Masuk夏の午後の山道って、こんなに蒸し暑いものだっけ。
原付のエンジンがだんだん苦しそうな音を立て始めたころ、私は背中の汗が制服に張り付く感覚に、半分うんざりしながら空を見上げていた。
さっきまで青かった空は、いつの間にか薄く霞んでいて、雲の切れ間から白い月がのぞいている。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「今日って……」
言いかけたところで、彼が先に言った。
「……満月だ」
低い声。
原付のハンドルを握る手に、いつもより少し力がこもっているのがわかった。
「やっぱり」
夜のニュースが流れたあの日から、もう何日も経っていた。
海辺の町を出て、スーパーの裏でバイトしていたカミヤの知り合いに会ったり、山奥の廃工場で一晩過ごしたり、誰もいない公園でカップラーメンを分け合ったり。
その全部が、楽しかった。
怖さと楽しさが紙一重で隣り合っていて、「修学旅行の夜」がずっと続いているみたい
二度目の潜航は、前回とは全く違うルートを取った。 シーサーペントの縄張りを大きく迂回し、南西側から遺跡に接近する。汐音のナビゲーションで黒潮の枝流に乗り、体力の消耗を抑えながら深海を滑っていく。 ツキの残り時間を、頭の中で計算し続ける。潜航開始から二十分。移動に使った時間。残り一時間四十分。 遺跡の南西面は、正面よりも崩壊が進んでいた。巨石が折り重なるように崩れ、かつての壮麗な石壁は瓦礫の山と化している。だが汐音は、瓦礫の隙間から漏れ出る微かな水流を、人魚の感覚で正確に追っている。「……あった」 汐音の指が示した先に、人一人がかろうじて通れる幅の亀裂。岩と岩の隙間から温かい水が流れ出し、細い泡が立ち上っている。 亀裂に手を突っ込んだ。岩の感触。水温が周囲より明らかに高い。そして——振動。シーサーペントの気配はない。「行けそうだ。狭い。お前が先に行け」「カミヤさんの肩幅、通るかな……」「ねじ込む」 汐音が先に亀裂に体を滑り込ませた。尾鰭が折れ曲がるほど狭いが、人魚の柔軟な体がするりと通り抜けていく。 俺は後に続いた。肩が岩に挟まれ、押し込むたびに皮膚が裂ける。腹を削り、背中を削り、ほとんど自分を岩に押しつぶすようにして前へ進む。ツキが首筋で「いたい、いたい」と泣いている。「もう少しだ、耐えろ」「うぅ……がんばる……」 歯を食いしばり、岩の隙間を抜けた—— 瞬間。 水が、消えた。 正確には、水面が現れたのだ。亀裂を抜けた先で、頭上にドーム状の天井があり、そこに空気が溜まっている。水面から頭を出した途端、ツキの加護を介さない本物の空気が肺を満たした。 古い。数千年前の空気だ。鉱物の匂い。塩気。微かに甘い、朽ちた珊瑚の匂い。そして—— 嗅覚が、覚醒した。 水中では封じられていた人狼の嗅覚が、空気と共に一気に目を覚ます。膨大な情報が鼻腔から押し寄せ、脳を圧迫する。「——何だ、この匂い」 甘い腐敗臭。蛇の脱皮した皮のような、
嵐が去った朝の空は、洗い流されたように清廉だった。 東の水平線が薄紫から橙へと燃え上がり、一番星がその光の中に消えていく。崖下の入り江に降りると、海は嘘みたいに穏やかだった。岩場に砕ける波は囁き声ほどの大きさしかなく、水面は朝焼けの空をそっくり映して、液体のオパールみたいに光っている。 潮止まりが近い。 俺は岩場の先端に立ち、足元の海を見下ろした。上半身裸、ハーフパンツ。裸足。水着もウェットスーツもなし。生身で、海の底に潜る。正気の沙汰じゃない。 ツキが首筋にまとわりつき、半透明の影が肌を撫でる。「じゅんびできた。……こわいけど」「ああ。頼むぞ」 指先でツキの輪郭を撫でた。震えている。それは——たぶん、俺の心臓の振動が伝わっているからだ。 影の中で、玄、銀、牙、影の四匹が待機している。