一時間後――。
「全然終わらないっ!!」
フロアに残っているのは、私一人しかいない。
そのため、大きな愚痴を声に出してこぼしてしまった。
ここまで未入力だし、どうしてこんなにも間違ったデータが入力されているんだろう。
完成しているところでも一から確認をしなきゃいけないし、思った以上に時間がかかる。 彼女吉田の資料作りは、私への嫌がらせともとれる酷さだった。イライラしてくる、コーヒーでも買いに行こうかな。
でも、早く帰りたいし。我慢して作業を進めた方がいいか。
「うーん」と背伸びをしていた時だった。
「お疲れさまです。これ、飲んでください」
スッと隣に缶コーヒーが置かれた。急に話しかけられ驚き、パッと声の主を確認すると
「龍ヶ崎部長!?帰ったんじゃないんですか?」
私の今一番会いたくない人だった。
「気になることがありまして。戻ってきたんです」
え、じゃあ部長と二人っきり。
どうしよう、まだ心の準備ができていない。「僕もその資料手伝います。グラフくらい、作れますから」
部長は自分の席へ座り、PCの電源を入れたようだった。
もしも私のことを覚えているんだったら、二人になった瞬間に声をかけてくるよね、きっと。
「ありがとうございます。助かります」
断わるのも変だと感じ、緊張しながらも部長の手を借りることになった。
二人で時折声をかけあいながら、必要なこと以外話さず、黙々と作業を続けた。 すごい、この人。仕事のできる人だ。 指示は的確だし、はじめて資料を見たとは思えないほど、スムーズに作業を進めている。「あとは僕が明日、再度確認をします。お疲れ様でした」
一人だったらこんなに早く終わらなかった。
「ありがとうございました」
ふぅと息を吐く。
「こちらこそ、ありがとうございます。吉田さんの分まで、お疲れ様でした。気をつけて帰ってください」
部長と目を合わせると、とても優しい表情をしていた。
昔、私のことを応援してくれていたみたいに。
「あの、部長!」
彼の顔を見たら、昔の自分を思い出した。
「はい」
目をパチッとさせながら返事をしてくれた彼は、私の声に驚いているみたいだった。
「明日、お時間ありますか?お話したいことがあるんです!プライベートなことなので、業務のことではないんですが……」
自分で発言をしておいて、今さらドキンドキンと鼓動が聞こえてきた。
「わかりました。終業後で大丈夫でしょうか?プライベートなことであれば、場所を移して話しましょうか。場所はまた考えておきます」
彼は昔とは違い、敬語で私に話し続けている。
「よろしくお願いします。では、お疲れ様でした」
ペコっと一礼をし、バッグを持ち、私はフロアから出て帰宅をした。
・・・・・・・・・・・・・・・・一人残されたオフィス内。深い溜め息が聞こえた。
「はぁ。マジかよ」
部長という肩書きでは見せられない態度、ネクタイを緩め、手で顔を覆っている。
「あー、緊張した。くるみ、俺のこと覚えてるのか」
再度深い溜め息がフロアに響いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・「何してんだよ!そんなところにあるわけないだろ!」 大和は慌てていたが、何も入っていなかった。 私の思い違い? いや、そんなことない。さすがに大和だって考えるよね。こんなところに捨てたらバレるって。「ごめん。ちょっとご飯食べてから探す。お腹空いた」 私は再度嘘をつき、キッチンへ向かった。「大和、お風呂入ったの?」 お弁当を電子レンジにセットしながら、さりげなく聞いてみた。「えっ。風呂?あっと……。入ったよ」 ぎこちない返事だ。「そっか」 お弁当を食べようとしていると「俺、疲れたからもう寝るわ」 大和が私を避けるかのように寝室へ向かおうとしていた。 いつもならリビングのソファに横になりながらスマホをずっと見ているのに。