パパラッチ数人と連絡を取り、海辺や建物の写真を参考に調べた結果、彼らの滞在先が「東城」という名の場所であると突き止めた。玲奈は一番早い便を予約したが、それでも午後のフライトしか取れなかった。東城に着いたときには、すでに夜の七時を回っていた。晩秋の七時ともなれば、辺りはすっかり暗い。タクシーに乗り込み、運転手に道を尋ねながら、智也たちが滞在しているであろう場所へと急ぐ。その頃、東城でも最高級の「東城ホテル」のビーチでは、盛大な焚き火パーティーが始まっていた。スタッフたちは肉を焼き、ココナッツの実を割り、鍋料理を用意し......活気に満ちている。海辺では、智也と沙羅が子どもと戯れていた。愛莉は海が大好きだ。昼はダイビング、夕方は浜辺で磯遊び、夜はパーティー。あまりに心地よく、離れたくない。焚き火を囲む机の上には、焼きたての肉やワイン、ビールが並ぶ。そのそばで、薫と洋が酒を酌み交わしながら、時折遠くの「一組の親子」を眺めていた。やがて薫がスマホを見て、大声で笑い出す。「洋、見ろよ。俺が昂輝のでっちあげを書いただけで、山ほど人が便乗して叩き始めた。やつは家に閉じ込められて、何日も身動きが取れないらしい。おまけに、一昨日は変装して外に出た途端に捕まって、袋叩きに遭ったみたいだ。しかも手まで怪我したんだって」そう言って、楽しげに続ける。「外科医のくせに手をやられたら、もう役立たずも同然だろ?」薫は声をあげて笑った。この結末こそが、自らの最高傑作であると誇るかのように。洋は顔をしかめ、黙って聞いていた。だが一言も同調はしない。薫はそれに気づくこともなく、再びスマホをいじりながら言う。「俺はちょっと火をつけただけだ。だがネット民のほうが怒ってる。賄賂だの、違法集資だの......勝手に話を盛り上げてくれる。俺はほんの少し煽るだけでいい」その言葉を遮るように、洋が口を開いた。「薫、それで本当に良いと思ってるのか?」この言葉に気分を害した薫は、苛立ち混じりに睨み返す。「何が悪い?奴が智也の女に色目を使ったんだ。そうなれば、こうなるのは当然だろ。自業自得ってやつだ」洋は深呼吸をし、静かに言った。「智也は彼女を好きじゃない。彼女がいつまでも新垣夫人という肩書きに縛られるわけがな
玲奈は思った。――このことを智也に話せば、きっと薫の昂輝への圧力を止める術を持っているはずだ。そう口を開こうとした瞬間、胸に緊張が走る。だが、電話から最初に聞こえてきたのは沙羅の弾んだ声だった。「智也、見て!流れ星よ。早く、お願いごとをして」一瞬、電話の向こうは静まり返った。けれど、すぐに沙羅の声が続く。「ねえ、さっきどんなお願いをしたの?」智也の答えは、ただひと言。「ヒミツ」たった三文字。けれどその声には、深い愛情が滲んでいた。電話越しにさえ、玲奈には二人の甘い空気が伝わってくる。沙羅が楽しげに笑い、また声を弾ませる。「愛莉がカニを見つけたの。一緒に捕まえに行こう?」智也はためらうことなく応じた。「ああ」しかし直後、ようやく通話中であることを思い出し、電話口に向かって言った。「そうだ、さっき何か言ってなかったか?」彼は玲奈の言葉をひとつも聞いていなかった。玲奈はしばらく黙り、やがてかすれた声で尋ねた。「今、どこにいるの?」いつもと同じ問いかけ。だが違うのは――今回は夫婦関係を繋ぎ止めるためではなく、ただ彼に助けを求めるためだった。智也は少し間を置いて、不思議そうに聞き返す。「俺を監視でもしているつもりか?」「どうしても、直接伝えたいことがあるの」玲奈の言葉に、彼は冷ややかに答える。「今は無理だ。今度にしてくれ」――その言葉を、彼女はもう何度聞いたことだろう。次など永遠に訪れないことも知っている。必死に切り出そうとした目的を言い出す前に、電話は一方的に切られた。無機質なツー、ツーという音を聞きながら、玲奈は携帯を持った手を下す。その瞬間、全身の力が抜け落ちる。それから二日間、彼女は智也に連絡を取らなかった。だが今度は昂輝との連絡が途絶えてしまう。その一方で、拓海からの贈り物は一度も途切れることなく、毎日のように届けられた。いくつもの宝石箱を、玲奈は一度も開けていない。拓海のことだから、安物であるはずがない。無駄だと分かっていても、彼は送り続けた。けれど今の玲奈には、それを気にかける余裕などなかった。頭は昂輝の身の安全の事でいっぱいだった。一日待っても、彼からの返信はない。不安に押しつぶされそうにな
