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遅れてきた春の約束

遅れてきた春の約束

By:  一攫千金Completed
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葛城詩織(かつらぎ しおり)は、恋人である榊玲司(さかき れいじ)に頼まれ、ベッドの上で「ご主人様と子犬ごっこ」に付き合ったこと以外、これまでの人生で、人目を引くようなことは無縁の、ごく平凡な女性だった。 カーペットの上で、玲司は詩織の耳たぶを軽く噛みながら、「いい子だ。なんて言うか、分かってるだろ?」と囁いた。 詩織は唇を噛みしめた。その言葉はあまりにも屈辱的で、どうしても口に出すことができなかった。 ......

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Chapter 1

第1話

葛城詩織(かつらぎ しおり)は、恋人である榊玲司(さかき れいじ)に頼まれ、ベッドの上で「ご主人様と子犬ごっこ」に付き合ったこと以外、これまでの人生で、人目を引くようなことは無縁の、ごく平凡な女性だった。

カーペットの上で、玲司は詩織の耳たぶを軽く噛みながら、「いい子だ。なんて言うか、分かってるだろ?」と囁いた。

詩織は唇を噛みしめた。その言葉はあまりにも屈辱的で、どうしても口に出すことができなかった。

「詩織、他の女は色々できるのに、お前は障害者で何もできないんだから、せめて言葉で俺を喜ばせることくらいできないのか?」

3年前の事故で詩織は両足を失って以来、玲司が寝たきりの詩織の祖母とともに詩織の面倒を見ていた。

罪悪感と劣等感がこみ上げてくるのを堪え、詩織は涙をこらえ、無理やり陶酔した表情を作りながら、「わんわん!もう待ちきれないです。ご主人様、お好きにしてください......わんわん!」と言った。

玲司は詩織に、あの言葉を言うだけでなく、犬の鳴き声の真似まで強要した。

「よし、いい子だ。望みを叶えてやる!」玲司は急に興奮し、鞭を血が出るまで何度も、詩織の背に叩きつけた。

彼は詩織の背についた血滴に口づけ、「詩織、お前は自分がどれほど美しいか、気付いていないんだな。愛してるよ」と言った。

詩織の緊張が解けた。彼女は玲司のこの趣味が好きではなく、ベッドの上ではいつも恐怖と屈辱を感じていた。しかし、彼を喜ばせ、「愛してる」の言葉を聞くため、2年間も耐えてきたのだ。

行為が終わると、玲司はぐったりとした詩織を抱きかかえ、浴室で体を洗い、傷ついた背中に優しく薬を塗ってやった。

「今日は疲れただろう。ゆっくり休め。俺は友達と約束があるから、先に行く」

ベッドの上では別人のように激しい玲司だが、普段は非の打ち所のない完璧な恋人だった。裕福な家に生まれ、容姿端麗で、優しく大人で一途。まるで物語の中から出てきた王子のようだった。

彼が去ってしばらく後、詩織も友人の集まりに出かけた。しかし、建物の下で、玲司の姿が一瞬見えた。

彼もここにいるのだろうか?

詩織は彼に声をかけようと追いかけた。個室の外に着くと、中から自分の話が聞こえてきた。

「玲司さん、3日後には葛城の個展だ。準備は万端か?」

詩織は芸術の才能に恵まれていた。事故で足を失い、ダンスができなくなった後、絵を描き始め、わずか数年で名を上げた。3日後には、初めての本格的な個展が開かれる予定で、規模もかなり大きなものだった。

「ああ」玲司の声は冷たかった。「あいつが自分で『下等な犬』だと行っている動画は全部保存してある。それらを個展で流して、プライドも自尊心も、粉々に打ち砕いてやる」

廊下にいた詩織は、全身が凍りついた。彼は......何を言っているの?

いつ動画を撮ったの?なぜそんなことをするの?