水中では大幅に弱まるが、いざという時の切り札。腹の中に四枚の手札を忍ばせておく。 汐音が隣に立った。裸足で、白いワンピース一枚。水に入れば人魚化するから、服は意味がないのだが、「一応、マナーとして」とか言って着ている。目はもう海を見ている。あの静かな目。凪いだ深海の色。「カミヤさん」「ああ」「私の手、離さないで」 白い手が差し出された。 握った。小さい。ひんやりしている。だが——確かな力で、握り返してくる。「離すわけねぇだろ」 汐音が微笑んだ。それから水に向き直り、一歩を踏み出す。足首が水に触れた瞬間、さあっと鱗が走る。水面が彼女を迎え入れるように揺れ、膝、腰、胸——汐音の体が水に沈んでいく。俺の手を引きながら。 俺も足を踏み出した。 冷たい。 水が足首を掴み、ふくらはぎを這い上がり、腿を締めつける。陸の獣の本能が最後の警告を発する。引き返せ。ここはお前の場所じゃない。 構わず進んだ。腰まで浸かり、胸まで浸かり——頭が水面を超えた瞬間、ツキの加護が発動した。 肺に酸素が流れ込む。ツキの影の体を通じて、海中の水分から直接酸素を抽出し、俺の肺に送り込む
予報通り、与那国島は荒れた。 明け方から南風が強まり、昼前には暴風に変わった。崖の上の家は風の通り道にあるらしく、窓という窓がガタガタと鳴り、トタン屋根が地鳴りのように唸り続けている。庭の先の崖から吹き上がってくる潮風が、家中に塩の匂いを充満させる。 汐音は窓に張り付いて、荒れ狂う海を見つめていた。 白波が崖を叩き、飛沫が五十メートルの断崖を越えて庭まで飛んでくる。黒潮の本流が牙を剥き、海面全体が灰色の泡に覆われている。「今日は絶対潜れないね……」 呟いて、唇を噛んだ。あの遺跡の中に、仲間の手がかりがあるかもしれないのに。あと一日——あと一日早く潮止まりが来れば。 でも、海は待ってくれない。潮の満ち引きも、黒潮の気まぐれも、人魚の都合なんか知ったことじゃない。三百年の海暮らしで、それは嫌というほど分かっている。 ため息をついて、作業台に向かった。昨日カミヤさんが崖下から引き揚げてきた化石サンゴの欠片を並べ、研磨の下準備を始める。ルーターの音が低く唸り、細かい粉が舞う。水をかけながら、ゆっくりと表面を削っていく。何万年も前のサンゴが、研磨剤に磨かれて少しずつ光を取り戻していく。 ——これも、命だったんだ。 何万年も前に海の中で生きて、死んで、石になった。それを私が磨いて、光らせて、誰かの首元に届ける。人魚のジュエリーは、海の記憶を纏わせるもの。石垣島で始めた頃は見様見真似だったけど、最近は自分なりのスタイルが見えてきた。 窓の外で、カミヤさんが庭に出た。 上半身裸。雨粒が肌を叩いているのも気にせず、庭の端にタライを並べている。水を張り、影狼を一匹ずつ潜らせて、水中での力の持続時間を測る訓練。昨日の続きだ。 牙が水に沈む。黒い影の輪郭が、水の中で揺らいで薄まっていく。「三十秒で形が崩れ始める。一分で攻撃力は半減。だが——影の杭としてなら、水中でも使える。むしろ水圧があるぶん、杭は安定するな」 カミヤさんの独り言が、風の合間に聞こえる。真剣な声だ
目が覚めたのは、まだ星が残っている時刻だった。 スマホのアラームが鳴る前に、体が勝手に起き上がる。三百年の放浪で身についた習性——行動の前に、必ず夜明け前に覚醒する。暗闇の中で意識が冴え渡り、嗅覚と聴覚が周囲の気配を探る。 波の音。風の唸り。崖の下で海が呼吸するような低い轟き。そして——風呂場から、水の跳ねる微かな音。汐音がもう起きている。 布団から出て、上半身裸にハーフパンツという出で立ちで庭に出た。夜明け前の空は紫がかった紺色で、西の水平線に月が沈みかけている。足元の赤土は夜露に湿り、ひんやりと冷たい。 ツキが首筋にまとわりついてきた。半透明の影が体温のない冷たさで肌に触れる。