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もう二度と君を見返すことはない

もう二度と君を見返すことはない

By:  クチナシCompleted
Language: Japanese
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結婚まで、あと1ヶ月。 けれど佐野千梨(さの ちり)は、まだその結婚を続けていいのか分からなくなっていた。 理由は彼氏が、親友の未亡人との間に子どもを作ろうとしているからだ。 松井康太(まつい こうた)は言った。「徹(とおる)は俺の親友だった。突然亡くなって、優香には誰も頼れる人がいない。何度も自殺未遂をしてて、もし子どもができれば、生きる支えになるかもしれないって思ったんだ」 千梨には、どうしても理解できなかった。「彼女が子どもを望むなら、養子を迎えればいい。再婚することもできるし、海外の精子バンクを利用するって方法だってある。どうして、あなたがその相手じゃなきゃいけないの?」

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Chapter 1

第1話

結婚まで、あと1ヶ月。

けれど佐野千梨(さの ちり)は、まだその結婚を続けていいのか分からなくなっていた。

理由は彼氏が、親友の未亡人との間に子どもを作ろうとしているからだ。

松井康太(まつい こうた)は言った。「徹(とおる)は俺の親友だった。突然亡くなって、優香には誰も頼れる人がいない。何度も自殺未遂をしてて、もし子どもができれば、生きる支えになるかもしれないって思ったんだ」

千梨には、どうしても理解できなかった。「彼女が子どもを望むなら、養子を迎えればいい。再婚することもできるし、海外の精子バンクを利用するって方法だってある。どうして、あなたがその相手じゃなきゃいけないの?」

