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群れのなかの異物

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-06-19 11:50:54

午後三時を少し過ぎた頃、営業部の休憩室にはゆるい笑い声が漂っていた。コーヒーマシンの横で、村瀬と数人の若手社員が紙コップを手に、週末の話題で盛り上がっている。壁際には観葉植物、隅に積まれた古新聞。蛍光灯の明かりが白く均一に空間を照らしていて、そこには誰もが安心して過ごせる程度の、緊張感のない空気が流れていた。

「いや、マジでさ。あの人、何が得意なんすかね。今日も電話とって“はい、今里です”しか言ってなかったし」

村瀬がそう言って、紙コップを傾けた。周囲の数人がくすっと笑い、その場は瞬時に“共感”の空気に包まれた。からかいのトーンは、直接的に相手を貶めるものではなかったが、確かにその中心にいる“あの人”が、ここにはいないことを前提とした話し方だった。

「もう名刺だけ渡して、電話対応専門とかでいいんじゃないすか。受付席でも置いたらどうすかね」

さらに村瀬が口角を上げて言うと、今度は誰かが吹き出した。少しだけ大きな笑い声が、ドアの外まで漏れる。

そのときだった。休憩室の入り口に、すっと人の気配が現れた。

今里だった。

誰も気づく間もなく、その姿はそこにあった。が、誰とも目を合わさず、何も言わず、ただ部屋の端のウォーターサーバーへ向かって歩いてきた。足音はほとんどしなかった。革靴が床をかすめる音すら、他の笑い声のなかに吸い込まれていった。

彼は紙コップを一つ取り、水を注ぐと、それをそのまま手にして部屋を横切った。

村瀬が一瞬だけ動きを止めた。だが今里は彼の存在を認識している様子もなく、無言で通りすぎる。肩にかかったスーツのラインはゆるく、体にきちんと合っているとは言い難い。ネクタイはきっちりと締められていたが、その几帳面さと裏腹に、首元には少し疲れが滲んで見えた。

水を口に含む仕草も、ため息すら吐かない。歩き方も、姿勢も、あまりに静かすぎた。まるでこの場の空気とは違うリズムで、ひとりだけ別の時間にいるようだった。

鶴橋は、壁際のイスに腰掛けたまま、その様子を何気なく見ていた。自分から話しかけるでもなく、ただ静かに観察するように、視線を追っていた。

何が変だというわけではない。だが、何かが“足りない”のだ。

体の芯が空洞になっているような歩き方。誰にも気を使わないのに、誰にも敵意を向けていない。存在を主張しないのに、そこにいれば必ず目を引いてしまう。

(ただの冴えないおっさんやと思ってたけど……なんやろな、あれ)

視線を逸らせなかった。普通なら、目立たないはずの存在だった。年齢も、自分より十は上、色気があるわけでもない。表情も変わらず、何を考えているのかまるで見えない。

けれど、その背中には言葉にならない疲れがあり、そこに生きてきた日々の濃度が宿っていた。

(体から“何か”抜けてしもたみたいな、そんな感じ)

今里は紙コップを捨てることもせず、そのまま自席へと戻っていった。足音は最後まで聞こえなかった。笑い声も、少しだけトーンが下がっていた。村瀬が軽く肩をすくめ、「…あれ、聞こえてなかったっすよね」と苦笑混じりに言ったが、誰もそれに明確な返事をしなかった。

鶴橋は、そのあともしばらく黙って座っていた。天井の蛍光灯が淡く光るなか、今里が通った道を何度も思い返していた。

空気のような人間。だが、それが逆に気になる。触れられないのに、何かが引っかかる。表面をなぞっても何も掴めないのに、視界の端にいつも残っている。

そんな人間が、目の前にいるということが、妙に落ち着かなかった。興味とも、警戒とも違う。ただの無関心では片づけられない、名もない感情が、胸の奥に微かに滞留していた。

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