「わかった」 彼が寝室に入ったのを確認し、キッチンにあるゴミ袋の中身を見る。 本当はこんなことしたくないけど……。 彼が戻ってこないか確認をしながら、手袋をつけ、ゴミを漁った。 ドクンと嫌な心臓の音がする。 あった。これって……。 ゴムの袋だよね。 避妊具の袋が捨ててあった。 ああ、これ以上探すのは嫌だな。 本当はもっと探したら、他にも浮気の証拠が出てくるのかもしれないけれど。 大和と私は一年以上セックスレスだ。こんなの使った記憶がない。 お風呂のことといい、この部屋に浮気相手を招いて、そういうことをしたんだろう。 吐き気がした。ご飯なんて食べる気にもならない。 なんて、大和に伝えればいいの。<浮気したでしょ?>って問い詰めればいいの? もっと証拠を集めてからの方がいい?この怒りと靄の中で過ごすの? 浮気したかもしれないベッドで、布団で寝るのなんて嫌だ。 私は大和が寝ている寝室へ行き「ねえ、浮気したでしょ!?」 勢いのまま、彼に声をかけた。「はっ?なんでそうなるんだよ。いつ、俺が!?」 ベッドに横になりながらスマホを見ていたが、私が声をかけた時、一瞬ビクっと肩が動いた。「これ、いつ使ったの?ゴミ箱に捨ててあったんだけど。私となんてずっとレスだし。誰と使ったの?一人の時になんて言い訳、通用しないから。他にも証拠があるし」 他にも証拠があるなんて今のところ髪の毛だけだし、大げさかもしれない。けれど、彼の反応を確かめたい。「……。はぁ。ゴミ箱なんて漁ったのかよ。気持ち悪いな」 彼
「ただいま」 帰宅をし、玄関に入る。 大和からの返信は<わかった>と一言だけだった。 夕ご飯の支度はしてくれているんだろうか。 基本的には私が担当しているが、私が残業で遅くなる時は、彼が作ってくれる約束だ。 最近、同棲をする時に決めた約束も守られていないけれど。期待と諦め半分で室内に入る。「あれ、思ったより早かったな」 彼がフローリングをシートで掃除をしているところだった。久しぶりに見た光景に目を疑う。「掃除してくれてたの?ありがとう」「ああ、たまには……」 なんだか様子が変だ。「夕ご飯って……」「ああ。悪い。弁当買ってきたから食べて」 準備してくれただけで有難いと思わなきゃいけないよね。「うん。先にお風呂、入ってくる」 龍ヶ崎部長と一緒だったから、変な汗をかいた。早くすっきりしたい。「えっ!もう風呂入るの?先に飯食べてからでいいじゃん」 彼の表情が一瞬曇った。「うん。ちょっと嫌な汗をかいて。ごめん、先にシャワーだけ済ませてくる」 私はバスタオルと着替えを準備し、バスルームへ向かった。 入った瞬間、なんだか空気が温かい、まるで先ほどまで誰かが入っていたような印象を受けた。 あれ、大和、もうお風呂入ったのかな。 洗濯機を確認すると、バスタオルが二枚、中に入っていた。 朝、洗濯したから空っぽのはずなのに。どうして二枚も使ったの。 疑問に思いながら、浴室に入ると、むわっとした湿気に包まれる。 やっぱり、大和、もうお風呂入ったんだ。浴室が温かい。 ふと排水溝にあった髪の毛を見てしまった。 ピンクベージュの髪の毛が数本落ちている。 これって……! 大和でも私でもない、長い髪の毛だった。 もしかして、ここにさっきまで女がいたの? だからさっき、大和は証拠を残さないために掃除をしていた!? 浴室に残っている証拠がほかにもないか見渡した。 誰か知らない人が、さっきまで使っていたと思うと気持ち悪くなった。 が、そんなこと気にしていられない。 そうだ、ゴミ箱。 洗面台の前のゴミ箱の中身を見る。すると――。「なにこれ。バブルバス?」 普段使わない、入浴剤が捨ててあった。お風呂に入れると、泡ができるものだ。 こんなの買ったことないのに。 私が残業していることをいいことに、ここで浮気相手とお風呂に入ったの?