個室の中からは笑い声が聞こえてきた。「ははは!大スクープになるぞ!見出しはもう決まってる。『天才新人画家、実は変態プレイ好きのドM!』だ!」

「評判が地に落ちたら、玲司さんが真実を暴露するんだ。彼女の足は玲司さんが人を使って轢かせたんだって。そして、玲司さんがあのババアにベッドでの動画を見せたから、ショックで寝たきり状態になってしまったとね!」

詩織は雷に打たれたように、耳を疑った。

玲司は、詩織が事故に遭った年に現れた。彼女のダンスを見て一目惚れしたと言い、付き合ってほしいと申し出てきたのだ。

彼は詩織の治療費を立て替え、何度も断られても、毎日手料理を届けて彼女と祖母に介護した。世界中に旅行に連れて行き、同じ境遇の人を紹介し、励まし続けた。

紳士的で情熱的な彼は、どん底にいた詩織にとって一筋の光だった。彼女は次第に彼に惹かれ、彼なしでは生きていけないほどに深く愛するようになった。

しかし、まさか奈落の底から救い上げてくれたこの男が、自分を突き落とした張本人だったとは!しかも、彼の手で祖母まで傷つけられていたなんて!

「やばいな!最高の案だ!葛城は自殺するか、狂うに違いない!掛けでもするか?あいつがどんな反応するかをさ」また笑い声が上がった。「当然の報いだ。芸大入試で静香さんの点数を上回り、佐藤先生の最後の弟子になったんだから!そうやって静香さんの夢を奪ったんだ!」

詩織は藤原静香(ふじわら しずか)を覚えていた。芸大入試で2位だった生徒だ。

「玲司さんは昔から静香さんを愛していたんだ。あんなお嬢様が、一般人に負けるなんて!耐えられなくて、合格発表の後に自殺したんだ。全部、葛城のせいだ!」

詩織の頬を一筋の涙が伝った。

点数は自分で勝ち取ったものだ。不正な方法で奪ったわけではない。なのに、なぜこんな理不尽な目に遭わなければならないのか。

「でも玲司さん、2年間も一緒にいたんだろ?情が移ったりして、最後に手加減したりしないだろうね......」

玲司の沈黙が続いた。この長い沈黙は詩織にかすかな希望を抱かせた。彼が本気になってくれたのではないか、と。そして彼がついに口を開いた。

「ハッ......まさか。俺は誰よりもあいつを憎んでる。そういえば、あいつがサインして拇印を押した白紙が何枚かあるんだ。借用書に仕立て上げれば、詩織は巨額の借金を背負うことになる」

彼の薄く切長い唇から、冷酷で残忍な言葉が吐き出された。「借金で首が回らなくなったら、男を使ってAVでも撮影して、完全に破滅の道へ落としてやる。天国の静香に、あの天才が泥水にまみれる姿を見せてやるんだ」