康太は静かに答えた。「徹は死ぬ間際、彼女のことを俺に託した。彼女は深城市では誰も知り合いがいないんだ。頼れるのは俺しかいない」

「康太、それってあまりに非常識すぎない?」

康太は答えた。「体外受精だよ。実際に何かがあるわけじゃない。俺はちゃんと君と結婚するよ」

彼と出会って15年、恋人として13年。ようやくたどり着いた、結婚という未来。

なのに神様は、こんな残酷な悪戯を用意していた。

千梨は聞いた。「じゃあ、その子はあなたのこと、どう呼ぶの?おじさん?それとも……父さん?」

康太の顔が一瞬こわばった。そして苛立たしげに言った。「子どもがどう呼ぼうが、俺は気にしない」

千梨が、それを受け入れられるはずがなかった。

その件で、彼とはもう何ヶ月も冷戦状態だ。

康太は言った。「もう一度考えてみてくれ。優香の精神状態は本当にギリギリなんだ。今は俺がそばにいてあげないと。結婚式の日にはちゃんと戻るから」

そう言って、彼は家を出て行った。

大きなスーツケースを2つも引いた。

着替えも、日用品も、全部持ってた。

千梨は、がらんどうになった新居を見つめた。窓ガラスにはまだ、新婚祝いの飾りが貼ってある。それが、今はただ皮肉にしか見えない。

その時、電話が鳴った。ウェディングドレスショップからだった。

彼女は電話に出た。

「もしもし、佐野様ですか?ドレスとタキシードのオーダーを急ぎたくて、ご本人と松井様のお二人のサイズを教えていただけますか?」

自分のサイズは分かっている。でも、康太のは知らない。

千梨は彼に電話をかけた。するとすぐに出た。「考え直した?」

その向こうで、女の声が聞こえた。甘く艶っぽい声で「誰から?」と聞いた。

その声を、千梨は知っていた。

康太の親友の未亡人、彼が言っていた市川優香(いちかわ ゆうか)だ。

康太は言った。「なんでもないよ」

「映画、ちょうどいいところだったのに。こんな時に電話なんて、興ざめ」

千梨は思わず笑ってしまった。「優香と映画?あんなに心を病んで、死にたがってるって話じゃなかったっけ?」

康太は急に声を荒げた。「気分転換に外に連れ出してるだけだ。家にこもってちゃ、徹を失った影から立ち直れないだろ?」

なんて立派な大義名分だろう。

未亡人と子どもを作るって話と、同じくらい馬鹿げてる。

「そっか、それなら続き楽しんで。切るね」

「千梨、ほんとおかしいぞ。電話してきて、何も言わないで、嫌味だけ言ってただけ?」

彼女は聞いた。「康太、この結婚、本当にするつもりあるの?」

「結婚しようがしまいが、優香との子どもを作るってことは変わらない。俺には、親友の血を繋ぐ責任がある」

「いいよ」

「承諾してくれたのか?」

「うん」

「よかった。じゃあ安心して。式にはちゃんと戻るから……」

その言葉の途中で、千梨は電話を切った。

結婚するかどうかなんて、彼にとっては大した問題じゃないというのなら、公平にしよう。

式は予定通り行う。ただし、新郎は別の人に変えるだけ。
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第1話
結婚まで、あと1ヶ月。けれど佐野千梨(さの ちり)は、まだその結婚を続けていいのか分からなくなっていた。理由は彼氏が、親友の未亡人との間に子どもを作ろうとしているからだ。松井康太(まつい こうた)は言った。「徹(とおる)は俺の親友だった。突然亡くなって、優香には誰も頼れる人がいない。何度も自殺未遂をしてて、もし子どもができれば、生きる支えになるかもしれないって思ったんだ」千梨には、どうしても理解できなかった。「彼女が子どもを望むなら、養子を迎えればいい。再婚することもできるし、海外の精子バンクを利用するって方法だってある。どうして、あなたがその相手じゃなきゃいけないの?」康太は静かに答えた。「徹は死ぬ間際、彼女のことを俺に託した。彼女は深城市では誰も知り合いがいないんだ。頼れるのは俺しかいない」「康太、それってあまりに非常識すぎない?」康太は答えた。「体外受精だよ。実際に何かがあるわけじゃない。俺はちゃんと君と結婚するよ」彼と出会って15年、恋人として13年。ようやくたどり着いた、結婚という未来。なのに神様は、こんな残酷な悪戯を用意していた。千梨は聞いた。「じゃあ、その子はあなたのこと、どう呼ぶの?おじさん?それとも……父さん?」康太の顔が一瞬こわばった。そして苛立たしげに言った。