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第197話

Author: ルーシー
博士課程に進んだ以上、沙羅がすべきことは研究だった。

だが彼女には、肝心の研究テーマが定まっていなかった。

いくら文献を漁っても、手掛かりとなる課題は見つからない。

同じ学年の仲間たちが次々と研究に没頭していく中、自分だけが足踏みしている――その現実は、学問の歩みを大きく遅らせていた。

だから沙羅は、学のもとを訪ねる決意をした。

学は厳格で、笑うことも滅多にない。

学生たちからは「近寄りがたい先生」として畏れられている。

沙羅にとっても同じだった。

単身では訪ねる勇気が出せず、智也と薫を伴ってここへ来たのだ。

沙羅の問いを聞いた学は、表情一つ変えずに言い放った。

「医学を学ぶ者が最も戒めるべきは、心ここにあらずの姿勢だ。

君はいつも演奏会だ、舞台だと出歩き、理由をつけては平然と一週間も休みを取る。

授業後も図書館に姿を見せず、夜になれば行方も知れない。

そんな調子で、いざ壁に突き当たれば私に泣きつく。

そんなことが許されるなら、誰だって博士課程に進めるではないか。

規定も理念も形骸化するだけだ」

「申し訳ありません、学先生」

沙羅は顔を伏せ、羞恥に頬を染めた。

学は眼鏡を押し上げ、鋭い声を放つ。

「謝る相手は私ではなく、君自身だ。

時間を費やして修士に進み、さらに博士へと進んだのに、この有様。

もし学ぶ意志がないのなら、今すぐ断ち切れ。

国家が与える学びの場を箔付けに利用するなど言語道断だ。

医学資源を浪費するのは恥辱だ」

一語一句に、沙羅を見下す響きがあった。

数多くの優秀な弟子を育ててきた彼の目から見れば、彼女はあまりにも甘すぎた。

夜を徹して研究室に籠り、数値一つのために何度も実験をやり直す学生が大勢いる中、沙羅の姿勢は明らかに劣っていた。

彼女は顔を赤らめ、俯いたまま膝の上で拳を握りしめる。

その言葉は、平手打ち以上に屈辱的だった。

智也や薫の前なら、学も多少は言葉を和らげるかと思っていた。

だが予想に反し、容赦のない叱責が続いた。

確かにそうなのかもしれない。

だがあまりに苛烈で、しかも智也の目の前で――それは耐え難いものだった。

智也は沈黙を守ったまま、表情を引き締めていた。

だがその目の奥には、不快の色が明らかに宿っていた。

一方、薫は我慢できなかった。

「......老いぼれが、
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