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愛を譲ったあとで、彼は後悔した

愛を譲ったあとで、彼は後悔した

By:  パインアイスティーCompleted
Language: Japanese
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結婚式の最中、夫の幼なじみが騒ぎを起こし、「二人を同じベッドに寝かせないで」と言い出した。 それから四年、夫は一度も私に触れなかった。 私がプライドを捨て、媚薬まで飲んで彼に近づいた夜も、彼は冷たい目で私をベッドから突き飛ばした。 「俺は潔癖なんだ。お前には触れられない。自分を抑えてくれ」 当時の私は、それが彼の性格だと思い込んでいた。 けれど、彼の三十歳の誕生日の夜―― 書斎の扉の隙間から見た光景は、私の幻想をすべて壊した。 閉じた目、動く喉仏、そして、手に握られていたのは幼なじみの写真。 その瞬間、私は悟った。 彼が愛していたのは、最初から私じゃなかった。

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Chapter 1

第1話

結婚式の最中、夫の幼なじみが騒ぎを起こし、「二人を同じベッドに寝かせないで」と言い出した。

それから四年、夫は一度も私に触れなかった。

私がプライドを捨て、媚薬まで飲んで彼に近づいた夜も、彼は冷たい目で私をベッドから突き飛ばした。

「俺は潔癖なんだ。お前には触れられない。自分を抑えてくれ」

当時の私は、それが彼の性格だと思い込んでいた。

けれど、彼の三十歳の誕生日の夜――

書斎の扉の隙間から見た光景は、私の幻想をすべて壊した。

閉じた目、動く喉仏、そして、手に握られていたのは幼なじみの写真。

その瞬間、私は悟った。

彼が愛していたのは、最初から私じゃなかった。

……

「兄さん、私、離婚することにした」

兄はしばらく黙っていたあと、ゆっくり口を開いた。

「……馬鹿だな。前にも言っただろ、東雲湊(しののめ みなと)はお前には合わないって」

私は口角を引きつらせ、苦笑いを浮かべる。

「うん……わかってたのに、見えないふりしてた」

実を言えば、湊の秘密を見たのは初めてじゃない。

最初は、彼を追いかけ始めた頃のことだ。

その日、彼は酔いつぶれて、バーの店員が私に連絡してきた。

迎えに行ったとき、彼の口からかすかに漏れた名前——香坂梨沙(こうさか りさ)。

あのときは聞き間違いだと思って、深く考えなかった。

二度目は、結婚式の夜。

彼は同じベッドに入るのを拒み、一晩中書斎にこもっていた。

翌朝、私は引き出しの中で梨沙の写真を見つけた。

その瞬間、疑いという種が心の中で芽を出した。

そして今日、またあの押し殺した声を聞いてしまった。

――「梨沙、愛してる……」

その愛が満ち溢れた言葉は、まるで鋭い針のように、ぼろぼろになった心の奥に突き刺さった。

笑える話だ。

私はずっと、彼が「清く冷たい性格」の人間だと思っていた。

けれど違った。

彼の欲望は、最初から私なんかに向いてなかった。

彼が私と結婚したのは、きっと梨沙への「禁断の想い」から逃げるためだったんだ。

なぜなら、梨沙は、彼の亡くなった友人——宮原澄人(みやはら すみと)の恋人だった。

数年前、澄人は湊を庇って事故で亡くなり、息を引き取る前に「梨沙のことを頼む」と言い残した。

けれど湊は、いつの間にか梨沙に惹かれていた。

彼は罪悪感には耐えられず、自分が澄人に申し訳ないと思い、自分の感情を口にできなかった。そして逃避するために、私との結婚を選んだのだ。

でも、もうこれ以上、誰かの代わりを演じたくない。

翌朝、湊はいつものように金縁の眼鏡をかけ、普段の冷たく禁欲的な姿に戻っていた。