「子どもがどう呼ぼうが、俺は気にしない」千梨が、それを受け入れられるはずがなかった。その件で、彼とはもう何ヶ月も冷戦状態だ。康太は言った。「もう一度考えてみてくれ。優香の精神状態は本当にギリギリなんだ。今は俺がそばにいてあげないと。結婚式の日にはちゃんと戻るから」そう言って、彼は家を出て行った。大きなスーツケースを2つも引いた。着替えも、日用品も、全部持ってた。千梨は、がらんどうになった新居を見つめた。窓ガラスにはまだ、新婚祝いの飾りが貼ってある。それが、今はただ皮肉にしか見えない。その時、電話が鳴った。ウェディングドレスショップからだった。彼女は電話に出た。「もしもし、佐野様ですか?ドレスとタキシードのオーダーを急ぎたくて、ご本人と松井様のお二人のサイズを教えていただけますか?」自分のサイズは分かっている。でも、康太のは知らない。千梨は彼に電話をかけた。するとすぐに出た。「考え直した?」その向
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第2話
千梨はInstagramにこう投稿した。【結婚相手を募集します。信頼できる独身男性、紹介してください】すぐにコメント欄は野次馬たちで賑わった。【康太と喧嘩したの?男って外で遊ぶのは普通だよ。いちいち怒ってたら、いい男を失うよ】と説教じみたコメントがあった。さらには、【こんなことして、康太さんに失礼だと思わないの?】と責める声もあった。それを見て、千梨は思わず笑った。康太が何も持っていなかった頃から、ずっと一緒にいて、起業を支え、どん底も乗り越えてきた。彼女には、胸を張って言える。「私は、彼に十分すぎるほど尽くした」先に無茶を言い出したのは彼の方だ。十数年の想いを、まるで意味のないもののように扱う。もう、すべてを断ち切る時が来た。やり直さないと。スマホが震えた。また康太の友人たちが文句でも言ってきたのかと思ったら、意外にも、上司からのメッセージだった。彼女が【極悪資本家】とメモしているその相手は、千梨の上司、宇野雅紀(うの まさき)だ。極悪資本家【結婚相手、探してるの?】極悪資本家【じゃあ、俺でいいじゃん】千梨は固まった。しまった、上司に見られないようにブロックしてなかった。極悪資本家【いつ結婚するの?】おそるおそる、彼女はスマホを握りしめながら返信した。【1ヶ月後?】極悪資本家【いいよ】技術部千梨【本気なんですか?】極悪資本家【今すぐ籍入れてもいいけど?30分後、迎えに行く】慌てて彼女は止めた。技術部千梨【いえ、まだ少し片付けたいことがあるので、1ヶ月後で。社長も、よく考えてください】極悪資本家【考えることはない。1ヶ月後、そのまま結婚しよう】雅紀からのメッセージを見つめながら、千梨はしばらく動けなかった。その時、玄関の鍵が開く音がした。康太が帰ってきた。顔色は良くない。「千梨、俺たちの結婚式、延期しよう。優香の状態がまだ安定してなくて今、祝い事なんてしたら刺激になるかもしれない」千梨は、静かにうなずいた。「うん」康太は少し驚いたようだった。「怒らないのか?」「なんで怒るの?」「だって俺たち、十年以上も付き合ってきたんだぞ?」千梨は、心の中で冷笑した。十数年も付き合ってきて、結局は優香のために結婚式は延期したなんて。この十数年、彼は
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第3話
今週末は、担任だった吉川先生の誕生日だった。千梨は朝早く、クラス委員から電話を受けた。「康太と一緒に来てね」彼女がカラオケ店に到着した時には、すでに同級生たちが大勢集まっていた。だが、康太の姿はなかった。クラス委員は彼女の後ろをチラッと見て、聞いた。「旦那さんは?車停めに行ったのかな?」千梨は淡々と答えた。「今は、旦那じゃない」クラス委員は冗談めかして笑った。「今は、って……でももうすぐ結婚でしょ?あれだけ長い付き合いだったんだし、ここで喧嘩して終わっちゃうのはもったいないよ。もうゴール寸前なんだから、仲直りしなよ」吉川先生は昔と変わらず穏やかに微笑んでいた。ただ、あれから十年以上が経ち、白髪も増えていた。「そうよ、千梨。あなたたちが付き合い始めた頃から見てきたんだから。今回は優香の件でギクシャクしてるんでしょ?きっと誤解よ。松井くんは市川くんととても仲が良かったし、彼が亡くなって、ただ友人として優香の面倒を見ているだけ。十年以上の関係、信じてあげなさい」吉川先生は国語の教師で、ずっと優しくて親切だった。