午後三時を少し過ぎた頃、営業部の休憩室にはゆるい笑い声が漂っていた。コーヒーマシンの横で、村瀬と数人の若手社員が紙コップを手に、週末の話題で盛り上がっている。壁際には観葉植物、隅に積まれた古新聞。蛍光灯の明かりが白く均一に空間を照らしていて、そこには誰もが安心して過ごせる程度の、緊張感のない空気が流れていた。
「いや、マジでさ。あの人、何が得意なんすかね。今日も電話とって“はい、今里です”しか言ってなかったし」
村瀬がそう言って、紙コップを傾けた。周囲の数人がくすっと笑い、その場は瞬時に“共感”の空気に包まれた。からかいのトーンは、直接的に相手を貶めるものではなかったが、確かにその中心にいる“あの人”が、ここにはいないことを前提とした話し方だった。
「もう名刺だけ渡して、電話対応専門とかでいいんじゃないすか。受付席でも置いたらどうすかね」
さらに村瀬が口角を上げて言うと、今度は誰かが吹き出した。少しだけ大きな笑い声が、ドアの外まで漏れる。
そのときだった。休憩室の入り口に、すっと人の気配が現れた。
今里だった。
誰も気づく間もなく、その姿はそこにあった。が、誰とも目を合わさず、何も言わず、ただ部屋の端のウォーターサーバーへ向かって歩いてきた。足音はほとんどしなかった。革靴が床をかすめる音すら、他の笑い声のなかに吸い込まれていった。
彼は紙コップを一つ取り、水を注ぐと、それをそのまま手にして部屋を横切った。
村瀬が一瞬だけ動きを止めた。だが今里は彼の存在を認識している様子もなく、無言で通りすぎる。肩にかかったスーツのラインはゆるく、体にきちんと合っているとは言い難い。ネクタイはきっちりと締められていたが、その几帳面さと裏腹に、首元には少し疲れが滲んで見えた。
水を口に含む仕草も、ため息すら吐かない。歩き方も、姿勢も、あまりに静かすぎた。まるでこの場の空気とは違うリズムで、ひとりだけ別の時間にいるようだった。
鶴橋は、壁際のイスに腰掛けたまま、その様子を何気なく見ていた。自分から話しかけるでもなく、ただ静かに観察するように、視線を追っていた。
何が変だというわけではない。だが、何かが“足りない”のだ。
体の芯が空洞になっているような歩き方。誰にも気を使わないのに、誰にも敵意を向けていない。存在を主張しないのに、そこにいれば必ず目を引いてしまう。
(ただの冴えないおっさんやと思ってたけど……なんやろな、あれ)
視線を逸らせなかった。普通なら、目立たないはずの存在だった。年齢も、自分より十は上、色気があるわけでもない。表情も変わらず、何を考えているのかまるで見えない。
けれど、その背中には言葉にならない疲れがあり、そこに生きてきた日々の濃度が宿っていた。
(体から“何か”抜けてしもたみたいな、そんな感じ)
今里は紙コップを捨てることもせず、そのまま自席へと戻っていった。足音は最後まで聞こえなかった。笑い声も、少しだけトーンが下がっていた。村瀬が軽く肩をすくめ、「…あれ、聞こえてなかったっすよね」と苦笑混じりに言ったが、誰もそれに明確な返事をしなかった。
鶴橋は、そのあともしばらく黙って座っていた。天井の蛍光灯が淡く光るなか、今里が通った道を何度も思い返していた。
空気のような人間。だが、それが逆に気になる。触れられないのに、何かが引っかかる。表面をなぞっても何も掴めないのに、視界の端にいつも残っている。
そんな人間が、目の前にいるということが、妙に落ち着かなかった。興味とも、警戒とも違う。ただの無関心では片づけられない、名もない感情が、胸の奥に微かに滞留していた。
