食事のあと、玲奈はいつものように愛莉を学校へ送った。車を走らせながら、玲奈はついに重い口を開いた。「愛莉、お願いを聞いてくれる?」スマホゲームに夢中だった愛莉は、母の言葉に顔を上げ、首を傾げる。「ママ、どんなお願い?」ちょうど赤信号で車を止めたとき、玲奈は横の娘を見た。「愛莉、高井おじさんのことは知ってるわよね?」「知ってるよ。高井おじさん、わたしにすごく優しいもん」玲奈は口角をあげていたが、目には少しの光もなかった。「高井おじさんがね、ママの友達のことで誤解してるの。愛莉から、ちょっとその人のことを良く言ってもらえないかしら?」愛莉は小さな顔をしかめ、しばらく考え込んでから首を振った。「高井おじさんに嫌われる人なら、きっとろくな人じゃないよ。ママ、どうしてそんな人と友達になるの?」今度は玲奈の眉間にしわが寄った。だが、娘はさらに言葉を重ねる。「だから、そのお願いは聞けない」玲奈は声を落とし、すがるように言った。「......もし、それがママのお願いだったら?」しかし、愛莉は母の思いを理解するどころか、諭すように続ける。「ママ、高井おじさんに嫌われるような人とは、距離を置いたほうがいいよ」玲奈は背筋を伸ばし、返事をする。「わかった」青信号に変わり、アクセルを踏み込むと車は一気に加速した。それから先、二人のあいだに言葉はなかった。幼稚園が近づいてくると、愛莉がふいに口を開いた。「ママ、わたしからもお願いがあるんだけど......聞いてくれる?」玲奈の表情は冷ややかで、声も淡々としていた。「うん。できることならね」「これからは、あんまり早く来て朝ごはんを作らないでほしいの。じゃないと、ララちゃんの邪魔になっちゃうから。眠れないと、勉強も演奏もできなくなるでしょ?」その言葉に、玲奈の胸は一瞬で何万本もの針に刺されたかのように痛む。可笑しさすら込み上げたが、拒む言葉は出てこなかった。彼女は返事をする。「......わかったわ」――それから数日間、玲奈は小燕邸へは娘を迎えに行くだけで、朝食を作ることはしなかった。智也に会えるときもあれば、会えないときもある。そして、彼の隣には必ず沙羅の姿があった。それはもうどうでもよかった。昂輝が医学
薫の仕業だとわかっていても、玲奈にはどうすることもできなかった。久我山で智也と拓海を除けば、最も大きな力を持つのは薫と洋だ。しかも、拓海以外の人たちの関係は複雑で、もし薫に手を出せば、それは智也や洋を敵に回すことになる。そうなれば、誰にも太刀打ちできるはずがない。玲奈が家へ戻ると、姪の陽葵と少しゲームをしてから階段を上がった。依然として昂輝からはいまだ返事がなく、いっそう彼女を不安にさせる。再び電話をかけても、すでに電源は切られていた。玲奈自身はネット上で攻撃を受けたことはなかったが、それが耐え難いものだと見当はつく。匿名の言葉は、刃物よりも鋭く、薬より人を傷つける。その夜、彼女はほとんど眠れなかった。ようやく明け方近くになって、昂輝から【大丈夫だ。心配しなくていい】とだけ返信が届いていた。玲奈はそれを見て、少し胸を撫で下ろすと同時に【ごめんなさい】と返信した。【君のせいじゃない。責任を背負うな】昂輝はそう返したきり、また黙ってしまった。翌朝。ほとんど眠れなかったはずなのに、玲奈の頭は意外にも冴えていた。彼女は早めに小燕邸へ行き、お粥とおかずを用意して愛莉の食事を準備した。食卓につき、玲奈は何度も階上や玄関先に視線を向ける。智也の帰りを待っていたのだ。自分にはどうにもならないことでも、智也なら解決できる。まもなく、智也が玄関から入ってきた。外は霧が立ちこめ、小雨が降っていたのか、彼の肩や髪には水滴がついていた。それを見て、玲奈は気持ちをぐっと飲み込んだ。だが、彼が階段を上がろうとしたとき思わず声をかけていた。「智也?」彼は足を止め、階段の途中で振り返った。「どうした、何か用か?」冷えきった声には、微塵の情もない。その時、階上から沙羅が姿を現した。「智也、帰ってたのね?」彼女はシルクのパジャマ姿で、髪をおろし、物憂げな表情で甘い眼差しを向けている。智也は玲奈が黙ったままなのを見て、沙羅に目をやる。「ん、どうしてもう少し眠らなかった?」沙羅はわざと声を落とし、柔らかに言う。「ちょっと騒がしくて......二度寝できなかったの」二度寝?――朝から事を終えての、二度寝ということか。智也は階段を上がり、沙羅の隣に立った。その視