千梨もそんな先生が大好きだった。でも、もう学生じゃない。先生は知識は教えてくれても、結婚生活の舵取りまではできない。「吉川先生、気持ちはわかってます。大丈夫です」吉川先生は納得したように笑みを深めた。「あなたは本当にいい子ね、きっとわかってくれると思ってた」その時、ドアが開き、康太が入ってきた。「吉川先生、お誕生日おめでとうございます」吉川先生は嬉しそうに笑った。「ありがとう。もうすぐ結婚するんだってね。私まで幸せをもらえそうだわ」しかし、その笑顔は、次の瞬間ぴたりと止まった。優香が、康太の後ろにぴったりとついてきたのだ。しかも、彼の上着を羽織り、腕を絡めた。優香はニコニコとプレゼントを差し出しながら言った。「吉川先生、こんにちは。優香です。遅れてしまって本当にすみません。急に生理がきちゃって……康太がナプキンを買いに行ってくれて、少し時間がかかっちゃいました」康太。その呼び方が、すべてを物語っていた。クラス委員もあ然とし、康太の肩を叩きながら言った。「千梨、ここにいるんだけど?なんで彼女も連れてきたの?」康太は答えた。「優香は最近、情緒不安定でね。ひとりにしておけないんだ」
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第4話
千梨は、康太と優香の目の前で、ためらいなくマイバッハに乗り込んだ。数人の同級生たちも外に出てきて、ふざけながら言った。「最近のマイバッハって、もう配車サービスまで始めたの?」康太の顔が一瞬、引きつった。彼が乗っているのはホンダの車。普通に見れば悪くないが、マイバッハと並ぶと、一気に見劣りする。千梨が家に帰って間もなく、康太が戻ってきた。彼女は少し驚いた。「今夜は帰らないって言ってなかった?」康太の表情は暗く、重たかった。「お前さ、俺が帰らない方がよかったんだろ?」千梨は冷静に返した。「病気なら病院行けば?」「今日迎えに来た男、誰なんだ?」「あの男のこと?私の夫よ」康太は突然吹き出して、笑い始めた。「はは!やっぱりな!」千梨には、彼が何言っているのか、理解できなかった。康太はソファにどっかと座り、勝ち誇ったように言った。「お前、わざとだろ?俺を嫉妬させようとして。関心持たせようとして。マイバッハなんて、レンタルしたら相当高いんだぜ?最近妙に静かだと思ったら、そういう作戦かよ」千梨はあきれて何も言えなかった。「そう思うなら、どうぞご自由に」康太はうんざりしたように言った。「もうこんな手、やめてくれよ。ほんとにくだらない」「どう思われてもいいわ」「千梨、結婚式を急にキャンセルされたのは、お前だって不満だろ?ずっと俺と結婚したがってたんだろう?でもな、優香はまだ夫を亡くしたばかりなんだ。まずは彼女を優先すべきなんだよ」千梨は思わず聞いてしまった。「じゃあ、優香が一生立ち直れなかったら、あなたも一生結婚しないつもり?」「千梨、お前ってほんとに性格悪いな。どうしてそんな酷いこと言えるの?優香が何かお前にした?呪う必要なんてないだろ」康太が優香をかばうのは知っていたが、「性格悪い」とまで言われるのは初めてだった。特に、十数年愛し、十数年尽くし、あと少しで夫になるはずだった男から。千梨の心はさらに冷えていった。「車のキー、貸して」康太は少し警戒した。「何するつもり?」「車に私物を置きっぱなしにしてたの。取りに行くだけ」かつて、千梨は自分でお守りを作り、フロントガラスに吊るしていた。「無事でありますように」と願った。でも今の康太に、守る価値なんてもうない。康太は渋々言っ
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第5話
電話の向こうで、雅紀が尋ねた。「さっきのは、元カレ?」彼の言い方には、すでに「元」という前提がついていた。千梨は答えた。「うん」「できるだけ早く引っ越して」「わかった」「入籍の件は、都合のいい日を教えて。予定合わせるから」電話を切ったあと、康太がじっと彼女を見て言った。「こんな時間に、誰からの電話だ?」千梨はさらっと答えた。「入籍しようって誘われたの」康太は鼻で笑った。「千梨、そういう芝居、1回やれば十分だよ。2回目はさすがに白ける」千梨は深く息を吸い込んだ。「そう」「聞いてんのかよ?」「安心して。もうあなたに何も言わないから」康太はそれで満足したようだ。「もう遅いし、優香のところに戻る」「どうぞ」帰り際、彼は振り返りながら言った。「もう少しだけ待ってくれ。優香の状態が落ち着いたら、ちゃんと籍入れるから。