午後の空気は妙に乾いていた。フロアの空調は一定の温度に保たれているはずなのに、どこか肌にひっかかるような違和感がある。印刷機の音が規則的に鳴り、誰かのキーボードを叩く音が一定のリズムで重なっている。それは、いつもの午後のはずだった。だが、その「いつもどおり」が、今の鶴橋にはかえって落ち着かなかった。視線の先には、印刷機の前で立つ今里の背中がある。淡いグレーのシャツ、少し折れた肩のライン。ファイルを両手に持ち、印刷された紙を順に確認しては、静かにページを揃えている。その所作は、いつもと変わらなかった。いや、変わらなすぎた。会社が揺れているこの状況で、安住課長も村瀬も落ち着きを失いかけている中、今里だけは、ただ黙々と、自分の仕事を正確にこなしていた。「…すごいな」と思う一方で、その「乱れなさ」が今の鶴橋には、どこか怖くも映った。(この人、なんで…こんなときでも、あんな顔していられるんや)心の中で、そう呟いた。別に責めているわけではなかった。むしろ、尊敬に近い感情だったはずだ。だが、それはもう尊敬だけではなかった。怖さに近い。あるいは、自分とは決定的に違う種類の人間であることを突きつけられているような…そんな疎外感。今里の指が、紙の端を一枚めくった。ほんのわずかに手首が動き、揃えられた紙の山が整う。その動きのひとつひとつに、感情の起伏はない。ただ、正確で、美しい。(なにを…考えてるんやろ)心の中で、また問いが浮かぶ。彼の中には、怒りも、焦りも、不安もないんだろうか。今の会社の状況を、どう見てるんやろう。俺と、同じように揺れてるんやろうか。それとも…もう、そんなことに興味すらないんやろか。鶴橋の胸に、答えの出ない問いだけが、じわじわと広がっていく。そのとき、今里がファイルを腕に抱えて振り返った。印刷を終えた報告資料を持ったまま、通路を歩き出す。鶴橋の近くをすれ違うとき、一瞬だけ足を緩めて、今里は静かに頭を下げた。「お疲れさまです」声は出なかった。ただ、会釈だけだった。けれど、その一礼の角度が、いつもより少し深く
給湯室に立ち込める湯気の匂いは、いつもと変わらないはずだった。淹れたてのコーヒーの香り、温かく満ちる湿気、静かに湯が落ちる音。だが、その日は妙に重たかった。空気のどこかが引き裂かれて、裂け目から冷たい風が吹き込んできているような、そんな感覚があった。昼休み、鶴橋はコップを持って給湯室の隅に立ち、ぼんやりと湯の落ちる様子を眺めていた。ドリップポットの細い注ぎ口から湯が落ちるその瞬間まで、指先はしっかりしていたのに、マグカップを持ち上げたとたん、手元がかすかに揺れた。「なあ、鶴ちゃん」佳奈の声に、鶴橋ははっと顔を上げる。少し離れた棚の前で、佳奈が紙カップにミルクを注ぎながら、視線だけを鶴橋に向けていた。「このままやと、人減らされるんちゃうかな」その言葉は、あまりにも唐突だった。けれど、誰もが思っているはずのことだった。言葉にされないだけで、フロアの空気には確かに漂っていたもの。それが、今、目の前の佳奈の口からそっと取り出された。鶴橋は、すぐには返事ができなかった。コーヒーの表面に浮かぶ湯気の揺れを見つめながら、言葉を探す。だが、どれだけ探しても、安心させるだけの言葉は出てこなかった。「どう思う?鶴ちゃん」もう一度、佳奈が問いかける。声は穏やかだった。詰め寄るでも、脅かすでもなく、ただ「一緒にこの空気の中におるよな」と確かめるような声。「…わからんわ。俺も、ちょっと、よう言えん」ようやく絞り出したその言葉には、力がなかった。口に出すことで、自分の不安まで形になってしまいそうで、それ以上何も言えなかった。佳奈はそれを聞いて、ゆっくりと頷いた。そして、微かに笑った。だがその笑みは、どこか乾いていた。「うん。うちら、ただの社員やもんな。決めるのは、上やしな」言い終えてから、カップを持った手を少しだけ握り直すような仕草をした。緊張していたのかもしれない。あるいは、もう何も信じられないと思いながら、それでも会社に来ている自分自身を持ちこたえようとしていたのかもしれなかった。鶴橋は、壁際にある窓へと視線を向けた。そこから見える空は、朝と変わらず
