LOGIN入籍した翌日、私・黒沢文乃(くろさわ あやの)は二枚の航空券を握りしめ、空港で新婚の夫・黒沢修也(くろさわ しゅうや)を待っていた。 やがて彼が姿を現した。……ただし、一人ではなかった。 修也のすぐ後ろには、幼なじみの西村雨音(にしむら あまね)が立っていた。 「文乃……雨音がさ、つい最近失恋したばかりで」 修也は私の顔色をうかがいながら、言い訳めいた口調で続ける。 「一人で落ち込んでるみたいだから、気分転換に一緒に連れて行ってやりたくて」 雨音は、私とまったく同じデザインのビーチワンピースを身にまとい、申し訳なさそうに微笑んだ。 「文乃さん、ご迷惑じゃないですか?ただ、新婚さんの幸せ、少しだけ分けてもらえたらなって……」 その瞬間、修也の手に握られている航空券が目に入った。それは、私の隣の席のものらしかった。 座席番号は――16B。 私が16A、修也が16C。 つまり、彼は雨音を、私たち夫婦の間に座らせるつもりだったのだ。 その場に立ち尽くしたまま、足元から一気に怒りがこみ上げ、頭の奥がじりじりと熱くなる。 私は修也の腕をつかみ、人目を避けるように脇へ引き寄せ、声を落とした。 「……その子を、今すぐ帰して。それが無理なら――私が帰る」 修也は露骨に困った表情を浮かべ、ため息混じりに言った。「文乃、そんな言い方するなよ。ちょっと大人になれって。 雨音がさ、一人で家にいるのが怖いって言うんだ。だから俺たちと一緒にいれば、少しは気が紛れるかなって…… それに、俺と雨音は小さい頃からの付き合いだし、旅行くらい――」 「もういい」 私はきっぱりと遮った。 「帰ってもらわないなら、今すぐ離婚届を出しに行く」
View More修也と雨音は、同時に動きを止め、呆然と私を見た。修也の目に、一瞬だけ――期待の色が浮かぶ。雨音は反射的に、半歩、後ずさった。私はスマホを取り出し、二人に向けて録画を開始する。「やめないで」声を落として、言った。「続けて。まだ見足りないから」二人は、その場で完全に固まった。「修也が一番だって、言ってたよね?……それで、この有様?大事なあまねちゃんに、よくそんなことができたわね。修也。それが、あんたの言う守るってこと?」私の言葉は、狙い澄ました刃のように、二人のいちばん痛いところだけを切り裂いた。修也と雨音は、互いを睨み合う。そこに残っていたのは、愛でも未練でもない。――剥き出しの憎しみだけ。十分に撮り終え、私は動画を彩加に送った。【路上で醜態さらすクズ男と最低女。暇ならどうぞ】それから、アクセルを踏み込む。もう、振り返らなかった。半月後。光一から、一本の電話が入った。「中村さんの件ですが、示談が成立しました。賠償金は、すでに口座へ入金されています。脅迫の疑いもありましたが、前科を避けたい父親が、かなり上乗せしたようで……現在は、外出も厳しく制限されているそうです」「……当然ですね」通話を切ると、胸の奥が少しだけ軽くなっていた。いつものカフェで彩加と落ち合うと、彼女は興奮したまま、スマホを私の前に差し出す。「文乃、バズってる!あの動画、もう全ネットで回ってるよ。タイトルがさ――『クズ男と不倫女に因果応報』だって!」コメント欄は、びっしりと賞賛の言葉で埋まっていた。ちゃんと目を通そうとした、そのときだった。見覚えのある、けれどあまりに落ちぶれた影が、店内へ転がり込んでくる。――修也。無精ひげを伸ばし、汚れて皺だらけの服を着たまま、一直線に私の前まで来て、膝をついた。「文乃……本当に悪かった。頼む、金を少し貸してくれないか?母さんにカード全部止められてさ、もう二日まともに食ってない。誓う。雨音とは完全に縁を切った。あのクソ女、顔見るだけで吐き気がする」私は何も言わず、修也を見下ろした。テーブルの上のスマホは、すでに録音中だ。「へえ」私はスマホを手に取り、送金画面を開く。金額欄に、20000と入力した。「行きなさい」送金完
玄関に足を踏み入れた瞬間、彩加から電話がかかってきた。「文乃!今すぐトレンド見て!西村が飛び降りるとか言ってる!」嫌な予感がして、私はすぐにSNSを開いた。案の定だった。雨音は病衣姿のまま、病院の屋上の縁に立ち、カメラに向かって涙を流している。「……私は、ただ愛する人を間違えただけなのに……どうして、ここまで追い詰められなきゃいけないの?私が死ねば……あなたも、少しは気が済むんでしょう?それで終わるなら……私は……」コメント欄には、正義感ぶった言葉が溢れていた。【可哀想】【やりすぎ】【人でなし】――その矛先は、当然のように私に向けられている。そのとき、修也から着信が入る。私は通話を受けると同時に、録音をオンにする。「文乃、今すぐ病院行けよ。あの女、頭おかしい……飛び降りそうなんだ!」声には、苛立ちと焦りしかなかった。「死なれたら、後味悪すぎるだろ。なんか変なもん背負わされそうでさ」私は淡々と言った。「……それ、私に関係ある?」通話を切り、その音声データを匿名で、ちょうど生配信中だった記者に送信した。五分も経たないうちに、記者の張りのある声が、配信を通して一気に拡散されていく。修也の「あの女、頭おかしい」という一言。そこだけが切り取られ、何度も、何度も再生された。必死に責任から逃れようとするその口ぶりは、画面越しでも、はっきりと伝わるほど醜かった。