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第236話

Author: ルーシー
愛莉は確かに母親である玲奈を嫌いになっていた。

けれど体調が悪い時だけは、母親の優しさを思い出してしまう。

――ママの手は温かくて、不思議と魔法みたいに痛みを和らげてくれる。

沙羅もお腹をさすってくれる。

けれど沙羅の手にはその「魔法」がない。

痛みは消えないのだ。

玲奈の冷たい態度を思うと、智也は娘にどう言葉をかけていいか分からなかった。

しばらく逡巡し、ようやく娘の額に頬を寄せて囁く。

「パパだって撫でてあげる。

ほら、パパがやるから」

「うん」

愛莉はそう言って小さなお腹を出す。

智也の大きな掌がやさしく腹部を撫でると、愛莉はくすぐったそうに笑い声を上げた。

その笑みに、智也は胸をなで下ろしながらも口を開く。

「愛莉。

これからは、ママのいない日々に慣れていこうな」

愛莉は小さな足をばたつかせ、肩をすくめて言う。

「もう慣れてるよ。

ただ具合が悪い時だけ、ママを思い出すの。

でもパパがそばにいれば、ママのこと考えなくてすむ」

その言葉に智也は安堵した。

娘を抱き上げ、額に口づけを落として約束する。

「これからは、もっとパパが一緒にいる。

どんなに忙しくても、遠くても、愛莉が来てって言ったら必ず帰ってくる」

「うん!パパ大好き!」

愛莉は嬉しそうに笑い、父の首にしがみついた。

けれど胸の奥には、ほんの少しの痛みが残る。

――パパの手は心地いい。

けれど、やっぱりママの手とは違う。

本当は、もう一度ママにお腹をさすってほしい。

そう思ったが、すぐに振り払う。

パパと沙羅おばさんがいてくれれば、それで十分だ、と。

新垣宅。

夜が明けきらぬうちに、下の階から言い争う声が聞こえてきた。

玲奈は起き上がり、身支度を整えると、扉を開けて使用人を呼ぶ。

「......何があったの?」

使用人はうつむきながら答える。

「清花様と奥様が口論を......」

「清花が帰ってきたの?」

「はい。

昨夜、戻られました」

「じゃあ、おじいさんは?」

「旦那様は今朝早く散歩に出られました」

玲奈は合点がいった。

祖父がいない隙を狙って、美由紀が我が物顔で振る舞っているのだ。

とはいえ、関わる必要はない。

支度を済ませた玲奈は階下へ。

リビングでは美由紀が不機嫌な顔でソファに腰かけていた。

玲奈の
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ひろぴろ
新垣家のクズどもめ皆まとめて不幸になればいい
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