「こわい……」「知ってる。でも行くぞ」「うん……がんばる……」 小さな声。こいつは五匹の影狼の中で最も臆病で、最も甘えん坊で——そして今日、最も重要な役割を担う。水中の加護。俺が海の底で息をするための、唯一の命綱。 影の中から玄が現れ、無言で俺の横に並んだ。銀、牙、影の三匹も気配を鋭くしている。全員、俺の影に潜伏して待機する。水中では大幅に力が落ちるが、いざという時の切り札として連れていく。「カミヤさん、おはよう」 振り返ると、汐音が裸足で庭に出てきた。月がほぼ沈んだため、足は人の形を保っている。だが目の色だけが——海の底みたいに暗い青に沈んでいる。 いつもの天然さが消えていた。代わりにあるのは、凪いだ水面のような静けさ。こいつが本気の時の顔だ。「潮止まりは五時二十三分。あと四十分。——崖、降りるよ」「ああ」 二人で崖の獣道を降りる。岩場は暗闇の中でも、人狼の夜目と人魚の感覚で足元は見える。波は穏やかだった。潮止まりが近づいている証拠だ。入り江の水面が、夜明け前の空を暗い鏡のように映している。 岩場の先端に立つ。足元の水は黒い。底が見えない。昼間の透き通った海とは別物だ。あの下に、何十メートルもの暗闇が沈んでいると思うと—— 認めたくないが、心臓が速くなった。 陸の獣の本能が、全力で警告している。行
五右衛門風呂の中で、汐音は目を覚ました。 最初に感じたのは、水のぬるさだった。昨夜のうちに月が沈み、足は人間の形に戻っている。指先がふやけて、爪の端が白くなっている。うっかり風呂の中で寝てしまったのだ——何時間浸かっていたのだろう。窓の隙間から朝日が差し込み、水面にゆらゆらと光の模様を描いている。 ぱた、ぱた、と水滴が蛇口から落ちる音。遠くで波が崖を叩く音。そして——隣の部屋から、小さな鳴き声。「くぅん……くぅ……」 ツキだ。カミヤさんの胸の上で丸くなって、寝ぼけた声を出している。甘えん坊の影狼は、夜の間にカミヤさんの懐に潜り込んだらしい。 汐音は濡れた髪を絞りながら、風呂の縁に頬を載せた。隣の部屋は襖一枚で隔てられているだけで、その隙間からカミヤさんの横顔がわずかに見える。畳の上に敷いた布団で、仰向けに眠っている。黒髪が額にかかり、長い睫毛が頬に影を落としている。寝顔は、起きている時のぶっきらぼうさが全部消えて、年相応——いや、外見通りの二十歳くらいの青年に見える。三百年の重みなんて、どこにもない。 胸の奥が、きゅうっと軋んだ。 ——ここが、私たちの家なんだ。 そう思った瞬間、涙が出そうになって、慌てて顔を水に沈めた。ぶくぶくと泡が上がる。水の中のほうが落ち着く。海の生き物だから。泣きたい時は、水に潜ればいい。 三百年間、ずっと一人で海にいた。仲間は散り散りになり、人間に紛れて陸で暮らすようになってからも、本当の意味で「家」と呼べる場所はなかった。石垣島の借家は、一人で住むには広すぎた。テーブルの向かいに誰もいない食卓。夜になれば勝手に人魚に戻る体。月が昇るたびに、人間のふりが剥がれ落ちていく孤独。 それが今、こうして—— ぼろぼろの崖の上の家。錆びた屋根。割れた窓。でも、隣の部屋にはカミヤさんがいて、影狼たちが庭を走り回っていて、五右衛門風呂の湯船には、私がいる。 ——ああ、だめだ。やっぱり泣きそう。 ばしゃん、と顔を上げて深呼吸する。水滴が睫毛を伝い、光にきらきら反射する。「よし」 汐音は風呂から上がり、昨日のうちに
