「ごめんね。呼び出したりして」また、あの顔。人を従わせてしまうずるい顔。けれど、わたしはまったく嫌じゃなかった。それどころか言いようもなく嬉しかった。ふたたび安西さんに会えたことが。こうして話をできることが。どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく困惑していた。そんなわたしを安西さんはさらに惑わせた。「これから2~3時間付きあってほしいんだけど? 一緒に行きたいところがあるんだ」断りなさい、断らないとだめと、心のなかで誰かが命じた。でも口から出たのはそれとはまったく正反対の言葉……。「……そのぐらいの時間なら」わたしを困らせているのは、神様じゃない。悪魔だ。今はっきりわかった。今日だけ。本当に今日だけだから。そう自分に言い訳をして、目の前に停まっているジープの扉を開けた。意外なほど座面が高くてもたついていると、安西さんはにっこり笑って運転席から左手を差し出した。「……約束が違いますけど。断ってもいいって言ってましたよね」わたしは不満を装った。「うーん、そうだよね。そうなんだけど、どうしてもきみの顔がチラついちゃって」「でも、この間、写真を撮影していただいてよくわかりました。本当に無理なんです」「自然にしてればいいだけなんだよ。カメラを意識しなければ」「それが一番難しくて。それに……わたし、ついこの間プロポーズされたばかりなんです。年が明けたら、結婚の準備で忙しくなると思うので時間もないし」
突然、目の前に現れた人に一瞬で心を奪われてしまうなんて。やっぱりわたしはおかしい。 安西さんにはこのまま、会わずにいるべきだ。わたしはテーブルの上に置いていた名刺を、引き出しの奥深くにしまい込んだ。************はじめてお会いした俊一さんのご両親はとてもいい方たちだった。優しそうなお父さんと気さくなお母さん。 お二人とも結婚に大賛成だと言ってくれた。 俊一さんの転勤まであと4、5カ月。それまでに結婚の準備が山積みだ。いつ式を挙げるかまだ決めていないが、今回はそこに引っ越しの準備も加わる。でも、そのほうがいい。 慌ただしく時を過ごせば、安西さんのことはわたしのなかで自然にフェードアウトしていくはずだ。 婚約者であるこの人との新生活の準備にだけ集中しよう。 中学生みたいに片思いの相手を想って、悩んでいる暇なんてない。本気でそう思っていた。それなのに……アパートの部屋の鍵を開けたとたん、わたしの携帯電話が鳴りだした。 知らないナンバーが表示されている。もしかして…… 「文乃ちゃん? おれ……安西だけど」よほど、わたしを困らせるのが好きな神様に目をつけられてしまったようだ。待ち合わせの駅前に着くと、安西さんはすでにわたしを待っていた。あのときと同じ、豹柄のコートを着て。 でも昼間の教会より夕暮れ時の雑踏のほうが断然似合っている。
もう一度だけ、会いたい。もう一度だけ、あの笑顔で迎えてほしい。心の奥に閉じ込めている本音が隙をみてわたしを誘惑する。勇気を出して、「引き受けます」と一言言えばいいじゃないの、と。クッションを抱えて悶々としていると、電話がかかってきた。えっ、もしかして、安西さんから? 浅はかにも反射的にそう思った。 もちろん、そんなはずはなく、携帯電話に表示されていたのは俊一さんの番号だった。『もしもし、文乃? あのさ、明日、親の家に一緒に行きたいんだけど』「明日?」『急でごめん。年明けって言ってたけど、両親が年末から海外旅行に行くことになって、明日しか都合がつかないんだ』「でも、明日は合唱のコンサートの打ち上げがあって――」『そっか。でも、できたらこっちを優先してくれるとうれしいんだけど。結婚の話、年内に直接両親に伝えておきたいんだ』「そうだね。うん。わかった。じゃあ合唱団の人に連絡しておくね」『悪いね。じゃあ明日。11時ぐらいに迎えに行くから』 ……これが神様からの返答だ。「ちょっと試してみただけだ。お前が選ぶべき人はこっちだろう」と。プロポーズされたとき、わたしは俊一さんがこの世で一番好きだと思っていた。 それが……こんなにもあっけなく、気持ちがぐらついてしまうなんて。