昨夜、梨沙の写真を見つめ、夢中な眼差しを浮かべていた彼とは、まるで別人だった。

私は彼を呼び止めた。

「待って、今夜何時に戻るの?」

「残業だ」

顔も上げずに、冷たい声。

「……少しは自尊心を持て。いつまで俺にすがる気だ?」

湊の目には、私はいつだって「しつこくつきまとう女」でしかなかった。

私は自嘲気味に笑う。

「誤解だよ。今日は出かけるから、夕食の準備はできないから」

湊は少し不思議そうに眉を上げて尋ねた。

「用事?」

私はうなずいた。

彼は珍しくさらに尋ねた。

「何の用事だ?」

すると、一歩近づいた彼から、淡い檀香の匂いがした。

かつてはその香りが好きだった。

でも今は、吐き気がするほど嫌い。

私は一歩引いて、穏やかに言った。

「あなたが喜びそうなことをしに行くの」

――私が彼の前から消えれば、きっと喜ぶだろう。

その足で、私は入国管理局へ向かった。

数年前、綾瀬家の事業は海外に移り、両親も兄も、今はみんな海外にいる。

私だけが湊のために、何としても残ることを選んだのだ。

もう、十分だと思った。

手続きを終えた頃、湊から珍しくラインの通知が届いた。

【今夜8時、友人たちと集まる。迎えに行く】

今まで、彼は一度も私をそういう場に連れて行ったことがなかった。

なのに、別れを決めたこの日に限って、誘いが来た。

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Comments

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松坂 美枝
ゴミが頭剃ったって人間にはなれんわ クズ女は人を轢いといてなんもないんだな 主人公が好きなことできてるならそれでいいけど
2025-11-14 09:20:55
1
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蘇枋美郷
くだらないクズ夫。こんなの捨てて正解!クズ幼馴染女も自業自得。主人公は自分の道を歩き出した素敵女性...お兄ちゃんのお友達とはずっと何も無いまま終わってしまうんかしら〜?
2025-11-14 17:16:08
0
9 Chapters
第1話
結婚式の最中、夫の幼なじみが騒ぎを起こし、「二人を同じベッドに寝かせないで」と言い出した。それから四年、夫は一度も私に触れなかった。私がプライドを捨て、媚薬まで飲んで彼に近づいた夜も、彼は冷たい目で私をベッドから突き飛ばした。「俺は潔癖なんだ。お前には触れられない。自分を抑えてくれ」当時の私は、それが彼の性格だと思い込んでいた。けれど、彼の三十歳の誕生日の夜――書斎の扉の隙間から見た光景は、私の幻想をすべて壊した。閉じた目、動く喉仏、そして、手に握られていたのは幼なじみの写真。その瞬間、私は悟った。彼が愛していたのは、最初から私じゃなかった。……「兄さん、私、離婚することにした」兄はしばらく黙っていたあと、ゆっくり口を開いた。「……馬鹿だな。前にも言っただろ、東雲湊(しののめ みなと)はお前には合わないって」私は口角を引きつらせ、苦笑いを浮かべる。「うん……わかってたのに、見えないふりしてた」実を言えば、湊の秘密を見たのは初めてじゃない。最初は、彼を追いかけ始めた頃のことだ。その日、彼は酔いつぶれて、バーの店員が私に連絡してきた。迎えに行ったとき、彼の口からかすかに漏れた名前——香坂梨沙(こうさか りさ)。あのときは聞き間違いだと思って、深く考えなかった。二度目は、結婚式の夜。彼は同じベッドに入るのを拒み、一晩中書斎にこもっていた。翌朝、私は引き出しの中で梨沙の写真を見つけた。その瞬間、疑いという種が心の中で芽を出した。そして今日、またあの押し殺した声を聞いてしまった。――「梨沙、愛してる……」その愛が満ち溢れた言葉は、まるで鋭い針のように、ぼろぼろになった心の奥に突き刺さった。