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猫と引き換えに、婚約者を捨てました

猫と引き換えに、婚約者を捨てました

By:  枝の酒Completed
Language: Japanese
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私、三宮絵里華(さんのみや えりか)は、一週間の出張中、ペットシッターに猫のモカの世話を頼んでいた。 なのに。 出張二日目、リビングに設置した見守りカメラが映し出したのは──見覚えのある顔だった。 婚約者の針金晃範(はりがね あきのり)の幼なじみ・蛯子杏紗(えびこ あずさ)が、よりによって暗証番号を押して玄関から入ってくる。杏紗はその足でモカのフードボウルに近づくと、ぽいっと一粒、ブドウを放り込んだ。 そしてカメラに向かって、杏紗はにっこり笑いかけてくる。 「ブドウは食べないんだって、モカちゃんって賢いねえ」 その直後──カメラの映像はぶつりと途絶えた。 なんなの、これ。 すぐペットシッターに連絡して、慌てて晃範に電話をかける。 「また杏紗に暗証番号、教えたの?モカにブドウ食べさせて、おまけに見守りカメラの電源まで抜かれてるんだけど」 受話器の向こうから返ってきたのは、苛立ちを抑えきれていない声だった。 「モカは平気なんだろ。杏紗はちょっとからかっただけだ。悪気はなかったって謝ってたぜ。ついでにカメラも倒しちゃったってよ。大げさなんだろ、お前は。 俺と杏紗は物心つく前からの仲だ。結婚したら縁を切れって言うのか?……杏紗の言った通りだ。お前は、ちょっと重いんだよ」 38回。 暗証番号を変えたのは、38回だ。 晃範は、そのたびに杏紗に新しい番号を教えた。 私はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。 39回目は、もういいや──ふと、そう思ってしまった。

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Chapter 1

第1話

出張から帰宅し、ドアを開けると、晃範がリビングのソファで杏紗と楽しそうに笑い合っていた。

玄関はしんと静まりかえっている。いつもならモカが真っ先に駆け寄ってきて、足元にごろんと寝転がり、甘えてくるところなのに。

「モカ……?」

ようやくソファからこちらを振り向いた晃範が言った。

「一週間ぶりに帰ってきて、猫しか目に入らないのかよ。客が来てるの、見えないわけ?モカは杏紗に懐かないから、ケージに入れてある」

スーツケースをその場に置き、キャットタワーのそばのケージへ急ぐ。モカはぐったりとうずくまり、私の手のひらにそっと頭をこすりつけて、か細く鳴いた。

しゃがみ込んだまま、ケージの隅に置かれたフードボウルに目をやる。中にもう一粒、ブドウが見えた。

「モカはいい子だよ。理由もなく誰かに怒ったりしない。──その誰かに、よっぽど悪意がないかぎりは」

フードボウルを取り出し、中身のキャットフードごとブドウをゴミ箱に捨てる。ボウルの縁を握る手に力が入る。

杏紗がはっと息を呑んだ。その視線が、迷うように晃範へと向かう。

それを受け止めた晃範が、すかさず眉をひそめて口を開く。

「絵里華、こんな些細なことでいつまでもぐちぐち言うのかよ。杏紗はちょっとふざけただけだ。モカがブドウに慣れておけば、将来誤って口にしなくて済むだろ。

モカのためを思ってやってくれたんだ。俺だってモカの面倒を見てるんだぞ。この俺がモカに悪いことをするとでも?」

私は振り返らずにキッチンへ向かう。冷蔵庫を開け、モカのごはんを用意しようとして──手が止まった。

冷蔵室にあった、母が送ってくれた梅干しの瓶が消えている。代わりに冷えているのが、ブドウを使ったらしい手作りケーキだった。

ゴミ箱を見下ろすと、やっぱりそこに捨てられていた。瓶は割れ、大粒の梅がガラスの破片に埋もれている。

つい一週間前、父から電話があったのを思い出した。

「絵里華、今年も庭の梅がよく実ってな。母さんがお前のために、今年も梅干しを漬けたんだ。お前、小さい頃から梅干しが好きだったろ?種があると食べにくいからって、母さん、一粒ずつ種を取って、はちみつ漬けにしたんだ。