長年一緒にいたお前に、俺なりのけじめはつけるつもりだ」その言葉に対して、千梨は何も答えなかった。翌日、千梨は引っ越しの準備を始めた。服は少なく、最も大事なのはパソコン。プログラマーとして、これまでの全てのプロジェクトがそこに詰まっている。雅紀が迎えに来たとき、千梨はパソコンバッグ一つだけを持っていた。彼は目を細めて言った。「それだけ?」千梨は頷いた。「うん、それだけ」「女の子って、もっと服とかバッグとか、たくさん持ってるもんだと思ってたよ」そう、誰だって綺麗な服やブランド物が欲しい。でも康太の起業を支えるため、だんだん生活が苦しくなった。千梨は自分のアクセサリーを売り、服も何年も新しいものは買っていなかった。今回も、下着だけ残し、あとはすべて慈善団体に寄付した。雅紀はそのバッグを見て、そっと言った。「今週末、服を買いに行こう」「いいよ、そんなの……」「どうして?」「……今月の給料、まだ入ってないし」雅紀は思わず笑った。「じゃあ、前借りさせてあげようか」千梨は唇を軽く舐め、まだ少し怯えた様子で聞いた。「社長、本当に私と結婚する気あるの?」「どうしてそんなこと聞くの?」「家からのプレッシャーがすごいとか?」「まあ、それもあるけど。既婚者ってことで、株主の信頼も得やすくなる。会社にとってもメリットがあるからね」「なるほどね。さすが
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第6話
もうすぐ雅紀の家に着くというころ、千梨は少し考えた。今日はもう役所もすぐに閉まる時間だし、手続きは、また今度にしよう。とはいえ、彼女はもうすでに雅紀の家に住んでいた。本当は、自分で部屋を借りて住んだ方がいいと思っていた。だが、雅紀の言い分はこうだった。「結婚してるのに別居って、記者に撮られたらまた記事にされる」結局、社長の仕事に協力する形で、千梨は雅紀の家に住むことになった。ただし、彼女は「ゲストルームで寝る」と主張した。この点に関して、雅紀は特に強引に何かを求めてくることはなかった。しかし、千梨が持ってきた服をクローゼットにしまっているとき、雅紀は腕を組んでドアにもたれ、じっと彼女を見ていた。「千梨、俺が言ってる結婚は、本気のやつだからな」彼女は一瞬その言葉の意味が掴めず、うなずいた。「うん、わかってる。ちゃんと法的な手続きするし、籍も入れるってことだよね?記者に調べられても問題ないし」雅紀は少し語気を強めた。「そうじゃなくて。本当の結婚の話だ。法律上だけじゃなくて、夫婦としての日常も含めて」千梨はその意味にようやく気づいた。彼女の顔が、ふわっと赤くなった。服をしまう手も、どこかぎこちなくなっていた。雅紀はその様子を見て、くすっと笑い、やさしく言った。「安心しろよ。食べたりしないって」康太が自宅に戻ってきたのは、それから3週間後のことだった。この3週間、彼は優香と共に、彼女の好きなことばかりをしていた。ディズニーランドで一日中遊び、海で朝日を見上げ、砂漠で天の川を眺めた。帰り道、優香が彼にこう言った。「康太、私、妊娠したみたい。この子に父親がいないなんて、そんなの可哀想じゃない?パパのいない子だなんて言われたら、あなたは耐えられる?徹さんが私をあなたに託したのは、私を守ってほしかったから。この子を一緒に育てて、子供が大きくなったら、徹のお墓参りをさせて、義理の父親として……そうすれば、すべてが丸く収まるじゃない?それに、千梨とは十何年も一緒にいたかもしれないけど、まだ籍を入れてたわけじゃないよね?結婚してなければ、お互いフリーだよね。自由に選べるものでしょ?彼女が怒っても、どうせ私、あなたの子どもをお腹に宿してる。さすがに、それを理由に中絶させるような酷いことはできないでしょ?」
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第7話