笑える話だ。私はずっと、彼が「清く冷たい性格」の人間だと思っていた。けれど違った。彼の欲望は、最初から私なんかに向いてなかった。彼が私と結婚したのは、きっと梨沙への「禁断の想い」から逃げるためだったんだ。なぜなら、梨沙は、彼の亡くなった友人——宮原澄人(みやはら すみと)の恋人だった。数年前、澄人は湊を庇って事故で亡くなり、息を引き取る前に「梨沙のことを頼む」と言い残した。けれど湊は、いつの間にか梨沙に惹かれていた。彼は罪悪感には耐えられず、自分が澄
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第2話
少し考えて、やっぱり承諾した。――これが最後だから。湊に手を引かれてバーに入った瞬間、佐久間グループの佐久間誠一(さくま せいいち)が梨沙に無理やり酒を飲ませているところが目に入った。「お前なんて、澄人と湊とのつながりがあったから、今まで面倒を見てもらえたんだろ。もう湊は結婚したんだ、いつまでもお前なんか構ってるわけないだろ?」誠一は嘲るように笑い、「自分を過大評価するなよ。ほら、この酒を全部飲んだら、一杯ごとに200万円やる。どうだ?」梨沙はバーの中央で顔を上げ、湊を見つけた。彼女は唇を噛み、グラスを手に取り、一気に飲み干す。アルコールが喉に刺さって、涙が滲む。彼女は悔しそうにうつむいた。誰かが私たちに気づき、ざわつき始めた。湊は冷ややかに誠一を一瞥し、落ち着いた声で言った。「俺がいない間に、いじめでも始めたのか?」誠一はニヤニヤしながら答える。「何だよ、ただの『友達のツテで東雲家に居座ってる女』だろ。まさか本気で気にしてんのか?」私は気づいた。湊の手が、私の手を少し強く握ったことに。見た目は余裕たっぷりなのに、心の中ではきっと荒れている。彼はゆっくり私の肩を抱き、低く落ち着いた声で言う。「いや、俺が気にしてるんじゃない。ただ、うちの妻が初めてこういう場に来たのに、いきなりこの光景ってどうなんだ?」周りがどっと笑い出し、みんなが「綾瀬さん」と冷やかして呼んだ。だが誠一は引かない。「でも酒、もう注いじまったし。誰かが飲まねぇとなぁ」「お前が飲めよ」湊はグラスを取り、私の前に差し出した。体がピクッと固まる。冷たい表情の彼を見上げた。そのとき、誠一が横から茶化すように言う。「湊、まさか綾瀬さんに飲ませて、酔わせて、そのあと何かしようって魂胆か?」湊は変わらず淡々と、静かに言う。「彼女は酒が好きなんだ」――ああ、そういうことか。やっとわかった。彼が今日、突然私を連れてきた理由。梨沙を助けるためだったんだ。彼は、あの子が無理に酒を飲まされるのを見ていられなかった。そして、私が彼を愛しているから絶対断らないと思っている。でも――彼は知らない。自分の「妻」が、ひどい胃の病気で酒なんて一滴も飲めないことを。胸の奥がズキンと痛み、全身に広がる。
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第3話
「やっぱり、もう私のことなんてどうでもいいんでしょ!」梨沙は泣きながら叫んだ。「あなたが結婚してから、ずっと私を避けてる。わざと距離を取って……全部、全部変わっちゃった!」その言葉に、湊の喉仏がわずかに動く。抑え込んだ複雑な感情が声ににじんでいた。「梨沙、それは……」口を開きかけたが、結局、心の奥に隠した「秘密」を言い出せない。――なんて、弱い男。私は皮肉に口角を上げ、背を向けようとした。そのとき――梨沙の声が突然、鋭く跳ね上がる。「全部、あの女のせいでしょ!柚奈さんさえいなくなれば、きっと私たち、元に戻れる!」そう言うや否や、彼女は運転席に飛び乗り、エンジンをかけ、私めがけて車を走らせた。――避ける暇もなかった。激しい衝撃とともに、体が宙に浮き、地面に叩きつけられる。頭に鈍い痛みが走り、温かい血が額から流れ落ちる。