背筋が凍るような、あからさまな悪意と憎悪。詩織は胸が張り裂けるような痛みを感じた。3年間の愛は、すべて仕組まれた復讐劇だったのだ。

感情の高ぶりと連動して胃が痙攣し、詩織はこらえきれずに吐き気を催した。

その物音に玲司が気づいた。「誰だ!」

玲司が出てきた時、詩織は必死に車椅子を操作し、隣の空いている個室に逃げ込んだ。

彼女の全身が冷え切り、まるで魂が抜けてしまったかのようだった。しばらくしてようやく我に返り、口を押さえて泣きじゃくった。

一晩泣き明かした詩織は、江ノ島市でもう一つの名家、橘家を訪ねた。

かつて、詩織の両親は橘家の跡取り娘を助けるために命を落とした。これはその時の形見で、これを持っていけば、橘家はどんな願いでも叶えてくれると約束されていた。
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第1話
葛城詩織(かつらぎ しおり)は、恋人である榊玲司(さかき れいじ)に頼まれ、ベッドの上で「ご主人様と子犬ごっこ」に付き合ったこと以外、これまでの人生で、人目を引くようなことは無縁の、ごく平凡な女性だった。カーペットの上で、玲司は詩織の耳たぶを軽く噛みながら、「いい子だ。なんて言うか、分かってるだろ?」と囁いた。詩織は唇を噛みしめた。その言葉はあまりにも屈辱的で、どうしても口に出すことができなかった。「詩織、他の女は色々できるのに、お前は障害者で何もできないんだから、せめて言葉で俺を喜ばせることくらいできないのか?」3年前の事故で詩織は両足を失って以来、玲司が寝たきりの詩織の祖母とともに詩織の面倒を見ていた。罪悪感と劣等感がこみ上げてくるのを堪え、詩織は涙をこらえ、無理やり陶酔した表情を作りながら、「わんわん!もう待ちきれないです。ご主人様、お好きにしてください......わんわん!」と言った。玲司は詩織に、あの言葉を言うだけでなく、犬の鳴き声の真似まで強要した。「よし、いい子だ。望みを叶えてやる!」玲司は急に興奮し、鞭を血が出るまで何度も、詩織の背に叩きつけた。彼は詩織の背についた血滴に口づけ、「詩織、お前は自分がどれほど美しいか、気付いていないんだな。愛してるよ」と言った。詩織の緊張が解けた。彼女は玲司のこの趣味が好きではなく、ベッドの上ではいつも恐怖と屈辱を感じていた。しかし、彼を喜ばせ、「愛してる」の言葉を聞くため、2年間も耐えてきたのだ。行為が終わると、玲司はぐったりとした詩織を抱きかかえ、浴室で体を洗い、傷ついた背中に優しく薬を塗ってやった。「今日は疲れただろう。ゆっくり休め。俺は友達と約束があるから、先に行く」ベッドの上では別人のように激しい玲司だが、普段は非の打ち所のない完璧な恋人だった。裕福な家に生まれ、容姿端麗で、優しく大人で一途。まるで物語の中から出てきた王子のようだった。彼が去ってしばらく後、詩織も友人の集まりに出かけた。しかし、建物の下で、玲司の姿が一瞬見えた。彼もここにいるのだろうか?詩織は彼に声をかけようと追いかけた。個室の外に着くと、中から自分の話が聞こえてきた。「玲司さん、3日後には葛城の個展だ。準備は万端か?」詩織は芸術の才能に恵まれていた。事故で足を失い、ダンスが
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第2話
橘家の人間はすぐに詩織を見つけた。「よく来てくれたね」彼らはこれまでずっと詩織を助けようとしてきたが、株式譲渡も会社譲渡も、すべて断られてきた。詩織は、これは両親の命と引き換えに得たものだから使いたくないと思っていた。しかし、今はもう他に方法がない。権力も後ろ盾もない彼女は、玲司には敵わない。彼女は橘家に、2日後には彼女と祖母を海外に逃がして欲しい、そして祖母に最高の医療チームをつけて欲しいと、頼み込んだ。今は善悪を問うている場合ではない。一番大切なのは祖母の治療だ。彼女は詩織にとってたった一人の肉親なのだ。そして、玲司から白紙の書類を取り返し、動画を消去しなければならない。橘家の人間と約束した後、詩織はアトリエに向かった。ここには何百枚もの絵がある。どの絵も、取材から下書き、修正、彩色まで、すべて玲司が付き添って完成させたものだ。だから、どの絵にも彼の面影が宿っている。詩織はずっと、これらの絵は二人の愛の証だと思っていた。今、彼女は黙ってそれらを見つめ、突然ナイフを手に取ると、一枚一枚切り裂いていった。