食事のあと、玲奈はいつものように愛莉を学校へ送った。車を走らせながら、玲奈はついに重い口を開いた。「愛莉、お願いを聞いてくれる?」スマホゲームに夢中だった愛莉は、母の言葉に顔を上げ、首を傾げる。「ママ、どんなお願い?」ちょうど赤信号で車を止めたとき、玲奈は横の娘を見た。「愛莉、高井おじさんのことは知ってるわよね?」「知ってるよ。高井おじさん、わたしにすごく優しいもん」玲奈は口角をあげていたが、目には少しの光もなかった。「高井おじさんがね、ママの友達のことで誤解してるの。愛莉から、ちょっとその人のことを良く言ってもらえないかしら?」愛莉は小さな顔をしかめ、しばらく考え込んでから首を振った。「高井おじさんに嫌われる人なら、きっとろくな人じゃないよ。ママ、どうしてそんな人と友達になるの?」今度は玲奈の眉間にしわが寄った。だが、娘はさらに言葉を重ねる。「だから、そのお願いは聞けない」玲奈は声を落とし、すがるように言った。「......もし、それがママのお願いだったら?」しかし、愛莉は母の思いを理解するどころか、諭すように続ける。「ママ、高井おじさんに嫌われるような人とは、距離を置いたほうがいいよ」玲奈は背筋を伸ばし、返事をする。「わかった」青信号に変わり、アクセルを踏み込むと車は一気に加速した。それから先、二人のあいだに言葉はなかった。幼稚園が近づいてくると、愛莉がふいに口を開いた。「ママ、わたしからもお願いがあるんだけど......聞いてくれる?」玲奈の表情は冷ややかで、声も淡々としていた。「うん。できることならね」「これからは、あんまり早く来て朝ごはんを作らないでほしいの。じゃないと、ララちゃんの邪魔になっちゃうから。眠れないと、勉強も演奏もできなくなるでしょ?」その言葉に、玲奈の胸は一瞬で何万本もの針に刺されたかのように痛む。可笑しさすら込み上げたが、拒む言葉は出てこなかった。彼女は返事をする。「......わかったわ」――それから数日間、玲奈は小燕邸へは娘を迎えに行くだけで、朝食を作ることはしなかった。智也に会えるときもあれば、会えないときもある。そして、彼の隣には必ず沙羅の姿があった。それはもうどうでもよかった。昂輝が医学
薫の仕業だとわかっていても、玲奈にはどうすることもできなかった。久我山で智也と拓海を除けば、最も大きな力を持つのは薫と洋だ。しかも、拓海以外の人たちの関係は複雑で、もし薫に手を出せば、それは智也や洋を敵に回すことになる。そうなれば、誰にも太刀打ちできるはずがない。玲奈が家へ戻ると、姪の陽葵と少しゲームをしてから階段を上がった。依然として昂輝からはいまだ返事がなく、いっそう彼女を不安にさせる。再び電話をかけても、すでに電源は切られていた。玲奈自身はネット上で攻撃を受けたことはなかったが、それが耐え難いものだと見当はつく。匿名の言葉は、刃物よりも鋭く、薬より人を傷つける。その夜、彼女はほとんど眠れなかった。ようやく明け方近くになって、昂輝から【大丈夫だ。心配しなくていい】とだけ返信が届いていた。玲奈はそれを見て、少し胸を撫で下ろすと同時に【ごめんなさい】と返信した。【君のせいじゃない。責任を背負うな】昂輝はそう返したきり、また黙ってしまった。翌朝。ほとんど眠れなかったはずなのに、玲奈の頭は意外にも冴えていた。彼女は早めに小燕邸へ行き、お粥とおかずを用意して愛莉の食事を準備した。食卓につき、玲奈は何度も階上や玄関先に視線を向ける。智也の帰りを待っていたのだ。自分にはどうにもならないことでも、智也なら解決できる。まもなく、智也が玄関から入ってきた。外は霧が立ちこめ、小雨が降っていたのか、彼の肩や髪には水滴がついていた。それを見て、玲奈は気持ちをぐっと飲み込んだ。だが、彼が階段を上がろうとしたとき思わず声をかけていた。「智也?」彼は足を止め、階段の途中で振り返った。「どうした、何か用か?」冷えきった声には、微塵の情もない。その時、階上から沙羅が姿を現した。「智也、帰ってたのね?」彼女はシルクのパジャマ姿で、髪をおろし、物憂げな表情で甘い眼差しを向けている。智也は玲奈が黙ったままなのを見て、沙羅に目をやる。「ん、どうしてもう少し眠らなかった?」沙羅はわざと声を落とし、柔らかに言う。「ちょっと騒がしくて......二度寝できなかったの」二度寝?――朝から事を終えての、二度寝ということか。智也は階段を上がり、沙羅の隣に立った。その視