おじいの目が俺と、後ろの汐音とを交互に見る。若い男女がスーパーカブ一台で最果ての島にやってきた。怪しいと思われても仕方ない。 だが、おじいはにやりと笑っただけだった。「崖の上に、一軒あるさ。昔ダイビングショップやってた兄ちゃんが出て行って、誰も借り手がおらんのよ。ボロいけどな」 道を教えてもらい、カブでさらに坂を登る。舗装が途切れ、赤土の道になった先に——それはあった。 潮風に錆びたトタン屋根。割れかけた窓ガラス。壁のペンキは剥げて下地のコンクリートが見えている。庭には機材の残骸が転がり、ホースやウェットスーツの切れ端が風に揺れている。そして庭の先は——断崖。柵もなく、赤土の地面がそのまま空に落ちている。 崖下を覗き込む。紺碧の海が、五十メートル下で白く砕けている。黒潮の流れが岩壁にぶつかり、渦を巻いている。「ここ最高! 庭から海にダイブできる!」 汐音がカブから飛び降り、目を輝かせて崖の縁まで走っていく。「おい、落ちるぞ」「大丈夫、私は落ちても泳げるもん」「俺は泳げねぇんだよ」「えへへ」 ……何がえへへだ。 だが、立地は悪くない。集落から離れているから、人目がない。夜中に影狼を庭で遊ばせても、月光で汐音が人魚に戻っても、誰にも見られない。それに、崖の下にプライベートの入り江があるなら、そこから直接海に潜れる。ダイビングショップがここに店を構えたのも頷ける。「カミヤさん、中見てみよ!」 汐音に手を引かれ、錆びたドアを開ける。蝶番が軋み、埃っぽい空気が鼻を突く。中は——ボロい。率直に言ってボロい。畳は日焼けし、天井の隅にクモの巣が張り、壁に前の住人が貼ったダイビングポイントの地図がそのまま残っている。キッチンは最低限の設備。風呂は——「五右衛門風呂、生きてる! やった!」 汐音が奥の浴室から叫ぶ。大きな石造りの風呂桶が、塩害に強い頑丈な造りでどっしりと鎮座していた。蛇口を捻ると、錆びた色の水がしばらく出た後、透明な水に変わる。「これなら、夜に人魚になっても大丈夫。お風呂に浸かっ
アスファルトは、さっきよりも少し湿っていて、鼻をつくカビ臭さが混じっていた。頭上には、ビルの壁が迫ってくるようで、空が細く切り取られている。「ね、名前、なんていうの?」「……ナギ」「ナギちゃん。いいね、その名前。芸名にも使えるよ」 名前を呼ばれても、心は少しも弾まなかった。 路地を抜けると、突然、視界が開けた。 そこには、真っ暗な駐車場が広がっていた。ビルの陰に隠れるようにして、何台かの車が停められている。その向こうには、窓ガラスの割れた古い廃ビルが、夜空に黒い影
人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。「そんな顔で食うな」 隣で、狼谷がぼそっと言った。「変な顔ってこと?」「うまそうに食いすぎ」 彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。「……冷てぇ」「レンジで温めてもらえばよかったのに」「いい。これで」 本当に、どうでもよさそうな顔で言う。
原付は、街の灯りを次々と背中に置き去りにしていった。 コンビニの白い光も、カラオケボックスの派手なネオンも、いつの間にか見えなくなって、代わりに、オレンジ色の街灯と、遠くの国道を走るトラックのヘッドライトだけが、夜の景色に点々と刺さっている。「ねえ」「……今は黙って掴まってろ」「でも——」「落としたら面倒だ」 狼谷の声は、相変わらず低くてぶっきらぼうだ。 私は、腰に回した腕を少しだけ強く握る。怖いとか、そういうのじゃなくて——こうしていないと、現実感がすぐにふわっと消えてしま
「……は?」「な、なんだよ、これ……」 背後の男たちが、慌ててポケットから何かを取り出そうとした。たぶん、さっき黒川が見せたようなナイフか、それ以上のもの。 だけど、彼らが武器を抜くより早く。「殺すな」 フードの男が、短く言った。 それだけで、狼たちの耳が、ぴくりと一斉に動く。「骨は折っていい。深くは、噛むな。血もあんまり出すな」「——は?」 狼たちが、同時に動いた。 真っ黒な影が、風より速く、黒川たちに飛びかかる。牙が閃く。けれ