絵が破壊されていくにつれ、詩織の涙は止まらなくなり、最後にはナイフを投げ捨て、顔を覆って泣き崩れた。「どうしたんだ?」玲司はアトリエに入ってきて、散乱した光景を目の当たりにした。詩織は驚き、慌てて涙を拭った。「なんでもないわ。気に入らなかった絵を処分しただけ」玲司は違和感を覚えた。詩織は普段、絵をとても大切にしている。それに、欠点も絵の個性だと言っていた彼女が、どうしてこんな風に切り裂くのだろうか。さらに問い詰めようとする玲司を遮り、詩織は言った。「本当に大丈夫。個展が近いからストレスが溜まってて、ちょっと発散したくなっただけ」「俺のせいだ。お前の気持ちを察してやれなくて、こんな風にストレスを発散させてしまうなんて」玲司は詩織を後ろから抱き寄せた。「辛い時は俺に言えよ。俺が八つ当たりの相手になってやる」詩織の胸が痛んだ。彼女は俯いたまま何も言わなかった。「まあ、そんなに緊張するな。2日後の個展は必ず成功する。その時になったら、お前は全国的に有名人になるんだから」ああ、彼の計画通りに個展で動画を流せば、こんな衝撃的なスキャンダルで有名にならないはずがない。ただ、悪名で有名になるだけだ。「.....
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第3話
鍵は開かなかった。詩織は自嘲気味に笑い、少し考えた後、静香の誕生日を入力した。その瞬間、彼女は鍵が開いて欲しいと願った。しかしそれと同時に、開いて欲しくないとも思っていた。再び「カチッ」という音とともに、鍵が開いた。詩織はしばらくの間、茫然と立ち尽くした。震える手で手袋をはめ、金庫の中を探したが、彼女のサイン入りの白紙は見つからず、静香の写真の束だけがあった。しかし、写真の最後に、一枚だけ、彼女と玲司のツーショット写真があった。詩織は息を呑んだ。なぜここに彼女の写真が?理由が分からず、彼女の心は再びかき乱された。午後、玲司が戻ってきた。「詩織、友達が集まるんだけど、一緒に行こう」詩織は行きたくなかったが、歩けない彼女は、彼に抱えられて車に乗せられ、半ば強制的にパーティーに連れて行かれた。「奥さん、いらっしゃい!」昨日、彼女に悪意を向けていた連中が、今は皆、にこやかに笑っている。まるで、昨日の出来事が幻だったかのようだ。詩織は落ち着かず、胸騒ぎがして、一刻も早く帰りたかった。「奥さん、3日後には個展ですね!ますますのご活躍をお祈りしています!」「玲司さんと末永くお幸せに!」彼らは詩織を取り囲み、あれこれと理由をつけて酒を勧めてきた。しまいには無理やり飲ませようとしてくる。やっとのことで逃げ出した詩織は、思わず玲司に助けを求めるように視線を向けた。しかし彼は笑って、「みんなお前のことを思ってるんだ。飲めよ」と言った。誰一人、彼女の味方はいなかった。どれくらい飲まされたのか、詩織はソファに倒れ込み、気を失った。意識がもうろうとする中、誰かの声が聞こえた。「彼女を田中社長に渡しても大丈夫か?彼はこの界隈で有名な変態だぞ。たくさんの女を弄び壊している。個展の前に殺されたら元も子もないだろ!」騒音の中、玲司の声が聞こえた。「心配するな。あいつの体はそんな繊細じゃない。そう簡単には壊れないから。」そして、彼は少し黙ってから言った。「今日は静香の命日だ。心が押し潰されそうだ。だから、あいつの苦しみを静香の供養にしたい。後は任せた。俺は行く」詩織は激しい恐怖に襲われ、重い瞼をこじ開け、ここから逃げ出そうとした。その時、「ガチャ」とドアが開いた。太った男が入ってきた。彼はニヤニヤしながら両手
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第4話