屋上で泣いていた雨音の表情が、その瞬間、ぴたりと凍りつく。配信のコメント欄が、一斉に荒れ始めた。【今年一番の修羅場じゃん。要するに男が二股?】【女も女だけど、男は完全に終わってる】【あれ? 跳ぶんじゃなかったの? なんで止まってるの?】雨音は、無数の嘲笑に晒されながら、警察に保護され、屋上から連れ下ろされた。翌日、私は法律事務所を訪れた。離婚協議書に署名した、その瞬間。――ドアが、乱暴に開く。修也が飛び込んできた。無精ひげを伸ばし、目は血走っている。彼はそのまま私の前に膝をつき、脚に縋りついた。「文乃……悪かった。本当に、俺が全部悪かった……離婚なんてやめよう、な?全部、雨音のせいなんだ。あの女が……俺の人生を、全部壊したんだ!」私は修也を足で突き放し、署名済みの書類を彼の前に叩きつけた。
証拠を投稿した直後、スマホがひっきりなしに震え始めた。私は修也の周囲にいた連中を、片っ端からブロックする。すぐに彩加からボイスメッセージが届いた。興奮を抑えきれない声が、少し震えている。「文乃!最高!みんな、不倫女への対処として、完璧すぎるって言ってるよ」私はスマホを閉じ、機内で十時間以上、眠り続けた。着陸後、電源を入れた瞬間、通知が一気に流れ込んでくる。――雨音が、また芝居を始めた。点滴を受けている病院の写真。そこに添えられた一文。【私が悪かったです。どうか、修也への誹謗中傷はやめてください】コメント欄は、私を責め立てる言葉で埋め尽くされていた。「悪女」「人を追い込んだ」――そんな言葉ばかり。彩加から、怒りに満ちたメッセージが届く。【あの女、被害者ぶるの上手すぎでしょ……!】私は、前から保存していた動画を彩加に送った。晃の耳元に顔を寄せ、「清楚ぶってる」と私を罵った場面。そして、さりげなく足を出し、私を転ばせた瞬間の、はっきりした映像。それを境に、空気は一変した。【さっきまで本気で心配してた自分、マジでバカだった】【あの手首の傷さ、赤ペンで描いたんじゃないの?】私はスマホをしまい込み、それ以上は目を通さなかった。出口では、弁護士が待っていた。「すべて手配済みです。ご自宅の鍵は交換しました。黒沢さんの荷物は、まとめて玄関前に出してあります」帰りの車中で、修也から着信が入った。私は通話を受け、録音をオンにする。「文乃……俺が悪かった。雨音に誘惑されたんだ。ネックレスも、無理やり買わされた!買わなきゃ死ぬって言われてさ……俺が愛してるのは、お前だけだ」反吐が出る。「修也。あなたは、私が知っている中で一番最低な男よ」私は通話を切り、録音データをそのまま光一に送った。【追加で。名誉毀損でも進めてください】車が止まった瞬間、建物の前に立っている修也の姿が目に入った。――もう戻ってきている。私に気づくなり、修也は理性を失ったように駆け寄ってくる。光一がすぐに一歩前へ出て、私の前を遮った。「黒沢さん。落ち着いてください」その姿を見た瞬間、修也の顔から血の気が引いた。「本気で離婚するのか……?」震える声で、確認するように聞いてくる。私はただ
私は足元の床を指さした。「……じゃあ、ひざまずいて。ちゃんと頭を下げたら。許すかどうか、考えてあげてもいい」雨音の表情が、ぴたりと固まった。信じられないものを見る目で、私を見る。修也も声を荒らげた。「調子に乗るな!」「私が調子に乗ってる?」私は小さく首を傾げ、スマホを手に取る。画面を操作し、そのまま再生ボタンを押した。――録音が、はっきりと流れ出す。「……ほら、あの顔。なに清楚ぶってんの。今日こそ、分からせてあげる。修也の隣が、誰の席か」バーは騒がしかった。それでも、念のために――私は録っていた。私は呆然と立ち尽くす修也に視線を向ける。「……聞こえた?」間を置かず、続ける。「これが、あなたの大事な幼なじみ。あなたのあまねちゃん。今すぐ連れて出てって。私の部屋から、消えて」私は歩み寄り、修也のスーツケースを掴むと、そのまま廊下へ放り投げた。中身が弾けるように飛び散る。それからスマホを操作し、最短の帰国便を押さえた。続けて、弁護士の藤森光一(ふじもり こういち)にメッセージを送る。【離婚協議書の準備をお願いします。修也は婚姻中に不貞行為あり。財産分与なしで進めてください】廊下で、修也が電話に出る。修也の母の怒鳴り声は大きく、ドア越しでもはっきり聞こえた。「修也!あんた、何をしてるの!文乃と新婚旅行に行けって言ったでしょう!それなのに、女を連れて歩くなんて――文乃を何だと思ってるの!今すぐ帰ってきなさい!黒沢家の恥になるようなこと、絶対に許さない!」修也の縋るような声が、途切れ途切れに続く。「母さん……雨音とは友だちだって。そういう関係じゃ……」そこへ、狙ったように雨音の泣き声が重なった。「おばさま……全部、私が悪いんです。修也を責めないでください……」「黙りなさい。この、恥知らずな女!」そう吐き捨てるように言って、通話は一方的に切れた。それでも雨音は泣き止まない。「修也……全部、私のせい……胸が苦しいの。息が、できない……」――はいはい。また倒れるつもりね。彼の腕の中に。私はホテルの内線電話を手に取り、フロントへ直接つないだ。「すみません。部屋の前でトラブルが起きています。警備をお願いします」ほどなくして、廊下に警備員の低く強い声が