LOGIN私、三宮絵里華(さんのみや えりか)は、一週間の出張中、ペットシッターに猫のモカの世話を頼んでいた。 なのに。 出張二日目、リビングに設置した見守りカメラが映し出したのは──見覚えのある顔だった。 婚約者の針金晃範(はりがね あきのり)の幼なじみ・蛯子杏紗(えびこ あずさ)が、よりによって暗証番号を押して玄関から入ってくる。杏紗はその足でモカのフードボウルに近づくと、ぽいっと一粒、ブドウを放り込んだ。 そしてカメラに向かって、杏紗はにっこり笑いかけてくる。 「ブドウは食べないんだって、モカちゃんって賢いねえ」 その直後──カメラの映像はぶつりと途絶えた。 なんなの、これ。 すぐペットシッターに連絡して、慌てて晃範に電話をかける。 「また杏紗に暗証番号、教えたの?モカにブドウ食べさせて、おまけに見守りカメラの電源まで抜かれてるんだけど」 受話器の向こうから返ってきたのは、苛立ちを抑えきれていない声だった。 「モカは平気なんだろ。杏紗はちょっとからかっただけだ。悪気はなかったって謝ってたぜ。ついでにカメラも倒しちゃったってよ。大げさなんだろ、お前は。 俺と杏紗は物心つく前からの仲だ。結婚したら縁を切れって言うのか?……杏紗の言った通りだ。お前は、ちょっと重いんだよ」 38回。 暗証番号を変えたのは、38回だ。 晃範は、そのたびに杏紗に新しい番号を教えた。 私はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。 39回目は、もういいや──ふと、そう思ってしまった。
View More晃範は、前よりだいぶ痩せていた。着ているのは、昔私がプレゼントしたコートだ。なのに、そのコートも今はなんだかぶかぶかに見える。目のあたりは少しくぼみ、かつての爽やかな好青年の面影はどこにもない。私の前に立つ彼からは、昔の自信も落ち着きも消えていて、代わりに、おどおどとした気まずさだけが漂っていた。私は見て見ぬふりをして、階段の方へ歩き出す。「絵里華、少しだけ……話せないか」足を止めて、振り返った。「何の話?」晃範は一瞬、言葉を詰まらせた。「謝りたかったんだ。杏紗はうつになって、俺の顔を見ると狂ったように殴ってくる。母親が毎日つきっきりで見てるんだ。ちょっと目を離すと、何をするかわからなくて。俺も、うちの母親と大喧嘩した。俺が絵里華に惑わされてるだけだって、まるっきりわかってくれなくて。俺ももうずっと家には帰ってない」「それで?」私が聞き返すと、晃範は黙り込み、しばらくして小さくため息をついた。「俺がちゃんと線引きできてたら、お前の側に立ってたら、こんなことにはならなかったのかなって、最近ずっと考えてた。杏紗とは、ガキの頃から一緒でさ。ただの幼なじみだって、そう思い込んでた。でも、たぶん違ったんだ。俺は、あいつのことを……ずっと曖昧なままにしてた」私は冷めた笑いを浮かべた。ようやく、この男も認める気になったらしい。「馴染みすぎてるから、まあ大丈夫だと思ってた。誰も口に出さなきゃ、何も起きないって。幼なじみだから、何か言われても、そういう関係じゃないって言い張れば通ると思ってた。それを言い訳にして、俺はお前を騙してたんだ。今さら、全部間違ってたって、そういうことだよな」うなだれる晃範を見ても、少しも心は動かなかった。ただ、滑稽に映るだけだ。「あなたは自分の間違いに気づいたんじゃない。現実に気づかされただけだよ。昔は、たしかに好きだった。でも、終わったの。もう会いに来ないで。道で会っても、知らない人で通して」言い終えて背を向ける。すると晃範が、突然走り寄ってきて、私を抱きしめようとした。その時、後ろから伸びた手が、晃範を乱暴に引き剥がした。彼はそのまま尻餅をつく。はっとして振り返ると、誠司が私の前に立っていた。「彼女が言ったこと、聞こえなかったのか。さっさと消えろ。お前も杏紗みたいに刑務所に入
しばらく待つと、相手から専門的な分析がいくつか届いた。それから2分後、さらにメッセージが来る。【文字でやりとりするのも面倒だ。事務所の下にカフェがある。三宮さん、そちらで話せないか】少し考えてから、すぐに【はい】とだけ返した。30分後、私はそのカフェで誠司と向かい合っていた。ダークスーツをきっちりと着こなした彼は、軽く会釈した。「三宮さん、はじめまして」握手を交わしながら、妙な既視感をおぼえた。どこかで会ったことがある気がする。ひと通り話を終えたあと、私はモカの件をすべて彼に任せることにした。次に顔を合わせたのは、警察署の中だった。杏紗がどうしても会いたいと言った。誠司が付き添ってくれるというので、足を運んだ。私の姿を見るなり、杏紗はすがりつくように身を乗り出し、両手を合わせて許しを乞うた。「絵里華さん、私、本当に悪かったと思ってるんです。あの時はどうかしてました。大したことじゃないって、本気で思ってたんです。お金は全部お返しします。それだけじゃ足りなくて、いくらでも慰謝料を払います。いくらなら許してくれますか。どうか許してください。刑務所だけは、どうしても嫌なんです」数日前まであれほど図々しく私の家へ上がり込んできた杏紗は、そこにはいなかった。ただただみじめに許しを乞う、別人のような杏紗がいるだけだ。私は隣に立つ晃範へ、冷ややかな視線を向けた。杏紗の両親も駆けつけていて、今にも床にひざまずきそうな様子だった。「家を売ってでも、あるだけの金はすべてお支払いします。どうか温情をかけて、娘を許してやってください」悪いことをしたのはむこうなのに、まるで私が極悪人にでもなったような空気だ。晃範まで私の敵側に立っている。「絵里華、怒っているのはわかる。だけど、もうこれ以上はいいじゃないか。やりすぎだ」私は晃範を、冷ややかに見つめた。「十分かどうかは、法律に任せる」署を出ると、晃範が追いかけてきたが、誠司が体を割り込ませて遮った。「私は三宮さんの代理人です。ご用件はすべて私にお通しください」誠司はそれこそ頼りになる弁護士で、その後は杏紗に関するすべてを彼に任せきりにした。やがて、杏紗には執行猶予3年、100万円の賠償を命じる判決が下りた。それ以来、私のスマホは静かになった。すべてが、元の静け