視界が赤く染まり、意識がゆっくりと遠のいていった。……次に目を覚ましたとき、私は病院のVIP病室のベッドにいた。けれど、湊は一度も見舞いに来なかった。メッセージひとつ、ない。その夜、梨沙がSNSに写真を上げた。優しく自分を見つめる湊の姿と一緒に。私は深く息を吸い、怒りを押し殺して警察に電話した。「通報します。香坂梨沙――酒気帯び運転のうえ、殺人未遂です」三十分も経たないうちに、病室の扉が勢いよく開かれた。湊が怒りに満ちた顔で入ってきた。「お前、正気か?たかがこれくらいで警察沙汰にするなんて!梨沙がどれだけ怯えてるか、わかってんのか!」私は一歩も引かず、まっすぐ彼を見つめた。「湊、私を殺そうとしたのよ。それでも、通報しちゃいけない?」頭に巻かれた包帯を見て、彼の声が少しだけ柔らかくなる。「……確かに、車をぶつけたのは悪かった。でも、あいつはまだ若いし、反省してる。俺もちゃんと罰した。もう、それでいいだろ」「罰した?」私は目を細め、問い詰めた。「じゃあ、その『罰』とやらは何?」彼は視線を逸らし、声を落とした。「……お前も知ってるだろ、梨沙は最近レゴ模型にハマってて。さっき、自分で一番お気に入りの限定モデルをいくつか売ったんだ。今、すごく落ち込んでる」――あまりの馬鹿馬鹿しさに、笑いがこみ上げた。「私は死にかけたのに?その『罰』が
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第4話
そのあと、二人はそのまま病院に残った。ソファに寄り添って座り、パソコンでドラマを見ながら笑い合っていた。その温かくて甘い光景——私と湊が結婚してから何年も経つのに、一度もそんな時間を過ごしたことがなかった。どうしてだろう、ふと結婚前のことを思い出した。あの頃の彼は、冷たくて無口で、私は必死に追いかけても、全然心を開いてくれなかった。そんなある日、土砂降りの中で車がスリップして、危うく事故になりかけた。その瞬間、私は反射的に彼をかばって、身体中にガラスの破片を浴びた。あの出来事をきっかけに、ようやく彼との関係が少しだけ近づいた。怪我の治療で入院していた私は退屈で、「一緒にドラマを見よう」と誘った。彼は眉をひそめ、明らかに嫌そうな顔をしながらも、テレビをつけてくれた。「ほら、見ろよ。俺も一緒に見るから」そう言って本当にスマホを置き、静かに私の隣でドラマを見てくれた。あの時、私は胸がいっぱいで、彼の気持ちがようやく動いたんだと思っていた。でも、今日こうして見比べてみると分かる。彼の私への「好き」は、ほんの表面だけ。梨沙への想いこそ、底が見えないほど深い。結局、勘違いしていたのは私だった。四年間、何の見返りも求めずに愛し、待ち続けた結果は――虚しいだけ。私は一か月ほど入院し、その間に移民の手続きも全部済ませた。この馬鹿げた恋にも、ようやく終止符を打てる。湊が出張に出ている隙に、私は梨沙を一人で呼び出した。カフェで向かい合うと、彼女は警戒した目で私を見て言った。「柚奈さん、わざわざ私を呼び出して何のつもり?警告しておくけど、湊さんがいなくても、もし私に何かしたら、ただじゃ済まないから!」私は無言で、薬指にはめていたサイズの合わない指輪を外し、彼女の前に置いた。「……試してみる?」彼女は訝しげに私を見ながら、その指輪を手に取り、自分の薬指にはめてみた。すると——ぴったりだった。梨沙は一瞬、動きを止めた。「柚奈さん、どういう意味?」私は静かに微笑んだ。「その指輪、本来はあなたのものよ。やっと持ち主のところに戻ったの。ずっと不思議に思ってたでしょ?あんなにあなたを甘やかしてた湊が、結婚してからどうして避けるようになったのか」梨沙の表情が険しくなる。「……何
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第5話
