時計の針が午後七時を指していた。ほとんどの社員はすでに退社し、オフィスはしんと静まり返っている。複合機の電源は落とされ、照明も節電モードで一部だけが残されていた。明かりは窓際の一角にだけ淡く灯っており、その下に、ひとりだけ座っている男の背中があった。
今里澪は、自席の前で黙々と紙を捌いていた。椅子に深く腰掛けるでもなく、猫背にもならず、ほとんど音を立てずにファイルを並べ直している。机の上には封筒、紙資料、ホチキス留めの契約書類、それらが几帳面に四角く整えられ、机に収まっていた。
鶴橋蓮は、鞄を肩にかけながらその様子を一瞬見て、立ち止まった。
誰もいないオフィスに響くのは、自分の足音と、今里の動かす紙のかすかな音だけ。人の声も、電話の着信音も、コピー機の稼働音もすでにない。その静寂の中で、紙が擦れる音だけが確かに響いていた。
彼は蛍光灯の光を背にしていた。上から落ちるその光が、髪にわずかに反射している。整えられた分け目から覗く地肌、耳にかかる前髪。どこか生活感のない横顔。だがその静けさは、ただ無機質というよりも、何かを遠ざけているように見えた。
鶴橋は声をかけかけて、言葉を呑んだ。
「…お疲れ様です」
言葉にしかけたそれは、喉の奥で詰まり、消えてしまった。
今里は鶴橋に気づいていない様子で、資料を順にファイルへと差し込んでいる。動きは丁寧だが、無駄がなかった。所作に迷いがない。まるで身体だけが機械のように動いているような、感情を交えない動きだった。
ブラインドは閉じかけていたが、わずかに開いた隙間から、外の光が入り込んでいた。春の宵、街の灯がぼんやりと窓ガラスに映り込み、その残照が今里の頬を横切る。暗がりのなかで彼の輪郭だけが、静かに浮かび上がっていた。
その横顔は、何も語らなかった。けれど、語らないことが、あまりにも多くを示しているように思えた。疲れているようでいて、疲れていない。孤独に見えて、どこか達観したような落ち着きがある。何かを諦めきった人間の、淡々とした空気がまとわりついていた。
鶴橋は自分の足がその場から動かないことに、ふと気づいた。帰るべき時間はとっくに過ぎている。それなのに、その背中から目が離せなかった。興味ではない。関心でもない。ただ、奇妙に心が惹きつけられている。それが何なのか、まだ名前を持たないままに。
「……空気みたいやな、この人」
その言葉が心の中に自然に浮かんだ。口には出していない。だが、思わず息が漏れそうになった。
見えているのに、存在が薄い。誰よりも静かに、だが確実にそこに“いる”ことを知ってしまったときの、この感覚。
まるで誰にも気づかれないまま、机に根を張った植物のように、彼はそこにいる。照明の一部が反射し、資料の紙面に白く光っていた。今里はそのまま、最後のファイルを閉じ、ふうともすうともつかない呼吸をして、ほんの少しだけ首を回した。完全には振り向かず、鶴橋の気配に気づいたのか、気づかなかったのか。その境界すら曖昧な動きだった。
言葉をかけるタイミングを逃したまま、鶴橋は軽く頭を下げて、静かにその場を離れた。背中に残る静寂が、やけに重たく感じた。エレベーターホールに向かう足音が、オフィスの中にひとつだけ残された光の粒と対照的だった。
ひとつの時間が終わり、またひとつの時間が始まる。そんな切れ目に立っていたのは、自分ではなく、あの人だったのかもしれないと、ふと思った。
エレベーターの扉が閉まる間際、最後に視線を戻す。そこにはまだ今里の姿があった。机の上の紙の束の中に、手を添えたまま。姿勢は変わらず、視線も定まらず、まるでその場から決して動かないような重さを宿していた。
そう思いながら、なぜか目を離せなかった。
