LOGIN私、高坂雅(こうさか みやび)は、婚約者の星野謙吾(ほしの けんご)が賭け事で作った借金を返すため、父・高坂誠司(こうさか せいじ)と仕事に追われていた。 そんなある夜、運送業界の父は深夜便の途中で事故に遭った。 賠償金を抱えて病院へ駆け込んだ私が耳にしたのは、父が最後に残した録音だった。 「これだけあれば、謙吾くんの借金は片がつく。謙吾くんは、雅とちゃんと幸せになるつもりでいる。昔の女にしつこくつきまとわれて、抜け出せなくなっているだけなんだよ。 借金を返したら、もうあんな連中とは縁を切らせなさい」 私は父の遺影を胸に抱き、父が命と引き換えに残してくれた一千万円を、謙吾に渡すつもりでいた。 けれど、ラウンジの個室の前まで来た時、扉の向こうから彼の友人の笑い声が聞こえた。 「なあ、あの女、本気でお前に借金があるって信じ込んでるぞ。こんな大金まで用意してさ。次は何をさせる気だよ?」 謙吾の元恋人である吉川由紀(よしかわ ゆき)が、笑って口を挟んだ。 「謙吾、あの取り立て屋、私が用意したんだけど、けっこう使えたでしょ?次は、あの子が本気であなたと一緒になる気があるか試すんだっけ?」 謙吾は煙草の灰を払った。 「ああ。最後は、金を前にしても変わらずにいられるか、見極める。 俺が星野グループの御曹司だと知って、父親まで巻き込んだことを許し、それでも俺と結婚すると言うなら、あいつの愛は本物だと信じてやる」 遺影の中の父の笑顔を見つめたまま、私は震えが止まらなかった。 お父さん。これが、私たちが信じた人の本当の姿だったんだね。 謙吾、あなたとの婚約は、今日で終わりにする。
View More田舎の家が区画整理で取り壊されることになり、政府の補償金が出るので手続きのために帰省しろと、叔母から電話があった。そのついでに、父の遺骨も引き取っていくことにした。これから、海外に移住するつもりだ。私が帰ってきたことを知った友人たちは、黙っていなくなったことを責めるから絶対に集まれと言ってきた。その席でかなり飲まされ、帰りのタクシーの中から見慣れた街並みを眺めていると、不思議なくらい気持ちは落ち着いていた。ここは、父と私が一緒に必死に生きてきた場所だ。苦しかった記憶を取り除いてみれば、残っていたのは意外にも穏やかな懐かしさだった。納骨堂へ行く前に、私は父の好きだった菓子と焼酎を買った。けれど着いてみると、父の納骨壇の前には、新しい花と供え物がきちんと供えられていた。管理事務所の職員によると、誰かが定期的な管理を頼んでいるらしい。「父の遺骨を引き取りたいんです」私は職員に言った。相手は困ったような顔をした。「高坂様、それは少し難しいかもしれません。お手続きも必要になりますので……」「小さな骨壺を持って帰るだけの話ですよね。何が難しいんですか?」私は意味が分からなかった。最初、父の遺骨は、父が使っていた古い酒甕に納めていた。その後、少し余裕ができてから、私が手描きで花模様を入れた小さな陶器の骨壺に移したのだ。職員に案内され、父の遺骨が安置されている場所を見せてもらって、ようやくその意味が分かった。父の遺骨は、黒塗りの漆箱に納められていた。箱には金箔と螺鈿で桜の文様が施されていて、見ただけで高価なものだと分かる。ずっしりと重く、とても一人で簡単に持ち出せるようなものではなかった。「中には金や銀の供養品も納められています。すでに封もされていますので、この状態ですと、そのままお持ち帰りいただくのは難しいかと。手続きもありますし、こちらだけでは判断できませんので……」職員が説明した。ここまで大げさなことをする人間は、謙吾のほかにいない。「じゃあ、遺骨は、元の骨壺に戻します」私は持っていたタオルで父の写真をそっと拭いた。「必要な手続きを進めてください」職員はまだ迷っていたが、私が海外に定住し、もうこちらへ戻るつもりはないと聞いて、ようやく手続きを進めてくれることになった
友人から電話があった時、私は届いたばかりのバラを水揚げしていた。彼は、謙吾が家族と揉めて、私を捜しにこちらまで来るつもりらしいから気をつけろ、と言った。その瞬間、花の棘が指先に刺さった。血がぷつりとにじんで、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。もう一年が経つ。あの人のことなど、ほとんど忘れかけていたのに、また友人の口からその名前を聞くことになるとは思わなかった。ネットでは、謙吾と由紀の婚約破棄のニュースで持ちきりだった。以前、私と謙吾が八年も付き合っていたことを週刊誌に嗅ぎつけられた時も、似たような騒ぎになった。記者たちは、私たちが愛し合っていた証拠を必死に探し回った。けれど掘り出されたのは、愛の証拠などではなかった。最初から仕組まれていた、ひどい嘘だけだった。私は仕事に没頭し、彼に関するものを意識して避けてきた。そうしていれば、いつか彼とのつながりを完全に断ち切れると思っていた。それでも彼は、私を見つけようとしていた。「大丈夫だよ」私はわざと軽い調子で友人に答えた。けれどその日、どうしても気持ちが乱れた。花の種を何袋も駄目にし、客から代金を受け取り忘れそうにもなった。私は冷たい水で顔を洗い、鏡の中の自分に言い聞かせた。「大丈夫、雅。もうあの人に振り回されることはない」この一年をかけて、私は少しずつ立ち直ってきた。父の思いを胸に、異国の街で小さな花屋を開いた。