湊は携帯の返信が遅いことに眉を寄せた。以前なら、たとえ【?】だけ送っても、柚奈は即座に返事を返してきた。短いメッセージを次々に送り付け、最後には必ず可愛い猫のスタンプを付けるのが常だった。それが今日は、珍しく完全に無視している。いい加減な返事すらしない。彼は手近にあった無地のスカーフを手に取り、柚奈への謝罪の品にしようと考えた。あのスカーフの色は彼女の淡い雰囲気に似合いそうだ。秘書が横で一度湊を見て、言いかけるように訊いた。「社長、後で旧宅に行って香坂さんの様子を見ますか、それとも家に戻って奥様の様子を……?」湊は少し考え、口を開く直前だった。だが秘書が先に言った。「社長、まず奥様のところに戻った方がいいのではないでしょうか。退院したばかりですし、気にかけるべき時だと……」湊は冷ややかに言い返した。「いつからお前が俺に命令できる立場になった?」秘書は慎重に言葉を続ける。「社長、今回は奥様が本当に辛い目に遭っているように見えます。それに、最近奥様が荷物を整理しているのを何度か見かけました。もしかすると、完全に出て行くつもりかもしれないと怖くて……」湊は軽く笑った。「彼女が俺を離れるなんてありえない。あいつは俺を愛してるんだ。もし本当に出て行ったとしても、指先を鳴らせばまたぴょんと戻ってくるさ。だがお前の言うことも一理ある、確かに、今回は大分酷い目に遭わせた……じゃあ、まずは家へ戻ろう」家へ向かう途中、湊は嫌な予感を抱き始めた。ずっと下を向いてスマホを確認している。画面が点いたり消えたりするが、柚奈からのメッセージは一通もない。心の中に不快感がじわりと広がっていった。柚奈がこんなに長く連絡を絶つことは今までになかった。湊にとって、柚奈は感情を表に出さない粘土人形のような存在で、いくら弄っても反発しない相手だった。結婚後も一度も触れなかったし、彼女が何度も求めても拒み続けてきたが、それでも彼女は際限なく許してくれると信じていた。それなのに、たった一週間の出張で、柚奈は一度も自分から連絡してこない。しかも彼が送ったメッセージにも無反応。もしかして、本当に怒って出て行ったのか――その考えがふと浮かんだだけで、湊の心臓が小さく震えた。病院で見せた柚奈の異様に失望した表情を思い返すと、嫌な予感はさ
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第6話
秘書がためらいがちに尋ねた。「もし奥様が戻らなかったら……どうしますか?」「ありえない」湊は即座に言い切った。その言葉が終わるか終わらないうちに、玄関の方から足音が響いた。梨沙がスーツケースを引きながら笑顔で駆け寄り、勢いよく湊の胸に飛び込む。「湊さん、あの人はもう戻ってこないわ」湊の胸がわずかに震えた。「どういう意味だ?」「柚奈さんはあなたと離婚するって言ってた。だからあなたの印鑑を使って、離婚届に押印しておいたの。もう法的に成立してるわ。あなたたちはもう夫婦じゃないの」梨沙は頬を彼の胸にすり寄せ、恥じらうように微笑んだ。「彼女、もう二度と私たちの邪魔はしないって」湊はその場で凍りついた。説明のつかない恐怖が胸の奥で広がっていく。「梨沙、柚奈は……どこに行った?」梨沙は手を伸ばし、自分の指にはめた結婚指輪を見せつけた。「まだ隠すつもりなの?柚奈さんから全部聞いたわ。あなたは何年も彼女に触れたことがない。本当に愛していたのは私だって。この指輪も、私の薬指のサイズに合わせて作ったんですって……私も、ずっとあなたが好きだった」梨沙はつま先立ちになり、秘書の前だというのに湊の唇の端に軽くキスをした。「もう離婚したんだから、これからは私たちが一緒になってもいいでしょ?」その言葉が耳の奥で反響していたが、湊の頭の中には「もう戻ってこない」という一文だけが残っていた。長年心を占めていた女が、自分への想いを認め、共にいたいと願ってくれている。本来なら喜ぶべきはずなのに――心は少しも晴れなかった。頭の奥がジンジンと鳴り響く。