仕事が忙しくても、飯はきちんと食べろよ。炊きたてのごはんに、母さんの梅干しがあれば、それだけで十分だって、お前、昔はおかわりしてただろ」

あんなに手間をかけて送ってくれたのに。まだ一粒も口にしていなかったのに。

キッチンを出て、ソファでじゃれ合う晃範と杏紗の前に立つ。

「冷蔵庫に入ってた、うちの両親が届けてくれた梅干し。捨てたの?」

杏紗がくるりと振り返って言った。

「ああ、ごめんなさいね。冷蔵庫、小さいからさ。ケーキを冷やさないと傷んじゃうし。ちょっと場所、空けさせてもらったの。

そもそも晃範が悪いのよ。引っ越すときにさあ、私、もっと大きい冷蔵庫にしようよって言ったじゃん?そしたらいろいろ入ったのに、絵里華さんがキッチンの間取り変えられないから無理だってこいつが言うんだもの。私が我慢するしかなかったの」

そう言って杏紗は、晃範の胸をぽんと叩いた。

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松坂 美枝
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結婚前の家に堂々と乗り込んできて主人公の飼い猫を勝手に交配に出す女とそれを許すクズ男 もう怖すぎて無理 主人公がしっかり対処してくれて良かった あの弁護士は結局顔見知りなのかオンラインゲーム仲間なのかわからんかった
2026-08-27 09:31:50
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10 Chapters
第1話
出張から帰宅し、ドアを開けると、晃範がリビングのソファで杏紗と楽しそうに笑い合っていた。玄関はしんと静まりかえっている。いつもならモカが真っ先に駆け寄ってきて、足元にごろんと寝転がり、甘えてくるところなのに。「モカ……?」ようやくソファからこちらを振り向いた晃範が言った。「一週間ぶりに帰ってきて、猫しか目に入らないのかよ。客が来てるの、見えないわけ?モカは杏紗に懐かないから、ケージに入れてある」スーツケースをその場に置き、キャットタワーのそばのケージへ急ぐ。モカはぐったりとうずくまり、私の手のひらにそっと頭をこすりつけて、か細く鳴いた。しゃがみ込んだまま、ケージの隅に置かれたフードボウルに目をやる。中にもう一粒、ブドウが見えた。「モカはいい子だよ。理由もなく誰かに怒ったりしない。──その誰かに、よっぽど悪意がないかぎりは」フードボウルを取り出し、中身のキャットフードごとブドウをゴミ箱に捨てる。ボウルの縁を握る手に力が入る。杏紗がはっと息を呑んだ。その視線が、迷うように晃範へと向かう。それを受け止めた晃範が、すかさず眉をひそめて口を開く。「絵里華、こんな些細なことでいつまでもぐちぐち言うのかよ。杏紗はちょっとふざけただけだ。モカがブドウに慣れておけば、将来誤って口にしなくて済むだろ。モカのためを思ってやってくれたんだ。俺だってモカの面倒を見てるんだぞ。この俺がモカに悪いことをするとでも?」私は振り返らずにキッチンへ向かう。冷蔵庫を開け、モカのごはんを用意しようとして──手が止まった。冷蔵室にあった、母が送ってくれた梅干しの瓶が消えている。代わりに冷えているのが、ブドウを使ったらしい手作りケーキだった。ゴミ箱を見下ろすと、やっぱりそこに捨てられていた。瓶は割れ、大粒の梅がガラスの破片に埋もれている。つい一週間前、父から電話があったのを思い出した。「絵里華、今年も庭の梅がよく実ってな。母さんがお前のために、今年も梅干しを漬けたんだ。お前、小さい頃から梅干しが好きだったろ?種があると食べにくいからって、母さん、一粒ずつ種を取って、はちみつ漬けにしたんだ。仕事が忙しくても、飯はきちんと食べろよ。炊きたてのごはんに、母さんの梅干しがあれば、それだけで十分だって、お前、昔はおかわりしてただろ」あんなに手間
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第2話