「東先生に手術してもらったことがあります。母の脳腫瘍のオペを担当してくださったんです。術後二年が経ちましたが、今も状態は良好です。しかも東先生はとても気さくで、私からの心付けも受け取らず、そのお金はお母さんの薬代にしてあげてと返してくれました」そんなコメントを目にした玲奈は、思わず返信を書き込もうとした。だが文字を打とうとした瞬間、「このコメントは削除されました」と表示される。記憶を頼りにアカウント名を検索してみたが、もう存在自体が消えていた。――間違いない。昂輝を擁護したその人のアカウントは凍結されたのだ。真っ先に思い浮かんだのは薫の顔だった。智也にはすでに沙羅がいる。玲奈のために余計な手を回すことはない。となれば、こんなことができるのは薫しかいない。しかも彼と昂輝の間には、もともと確執があった。玲奈は昂輝を案じ、メッセージを送る。「大丈夫?」だが返事はない。仕事を終えても、既読すらつかない。やきもきした末、玲奈は待つのをやめ、彼の住むマンションまで足を運ぶことにした。ところが、門をくぐった瞬間に異様な光景を目にする。大勢の人がカメラを構え、一角に群がっていた。視線の先――昂輝の部屋。窓ガラスは蜘蛛の巣のようにひびが入り、辺りには強烈な悪臭が漂っている。誰かが玄関口に汚物をぶちまけたのだ。それだけではない。白い紙に真っ赤な字で罵詈雑言が書き殴られている。「親なしの出来損ない」「人殺しの医者」「一族もろとも絶えてしまえ」「お前こそ病に倒れろ」「親父の墓草でも枕にして、砂に埋もれて朽ちていけ」吐き気を催すような言葉の数々に、玲奈は背筋を凍らせた。暗がりには、さらに危険な何かが潜んでいる気配すらする。彼の安否を確かめに行きたかったが、怖くて踏み込めない。代わりにメッセージを送った。【もし家にいるなら、絶対に外に出ないで。もし出ているなら、しばらくは帰らないで】だが、それにも返事はなかった。玲奈は深呼吸し、車を走らせる。向かったのは――薫がよく通うレストラン。幸運なことに、店先に彼の車が停まっていた。勢い込んで店に入ると、薫はセクシーな女性を連れて優雅にワインを傾けていた。そんなことに構っていられない。玲奈は真っ直ぐ彼の席
春日部宅の玄関先に差しかかったとき、秋良が玲奈の姿を見つけた。「どうして髪がそんなに乱れてる?」その声には険しさが混じっていた。玲奈は胸がざわつき、思わず目を伏せて答える。「......風に吹かれただけよ」だが、そんな稚拙なごまかしは兄には通じない。「玲奈、俺はお前の恋愛を否定しない。だが、節度を忘れるな。前みたいなことを繰り返すなら、次は絶対に許さない。それに――子どもを軽々しく作るような真似はするな。女は男よりずっと損をする。簡単に股を開くな」言い捨てると、秋良は先に言えの中へ入っていった。玲奈はしばらくその場に立ち尽くし、数秒後、慌てて後を追いかけた。「兄さん、違うの。兄さんの思ってるようなことじゃない」声は切実で、必死に弁解する。だが考え直して言う。「どうであれ、私はあなたたちの言うことを聞くわ」秋良は立ち止まり、振り返って彼女の潤んだ瞳を見やる。そして、わずかに声のトーンを和らげた。「......そうか」玲奈はようやく微笑み、静かに礼を言った。「ありがとう、兄さん」秋良はそういう言葉に弱く、わざと話題を変える。「陽葵が今夜、お前に会いたいって言ってたぞ。いつも忙しくて顔を合わせられないんだ。次は時間を作って、早く帰ってやれ」「わかったわ、兄さん」玲奈は素直に頷いた。翌朝、玲奈が目を覚ましたとき、陽葵はすでに登校していた。だがスマホには、姪からの可愛らしい音声メッセージが届いていた。【おばさん、冬休みになったら一緒に海外へスキーに行こうね】柔らかい声に、玲奈の胸は一瞬で溶かされる。ベッドの縁に腰を下ろし、スマホを握りしめながら何度も再生した。しかし聞いているうちに、不意に頭をよぎるは愛莉のことだった。長く育ててきたのに、娘と一度も旅行をしたことがない。いや、チャンスがなかったわけではない。ただ、彼女が望んでいたのは「夫婦と子ども、三人での旅」だった。けれど智也の心はすでに沙羅に奪われ、そんな夢が叶うはずもなかった。今や夫も娘も、揃って沙羅の方へと心を寄せている。玲奈は陽葵の誘いに快諾し、身支度を整えて仕事へ向かった。その日の午後。カルテを書いていると、インターンの後輩が山のような荷物を抱えて入ってきた。最後の一つを手