不意に、柚奈の姿が脳裏に浮かぶ。初めて会った日、柚奈は真紅のドレスをまとい、太陽のように明るい笑顔で彼の後ろを追いかけてきた。「あなたが兄さんの親友、東雲湊?毎日座禅して欲も望みもないって聞いたけど、ねぇ、私を見て、心は動かないの?」その後、彼女は望み通り彼と結婚した。そして、それから柚奈は派手な服を一切着なくなり、社交の場にも出ず、ただ静かに家で本を読んで過ごした。たまに彼を見つめるその瞳には、小さな期待の光が宿っていた。今になって湊はようやく気づく。柚奈は――ずっと前から、自分の卑しい心を見抜いていたのだと。だからこそ、出張の隙を突いて
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第7話
「……わかった。そういうことね」梨沙は自分の指から結婚指輪を引き抜き、思いきり床に叩きつけた。「湊さん、あなたが私と一緒にならなくてもいい。けど――柚奈さんに許しを乞う資格なんて、もうないのよ。何度も彼女を傷つけたこと、絶対に忘れないで」そう言い捨て、彼女は踵を返して去っていった。秘書がためらいがちに口を開いた。「社長、香坂さんも社長のことが好きなんですよ?本来なら喜ぶべきじゃないですか?なのに、どうしてそんなに沈んでるんです?」湊は足を止めた。「……彼女は澄人の恋人だ」「でも宮原さんはもう……それに社長も彼女を好きなんでしょう?だったら一緒になればいいじゃないですか」秘書は首をかしげ、それからふと気づいたように目を見開いた。「まさか、社長……奥様のことを?」「斎藤」湊の声が低く冷たく響いた。「言葉を慎め」柚奈の顔が脳裏に浮かび、胸の奥がひどく締めつけられる。――もう、彼女がいなくなって一か月以上。あらゆる手を尽くして探しても、まるで地上から消えたみたいに、行方が掴めなかった。スマホを開くと、トーク画面には彼女とのやり取りが並んでいた。いつもは柚奈が一方的に送ってくるメッセージ。機嫌がいいときだけ、たまに返してやる。忙しいときは既読もつけず放っておいた。それでも、彼女は決して怒らず、彼も返事を返すかどうかは全く重要ではないと思っていた。とにかく最も重要な東雲夫人の地位はすでに彼女に与えていたのだから。今、自分が送る側になってみて初めてわかった。返事がないことが、こんなにも苦しいなんて。秘書の言葉が脳裏をかすめる。もしかして……自分はもう、ずっと前から柚奈を――その瞬間、スマホが鳴り響いた。「社長!奥様が見つかりました!」秘書の声に、湊は思わずスマホを取り落としそうになった。「どこだ!?」「我々の調査によると、ドイツで目撃されたとの情報があります。奥様はきっとドイツのご家族を探しに行ったに違いない……」報告の途中で、ラインの通知が続けざまに鳴る。送られてきたのは、数枚のぼやけた写真。ピントも甘く、どれも顔がはっきり写っていない。それでも一目でわかった。――あの明るい笑顔。小さな太陽みたいに、見るだけで心が温かくなる、眩しい笑顔。「……
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第8話
「じゃあ――今の『バラちゃん』は、まだ僕と結婚してくれるのかな?」澪司が冗談めかして笑う。私はただの軽口だと思って笑い返した。けれど、その日を境に彼は本気で私を口説き始めた。兄もまんざらでもない様子で、「いいじゃないか」と背中を押してくれた。兄がこっそり教えてくれた――「澪司はずっと前からお前が好きだったんだ」と。私は彼にチャンスをあげようと思った。そして、自分にも、再び愛を信じるチャンスを。その午後、花屋のドアが勢いよく開いた。目の縁が真っ赤に腫れた湊が、息を荒くして立っていた。私はただ、淡々と視線を向けただけだった。私があまり気にしていないのを見て、彼は私をじっと見つめ、唇を噛みしめた。「梨沙とは一緒じゃない。ずっとお前を待っていた。