「それにさ、絵里華さん。そういう漬物ってあんまり食べないほうがいいよ。体に悪いものも多いし、若いうちからそんなのばかり食べてると、体壊しちゃうよ。ご両親みたいに年を取っていれば、まあ今さら気にしてもしょうがないけどね。絵里華さん、まだ晃範と婚約したばかりでしょ。そんなものばかり口にしてたら、赤ちゃんができにくくなるかもしれないじゃない?自分のことだけじゃなく、晃範のためにも考えなよ。このままだと、ご両親、孫の顔が見られないままになっちゃうよ?」私が言い返そうとした、その時だ。すると杏紗は、急に紙袋を手に、笑いながら目の前に歩いてきた。「これ、婚約祝い。気に入ってくれるといいんだけど」紙袋の中には、葉酸のサプリが二箱、無造作に入っている。「絵里華さんも、もう若くないんだから。今のうちからちゃんと葉酸を飲んでおかないと。元気な赤ちゃんが生まれるように、私もできることはしておきたいんだ。私、この子のお世話、すごく楽しみにしてるからね」「結構」と、私は差し出された紙袋を押しのけた。そのはずみで紙袋は杏紗の手から落ち、二つの箱が床に転がる。それを見た晃範が、すぐさま顔をこわばらせた。その手は、迷いなく杏紗の肩を引き寄せた。「いい加減にしろよ。杏紗がせっかく心を込めて選んでくれた贈り物を、そんな風に扱うなんて、お前、お嬢様ぶるのも大概にしろ」彼女の味方をするその姿に、私は胸を突かれる。足元の葉酸を見下ろし、私は思わず笑いがこみ上げてきた。忘れているの?私こそが、彼の妻なのだということを。スマホを取り出し、薬局の通販サイトに載っている特価品リストを晃範の前に突きつける。「これが心のこもった贈り物?半額シール貼られてた処分品じゃない」杏紗の顔色が変わり、思わず晃範の手を握る。「私はそんなつもりじゃ……」晃範が、言葉を詰まらせる。「もういいだろ、絵里華。そこまで騒ぐことか?杏紗は、金額じゃなくて気持ちだって言ってるだろう。お前のことを思って買ってくれたんだ。特価品の葉酸のどこがいけない。お前だって前に、安売りの試供品みたいなフードをモカに買ってただろ。いつもモカのこと、我が子みたいに可愛がってるよな。モカはそれで平気なんだから、お前だって同じだ」かつて、私の食事を冷ましてから食べさせてくれた恋人が、こんな
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第3話
私はその場にしゃがみ込み、晃範の差し出す箱には手を伸ばさず、ただモカの頭を静かに撫でていた。晃範の表情が、見る間に固くなっていく。「絵里華、いい加減にしろ。俺が女へのプレゼントなんて、うまく選べるわけないだろ。杏紗がわざわざ手伝ってくれたんだ。お前は肌が白いから、ゴールドが似合うって杏紗が言ってた。こんなに世話になった相手に、友達としてお礼をしただけだ。それすら気に入らないのか?お前はどうして、そんなに絡んでくるんだよ。俺は、お前が猫を子ども扱いして飼ってるのだって、文句も言わずに付き合ってきた。なのになんで、俺の友達付き合いにここまで口を出してくるんだ!」一方的にまくしたてると、晃範は杏紗の手を引いて背を向けた。私はモカのとなりでゆっくりと腰を下ろした。夜が更けていくのを、ただその場で感じていた。モカは私にとって、ただの猫じゃない。亡くなった祖母が、私のために残してくれた、唯一の形見。家族なんだ。晃範はとっくに知っているはずなのに。深夜2時過ぎ、杏紗からメッセージが届いた。添付された動画には、酒に酔って顔を赤くした晃範がボックス席にだらしなく凭れかかる姿が映っている。薄暗い照明の下、杏紗は彼の顎をぐいとつまみあげていた。「絵里華さん、安心してね。私がこのバカをしっかり叱っておくから。明日には必ず連れて帰って、ちゃんと謝らせるからね。もう二度と絵里華さんに当たったりしないって約束させるから」杏紗はそう言いながら、晃範の頬をぽんぽんと叩く。その手つきは、親しげなのに妙に馴れ馴れしかった。「わかった?もう絵里華さんを怒らせたりしないよね?」呂律の回らない声で、晃範が繰り返す。「ごめん……もう、しねえ」そのやりとりをぼんやりと眺めながら、何かが冷えていくのを感じていた。翌日、夕方近くになってようやく晃範が帰ってきた。手に提げているのは、私の大好物だった料理店の袋。首元にはアルコールの軽いアレルギーで、赤い発疹が浮かんでいる。昔はアレルギーが心配で、私が絶対に酒を飲ませなかった。昨夜は杏紗と、派手に羽目を外してきたらしい。「悪かった、絵里華。お前にも、モカにも、ひどいことを言った。これはお詫びだ」料理店の袋の後ろから、晃範はモカがいつも食べている高級キャットフードの大袋も差し出した。何か言お