オフィスビルのエントランスをくぐったとき、鶴橋の頬を、かすかな風が撫でた。曇天の朝。灰色の雲が空一面に広がり、春の終わりかけの空気を鈍く濁らせていた。けれどその曇りは、どこか昨日までとは違っていた。湿った予感と、まだ見えない光の気配が、足元にひっそりと影を作っている。今日は少しだけ早く出社した。意識したわけではない。けれど、目が覚めてから、なんとなく眠れなかった。布団のなかで、昨夜の光景を思い出しては、また心がざわめいた。何かが動き出した、確かにそう思えた。それを確かめたくて、自然と早足になっていた。誰もいないフロアは、いつもの喧騒とは別の表情を見せていた。まだ照明のついていない窓際は薄く青白く、机の間に沈黙が漂っている。鶴橋は静かに席へと向かい、自分のデスクに手を伸ばす。キーボードを動かすと、その下に何かがあった。黒いクリアファイル。表紙はシンプルなままで、余計なラベルやタイトルはない。けれど、その中央に貼られた小さな付箋が、まっすぐ視線を引いた。《案件候補3件。条件、傾向、想定先のリストです。ご確認ください》その文字を見た瞬間、呼吸が少しだけ止まった。丸みを帯びた整った筆跡。丁寧に書かれたひと文字ひと文字が、やわらかく胸に染み込んでくる。名前はなかった。どこにも、差出人の印はなかった。けれど、そんなものはいらなかった。誰が書いたのか、自分のために置いたのか。それはもう、疑いようもなく分かっていた。鶴橋は、ゆっくりとファイルに手をかけた。指先がかすかに震える。震えを隠すことも、止めようともしなかった。むしろ、その感覚に身をゆだねたかった。開いたページには、表形式で整理された情報が並んでいた。物件の所在、業種、現状の取引先、ターゲット層、各社の過去の傾向。どれも、ただ集めただけではない。並べ方に意味があり、見る人が何を読み取るかを計算して構成されている。時間をかけて、静かに、丁寧に積み上げた情報。そこには、技術だけではない“信念”があった。ページをめくるごとに、胸の内に静かな熱が灯っていく。昨日の言葉が、嘘ではなかったと証明されていく。今里が、自分の言葉に応えてくれた。それだけで、まだこの職場に
フロアには、静けさだけが残っていた。天井の照明のいくつかは既に落とされ、光と影のコントラストがそこかしこにゆるく伸びている。時計は午後九時をまわり、エアコンの気流が低い唸りを上げるなかで、デスクに残っているのは二人だけだった。今里はいつものように背筋を伸ばし、画面に集中していた。白く光るモニターの光が頬を淡く照らし、静かな呼吸のリズムに合わせて、指先がキーボードを打つ。ファイル名を整え、資料のバージョンを更新し、次に備えるような準備作業を淡々と進めていた。その姿を遠くから見つめていた鶴橋は、胸の奥に何かが静かに満ちていくのを感じていた。焦りでも怒りでもない、けれど、言葉にしなければ流れてしまいそうな、そんな思いだった。深く息を吸い込む。呼吸が肺に広がる感覚を、心の中で確かめながら、鶴橋はゆっくり立ち上がった。自席から、今里のデスクまでは十歩にも満たなかった。けれど、その一歩一歩が、これまでになく重く感じられる。近づくたびに、鶴橋は自分の鼓動が耳の奥で響くのを感じていた。「あの…今里さん」呼びかける声が、天井の蛍光灯の揺れる音にまぎれる。今里の手が、ほんの一瞬だけ止まった。画面から目を離すと、ゆっくりと顔を上げる。伏せたまつげの奥の瞳が、こちらをとらえる。その視線の静けさに、鶴橋は少しだけ肩をすくめる。だけど、逃げたくはなかった。「俺…あのときの今里さんの仕事、まだ覚えてます。〈柴田不動産〉んときの資料、ほんまに、すごかったです。数字も構成も完璧やったし、空気まで変わった気がして…俺、あれを、もう一回見たいって、ずっと思ってました」言葉が、自然と口から出ていった。用意したものでも、考え抜いた台詞でもない。ただ、自分の心の底から出た、本当の気持ちだった。「……」今里は何も言わなかった。ただ、視線が少し揺れて、デスクの端を見やるように動いた。そのわずかな間に、鶴橋は続けた。「俺ひとりでは、どうにもできへん。現場も動揺してるし、上は頼りにならへん。けど、今里さんの力を借りられたら、なんとかなる気がするんです」
