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さよならは、笑顔の後で
さよならは、笑顔の後で
作者: 仲原

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作者: 仲原
last update 公開日: 2026-07-01 22:21:27

 いつまでも黒いままのディスプレイ。

 暗く重い雲から落ちる雨が、一つ、又一つと足下に小さな染みを作っていく。

 残念ながら傘は携帯しておらず、時と共に大きさを増す水滴によって少しずつ全身が濡らされていく。徐々に重みを増して不快感を強めていくのは、今日のためにと選んだ衣服だ。張り付いた布地から感じた気持ち悪さに無意識に顔を歪めるのだが、すれ違う人は誰もこちらに気を止めることはしてくれない。

 本当ならば、大きな声を上げて泣きたかった。

 それでもそれを行動に起こすことが出来なかったのは、ちっぽけなプライドが邪魔をしたからだ。

 みっともない。

 そう思うと、無意識に笑いが込み上げてくる。

 俯いた表情は前髪のせいで見られることは無かったが、頬を伝う涙は静かに流れ雨粒と混ざり合う。

 悔しくて仕方が無かった。

 何故? 何故? 何故? 何故!

 そんな言葉だけがずっと頭の中をリフレインして止まらないほどに悔しくて仕方が無い。

 何処で間違ってしまったのだろう。

 もしかしたら……始めから間違っていたのかも知れない……。

 久藤くどう海亜みあには、昔から好きな人が居た。

 勿論それは彼女の片思いで、思いを寄せている相手に対し、一度も『好き』だと伝えたことはない。その理由は至って簡単で、その人にはお付き合いをしている相手が居たからだ。

 報われない想いならば、わざわざ伝えて傷を深くする事も無い。元々己を主張することが苦手だった彼女は、募る思いに蓋をし、自らの心を騙して笑顔の仮面を被ることを選択する。それが例え己の心を傷つけることだとしても、何らかの形で傍に居られるのであればそれで構わないとすら思って居た。

 そんな彼女の境遇に変化が起こったのは、想いを寄せていた相手が付き合っていた女性と別れた頃だ。

 普段なら滅多に鳴ることの無いスマートフォン。終わらないコール音に唾を飲み込むと、意を決して電話を取る。

「もしもし」

 着信の相手が誰なのかは既に分かっている。だからこそ緊張して上手く声を出すことが出来ない。暫くの沈黙。気まずい空気を破ったのは、電話の向こう側に居る相手の深い溜息だった。

『話したいことがある』

 何度聞いても耳に馴染むことが無い低い声に、思わず肩が跳ねてしまう。

「な……なんでしょうか」

 怯えるようにそう答えると、相手は再び溜息を吐いた後、ゆっくりとこう答えた。

『一度、こちらに戻ってきなさい』

 突然の要求に頭の中に浮かぶ疑問符。普段は殆ど干渉してこない人が、一体何の用だろうと無意識に警戒してしまうが、相手は黙ったままこちらの返事を待っているだけ。

「何故ですか?」

 仕方なくそう問いかけると、非常に歯切れの悪い言葉で相手はこう返す。

『電話では話しにくい。直接会って伝えたいのだが……』

 出来ることならば、こちらは相手に会いたくない。だが、いくらそう願ったところで、彼女の主張が通ることなど一切無いことは、彼女自身も分かっている。

「……分かりました」

 諦めたようにそう答えると、相手はこちらの都合を確認することなく、『迎えを寄越す』と一方的に電話を切ってしまった。

「…………」

 ディスプレイには通話を終わらせるための赤い受話器のマーク。受話口から聞こえてくる通話切断音が、早く通話を終えろと催促しているようで気が滅入る。右手の人差し指で画面に触れると、役目を終えた電話に休みを与える。切り替わったディスプレイに映し出されたのは最近見かけた茶色の猫で、行きつけのカフェのテラス席でのんびりひなたぼっこをしているその子に、思わずシャッターを切ったものだ。人間の事など気にしていないような自由な雰囲気が結構気に入っていてゆっくりと指で猫を撫でる。