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第4話
晃範が階段を上がっていく背中を見つめながら、私は泣きそうになりながら、二、三歩後ずさった。この家を買ったばかりの日、晃範は私を抱き上げて、リビングでくるくると回った。その光景を覚えている。「絵里華、やっと俺たちだけの家ができたな。これから少しずつ、俺たちの思い出でこの家をいっぱいにしていこう」まる二年かけて、心を込めて整えた家だった。ここは私と晃範、二人だけの世界だと、晃範が初めて玄関の暗証番号を杏紗に教えたあの日まで信じていた。最初は資料を取りに来てほしいから。次は食事を作ってほしいから。そうしているうちに、私のスリッパ、クローゼットの新しいブラウス、買ったばかりで、まだ包装も開けていないアクセサリーを、いつの間にか杏紗が身につけるようになっていった。晃範はそのたびに「幼なじみだから」と説明し、私はそのたびに暗証番号を変えた。彼はそのたびに新しい番号を杏紗へ送る。終わりのない繰り返しだった。そして今、杏紗は【婚前彼女・体験チケット】なるものを手に、私の家へ転がり込んできた。かつて確かなものだと思っていたこの関係は、どうやら袋小路に迷い込んだらしい。夕方、チャイムが鳴った。キッチンから出てドアを開けると、作業服を着た配達業者が立っている。「蛯子杏紗様でいらっしゃいますか。ご注文のシューズボックス、お届けに参りました」杏紗がネグリジェ姿で二階から駆け下りてくる。「やっと来た。私のヒール、これでちゃんと置ける」杏紗は設置作業を見張りながら、私の背中を押してキッチンへ追いやった。「絵里華さん、晃範から聞いたんだけど、エビ料理がすごく得意なんだってね。今夜のごはん、楽しみにしてる」その後も、ひっきりなしにチャイムが鳴り続けた。――除湿機、プロジェクター、マットレス。次々と家の中へ運び込まれる。夕食前には、杏紗が注文した大型の冷蔵庫が届いた。彼女は配達員に指図して、もともと入っていた私の冷蔵庫をキッチンから運び出させる。オーダーした造り付けの食器棚に、新しい冷蔵庫が擦れて深い傷を残した。「絵里華さん、この冷蔵庫、私からの結婚祝いってことで。次にお母さんの梅干しが届いても、ゴミ箱に捨てなくて済むでしょ。私の好きなジュースとパックも一緒に入れられるし」そう言いながら杏紗は、片手間に私の冷蔵庫を撮影し、フリマアプリ
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第5話
買い主の部屋に駆けつけ、ドアを叩いた。中から、モカの悲鳴のような鳴き声が聞こえてくる。慌てて部屋に踏み込むと、杏紗がモカを押さえつけ、無理やり口に薬をねじ込もうとしていた。「この役立たずが。ちょっと頑張れば一回十万円なんだよ。今まで高いメシを食わせてもらったんだから、恩返しするのが当たり前だろ」杏紗を突き飛ばし、かがみ込んでモカを抱き上げる。モカは小さく震えている。すぐに警察が踏み込み、杏紗を取り押さえる。「通報がありました。住居侵入および窃盗の容疑です。署までご同行願います」杏紗が必死にもがく。「窃盗なんかじゃない。私は晃範の彼女よ。絵里華さん、違うよね、説明してよ」私は杏紗が連行されていくのを、動かずに見ていた。目に浮かぶのは、憎しみだけだった。「その責任は、最後まで追及するから」自宅へ戻り、部屋の中を見回す。何も変わっていないのに、まるで他人の家のように感じた。すぐに荷物をまとめ、モカを車に乗せて家を出る。走り出して間もなく、スマホが鳴った。晃範だ。何度切っても、しつこくかかってくる。通話ボタンを押した。最初に聞こえたのは、謝罪の言葉ではなかった。怒りに満ちた声だった。「お前、正気か。杏紗を通報するなんて、どうかしてるぞ。たかが女一人だ。前科がついたら、あいつがどうなるかわかってるのか」思わず笑いがこみ上げてきた。今になって杏紗は「女」か。「杏紗が全部話してくれたよ。モカが1歳になっても去勢してないから、発情がつらそうで、いい相手を探してやったんだってな。配慮が足りなかったかもしれないが、これも全部モカのためだろ」私はブレーキを踏み込んだ。