「玄関に監視カメラをつけた。これ以上うちの前に現れたら、警察に通報するから」一歩下がって玄関の内側へ入り、ドアに手をかけた。「今日、親戚には全部話す。そっちも親戚にちゃんと伝えて。さっきみたいに、あなたのお母さんが私に電話してきて、説教してくるのは、もうやめさせて。二度とね。じゃないと、こっちも言い返すから」晃範の顔色が変わった。「母さんがお前に連絡したのか。悪かった、それは知らなかったんだ……」その言葉に、私は思わず笑みがこぼれた。「あら、知らなかったの?あなたのお母さんの性格を、あなたが知らないはずないでしょ。私の悪口をあちこちで言って、それで黙ってると思ったの」晃範はぐっと言葉に詰まった。自分が何をしたのかも、母親を使って私を押さえつけようとしたことも、この男はよくわかっているのだ。「全部俺が悪かった。ちゃんとできなかった俺のせいだ。でも、杏紗への仕打ちは、さすがにやりすぎじゃないか。あいつはちょっと遊びがすぎただけで、本気で悪いことをしようとしたわけじゃない。杏紗、今警察署で取り調べを受けているんだ。あいつはまだ若いんだぞ。これから仕事もあるし、前科がついたら将来がめちゃくちゃになる。お前だってわかるだろ。大目に見てやってくれないか」眉をひそめて晃範を見た。何年もそばにいた。この人はずっと私に優しかった。モカを連れて帰ったばかりの頃は、これからは一緒に面倒をみよう、絶対に手放さないと、肩を抱いて約束してくれたのに。結局、大目に見てやってくれと、今、彼は言う。「あなたは傷ついてないから、私が大げさに騒いでるだけだと思えるんだよ。モカは子猫の頃から育ててきて、私にとっては祖母の形見なんだ。じゃあ、何があったら騒いでもいいの?違法な薬を飲まされて、モカが死んでからじゃないと、許せないの?」晃範は慌てて首を振った。「そういう意味じゃない――」それ以上、何も聞きたくなかった。ドアを思い切り閉めて、晃範を外に締め出した。「もういい。二度と私の前に現れないで。来たら通報する」外がしばらく静かになった。モニターの画面には、晃範が長いこと立ち尽くしている姿が映っている。やがて、諦めたように息をつき、重い足取りで去っていった。晃範を追い返してから、私は仕事を二日間休み、家でモカと過ごした。しばらくして、
「絵里華。やっと出てくれたわね。昨日のことは、晃範から全部聞いたわ」受話器の向こうから、疲れきった声が返ってきた。「たしかに、晃範と杏紗が悪かった。彼女体験チケットだなんて、馬鹿げてるにもほどがある。気を悪くしないでちょうだい。晃範と杏紗を連れて、きちんと謝りに行かせるから。これからはもう、杏紗に妙な真似は絶対にさせない。それに、例の猫の話も聞いたけど、何もなかったんでしょ。猫は人間じゃないんだし、杏紗のやったことはたしかに軽率だったけど、猫ごときのことで人に前科をつけるなんて、おかしいでしょ」「猫ごとき」──晃範の母親にとって、モカはその一言で片づく存在だった。もし何かあったとしても、所詮は猫なんて、杏紗と比べるまでもないのだろう。「あの猫は、祖母が亡くなる前に一緒に選んでくれた子です。私にとっては、ただの猫じゃない。祖母が残してくれた、たったひとつの形見なんです」晃範の母親はちょっと黙って、息子と同じようにため息をひとつ落とす。「絵里華、それはあなたがわがままなだけよ。杏紗は小さい頃から知ってるけど、あの子は無邪気で優しい子で、あなたに意地悪するような子じゃない。晃範から聞いたわ。あなた、杏紗を目の敵にして、晃範に縁を切れって言ってるんですってね。あの子たちは赤ちゃんの頃からずっと一緒で、家族ぐるみの深い絆があるの。ちょっと言いにくいけど、晃範の婚約者だからって、何でもあなたの思い通りになるわけじゃないの。この家の決め事は、よそ者が口を出すことじゃないの」苛立ちがこみ上げてきて、気づけば私は冷ややかな笑みが浮かんでいた。「その話、もう心配いりません。私は晃範とは結婚しませんから。これから彼が誰と家族みたいに仲良くしようと、私には関係のないことです。責任は最後まで追及します。説得もいらないし、年上の立場で私を押さえつけようとしないでください。晃範とはもう別れたので、あなたも私にとっては、赤の他人も同然です」言い切って電話を切った。その直後、インターホンが鳴る。ドアを開けると、晃範が立っていた。昨日と同じ服のまま、髭も剃らず、疲れきった顔をしている。私の顔を見た瞬間、その目にわずかな光が灯った。「絵里華、家に戻ったらお前の荷物が全部なくなってたから、もしかしたらこっちかと思った。どんなに喧嘩しても、どん
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