「東先生に手術してもらったことがあります。母の脳腫瘍のオペを担当してくださったんです。術後二年が経ちましたが、今も状態は良好です。しかも東先生はとても気さくで、私からの心付けも受け取らず、そのお金はお母さんの薬代にしてあげてと返してくれました」そんなコメントを目にした玲奈は、思わず返信を書き込もうとした。だが文字を打とうとした瞬間、「このコメントは削除されました」と表示される。記憶を頼りにアカウント名を検索してみたが、もう存在自体が消えていた。――間違いない。昂輝を擁護したその人のアカウントは凍結されたのだ。真っ先に思い浮かんだのは薫の顔だった。智也にはすでに沙羅がいる。玲奈のために余計な手を回すことはない。となれば、こんなことができるのは薫しかいない。しかも彼と昂輝の間には、もともと確執があった。玲奈は昂輝を案じ、メッセージを送る。「大丈夫?」だが返事はない。仕事を終えても、既読すらつかない。やきもきした末、玲奈は待つのをやめ、彼の住むマンションまで足を運ぶことにした。ところが、門をくぐった瞬間に異様な光景を目にする。大勢の人がカメラを構え、一角に群がっていた。視線の先――昂輝の部屋。窓ガラスは蜘蛛の巣のようにひびが入り、辺りには強烈な悪臭が漂っている。誰かが玄関口に汚物をぶちまけたのだ。それだけではない。白い紙に真っ赤な字で罵詈雑言が書き殴られている。「親なしの出来損ない」「人殺しの医者」「一族もろとも絶えてしまえ」「お前こそ病に倒れろ」「親父の墓草でも枕にして、砂に埋もれて朽ちていけ」吐き気を催すような言葉の数々に、玲奈は背筋を凍らせた。暗がりには、さらに危険な何かが潜んでいる気配すらする。彼の安否を確かめに行きたかったが、怖くて踏み込めない。代わりにメッセージを送った。【もし家にいるなら、絶対に外に出ないで。もし出ているなら、しばらくは帰らないで】だが、それにも返事はなかった。玲奈は深呼吸し、車を走らせる。向かったのは――薫がよく通うレストラン。幸運なことに、店先に彼の車が停まっていた。勢い込んで店に入ると、薫はセクシーな女性を連れて優雅にワインを傾けていた。そんなことに構っていられない。玲奈は真っ直ぐ彼の席
春日部宅の玄関先に差しかかったとき、秋良が玲奈の姿を見つけた。「どうして髪がそんなに乱れてる?」その声には険しさが混じっていた。玲奈は胸がざわつき、思わず目を伏せて答える。「......風に吹かれただけよ」だが、そんな稚拙なごまかしは兄には通じない。「玲奈、俺はお前の恋愛を否定しない。だが、節度を忘れるな。前みたいなことを繰り返すなら、次は絶対に許さない。それに――子どもを軽々しく作るような真似はするな。女は男よりずっと損をする。簡単に股を開くな」言い捨てると、秋良は先に言えの中へ入っていった。玲奈はしばらくその場に立ち尽くし、数秒後、慌てて後を追いかけた。「兄さん、違うの。兄さんの思ってるようなことじゃない」声は切実で、必死に弁解する。だが考え直して言う。「どうであれ、私はあなたたちの言うことを聞くわ」秋良は立ち止まり、振り返って彼女の潤んだ瞳を見やる。そして、わずかに声のトーンを和らげた。「......そうか」玲奈はようやく微笑み、静かに礼を言った。「ありがとう、兄さん」秋良はそういう言葉に弱く、わざと話題を変える。「陽葵が今夜、お前に会いたいって言ってたぞ。いつも忙しくて顔を合わせられないんだ。次は時間を作って、早く帰ってやれ」「わかったわ、兄さん」玲奈は素直に頷いた。翌朝、玲奈が目を覚ましたとき、陽葵はすでに登校していた。だがスマホには、姪からの可愛らしい音声メッセージが届いていた。【おばさん、冬休みになったら一緒に海外へスキーに行こうね】柔らかい声に、玲奈の胸は一瞬で溶かされる。ベッドの縁に腰を下ろし、スマホを握りしめながら何度も再生した。しかし聞いているうちに、不意に頭をよぎるは愛莉のことだった。長く育ててきたのに、娘と一度も旅行をしたことがない。いや、チャンスがなかったわけではない。ただ、彼女が望んでいたのは「夫婦と子ども、三人での旅」だった。けれど智也の心はすでに沙羅に奪われ、そんな夢が叶うはずもなかった。今や夫も娘も、揃って沙羅の方へと心を寄せている。玲奈は陽葵の誘いに快諾し、身支度を整えて仕事へ向かった。その日の午後。カルテを書いていると、インターンの後輩が山のような荷物を抱えて入ってきた。最後の一つを手