毎日、花の香りに囲まれて過ごすうちに、少しずつ息ができるようになっていった。父が好きだった詩の一節を花に添えるカードへ書き、一輪一輪の花言葉や、その花に込められた意味を客に伝えた。詩人になりたかった父の夢を、私は少しずつ形にしている。生まれたばかりの赤ちゃんには、花にちなんだ名前を考える手伝いをした。その日最後まで残った一輪は、決まって、一日を頑張っていた誰かにそっと渡した。その人たちが笑ってくれるたび、昔の父の笑顔を見ているようで、胸が温かくなった。この場所で私は、よく笑っていた頃の自分を、少しずつ取り戻していった。けれど、ようやく新しい生活を始められたと思った頃、謙吾は再び私の前に現れた。その日、私はいつものように穏やかな気持ちで店へ向かった。けれど、あの見慣れた姿を見た瞬間、手か
謙吾は田舎の家で数日待ち続けたが、私が戻ることはなかった。彼はラウンジへ戻ると、その場にいたスタッフを片っ端から問い詰めた。けれど、誰も私の行き先など知らなかった。その中で、人事担当の女性だけが、おずおずと手を上げた。とはいえ、彼女も本当の行き先を知っていたわけではない。私は友人にさえ、何も話していなかったのだから。それでも謙吾は、彼女なら何か知っていると思い込んだらしい。険しい顔で詰め寄った。「言え。雅はどこにいる?」人事担当の女性はすっかり怯え、声を震わせた。「社長が、高坂さんを本社に異動させるとおっしゃったのでは……?あの日、高坂さんは退職手続きにサインされたので、私はてっきり……」謙吾は眉をひそめた。「誰が辞めていいと言った?」彼女は呆然とした。「高坂さんが、社長の了承は取ってあるとおっしゃったので、こちらで受理しました。先週のことです」謙吾と由紀の婚約話は、すでにラウンジ中に広まっていた。けれど、その話が広まったところで、彼らの私への態度は大きく変わらなかった。金持ちの男なら、本命のほかに女がいても珍しくない。彼らはきっと、私のことを謙吾に囲われている女だと思っていたのだろう。だから私が何を言っても、疑いもしなかった。謙吾は人事担当の女性から視線を外し、低い声で言った。「手段は問わない。雅を見つけろ」「見つけてどうするの?」その時、由紀が彼の背後に現れた。軽蔑を隠そうともしない声だった。「謙吾、忘れたの?あの子、この前私から手切れ金を受け取って、自分から出ていったじゃない」謙吾は眉間にしわを寄せ、怒りを押し殺すように言った。「俺と雅のことに、お前が口を出すな」「何?本気であの子を囲うつもり?」由紀は冷たく笑ったが、その声には苛立ちが滲んでいた。「俺のことに口を挟むな」謙吾は由紀を一瞥した。「そんなに暇なら、雅を捜す手伝いでもしろ」由紀は悔しそうに唇を噛んだ。「あなた……」その時、謙吾の秘書が慌ただしく入ってきて、二人の会話を遮った。「社長、高坂誠司さんの居場所が分かりました」謙吾はすぐに顔を上げた。「どこの病院だ?専門医は向かったのか?」秘書の言いよどむ様子に、謙吾の顔色が変わった。嫌な予感が胸をよ
謙吾からのメッセージは止まらず、着信も何度も入った。客室乗務員が何度かやって来て、スマホの電源を切るよう促した。私はぼんやりと震え続けるスマホを握りしめ、画面に浮かぶ謙吾の白々しい言葉を眺めていた。【雅、お前とおじさんのことが心配だ。頼むから電話に出てくれ】【由紀とはただの芝居だ。変な勘違いをするな】【おじさんの体に関わることだぞ。意地を張ってる場合じゃない】どの言葉も、ひどく必死そうに見えた。だからこそ、たまらなく気持ち悪かった。遅すぎる。その焦りも、その気遣いも、私と父にはもう遅すぎた。私たちに、彼の見え透いた優しさなど必要なかった。数え切れないほどの着信でスマホがまた震え出した時、私はSIMカードを抜き、真っ二つに折って、ゴミ箱に捨てた。あの街を離れれば、少しは楽になれると思っていた。けれど、そんなことはなかった。私は毎日、部屋に閉じこもったまま、ただ時間が過ぎるのを待つように生きていた。壁に掛けた父の遺影を見つめながらベッドに横になり、食事も喉を通らず、水を飲むことさえ忘れていた。そんな曖昧な日々の中で、父がまだそばにいるような気がすることがあった。父の遺影を謙吾に叩きつけて、どうして私をだましたのかと問い詰めたいと思ったこともある。けれど、そんな気力はもう残っていなかった。私はただ、誰にも会わず、誰の声も聞かず、自分だけの殻に閉じこもっていた。謙吾。その名前を思い出すだけで、胸の奥がすっと冷えた。忘れようとすればするほど、あの日々の記憶がよみがえって、傷口を何度もなぞられているようだった。どうしても分からなかった。何度も愛していると言ってくれた人が、どうしてここまで私を傷つけられるのか。私と父が、彼の借金を返そうと必死に働いていた時、彼は由紀と一緒に、どんな顔で私たちを見ていたのだろう。謙吾を拾った、あの日のことは今でも覚えている。彼は自分が誰なのかも分からず、帰る場所もないと言った。私がラウンジのマネージャーになったばかりの頃、客にしつこく絡まれたことがある。危険も顧みず助けてくれたのが、謙吾だった。その後、謙吾の借金を返すために、私は本業のあと、一日に五つもバイトを詰め込んで、体を壊す寸前まで自分を追い込んだ。彼は本当に行くあてのない
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