「晃範。警察が調べたの。杏紗は私たちの知らないうちに、暗証番号を勝手に使って家に入り、モカを無理やり連れ出して交配させてた。それも一度や二度じゃない、七回もよ。ネットで買った違法な興奮剤までモカに飲ませてた。今からモカを病院に連れて行く。もしモカに何かあったら、私、絶対に杏紗を許さないから」受話器の向こうで、晃範は少し黙った。そして、ため息まじりに言った。「絵里華、まだ騒ぐつもりか。杏紗が土下座して謝れば気が済むのか。猫のために、杏紗を壊すつもりなのか。そこまでしてこの話にしがみつくなら、お前の性格じゃ結婚生活は無理かもしれないな。式は、延期だ」
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第6話
受話器の向こうが、一瞬静かになった。相手が何か言うより先に、私は通話を切った。かかりつけの動物病院に連絡して、その足でモカを連れて診察へ向かった。幸い、モカの体に目立った異常はなかった。ただ、以前よりはだいぶ元気がなくなっている。「普段からできるだけ一緒にいてあげてください。家の中は、猫にとっては意外と退屈な場所ですからね。それにしても、人の飼い猫に目をつけて金儲けだなんて、ひどい話です。きっちり罰してもらわないと」獣医はモカを撫でながら、なだめるように言った。それから、モカが大好きなヨーグルト味のフリーズドライをひと袋おまけにくれた。帰りの車中、モカは助手席でぐったりとうずくまっていたが、それでもどこか安心しきったような寝息を立てている。その寝息は、もう安全な場所にいるのだという安心感を伝えていた。同僚が手を伸ばして、その頭を何度も撫でた。「モカちゃんをここまで怖がらせて。かわいそうに、ほんとに胸が痛い」ハンドルを握る手に力が入る。頭の中には、杏紗の顔ばかりが浮かんでいる。私が家を空けていた間、何度こっそり暗証番号を押して上がり込んだのか。いったいどれだけモカにひどいことをしたのか――そう考えるだけで、悔しさと怒りがじわじわと広がっていく。しばらく考えてから、口を開いた。「高校の同級生で、弁護士がいたよね。こういう案件、受けてもらえるかな」同僚は一瞬考えて、すぐにその名前に思い当たった。「三縞誠司(みしま さとし)くん?彼、今すごいんだよ。業界でもトップクラスの弁護士で、依頼が殺到してて外からじゃなかなか順番が回ってこないって話だよ」そう言ってから、同僚の瞳に決意が宿った。「でも、彼のスケジュール、私から聞いてみる。杏紗みたいなの、絶対に許せないでしょ。三縞くんにすがりついてでも、絶対に引き受けてもらうから」私は思わず小さく笑った。「ありがとう。お礼は明日、ごはん奢るね」モカを連れて、以前住んでいた家に移った。しばらく掃除をしていなかったせいで、床にはうっすらとほこりが積もっている。ルンバを起動させてから、とりあえず必要なものだけをまとめて片付けた。慣れ親しんだわが家に戻ったモカは、廊下を駆けまわり、部屋中を走り回っている。猫用のケージは、陽当たりのいいベランダの定位置に戻した。お気に入り
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第7話
「絵里華。やっと出てくれたわね。昨日のことは、晃範から全部聞いたわ」受話器の向こうから、疲れきった声が返ってきた。「たしかに、晃範と杏紗が悪かった。彼女体験チケットだなんて、馬鹿げてるにもほどがある。気を悪くしないでちょうだい。晃範と杏紗を連れて、きちんと謝りに行かせるから。これからはもう、杏紗に妙な真似は絶対にさせない。それに、例の猫の話も聞いたけど、何もなかったんでしょ。猫は人間じゃないんだし、杏紗のやったことはたしかに軽率だったけど、猫ごときのことで人に前科をつけるなんて、おかしいでしょ」「猫ごとき」──晃範の母親にとって、モカはその一言で片づく存在だった。もし何かあったとしても、所詮は猫なんて、杏紗と比べるまでもないのだろう。「あの猫は、祖母が亡くなる前に一緒に選んでくれた子です。私にとっては、ただの猫じゃない。祖母が残してくれた、たったひとつの形見なんです」晃範の母親はちょっと黙って、息子と同じようにため息をひとつ落とす。「絵里華、それはあなたがわがままなだけよ。