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終業のあと、まだ席にいる

Auteur: 中岡 始
last update Dernière mise à jour: 2025-06-20 07:10:57

時計の針が午後七時を指していた。ほとんどの社員はすでに退社し、オフィスはしんと静まり返っている。複合機の電源は落とされ、照明も節電モードで一部だけが残されていた。明かりは窓際の一角にだけ淡く灯っており、その下に、ひとりだけ座っている男の背中があった。

今里澪は、自席の前で黙々と紙を捌いていた。椅子に深く腰掛けるでもなく、猫背にもならず、ほとんど音を立てずにファイルを並べ直している。机の上には封筒、紙資料、ホチキス留めの契約書類、それらが几帳面に四角く整えられ、机に収まっていた。

鶴橋蓮は、鞄を肩にかけながらその様子を一瞬見て、立ち止まった。

誰もいないオフィスに響くのは、自分の足音と、今里の動かす紙のかすかな音だけ。人の声も、電話の着信音も、コピー機の稼働音もすでにない。その静寂の中で、紙が擦れる音だけが確かに響いていた。

彼は蛍光灯の光を背にしていた。上から落ちるその光が、髪にわずかに反射している。整えられた分け目から覗く地肌、耳にかかる前髪。どこか生活感のない横顔。だがその静けさは、ただ無機質というよりも、何かを遠ざけているように見えた。

鶴橋は声をかけかけて、言葉を呑んだ。

「…お疲れ様です」

言葉にしかけたそれは、喉の奥で詰まり、消えてしまった。

今里は鶴橋に気づいていない様子で、資料を順にファイルへと差し込んでいる。動きは丁寧だが、無駄がなかった。所作に迷いがない。まるで身体だけが機械のように動いているような、感情を交えない動きだった。

ブラインドは閉じかけていたが、わずかに開いた隙間から、外の光が入り込んでいた。春の宵、街の灯がぼんやりと窓ガラスに映り込み、その残照が今里の頬を横切る。暗がりのなかで彼の輪郭だけが、静かに浮かび上がっていた。

その横顔は、何も語らなかった。けれど、語らないことが、あまりにも多くを示しているように思えた。疲れているようでいて、疲れていない。孤独に見えて、どこか達観したような落ち着きがある。何かを諦めきった人間の、淡々とした空気がまとわりついていた。

鶴橋は自分の足がその場から動かないことに、ふと気づいた。帰るべき時間はとっくに過ぎている。それなのに、その背中から目が離せなかった。興味ではない。関心でもない。ただ、奇妙に心が惹きつけられている。それが何なのか、まだ名前を持たないままに。

「……空気みたいやな、この人」

その言葉が心の中に自然に浮かんだ。口には出していない。だが、思わず息が漏れそうになった。

見えているのに、存在が薄い。誰よりも静かに、だが確実にそこに“いる”ことを知ってしまったときの、この感覚。

まるで誰にも気づかれないまま、机に根を張った植物のように、彼はそこにいる。照明の一部が反射し、資料の紙面に白く光っていた。今里はそのまま、最後のファイルを閉じ、ふうともすうともつかない呼吸をして、ほんの少しだけ首を回した。完全には振り向かず、鶴橋の気配に気づいたのか、気づかなかったのか。その境界すら曖昧な動きだった。

言葉をかけるタイミングを逃したまま、鶴橋は軽く頭を下げて、静かにその場を離れた。背中に残る静寂が、やけに重たく感じた。エレベーターホールに向かう足音が、オフィスの中にひとつだけ残された光の粒と対照的だった。

ひとつの時間が終わり、またひとつの時間が始まる。そんな切れ目に立っていたのは、自分ではなく、あの人だったのかもしれないと、ふと思った。

エレベーターの扉が閉まる間際、最後に視線を戻す。そこにはまだ今里の姿があった。机の上の紙の束の中に、手を添えたまま。姿勢は変わらず、視線も定まらず、まるでその場から決して動かないような重さを宿していた。

そう思いながら、なぜか目を離せなかった。

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