千梨は、いつもの生活リズムに従って家を出た。彼女にしては、かなり早い時間だった。しかし市役所に到着したときには、雅紀はすでに来ていた。朝の光の中、木々の影が彼の顔にこまかく落ちていて、それがまるで微笑んでいるようにも見えた。彼は千梨のいる方向に体を向けて、手を差し出しながら言った。「行こう、中に入ろう」千梨は少し戸惑いながら言った。「社長が市役所の手続きの流れを知らないけど、まずは番号札を取って、呼ばれるのを待たないと」けれど雅紀はあっさり答えた。「知ってるよ。もう取ってある」彼はポケットから丁寧にしまってあった番号札を取り出した。その紙には堂々と「1」の数字が印刷されていた。千梨は一瞬、固まった。「一体どれだけ早く来たの?」今日は平日とはいえ、縁起の良い日とあって、結婚を希望するカップルが多く、早朝から代行業者まで並ぶほどだ。そんな中で一番を取るなんて、ちょっと信じられない。千梨はつい口にした。「まさか昨日の夜から並んでたわけじゃないよね?家族に結婚急かされてるからって、そこまでしなくても……」雅紀は相変わらずの態度で、前の質問と同じく黙認した。そして再び手を差し出して言った。「行こう。早く済ませた方が安心だ」「もしかして、私が気が変わるとでも思ってる?」そもそも、こんな夢のような話が自分に転がり込んでくるなんて、ありえないはずだったのに。「うん」雅紀は真剣な顔でうなずいた。「君が気が変わるのが怖い」そう言いながら、手を彼女の前に差し出す。千梨は迷いながらも、そっとその手に自分の手を重ねた。彼に手を握られた瞬間、きっと違和感があると思っていた。でも実際は、悪くなかった。雅紀の手は乾いていて温かく、しかも一度握ると離すつもりがなさそうだった。ようやく手を離したのは、書類に記入する段階に入ったときで、必要な用紙を彼女に渡す瞬間だった。彼らはこの日、最初に結婚の手続きを済ませた夫婦となった。時間にも余裕があり、審査も撮影もとてもスムーズに終わった。職員は婚姻届を手渡しながら、笑顔で祝福した。「お二人、とても相性がいいですね。星座の相性も完璧ですし、きっと幸せになりますよ」千梨はぽかんとした顔で答えた。「そう?」彼女は雅紀の個人情報について何一つ知らず、誕生日すらさっき記入用紙を見て初
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第8話
この呼び方には、千梨も少しむず痒さを覚えた。けれど、訂正したり拒んだりする理由もなかった。雅紀は彼女の社長なのだ。それを思うと、緊張で喉がひりつくようだった。「社長、私、自分でタクシー使って会社に向かえるよ」運転しながら、雅紀は前方を見据えたまま言った。「今日は出勤しなくていい」「えっ?今日は水曜日だ。普通の平日だよ」彼の口元がふっと緩み、時間とともに笑みが抑えきれないほど広がっていった。そして、どこか楽しげな口調で続けた。「今日は特別な日だ。せっかくだし、祝いでもしようか。ランチは何が食べたい?鍋、それとも焼肉?」どれも千梨が普段好んで食べているものだった。少し考えたあと、千梨は答えた。「鍋がいいかな。お祝いって言うくらいなら、やっぱり熱々の料理がふさわしいでしょ」雅紀は彼女をとある鍋レストランへと連れて行った。この店は、千梨にとって写真だけ撮って素通りする場所だった。けれど今日は、雅紀が支払ってくれるという安心感がある。千梨はようやく胸を張って足を踏み入れた。レストランは、値段にふさわしく細部までこだわっていた。メニューからナプキンまで、どれもが洗練されている。雅紀はメニューを手渡しながら言った。「好きなものを好きなだけ頼んでいいよ」「それ、本当よね?」千梨も、彼の経済力についてはある程度知っている。だからこそ、資本家を絞るつもりで、遠慮なく注文を始めた。「鍋は松茸で。タレは特製の8種盛りにして、クルマエビを2尾、スジアラを500グラム、黒毛和牛と手作り卵餃子を一人前ずつ、それから南オーストラリア産の巻貝も……」普段なら目にするだけで手が出ないような高級食材を、次々と注文していく。けれど、気づいたときにはメニューがやたらと長くなっていた。「……ちょっと頼みすぎたかも。これ、全部食べきれないよね。何品か削るね」「いや、いいよ」雅紀はすぐさま手を伸ばしてメニューを取り上げ、そのまま店員に渡して言った。「このままで全部お願い」彼は千梨が驚く暇も与えず、すぐに言い添えた。「お祝いなんだから、とことん贅沢しなきゃ。全部試してみなきゃ、自分の本当の好みもわからないだろう?」言っていることは、実にもっともだ。千梨は、心ゆくまで贅沢な食事を堪能した。雅紀とはそこまで親しいわけではない。だが、彼の
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第9話