一時間後――。「全然終わらないっ!!」 フロアに残っているのは、私一人しかいない。 そのため、大きな愚痴を声に出してこぼしてしまった。 ここまで未入力だし、どうしてこんなにも間違ったデータが入力されているんだろう。 完成しているところでも一から確認をしなきゃいけないし、思った以上に時間がかかる。 彼女吉田の資料作りは、私への嫌がらせともとれる酷さだった。 イライラしてくる、コーヒーでも買いに行こうかな。 でも、早く帰りたいし。我慢して作業を進めた方がいいか。「うーん」と背伸びをしていた時だった。「お疲れさまです。これ、飲んでください」 スッと隣に缶コーヒーが置かれた。急に話しかけられ驚き、パッと声の主を確認すると「龍ヶ崎部長!?帰ったんじゃないんですか?」 私の今一番会いたくない人だった。「気になることがありまして。戻ってきたんです」 え、じゃあ部長と二人っきり。 どうしよう、まだ心の準備ができていない。「僕もその資料手伝います。グラフくらい、作れますから」 部長は自分の席へ座り、PCの電源を入れたようだった。 もしも私のことを覚えているんだったら、二人になった瞬間に声をかけてくるよね、きっと。「ありがとうございます。助かります」 断わるのも変だと感じ、緊張しながらも部長の手を借りることになった。 二人で時折声をかけあいながら、必要なこと以外話さず、黙々と作業を続けた。 すごい、この人。仕事のできる人だ。 指示は的確だし、はじめて資料を見たとは思えないほど、スムーズに作業を進めている。「あとは僕が明日、再度確認をします。お疲れ様でした」 一人だったらこんなに早く終わらなかった。「ありがとうございました」 ふぅと息を吐く。「こちらこそ、ありがとうございます。吉田さんの分まで、お疲れ様でした。気をつけて帰ってください」 部長と目を合わせると、とても優しい表情をしていた。 昔、私のことを応援してくれていたみたいに。「あの、部長!」 彼の顔を見たら、昔の自分を思い出した。「はい」 目をパチッとさせながら返事をしてくれた彼は、私の声に驚いているみたいだった。「明日、お時間ありますか?お話したいことがあるんです!プライベートなことなので、業務のことではないんですが……」 自分で発言をしておいて、今さら
隠れて見ていることに申し訳ないと少しだけ感じながらも、二人の関係を疑ってしまう。 大和の優しそうな顔、久しぶりに見た。 私にはもうあんな顔、向けてくれないのに。 背中を向け、見たくないものを避けるように急に走り出そうとした時だった。「きゃっ」 前をよく見ていなかった私は、近くの男性社員にぶつかってしまった。「すみません」 何やっているんだろう。 相手の顔を見た瞬間に、目を見開いてしまった。「龍ヶ崎部長!?」 会いたくなかったのに。「申し訳ございません」 再度謝罪をし、彼の隣を通り過ぎようとした。 が――。「顔色が悪いですね。大丈夫ですか」 彼に腕を掴まれ、ジッと見つめられた。 それは、あなたと再会したことと、大和のこともあって、精神的に余裕がないから。 本当のことを伝えることなどできず「大丈夫です。私の不注意で申し訳ございませんでした」 早くこの場から去りたい。 その時、「龍ヶ崎部長、一緒にお昼行きませんかぁ?」 二人の女性社員に声をかけられ、彼の手が離れた。「失礼します」 私は逃げるように走ってその場から離れた。 昼休みが終わる。 部長は何事もなかったかのように、自席に座り、パソコンを見つめていた。この後会議の予定らしい。 あぁ、これからこんな毎日が続くの? 龍ヶ崎部長と二人きりになれた時に、話しかけて、《《あの時》》のことを謝った方が気が楽かも。 モヤモヤを抱えながら就業時間まで仕事を進め、何事もなく帰宅をしようとした時だった。「ああ、どうしようー!」 この声、吉田さん? さっき大和と会話をしていた後輩の声がした。「明日提出しなきゃいけない資料の修正が終わらないです」 どうして? あんなに時間をもらっていたはずなのに。「どうしようー。私、今日、お医者さんを予約してあるんです」 医者?何かの病気? そこまでプライベートに詳しくはないけれど、どこか具合が悪いのかな。 ほとんどの社員は直帰だったり、すでに仕事を終えたりで今日は人が残っていない。だとしたら、たぶん……。「雨宮さん、代わってあげられないの?キミならできるでしょ?」 数個年上の男性主任から急に話をふられた。 えっ?やっぱり私?特に用事はないけれど……。「わかりました。代わりに資料作成します」 この主任は吉田さ