夕方のフロアには、どこか乾いた空気が流れていた。照明の光が微かに黄味を帯びて、書類の端を淡く照らしている。時計の針は五時を回ったばかりだったが、今の鶴橋には、それがもう深夜のように思えた。手元の書類に赤ペンで印をつけながら、鶴橋は何度も溜息を吐いた。データの整合性が取れないのは、プロジェクトの根幹自体が不安定になっているからだ。上層部の指示もなければ、スケジュールの修正もない。鶴橋が何度かメールで問い合わせた文書は、いまだに返答がないままだった。机の端に手を置いて、ぐっと立ち上がる。資料を数枚クリアファイルにまとめて手に取り、まっすぐ安住課長のデスクへと向かった。決して足音を立てたわけではないが、その歩みには焦りと苛立ちがにじんでいた。安住は椅子にもたれかかりながら、マグカップを手にしていた。ディスプレイには取引先とは無関係そうなニュースサイトの画面が開かれている。鶴橋が近づくと、安住はちらと視線を上げた。「おう、どうしたん」声は、どこまでも軽かった。「課長、この〈港南開発〉案件の資料、どこまで出せばええか明言されてへんのですけど。工程表も、今のままやと流動的すぎて…」言いながら鶴橋は、手元の資料を机の上に差し出した。ところが、安住はそれに手を伸ばそうともしなかった。「ああ、それ? いやあ、それはもう、各自で対応してくれへんと」あっさりとした返答だった。冗談かと思ったが、安住の目には、何の迷いもなかった。「各自って……課長、これ、うちらだけで判断してええ問題ちゃいますよ。先方の意向、ちゃんと確認せな…」「いやいや、自分らももう若手ちゃうんやから。ええ加減、自分の裁量で動けるようにならんと。俺も一個ずつ見きれへんで?」そう言って、安住はマグカップを軽く揺らして、一口啜った。ほんのり立ち上るお茶の湯気が、ふわりと空中で滲んで消えた。「任すわ。ほんま、頼りにしてるから」笑みすら浮かべていた。だが、その笑みには責任の重さも、現場への理解も、ひと欠片も感じられなかった。鶴橋は、返
昼下がりの営業フロアは、いつもと同じ蛍光灯の白に照らされながら、どこか色の抜けたような気配を漂わせていた。天井の空調の音が妙に耳に残り、キーボードの打鍵音や椅子のきしむ音すら、やけに乾いて響く。鶴橋は自席でデータを打ち込んでいたが、ディスプレイの文字列が妙に頭に入ってこなかった。昼食から戻ると、自分の机に伏せられた一枚の紙があった。何気なく手に取り、目を通した瞬間、胸の内側に冷たい液体を流し込まれたような感覚が走った。《営業プロジェクト再構成に関するご連絡》要点だけを抽出するようにして、ざっと目を滑らせる。内容自体は、表向きには“業務効率の見直し”や“事業選別”といった建前の言葉で並べられていたが、実際に書かれていない部分が大きすぎて、逆に意図がはっきりと読み取れた。これは、“誰かを切る”準備だ。鶴橋はゆっくりと用紙を戻し、無意識のうちに周囲の様子を見まわした。村瀬がプリンター横で、同期の西田と小声で話している。彼らの表情には、明らかに不安と苛立ちが浮かんでいた。「マジでウチ、やばいっすよね」「課長なんも動いてへんし」「でもさ、やる気出しても意味ないって空気やん。誰が何しても、どうせ“上”が決めるだけやろ」会話の断片が、妙に耳につく。押し殺された声なのに、やけに大きく聞こえる気がするのは、神経が研ぎ澄まされているせいか。数歩先で、佳奈が書類をまとめながら、眉をひそめていた。「なんか、会社が会社ちゃうみたいやね。いつもやったら誰かが“まあ大丈夫やろ”って言ってくれるのに、今日は誰も言わへん」そのつぶやきは、自分に向けてではなく、空気そのものに対して投げかけられたような言葉だった。鶴橋は、深く息をつきながら、手元のボールペンを握り直した。指先に力を入れると、わずかにペン軸がたわむ。その小さな感触だけが、今この瞬間に確かに自分が“ここ”にいるという証のように思えた。ディスプレイの文字がにじんで見えた。焦点が合