「今すぐ行くの?」千梨は少しためらった。だが雅紀は、特におかしいとは思っていないようだった。「もう夫婦なんだよ?しかも明後日には結婚式も控えてる。事前にご両親に挨拶するのは当然でしょ」礼儀に関しては、彼は本当にきちんとしている。千梨は、正直に打ち明けるしかなかった。「両親と兄には、まだ結婚のこと伝えてないの。だから、せめて明日にしてくれない?心の準備くらいはさせてあげたいの」衝動的に突っ走った代償は、自分で何とか片付けるしかない。雅紀はしばらく考え込みながら言った。「でも、会場の設営やリハーサルには時間がかかる。式場も料理も明後日で予約してるから、明日はそっちに時間を使わなきゃいけない。今日が一番ちょうどいいんだよね」その話が筋が通っていて、反論の余地がない。鍋を囲んで過ごした時間のおかげで、二人の距離はぐっと縮まっていた。腕時計を見た雅紀は言った。「少し準備してくる。君は向かいのカフェで休んでて。コーヒーでも飲んで、ちょっと待っててくれればすぐ戻るよ」カフェはレストランからほど近く、通りを渡ったすぐの場所にあった。千梨もちょうど一人になって、頭を整理したいと思っていたところだった。彼の行き先を詮索することもなく、ホットドリンクを一杯頼んでからスマホを取り出した。ちょうどそのとき、康太からのメッセージが届いていた。【どこにいるんだ?リハーサルあるの知らないわけじゃないよな?】たった一行に、聞き慣れた不満と命令口調がにじみ出ていた。指先を動かしてスクロールすると、次の未読メッセージも彼からだった。【結婚したいって言い出したのはお前だろ?今になって何消えてるんだよ。もう来ないなら式は中止だ】【千梨、いつまで拗ねてるつもりだ。結婚は子供の遊びじゃないぞ】【いいさ、来ないのはお前の選択だからな。後悔しても知らない】まるで、彼との結婚のためなら何もかも投げ打つと信じていたかのようだ。千梨は、それらのメッセージに既読もつけず、無言でスワイプして削除した。だが指が滑って、誤って彼のInstagramを開いてしまった。メッセージであれほど焦っている様子とは裏腹に、彼は優香の写真を投稿していた。カメラ目線からして、撮ったのは本人ではない。つまり、康太がシャッターを押したのだろう。康太は一切の気兼ねもなく、
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第10話
彼女はしばらく何から話し始めればいいのか、本当にわからなかった。同僚はすぐに理解を示してくれた。「話は長くなりそうだってわかってるけど、でも苦労の末に報われたなんて、本当にめでたいことだよ。てっきり社長は一生独身だと思ってたけど、今思えば、あなたに出会えたなんて、本当に幸運だったんじゃないかな」幸運なのは、むしろ私のほうじゃない?間違った関係に終止符を打ったばかりで、結婚を急かされていた上司と出会った。深い愛情なんてなかったにせよ、少なくとも礼儀正しく穏やかに暮らせる相手だと思っていた。しかし、同僚が言いたかったのはまったく別の話だった。「これっぽっちも大げさな話じゃないよ?よく考えてみて。社長の年齢や条件で、本気で結婚しようと思ったら、それってそんなに難しいこと?でもあなたが入社してからというもの、彼は誰とも付き合ってないんだよ?」雅紀は、顔もスタイルも芸能界レベル。でもそれは彼の多くの魅力のうちの一つに過ぎない。宇野家の社長という肩書きだけでも、美女を手に入れるなんて造作もないことだろう。それなのに、本当に一人の彼女もいなかったなんて。あまりにも潔癖すぎて驚くほどだった。その瞬間、千梨の頭の中には、次々とあり得ない妄想が浮かんできた。たとえば、雅紀はそもそも女性に興味がないとか、結婚はただ親のためのカモフラージュだとか。あるいは、何か言えない事情があって、部下との結婚が都合よかったとか。彼がどんな理由で自分と結婚したのかは、正直そこまで気にしていなかった。でも、次に同僚が口にした言葉には、千梨は思わず目を見開かざるを得なかった。同僚は会社歴も長く、社内の人間関係にも詳しい。当然、知っている裏話も多い。そして突然、大きな噂を口にしたのだった。「実はね、社長ってすっごく一途らしいの」千梨はその話を聞いて、半ば呆れたように笑いながら尋ねた。「それって、どこをどう見てそう思ったの?」雅紀と「一途」という言葉は、どうにも結びつかない気がした。同僚は彼女が信じていないのを察して、自分の知っていることをすべて語り出した。「人から聞いた話だけど、社長には忘れられない女の子がいたんだって。ずっとその人のことを大切に思ってて、だからこそ、今まで誰とも付き合わなかった。家族からどれだけ結婚を迫られても譲らなかったんだとか
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