東雲夫人は――お前だけだ」「それで?」私は冷ややかに返した。「私たちもう離婚したでしょう」湊は一歩踏み出し、私の手を強く握った。「柚奈、やっと気づいたんだ。俺が本当に愛してるのはお前だ。お前だけなんだ」哀願するような口調だった。「お前がいなくなってから、あの家は空っぽみたいで……帰ってきてくれ。もう一度やり直そう。子どもが欲しいって言ってたろ?一緒に作ろう、今度こそ――」かつての日を思い返すと、彼は生まれつき冷淡な性格だと思い込んでいた。だからいつもあらゆる手段を尽くし、セクシーな服を着て自尊心を捨て、彼が帰ってくるたびに誘惑しようとした。しかし最後に見たのは、彼が書斎に一人で閉じこもり、一枚の写真に向かって欲望をぶつけている姿だった。この数年、彼が私にした傷は数えきれないほどだ。今さら軽く許しを請うなんて、本当に吐き気がする。私は鼻で笑った。「もう一度チャンスをくれるって言うの?」湊はうなずいた。その時、背後から澪司が現れた。手には一輪のバラ。私の前に立ち、湊の視線を遮った。「悪いけど、この人はもう僕の彼女なんでね。口説きたいなら、後ろに並んでもらえる?……まあ、順番が回ってくることはないと思うけど。僕は誰かと違って、離したりしないからね」二人の男が、無言で睨み合った。その後数日、湊はまるで怨霊のように、私と澪司の後をつけまわした。隙を見ては謝罪と復縁を口にした。そのたび、私ははっきりと言った。「東雲湊、これで
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第9話
誰だって、恋人に裏切られるなんて受け入れられない。愛の中で二股をかけるような男に、もはや人としての信頼はない。そんな人間に誰が背中を預けられるというのか。結果、東雲グループは揺らぎ、株価は底を打ち、倒産寸前まで追い込まれた。湊は急遽帰国し、会社を立て直そうと奔走した。寝る間も惜しんで働き、ついには謝罪動画まで出して、「すべては誤解だ。香坂梨沙とは恋愛感情などなく、ただ一瞬、男女の曖昧な感情に惑わされただけだった」と語った。――けれど、それらはもう、私には何の関係もない。今の私にとって、彼はただの他人にすぎない。澪司はその後、確かに私にプロポーズしてくれた。でも、私は断った。彼が嫌いだからでも、もう愛を信じられないからでもない。ただ、私は思ったのだ。私のこの輝く命は、結婚という枠に永遠に閉じこめられるものではない、と。それから一年後、私は自分の力でハーバード大学の地質学部に合格した。アメリカへ飛び、教授や仲間たちと共に、鉱山や洞窟を巡る日々が始まった。地質ハンマーで岩を打つと、割れた断面には羽のような模様が現れる。岩壁には星のように光る鉱物が散りばめられていることもある。すべてが神秘に満ちていて、胸が高鳴った。そうして、私は学者たちと共に旅を続け、人のいない谷で岩を砕き、鉱石を集め、誰も踏み入れぬ森でデータを測定した。気づけば――もう四年が過ぎていた。帰国したとき、私は卒業論文を仕上げ、国際学会で賞をもらい、そのまま大学に残って研究を続けることになった。久しぶりに彼の名を耳にしたのは、家族と食卓を囲んでいた時だった。兄が何気なく言った。「湊、会社は救ったらしい。でも代わりに取締役会から追い出されたそうだ。それでも彼は気にせず、自分の株の半分を全部寄付したってさ」兄は少し寂しげに笑った。「……『名門の仏子』なんてあだ名でからかってたけど、まさか本当に坊さんになるとはな」そう、湊は出家を選んだのだ。兄は一枚の書類を差し出した。「これ、彼の名義の残り半分の資産だって。『本来これは夫婦の共有財産だから、お前のものだ』って言ってた。あと、『ごめん』とも」私は静かに書類を受け取り、ただ頷いた。翌日、私は彼から譲られたすべての資産を、国内の地質調査研究所へ
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