次の日――。 出勤し、自席について自分に届いているメールを確認している時だった。 朝礼のチャイムが鳴り、しばらくすると、ザワザワとした話し声が聞こえてきた。 ああ、そうか。今日は新しい部長が来るんだっけ。どんな人なんだろう。 私が気づかないうちに部長席にいる人物を確認した。 えっ……。 ドキッと心臓の音が聞こえたような気がした。 ダークブラウンの髪の毛の襟足は少し長いが整えられていて清潔感があり、メガネをかけてはいるが、目鼻立ちがはっきりとした整った顔立ち、まさしくイケメンと呼べる男性の姿があった。 身長も高く、スラっとはしているが、貧弱そうには見えず、どちらかというとスーツの上からでも男性らしい逞しさが伝わってくる。 手首に光る、高級そうな時計が目立っていた。 久しぶりに見た、イケメンって。 しかもなんかオーラが違う。だけど、どこかで見たような気がするのは、私の勘違いだろうか。 昔、この人と会ったような気がする。だけど、思い出せない。 朝礼が始まり「今日から一年間、お世話になります、龍ヶ崎《りゅうがさき》です。よろしくお願いします」 そういって新しい部長は頭をペコっと下げた。 物腰の柔らかそうな人だな。この人なら、うまくやっていけるだろう。話しやすそうだし。 彼の声音や雰囲気にホッとした瞬間だった。 龍ヶ崎さんって言うんだ。 あれ、龍ヶ崎って。もしかして――。 部長の顔を自席からジッと見つめた。 やっぱり、似てる。 高校時代、いろいろあって疎遠になってしまった龍ヶ崎先輩に。 大人になったら、あんな感じなんだろうな。 いや、本人ってことはないよね。 先日回ってきた辞令をよく確認した。 部長の名前は――。 龍ヶ崎……海斗《かいと》!? あああああ、最悪だ。 高校時代、酷い態度をとって後悔していた龍ヶ崎先輩だ。 というか、当時は海斗《かいと》って普通に呼んでたっけ?龍ヶ崎部長は私に気づいているの? チラッと自席から部長を見た。 しかし黙々とパソコンに向かって何かを入力している。 私のことなんて覚えてないよね。 でも彼だって高校の時の「雨宮くるみ」だって伝えれば、思い出してしまうかもしれない。 あの時のこと――。 ずっときちんと謝りたいと思っていた。 こんな形で再会するなんて。 午前中は簡単な
「お疲れー!」「お疲れ様ー」 ビールグラスをコツンとぶつけ、乾杯をする。 由紀とよく利用するチェーン店の居酒屋、店内はざわめき、誰も私たちの声など気にはしないだろう。「あー、うまっ!」 ビールをグビグビと半分くらいまで由紀は飲み干すと、グラスを勢いよく机に置いた。「マジ最近仕事怠い。残業多すぎ」 由紀は同期であるが、部署は違う。 私はどちらかというと、会社の業績を資料化したりする事務や雑務がほとんどであるが、由紀はお客様からの質問やクレームに対応をする業務に就いている。「で、最近、くるみはどうなの?大和くんと」「別れそう」 由紀はうぐっと飲んでいたビールを詰まらせたようだった。「どうして!?結婚秒読みだと思ってたんだけど……」 周りからはそう見えているんだ。 現実とは違うと思いながら、最近の大和について話をした。「うーん。大和くんもさ、何がしたいんだろうね。別れたいんなら、はっきり言えばいいのに」 別れるという言葉がグサッと突き刺さる。彼女の言っていることは正論だ。「浮気、しているようにも見えないの。私を避けているみたいに感じて。私も確信的なことを言えればいいんだけど、怖くて。お互いの両親まで挨拶しているし、なんか……ね」「ま、でも別れるなら今のうちだよ。ズルズルと時間だけが過ぎてくから」 また何かあったら言ってと彼女は言葉をかけてくれた。「ああ、そうそう。明日からくるみの部署、部長が変わるんでしょ。どっかの会社の出向だっけ?かなりのイケメンって聞いて、ちょっとワンチャンないかなって狙ってるんだけど」 由紀は今フリーだ。「イケメンってどこからの情報?歳も私たちと変わらないくらいなのに、うちの会社でもう部長ってエリートじゃん。彼女くらいいるよ」 いわゆるハイスペック男子、性格によほど問題がない限り、相手くらいいるだろうな。愛よりお金っていう人もいるくらいだ。「この間、引継ぎに来てた時に先輩たちが見たって騒いでたんだよね。あーあ、彼氏ほしい」 お酒を飲むペースが早い彼女は、すでに酔ってしまったようだ。 机をトントンと叩き、彼氏がほしいと何度か呟いた。 ハイスペック男子か。 どんな人なんだろう、珍しいもの見たさで明日が楽しみになった。 由紀との飲み会を終えて、帰宅をする。大和はまだ帰っていなかった。 明日、仕