朝八時二十分、東陽クリエイトのオフィスビル前には薄曇りの空が垂れ込めていた。雲は低く、風はなく、空気はどこか重たい。肌に触れる湿度が妙にまとわりつく感覚で、春の入口とは思えない鈍さがあった。ガラス扉を押して中に入ると、鶴橋は自動ドアの閉まる音を背中に感じながら、無意識のうちに歩幅を少しずつ緩めていた。廊下を抜けて営業部のフロアへと入ると、そこにはいつもより明らかに静かな空気が広がっていた。席についている者は多くないが、すでに何人かは自席でPCに向かっていた。「おはようございます」と小さく声をかけると、佳奈がちらりと顔を上げ、「…おはよう」と低く返す。その声にも、張りがない。いつもなら少し茶化すような調子で返してくるはずの村瀬も、背を丸めてデスクに伏せがちにキーボードを叩いていた。(…何か、あったんか?)胸の奥に、不穏な気配が広がっていく。手にした鞄を机の横に置き、椅子に腰を下ろすと、机上に印刷されたA4の紙が伏せられているのに気づく。目を通すまでもなく、上部の太字の文面が視界に飛び込んできた。「共信住宅との業務終了について」読む間もなく、背筋にじんわりとした冷たさが走った。思わず紙を持つ指先に力が入り、紙が少し音を立てる。文面を読み下ろしていくと、年度末をもって契約が正式に終了となり、今後の取引再開は未定との記載があった。(…マジでか。嘘やろ…)喉の奥が詰まるような感覚。共信住宅は、言うまでもなく東陽クリエイトにとって最大手のクライアントだった。会社の収益の柱ともいえる存在で、そこが抜けるというのは、想像以上に大きな意味を持つ。手元の紙を見つめたまま、鶴橋はゆっくりと視線をあげる。正面斜めの席に、すでに今里の姿があった。彼はいつものように姿勢を正し、モニターを見つめてタイピングをしている。その横顔には、驚きも、困惑も、何ひとつ見えなかった。光の射し込む方向に首を向けていたため、頬のラインがうっすらと照らされている。だがその美しさは、今はどこか冷たく、無機質に見えた。(…動じてない。けど、ほんまに何も思ってへんのか?)
蛍光灯の光が、徐々に落ち着いた色を帯びていた。日中よりも少しだけオレンジがかった、夜の手前の光。それが天井からまっすぐに落ちて、静まり返ったフロアを淡く照らしていた。椅子の軋む音も、キーボードの叩く音も、もうほとんど聞こえない。数人の社員が、帰り支度のために席を立っては、足早にロッカーへと向かっていく。終業の時刻をとうに過ぎたオフィスは、ゆるやかに“今日”の終わりを迎えつつあった。鶴橋はデスクに座ったまま、モニターの光だけを頼りに資料の修正を続けていた。いや、修正というより、ただそこに“居る”ことに理由をつけていたのかもしれない。肩は凝っていたし、目も疲れていた。けれど、まだ“今里”がそこに居ると思うと、身体が席を立とうとしなかった。いつも通り、彼は黙々とパソコンに向かい、書類をまとめ、指先で静かに画面をスクロールしている。必要なときに言葉を発し、あとは何もこぼさない。誰かと話すわけでもなく、電話の声が響くわけでもない。ただ、あの机の前で、丁寧に今日という時間を閉じていく。そして、それが終わると、ゆっくりと立ち上がる。「あの…お先に失礼します」今里の声が、ぽつりと空気を割った。それは他の誰かにも、いつも通りの一言に過ぎなかったかもしれない。けれど鶴橋には、少しだけ違って聞こえた。いや、違っていたのは声ではないのかもしれない。そこに滲んだ、ほんの僅かな“掠れ”に、胸が引っかかった。乾いた声。けれど、無理に平坦さを装っていたような響き。目線は下を向いたまま。こちらを見ようとはしない。だが、肩にかけた鞄を持ち上げ、背中を向けた瞬間、その動きが、わずかに…ほんのわずかに、止まったように見えた。それは気のせいかもしれなかった。けれど、鶴橋の心はその一瞬に敏感に反応していた。身体のどこかが、呼び止めようとした。でも、言葉にならなかった。手も、伸びなかった。代わりに、心の奥で、確かな音がした。(あかん)胸の中で、そう呟いていた。