フロアの時計が午後六時を回る頃、天井の照明が一段と白さを増し、定時を知らせるチャイムが遠慮がちに鳴った。けれど誰も立ち上がらず、鞄のファスナーを引く音も、椅子を引く音も聞こえてこなかった。今日の社内は、それほどまでに静かだった。空気の層だけがずっしりと重く、机の間を緩慢に流れていく。鶴橋はモニターの画面をぼんやり見つめながら、ふと斜め前方の席に視線を移した。今里が、いた。整然と並んだ文具。モニターにはスライドの構成案。指先が無駄のない動きでページをめくり、時おりメモ帳に短く書きつけていく。姿勢は崩れず、背筋はすっと伸びたまま。淡いブラウスの袖が手首で静かにたわみ、光に透けていた。まるでそこだけが別の時間を生きているようだった。荒れかけた船の甲板の上に、ひとりで立ち続けているような、その静けさ。誰もが心の中で揺れているこの時間に、どうしてこの人だけが、そんなに静かでいられるのか。鶴橋は自分の胸の奥で、なにかがきゅっと締めつけられるのを感じた。「…すごいな」思わず、口の中で小さく呟いていた。けれどその言葉には、感嘆だけではなく、別の感情が混じっていた。羨望。戸惑い。哀しみに近い、どこか切ない驚き。まるでこの世界とは違う時間を生きているような。誰にも寄りかからず、誰にも期待せず、ただ自分の仕事だけを見つめている。その強さに、同時に感じる孤独の匂い。今里は、そのときも鶴橋に気づいていないふうだった。あるいは、気づいていても、あえて目を合わせないのかもしれなかった。一度だけ、資料の端を確認するために、微かに首を傾けた。その仕草さえも、柔らかで静かだった。(この人は、どこまでひとりで、全部抱えていくつもりなんやろ)このフロアの空気が、崩れかけているのを知っているはずだった。いや、誰よりも早く気づいていたのは、今里だったのかもしれない。何も言わず、何も問わず、ただ静かに整理し、整え、誰にも頼らず、自分だけのペースで前を向いている。それは、強さというよりも…諦めのようにも見えた。鶴橋は椅子の肘掛け
午後五時を過ぎても、フロアの空気は緩まなかった。むしろ、日が傾くほどに緊張の密度が増していくようだった。電話の音ひとつ、コピー機の作動音ひとつ、それらすべてがどこか刺々しく響いて聞こえる。誰もが自分のディスプレイを見つめているふりをしていた。キーボードを打つ手は、必要以上に素早く、ミスを恐れているというよりも、なにかを誤魔化すような速さだった。空気が冷たい。エアコンの設定が変わったわけでもないのに、肩口から背中にかけて、ぞわぞわとした冷たさが這い寄ってくる。鶴橋は、黙ってモニターに目を向けたまま、さりげなく視界の端でフロア全体を観察していた。村瀬がプリントアウトされた紙を持ったまま、何度もそれを見直しては、隣のデスクの中原と小声で何かを交わしている。佳奈は椅子に深く腰掛けたまま、モニターに表示されたエクセルの表にペン先を当て、ぴくりとも動かない。その瞬間、携帯が鳴った。中原のだった。内容までは聞こえないが、通話を終えた彼の表情が、目に見えて曇る。次に彼は、小声で安住課長の席に近づき、「…すみません、今日はちょっと、早めにあがっても大丈夫ですか」と言った。耳を疑った。今は、業務の中心である月末締めの作業が山積みで、誰もが残業を覚悟していたはずだった。それなのに、そんなタイミングで早退を申し出るというのは、ただの体調不良などではない。鶴橋は自分の手が、微かに震えていることに気づいた。書類を綴じるクリップの位置が、いつもよりもほんの数ミリ右にずれているのが気になり、無意味にそれを直して、また直して、また戻してしまう。安住課長は、無表情のまま頷いた。「ああ。じゃあ、気をつけて帰れよ」それだけだった。そこに怒りも、困惑も、安堵もなかった。ただ、空っぽの声色。上司としての責任を、もう果たす気もないような響きが残った。他の社員も、それを見ていたはずだった。だが、誰も言葉を発しなかった。キーボードを叩く音が、なぜか大きく聞こえた。換気口から流れてくる風が、天井の照明をほんの少しだけ揺らしていた。(この空気、やばい)鶴橋は、自分の内側で何かがざわめき出すのを止められなかった。決して大きな出来事があったわけではない。契約打ち