玲奈は首を横に振った。「違うわ、そうじゃなくて――」だが言葉を続ける前に、拓海が遮った。「つまりまだ満足していないってことだな。明日ちょうどオークションがある。もっと高いものを落としてきてやるよ」玲奈は慌てて続ける。「拓海、やめ――」言い切る前に、拓海は表情を険しくし冷たく言い放った。「そのブレスレットを着けないなら、明日にはもっと高いものが届く。着けてくれるまで送り続ける」玲奈はあえて言い返した。「どうせ私のお金じゃないんだもの。いくら高いものを買おうと痛くもかゆくもないわ。着けないと決めたら、絶対に着けない」すると拓海は逆に楽しそうに笑う。「それでいい。俺が稼ぐのは君に使うためだ。君が使わないなら稼ぐ意味なんてない。君に使うなら、どんなに金がかかっても惜しくない」そう言って、玲奈の頬にそっと触れた。玲奈は思わず息を呑み、とっさにその手を叩き払った。拓海は痛みに顔をしかめ、その手の甲の痛みを和らげる仕草として舌で舐めた。そして、玲奈を見上げながらにやりと笑う。「ベイビー、次はもう少し優しくな。俺は丈夫だし、君に叱られるのも嫌いじゃない。でも、できれば次に叩いてほしいのは......ベッドの最中だ。そっちの方がずっと良い」その笑みはいやらしく、顔に隠しきれない色気が漂っていた。玲奈は怒りに顔を赤らめ、吐き捨てる。「......下品な人」だが彼にとっては痛くもかゆくもない言葉だった。むしろ可笑しそうに笑い、甘ったるく囁く。「ベイビー、君ってほんと可愛い」言い終えると身を乗り出し、唇が彼女の唇に触れる寸前でわざと角度を変え、首筋に口づけをした。玲奈は逃げ場を失い、唇が迫るときに身をかわそうとしたが、無駄だった。熱い唇が首筋に触れた瞬間、まるで灼けるように熱く、思わず身を強張らせる。やがて拓海は顎を彼女の肩口に預け、体重はかけずに体を寄せた。二人の体はぴたりと重なり、彼の香水の香りがする。強すぎず、心地よいオールドコロン。しばしの沈黙ののち、玲奈は小さい声で問いかけた。「唇に触れられたのに、どうしてやめたの?」あの状況では、彼が少し力を込めれば逃げられなかったはずだ。拓海は笑みを浮かべ意味ありげに答える。「君が俺を拒んでるからだ」玲奈は息
拓海の体は玲奈にぴたりと寄り添い、言葉を吐くたびに熱い息が彼女の頬にかかる。玲奈は思わず顔を伏せ、身を隠すように俯いた。そして、わずかに緊張した声で言う。「...... 私たちってそんなに深いものじゃないでしょ?」」智也と結婚する前、拓海は冗談めかして「俺と結婚しろ」と口にしたことがあった。だが結婚後、その話を蒸し返すことは一度もなかった。なのに、今また同じ言葉が戻ってきている。玲奈が顔を背けると、拓海は口元をつり上げ、彼女の手を掴んで自分の胸に押し当てる。わざと痛がるように顔をしかめてみせた。「連絡をくれないと、心が猫にひっかかれたみたいに疼くんだ。ほら、触ってみろ。まだ傷口の盛り上がりがわかるだろ?」その言葉とは裏腹に、彼は玲奈の手を取り指先で筋肉をなぞらせる。痛みを伝えるどころか、彼女に鍛え上げられた身体を触らせた。玲奈が指先で感じる硬い筋肉。とっさに手を引こうとしたが、拓海はさらに強く握りしめ逃さなかった。仕方なく顔を上げ、彼を真正面から見つめる。「そう?でもその台詞、何人の女に言っているの?」拓海は眉をひそめたが悪びれもせず答えた。「正直に言うよ。二十人以上には言ったな」玲奈は必死に手を振りほどこうとするが、彼の手はさらにしっかりと彼女をつかむ。そのとき、家の玄関から兄の秋良が出てきて、辺りを見回す姿が目に入った。玲奈は焦り、声からは切実さが伝わる。「拓海......兄さんが玄関のところで私を待ってるの。突然いなくなったら心配するわ」拓海は再び彼女の手を胸に当て、真剣な眼差しを向ける。「じゃあ俺は?俺だって君に会えなきゃ死にそうなんだ」その言葉に、玲奈は冷笑する。死ぬ?拓海のような成功者なら、百年でも生きながらえたいに決まっている。そんなの真に受けない。玲奈が取り合わないのを見て、拓海は言う。「じゃあ、いっそ先にお兄さんにご挨拶でもしてくるか」玲奈はさらに慌て、怒り声をあげる。「あなた、いったい何が目的なの!」拓海は彼女の毛先を指先で弄り、薄笑いを浮かべる。「俺、言ったことあったっけ?君を妻にしたいって」玲奈は目を閉じ、深く息をついてから返す。「......で、その言葉、今まで何人の女に言ったの?」拓海は真顔で考え