杏紗は小さい頃から知ってるけど、あの子は無邪気で優しい子で、あなたに意地悪するような子じゃない。晃範から聞いたわ。あなた、杏紗を目の敵にして、晃範に縁を切れって言ってるんですってね。あの子たちは赤ちゃんの頃からずっと一緒で、家族ぐるみの深い絆があるの。ちょっと言いにくいけど、晃範の婚約者だからって、何でもあなたの思い通りになるわけじゃないの。この家の決め事は、よそ者が口を出すことじゃないの」苛立ちがこみ上げてきて、気づけば私は冷ややかな笑みが浮かんでいた。「その話、もう心配いりません。私は晃範とは結婚しませんから。これから彼が誰と家族みたいに仲良くしようと、私には関係のないことです。責任は最後まで追及します。説得もいらないし、年上の立場で私を押さえつけようとしないでください。晃範とはもう別れたので、あなたも私にとっては、赤の他人も同然です」言い切って電話を切った。その直後、インターホンが鳴る。ドアを開けると、晃範が立っていた。昨日と同じ服のまま、髭も剃らず、疲れきった顔をしている。私の顔を見た瞬間、その目にわずかな光が灯った。「絵里華、家に戻ったらお前の荷物が全部なくなってたから、もしかしたらこっちかと思った。どんなに喧嘩しても、どん
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第8話
「玄関に監視カメラをつけた。これ以上うちの前に現れたら、警察に通報するから」一歩下がって玄関の内側へ入り、ドアに手をかけた。「今日、親戚には全部話す。そっちも親戚にちゃんと伝えて。さっきみたいに、あなたのお母さんが私に電話してきて、説教してくるのは、もうやめさせて。二度とね。じゃないと、こっちも言い返すから」晃範の顔色が変わった。「母さんがお前に連絡したのか。悪かった、それは知らなかったんだ……」その言葉に、私は思わず笑みがこぼれた。「あら、知らなかったの?あなたのお母さんの性格を、あなたが知らないはずないでしょ。私の悪口をあちこちで言って、それで黙ってると思ったの」晃範はぐっと言葉に詰まった。自分が何をしたのかも、母親を使って私を押さえつけようとしたことも、この男はよくわかっているのだ。「全部俺が悪かった。ちゃんとできなかった俺のせいだ。でも、杏紗への仕打ちは、さすがにやりすぎじゃないか。あいつはちょっと遊びがすぎただけで、本気で悪いことをしようとしたわけじゃない。杏紗、今警察署で取り調べを受けているんだ。あいつはまだ若いんだぞ。これから仕事もあるし、前科がついたら将来がめちゃくちゃになる。お前だってわかるだろ。大目に見てやってくれないか」眉をひそめて晃範を見た。何年もそばにいた。この人はずっと私に優しかった。モカを連れて帰ったばかりの頃は、これからは一緒に面倒をみよう、絶対に手放さないと、肩を抱いて約束してくれたのに。結局、大目に見てやってくれと、今、彼は言う。「あなたは傷ついてないから、私が大げさに騒いでるだけだと思えるんだよ。モカは子猫の頃から育ててきて、私にとっては祖母の形見なんだ。じゃあ、何があったら騒いでもいいの?違法な薬を飲まされて、モカが死んでからじゃないと、許せないの?」晃範は慌てて首を振った。「そういう意味じゃない――」それ以上、何も聞きたくなかった。ドアを思い切り閉めて、晃範を外に締め出した。「もういい。二度と私の前に現れないで。来たら通報する」外がしばらく静かになった。モニターの画面には、晃範が長いこと立ち尽くしている姿が映っている。やがて、諦めたように息をつき、重い足取りで去っていった。晃範を追い返してから、私は仕事を二日間休み、家でモカと過ごした。しばらくして、
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第9話
