも無言で立っているだけで、優奈の視線は必ず自分に向いていた。
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