「……可愛い」

 偶然にも出来の良い画角で取れた力作は、先ほどの嫌な気持ちを少しだけ軽減してくれる。漸く少しだけ。張っていた気を緩めて呼吸が出来る感覚。しかしそれもつかの間で、端末に設定していた省エネモードが容赦なく、その画面を真っ黒に染めてしまった。

「あ」

 容赦ない切り替えはまるで、先ほど通話を行っていた相手のようだ。

「……はぁ」

 気持ちを切り替えるべく頭を左右に振ると、顔を上げて空を見上げる。太陽の位置はまだ随分と高い。肌にまとわりつく熱気に、じんわりと汗が浮かんだ。

 海亜の元に迎えが来たのは、電話があってから五時間後のことだ。

 メッセージが届いたことを知らせる通知。ディスプレイに映し出された一文に、バッグを持って階下に下りる。エントランスを抜けマンションを出ると、圧倒的な存在感を放つ黒塗りの高級車が一台。傍らには真っ黒なスーツに身を包んだ老年の男性が待期し、彼女の存在に気がつくと軽く会釈をして高級車へと誘った。

「お嬢様、どうぞ」

「ありがとうございます」

 開かれたのは重厚感のあるドアだ。滑り込ませるように後部座席に乗り込むと、手触りの良い革張りのシートへと静かに腰を下ろす。直ぐに閉じられた扉は、容赦なく車内と向こう側の世界を切り離し、即座に居心地の悪さが彼女に寄り添う。運転席に乗り込んだ男性がエンジンを掛けると、車はゆっくりと走り出した。

 まるで作られた映像のように流れて行くのは外の景色だ。楽しそうに笑う学生の姿を羨ましげに見つめ浮かべた笑みは、どこかしら悲しげなもので。

「最近はどのようにお過ごしでしょうか?」

 社交辞令のような問いかけに、「いつも通りです」とだけ答えて口を閉ざす。

「偶にはこちらにもお顔をお出し下さい」

 その台詞は男性本人の気持ちから出たものなのだろうか。

「用事が無いのでそれは難しいです」

 口から出たものは小さな拒絶を示す言葉で、お願いだから放っておいて欲しいという細やかな抵抗だった。

「そんなことは仰らないで下さい」

 男性は困ったように眉を下げると、彼の使える主の思いを代弁するかのように言葉を続ける。

「旦那様も、お嬢様が帰ってくることを心待ちにしておりますよ」

 その言葉を聞いた瞬間、海亜の表情が固まる。

「お嬢様?」

「……そんなわけ……ないじゃない……」

 別に彼を責めるつもりはない。この男性にとって使えるべき主は海亜の父親で、海亜自身ではないのだから当然、彼女の好まない言葉を返すのは仕方の無い話。ただ、いくら頭で理解していたとしても、心がそれを受け入れるかというとそうではなく、どうしても納得できない憤りを感じてしまうのも事実なのだ。

「お父様は、私の事なんて興味ないから」

 記憶の中に残る思い出では、幼い頃は、父親とそれなりに仲が良かったことを覚えている。それなのに今では互いの距離はどこまでも遠い。そうなってしまった理由は彼女が小学校の頃、母親が病気で他界したことだ。それが擦れ違いの始まりで、時間の経過と共に彼らの繋がりは薄れていってしまった。

「必要が無ければ連絡すらしてこない相手なんて、父親じゃないと思います」

 静かに瞼を伏せると、今は亡き大切だった人のことを思い出す。惜しみない愛情を与えてくれた大好きな人。海亜は母親のことをとても慕っていた。だからこそ、この世界から母親が居なくなったこと告げる父親が、幼い海亜には許せなかった。故人を偲ぶ時間すら与えてくれない彼に対して抱く憤り。売り言葉に買い言葉で起こった喧嘩は落としどころを見つけられないまま、未だに微妙な関係を継続させ改善する気配を見せない。