しばらく待つと、相手から専門的な分析がいくつか届いた。それから2分後、さらにメッセージが来る。【文字でやりとりするのも面倒だ。事務所の下にカフェがある。三宮さん、そちらで話せないか】少し考えてから、すぐに【はい】とだけ返した。30分後、私はそのカフェで誠司と向かい合っていた。ダークスーツをきっちりと着こなした彼は、軽く会釈した。「三宮さん、はじめまして」握手を交わしながら、妙な既視感をおぼえた。どこかで会ったことがある気がする。ひと通り話を終えたあと、私はモカの件をすべて彼に任せることにした。次に顔を合わせたのは、警察署の中だった。杏紗がどうしても会いたいと言った。誠司が付き添ってくれるというので、足を運んだ。私の姿を見るなり、杏紗はすがりつくように身を乗り出し、両手を合わせて許しを乞うた。「絵里華さん、私、本当に悪かったと思ってるんです。あの時はどうかしてました。大したことじゃないって、本気で思ってたんです。お金は全部お返しします。それだけじゃ足りなくて、いくらでも慰謝料を払います。いくらなら許してくれますか。どうか許してください。刑務所だけは、どうしても嫌なんです」数日前まであれほど図々しく私の家へ上がり込んできた杏紗は、そこにはいなかった。ただただみじめに許しを乞う、別人のような杏紗がいるだけだ。私は隣に立つ晃範へ、冷ややかな視線を向けた。杏紗の両親も駆けつけていて、今にも床にひざまずきそうな様子だった。「家を売ってでも、あるだけの金はすべてお支払いします。どうか温情をかけて、娘を許してやってください」悪いことをしたのはむこうなのに、まるで私が極悪人にでもなったような空気だ。晃範まで私の敵側に立っている。「絵里華、怒っているのはわかる。だけど、もうこれ以上はいいじゃないか。やりすぎだ」私は晃範を、冷ややかに見つめた。「十分かどうかは、法律に任せる」署を出ると、晃範が追いかけてきたが、誠司が体を割り込ませて遮った。「私は三宮さんの代理人です。ご用件はすべて私にお通しください」誠司はそれこそ頼りになる弁護士で、その後は杏紗に関するすべてを彼に任せきりにした。やがて、杏紗には執行猶予3年、100万円の賠償を命じる判決が下りた。それ以来、私のスマホは静かになった。すべてが、元の静け
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第10話
晃範は、前よりだいぶ痩せていた。着ているのは、昔私がプレゼントしたコートだ。なのに、そのコートも今はなんだかぶかぶかに見える。目のあたりは少しくぼみ、かつての爽やかな好青年の面影はどこにもない。私の前に立つ彼からは、昔の自信も落ち着きも消えていて、代わりに、おどおどとした気まずさだけが漂っていた。私は見て見ぬふりをして、階段の方へ歩き出す。「絵里華、少しだけ……話せないか」足を止めて、振り返った。「何の話?」晃範は一瞬、言葉を詰まらせた。「謝りたかったんだ。杏紗はうつになって、俺の顔を見ると狂ったように殴ってくる。母親が毎日つきっきりで見てるんだ。ちょっと目を離すと、何をするかわからなくて。俺も、うちの母親と大喧嘩した。俺が絵里華に惑わされてるだけだって、まるっきりわかってくれなくて。俺ももうずっと家には帰ってない」「それで?」私が聞き返すと、晃範は黙り込み、しばらくして小さくため息をついた。「俺がちゃんと線引きできてたら、お前の側に立ってたら、こんなことにはならなかったのかなって、最近ずっと考えてた。杏紗とは、ガキの頃から一緒でさ。ただの幼なじみだって、そう思い込んでた。でも、たぶん違ったんだ。俺は、あいつのことを……ずっと曖昧なままにしてた」私は冷めた笑いを浮かべた。ようやく、この男も認める気になったらしい。「馴染みすぎてるから、まあ大丈夫だと思ってた。誰も口に出さなきゃ、何も起きないって。幼なじみだから、何か言われても、そういう関係じゃないって言い張れば通ると思ってた。それを言い訳にして、俺はお前を騙してたんだ。今さら、全部間違ってたって、そういうことだよな」うなだれる晃範を見ても、少しも心は動かなかった。ただ、滑稽に映るだけだ。「あなたは自分の間違いに気づいたんじゃない。現実に気づかされただけだよ。昔は、たしかに好きだった。でも、終わったの。もう会いに来ないで。道で会っても、知らない人で通して」言い終えて背を向ける。すると晃範が、突然走り寄ってきて、私を抱きしめようとした。その時、後ろから伸びた手が、晃範を乱暴に引き剥がした。彼はそのまま尻餅をつく。はっとして振り返ると、誠司が私の前に立っていた。「彼女が言ったこと、聞こえなかったのか。さっさと消えろ。お前も杏紗みたいに刑務所に入
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