〈side Ayano〉「……ふーっ」何度目の寝返りか、もう数えてすらない。スタジオに行った日からずっと眠れない日が続いていた。迷っていた。安西さんに電話をかけようかと。どう考えても、電話なんてかけるべきじゃない。でも……わたしを迷わせる理由はただひとつ。安西さんにもう一度会いたい、という気持ちがどんどん膨らんでいくことだった。もしモデルを引き受けたら、その間はあの人の近くにいられる。でもそのためにはカメラの前で、彼が納得するような表情や仕草ができなければいけない。無理。やっぱりこのまま連絡なんて取らないでいよう。第一、今はそんなことにうつつを抜かしているときじゃない。俊一さんとのことを第一に考えなければ。もちろん、安西さんとどうこうなるなんて、そんな大それたことは露ほども思っていない。 ただの子供じみた、熱病のような片思い。でも、たとえ心のなかだけでも、婚約者以外の男性をこんな風に想っているのは裏切りに等しい。 安西さんのことは予想外の出来事として心にしまっておかなければ。でも……なんでこんないたずらを仕掛けたのか、神様が恨めしい。安西瀧人……つい10日前まではまったくの赤の他人だったのに。
*************「……やっぱり、わたしにはお受けできません。さっきも頭の中が真っ白で自分が何をしているかもよくわからない状態で……ごめんなさい」 わたしは安西さんにそう告げた。「そっか……。うーん、残念だな。でも、断っていいって約束したもんな、しょうがないか」本当に残念そうな顔でそう言われた。そんな顔をされると……気持ちが少しぐらつく。「もし、落ち着いて考えてみて、気が変わったら26日までに電話してくれる? その日までは待つから」「……はい」「気が変わってくれるといいんだけどなあ」安西さんは右手を差し出して握手してくれた。暖かかった。男性にしては華奢な体形なのに手はやっぱり大きくて、小さな私の手はすっぽりと包みこまれた。「ありがとうございました」 表に出た。 辺りはもう薄暗くなっている。 あと30分もすればイルミネーションに明かりが灯る時間だ。 こんな都会のど真ん中にスタジオを構えているプロの写真家に、しかもあんなに素敵な人に熱心にモデルをしてほしいと頼まれたんだ。 クリスマス気分に浮かれる師走の雑踏を歩きながら、ようやく実感がこみあげてきた。 夢を見ている気分。 でも、夢は覚めるから夢なのだ。もうひとりの自分がそう警告を発していた。 もう充分でしょう。目を覚ましなさい、と。
「だ、大丈夫です」そんな至近距離で見つめられたら、恥ずかしくて顔があげられない。「じゃ、あっちの部屋で着替えてきてくれる? 撮影始めるから。すぐ終わるからね。大丈夫、何も取って食うつもりじゃないからさ」よっぽど不安が顔に出ているのだろうか。安西さんにも同じことを言われてしまった。手渡されたのはシンプルな白いノースリーブの、丈の長いワンピース。特に抵抗なく着られるものだったので、少しほっとした。「うわ、イメージ通りだ! いいよ、やっぱりおれの眼に狂いはなかった!」おずおずとスタジオに足を踏みいれると、安西さんが目を真ん丸にして大げさな口調で言う。「じゃあ、ここに座って」白一色の背景のなかにぽつんと置かれたアンティークの椅子を指さして言った。目を開けていられないほどライトがまぶしい。さっきメイクしてくれた人が大きな銀色の板をわたしの横にかざしている。もうその状況だけでパニック状態だ。「次はちょっと立って、椅子の背に手を乗せて。そうそう。いいよ」それから、どれくらいの間、撮影していたのだろう。たぶん、10分ぐらい。でもわたしにはもっと長く感じられた。「はい、おしまい。お疲れ!」と言われ、まだ茫然としたまま着替えをすませ、スタジオに戻った。