「それに、あの人は私よりも、新しい家族の方が大事なんですよね?」

 自分だけが異質。本来ならば幸せなはずの家族という空間に、いつ頃から『他人』が入り込んだ事も気に入らない。母を失って悲しみに暮れていた海亜にとって、時間を空けずに父親が再婚をしたという事実が受け入れがたく、小さな痼りだったはずの蟠りは更に大きな隔たりとなって二人の繋がりを引き裂いていく。

「そんなことはありませんよ」

 慣れた手つきでハンドルを操る男は静かに言葉を紡ぐ。

「旦那様は、お嬢様のことを誰よりも大切になさっております」

「そんな嘘はやめてください!!」

 この会話も一体何度目だろうか。

「冗談で言っている訳ではございません」

 もういい加減察して欲しい。そんな思いから運転席に座る男性を睨み付けると、バックミラー越しに目が合ってしまった。

「旦那様はただ、不器用なだけでございますよ」

 小さな鏡の中の世界でこちらを見る彼の瞳はどこかしら悲しそうなものだ。それでも海亜は気付かないふりをして、毎度繰り返される定例句のような台詞に聞きたくないと耳を塞ぎ顔を背けると、それ以降は一切会話の無いまま目的地までのドライブは続く。

 国道から高速道路に入り、二つ目のインターチェンジで下りる。四車線の道を暫く走行した後、一本ずつ減っていく道路。黒塗りの高級車はやがて、私有地である広い土地へと吸い込まれていき、重厚な鍛鉄造りの門扉が開かれると格式のある洋風の建物が視界に入った。

「…………」

 記憶に残る懐かしい外観。確かに懐かしいと感じるのに、同時に思い出の中の映像と少しだけ異なる違和感を感じさせられ気分が悪くなる。

「着きましたよ」

 先に降りた男性が扉を開くと、再び車内の空間と外の世界が繋がり、この状況から逃げられないという現実を突きつけられ表情が暗くなった。

「分かっています」

 すらりと長い白い足が車外に出され、低めのヒールの底が地面に触れる。

「僭越ながら、エスコートさせていただきます」

 差し出されたのは白い手袋を嵌めた形の良い手。

「ありがとうございます」

 それに手を添え身体を持ち上げると、自らの足で立ち目の前に聳える建物へと視線を向ける。

「帰ってきたくなんて無かったのに」

 かつて、この建物は海亜の住む家だったものだ。あの頃は真新しい白い壁が眩しく、大好きな青い屋根に手を叩いて喜んだものだ。今でも丁寧に管理されている庭に様々な植物があるのだが、彼女の好んでいた花は以前より大分減っていることが苛立たしい。

「気持ち悪い」

 手入れをしているのはきっと、父親が再婚した後妻なのだろう。元々母の場所だった所が少しずつ他人に浸食され、思い出を上書きするかのように奪われてしまっていることが気に入らない。

「薔薇は嫌い」

 そんな悪態を吐いてしまうのは、何一つ願いが叶わない理不尽さを嘆くためだった。

「こんな庭、全部潰してしまえば良いのに」

 例えどんなに美しく見せられたとしても、所詮張りぼての虚栄。本物には叶わない安っぽい美しさに吐き気を覚える程、彼女はこの状況を嫌悪してやまない。

「奥様は、お嬢様が考えているような悪人ではありませんよ」

 そんな海亜を諭すかのように男性は柔らかい口調でそう告げると、建物の内側へと誘うべく重厚な扉を開ける。

「どうぞ」

 しん、と静まりかえったホールは少しだけ薄暗い。エントランスに立ちゆっくりと視線を動かすと、天井につり下がっている大きなシャンデリアが淡い光を放ち煌めいている。一歩足を踏み出すと、耳障りな足音が辺りに響いた。

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