コピー室のドアが、ゆっくりと自動で開く。機械音と微かな静電気のにおいが鼻先をかすめ、鶴橋は手にしていた資料を軽く揺らしながら、ひとり機械の前に立った。複写の待ち時間は、妙に静かだった。外では誰かが笑っていたが、それはこの空間には届かない。室内にあるのは、紙の送られる規則正しい音と、機械の中からわずかに響くローラーの回転音だけ。コピーが一枚、また一枚と落ちていくのを無言で見つめていたそのとき、ドアが軽く開いた。反射的にそちらを振り向くと、奥村佳奈が入ってくるところだった。「あ、鶴ちゃん」軽い声に、鶴橋は自然と口角を上げた。「お疲れさまです」と短く返す。佳奈はお茶のペットボトルを片手に、扉の縁に身体を預けるように立った。コピーを取る気配もなく、ただ鶴橋の隣に近づくでもなく、その場にいる。ふとした空気の隙間に、彼女がぽつりとつぶやいた。「なんか、空気変わったね」その言い方は、何かを具体的に指しているようで、けれど名指しはしていない。「……何が?」鶴橋は極力、無表情を保ちながら返した。が、それは自分でもわかるくらい、不自然な間があった。佳奈は、鶴橋の顔をじっと見た。探るようなまなざしではなく、すでに何かを理解している人間の、柔らかな目だった。「鶴ちゃんが、ほんまに知りたいって思ってるなら。あたし、話すけど?」意味深でもなく、押しつけがましくもない。けれど、それは明らかに何かを見透かした人間の、余裕ある言葉だった。鶴橋は、苦笑するしかなかった。気づかれている。そこにある何かが、誰かの目にも見えるくらいになってしまっているという事実に、かすかに肩がすくむ。けれど否定しようとは思わなかった。する気力もなかった。「……いや、大丈夫っす」その一言に、佳奈は小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。「じゃ、あたしコピー終わったら出るね」そう言い残して、彼女は部屋の奥のもう一台の機械に歩いていった。背中を見送りな
営業フロアの空気は、午後の鈍い光に包まれていた。外は曇天。日差しは薄く、窓際の観葉植物の影さえ滲むように揺れている。会議が終わった直後の、微妙な静けさが漂っていた。誰かが椅子を引く音や、キーボードを叩く音が断続的に鳴る中で、鶴橋はぼんやりと視線を浮かべていた。その視線の先には、ホワイトボードに向かう今里の背中があった。背は高くない。けれど、細く整った肩の線はどこか浮世離れしていて、着ているシャツの生地すら、空気を撫でるような軽さを感じさせる。今里は、ミーティングの内容をメモから清書しているのだろう。黒のマーカーペンがホワイトボードを滑るたび、右腕の筋が微かに動く。文字は端正で、整っていて、誤字もない。その動きを、鶴橋はなぜか目が離せずにいた。ペンを持つ指先は、白くて細い。けれど、骨ばっていて、静かに力がこもっているように見える。ときおり左手が髪を払う。額にかかる前髪が揺れ、その下の眉が少しだけ動く。集中しているときの表情だ。目の奥が、何かと真っ直ぐ向き合っている。そんな姿を、なぜ自分はこうして見ているのだろう。わからなかった。わからないけれど、ただ、目がそらせなかった。ふと、立ち上がろうとして、椅子がわずかに軋んだ。その音に、自分自身がはっとする。声をかけようとした。ただ「手伝いましょうか」とか、「書き写し、代わりますよ」と、そんな一言だけでも。けれど、そのあとに何を続ければいいかがわからなかった。ただの同僚なら、そんなことを考える必要もない。けれど今は違う。一度「好きです」と言ってしまった今、どう振る舞えばいいのか、それがまるで見えない。言葉を探して、胸の奥がざわつく。今里はその気配にも気づかないまま、淡々と文字を綴っていた。ペンを持つ指が一瞬止まり、右に寄ったバランスを左足で取り直す。体の重心がほんの少し傾き、その動きの静かさにまた、鶴橋の心が乱れる。どれだけ丁寧に、無言を貫かれるのが、こんなにも遠く感じるとは思っていなかった。