私も春風も、ただの通りすがり

結婚3周年の記念日に、夫の陸川宴勇（りくかわ えんゆう）は初恋の相手を連れて、家にやってきた。

「水希はクズ男に騙されて妊娠した。彼女は今、一人で子どもを抱えて頼る人もいないから、まずお前と偽装離婚して、水希と結婚しようと思う。子どもにちゃんとした身分を与えたいんだ。生まれたときに、私生児なんて言われないようにさ」

神原青葉（かんばら あおば）は、秦水希（はた みずき）より少し大きくなった自分のお腹に目を落とし、静かにうなずいた。

「わかった」

宴勇は離婚協議書をそのまま差し出してきた。

青葉はそれを受け取り、彼を一瞥した。

離婚協議書はあらかじめ準備されていて、相談ではなく一方的な通告にすぎなかった。

青葉は適当にページをめくり、女性側が一切の財産を放棄するという文字をちらりと目にした時、指が一瞬止まった。

宴勇は隣で咳払いをし、気まずそうに言い訳した。

「水希がね、どうせ偽装離婚なんだからって。彼女の子どもが生まれたら、すぐに再婚すればいい。財産のやり取りなんて面倒だろ」

そして、彼はさらに一言添えた。

「……怒ってないよね？」

青葉は首を振り、まつ毛を伏せたまま、静かに自分の名前を書いた。

宴勇は、あまりのあっさりした様子に、珍しく声をやわらげた。

「青葉、行く場所ないのは分かってる。この別荘はそのまま使ってて。心配しなくていいよ。一年後にはちゃんと再婚するから」

青葉は黙ったまま、署名済みの離婚協議書を彼に手渡した。

再婚するつもりなど、彼女には最初からなかった。

横で水希がすぐに離婚協議書を奪い取り、宴勇の腕に絡みついて甘えた声を出した。

「今日は検診の日だよ。時間はもうギリギリなの。早く行こう」

宴勇はうなずくと、水希の手を取り、家を出た。

水希は振り返り、青葉に勝ち誇ったような、挑発的な視線を投げかけてきた。

二人の背中が完全に見えなくなった頃、青葉は主治医に電話し、予約していた妊婦検診を中絶手術に変更した。

彼女は車を走らせ病院に向かうと、ちょうど宴勇たちと同じタイミングで到着した。

三人は前後して病院に入った。

宴勇は妊娠中の水希を気遣い、彼女の腰に手を回しながら支えていた。

水希は自然にその胸に身を寄せ、二人は仲睦まじく産婦人科へ入っていった。

青葉はそれを一瞥したあと、静かに手術室の方へと歩いた。

手術はすぐに終わり、青葉は顔色が青ざめたまま観察室で静かに横になっていた。

彼女はスマホを手に取り、いくつかの不在着信に気づいたところで、再び着信があった。

「神原さん、本日19時にディナーをご予約いただいておりますが、ご予定どおりいらっしゃいますか？」

そこで初めて、彼女は思い出した。

3周年を祝って宴勇と食事するため、レストランを予約していた。

だがその予定は、水希を連れて来られたせいで、壊れてしまった。

今となって……離婚祝いでいいか。

青葉は唇を引き結び、淡々と答えた。

「はい」

病院で2時間観察を受けたあと、医師はようやく彼女の退院を許可した。

腹部に鈍い痛みはあったが、青葉の心は不思議と穏やかで、むしろ解放されたような気持ちだった。

大学卒業後、青葉は陸川グループの秘書として入社した。

真面目に1年間働いたが、その後母親が脳腫瘍と診断され、実家の家を売っても治療費は到底足りなかった。

困り果てた青葉は、陸川グループの会長であり、宴勇の父でもある陸川明雄（りくかわ あけお）の前にひざまずき、5年分の給料の前借りを願い出た。

明雄は彼女の困難を知ると、頭からつま先までを一瞬でじっと見定めるように眺めた。

その重々しい視線に青葉は不安を感じ、きっと断られるか、会社をクビになると思っていた。

しかし沈黙の後、明雄は条件を提示した。

陸川グループが母親の医療費をすべて負担する代わりに、彼女は明雄の息子である宴勇と結婚する。

後になって、青葉は真相を知る。

かつて宴勇は初恋の水希にプロポーズした。

ところが、彼女はまだ遊び足りないと言い放ち、宴勇が結婚で自分を縛ろうとしているのが気に食わないとばかりに、まるで彼に怯えたような態度を見せて、あっさりと国外へ飛び出して行った。

その後、宴勇は酒に溺れ、自堕落な日々を送っていた。

それを見た明雄は、青葉に宴勇との結婚を命じ、彼を更生させようとしたのだ。

明雄は治療費を全額出しただけでなく、最高の脳神経外科医も手配してくれた。

結局、母は亡くなってしまったが、青葉の中に後悔はなかった。

彼女は明雄に深く感謝し、その恩を宴勇に返そうと心に決めた。

その後、明雄の手配で彼女は宴勇の専属秘書となり、より一層仕事に励んだ。

そして、宴勇に好意を持っているふりをし、1年もの間情熱的に彼を追いかけ続けた。

ある商談の日、宴勇に代わって酒を飲んだ青葉は、胃から出血して意識を失い、そのまま病院に搬送された。

その姿に宴勇は心を打たれ、彼女が目を覚ましたとき、涙を流してプロポーズしてきたのだった。

玉の輿に乗ったと周囲から揶揄されても、彼女は気にせず、ただ夫である宴勇のためだけに尽くした。

もともと二人の関係は徐々に深まり、普通の夫婦にも劣らないほどになっていた。

そして、彼女も宴勇の子を身ごもっていた。

だが、1か月前、宴勇の初恋である水希が突然帰国した。