一晩中、意識を失っていた詩織が目を覚ました。玲司は用意していた言い訳を口にした。「昨日はみんな飲みすぎて、先に帰ったんだ。俺も用事で少し席を外した隙に、こんなことが起きてしまったなんて......」詩織がしつこく問い詰めてきたら、これまでの恩を着せ黙らせようと思っていた。「俺のことをまだ知らないとでもいうのか?俺がお前を騙すと思うか?」と。しかし、意外にも詩織は静かに目を開けているだけで、何も聞かなかった。「詩織、どうした?なんでずっと黙っているんだ?」玲司は詩織の額に手を伸ばしたが、触れる前に、彼女は悲鳴を上げながらベッドから転げ落ちた。「来ないで!来ないで!」彼女は頭を両手で抱え、叫びながら、泣きじゃくった。「叩かないで!お願い、叩かないで!」玲司はその場に凍りついた。看護師が来て彼女を押さえつけ、鎮静剤を注射すると、ようやく静かに眠りについた。それから午前中ずっと意識を失い、再び目を覚ましたのは昼過ぎだった。今度は意識がはっきりしていた。彼女は無理やり昨晩の出来事と、あの時の恐怖を忘れようとした。彼女にはまだやらなければならないことがある。動画と、サインした白紙を見つけ出して処分しなければならない。「もう大丈夫。退院したいわ」玲司は彼女の精神状態を刺激するのを恐れ、すぐに彼女の要求を受け入れ、退院手続きをした。病院を出た途端、一人の男が早足で彼らの方に近づいてきた。男は精神が不安定なようで、「呪ってやる!地獄に落ちろ!」と呟いていた。そう言うと、男は手に持った瓶の中身を詩織に浴びせかけた。何が浴びせられたのか分からなかったが、以前、詩織は精神異常者に硫酸をかけられたことがあった。避けようとしたが、足が動かない彼女は、ただ絶望的に両手で頭を守ることしかできなかった。次の瞬間、玲司が詩織の前に飛び出し、代わりに浴びせられた。中に入っていたのはペンキだった。「詩織、大丈夫か!?」玲司は心配そうに詩織を見つめた。「......大丈夫」詩織は長い沈黙の後、彼の腕を振り払った。帰る途中、詩織は目を閉じて眠っているふりをした。玲司は彼女が寝ていると思い、ロックをかけずに携帯を脇に置いた。彼女は目を開けると、彼らのチャット画面が目に入った。「玲司さん、何でわざわざ人に頼んで詩織にペンキ
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第5話
彼女が病院に着いた時には、祖母の管を抜いた男はすでに警察に捕まっていた。犯人は病院の臨時警備員で、勤務中に詩織の作品が盗作だとネットで知ったらしい。彼は詩織が祖母の見舞いに来ているのを見たことがあり、ネット上の過激な意見もたくさん見ていた。詩織のような人間はあんなに金を稼ぐ資格はない、彼女の家族もこんな立派な病院に入院している資格はない、と考えたのだ。そして、看護師が薬を取りに行っている隙に病室に忍び込み、酸素チューブを抜いた。連行される時、男はまだ叫んでいた。「なんで俺が捕まるんだ!俺は正義のために、悪を排除したんだ!詩織、お前は絶対にろくな死に方なんかしないからな!」玲司の目が鋭く光り、次の瞬間、男の顔面に拳を叩き込んだ。そばにいた警官たちも、止める間もなかった。男は玲司によって半殺しにされた。詩織には何も聞こえなかった。手術室の赤いランプを見つめ、ただただ体中が震えていた。手術は20時間以上にも及び、昼から翌朝の9時まで続いた。医師が出てきて「患者は一命を取り留めましたが、油断を許さない状況です」と言った時、詩織は車椅子の上で泣き崩れた。「一晩中付き添って疲れただろう。俺が見張っているから、お前は帰って休め」玲司は朝食を運び、詩織の口元へ持っていった。詩織は嫌悪感を露わに車椅子を後ろに引いた。彼の偽善に吐き気がする。「お腹は空いていないし、疲れてもいない。あなたに付き添ってもらう必要もないわ」詩織の拒絶はあまりにも明白で、玲司にも伝わった。なぜ彼女は急に態度を変えたのだろうか?不安が彼を襲う。「どうしたんだ、詩織?」詩織は深呼吸をし、今はまだ彼と揉める時ではないと自分に言い聞かせた。「ごめんなさい。気分が悪くて、つい八つ当たりしてしまって......」「そうか」彼は笑った。「構わないさ。言っただろ?いつでも俺に八つ当たりしていい。俺がお前のサンドバッグになってやる」言葉が終わるのと同時に、彼の携帯が鳴った。秘書からの着信だ。一日会社を休んだため、仕事が山積みになっていた。詩織は無理やり笑顔を作って、「早く行って。私は一人で大丈夫」と言った。玲司は頷いて出て行った。彼が去って間もなく、詩織はすぐに帰宅し、書斎の隠しスペースから箱を取り出し、中身をすべて持ち去り、代わりに新しいカメラとSDカー
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第6話
詩織が再び目を覚ました時、そこは病院のベッドの上だった。周りには医師や看護師が集まっている。玲司は涙を流し、感極まる様子で彼女を見つめた。「詩織、目が覚めたか!気分はどうだ!」なぜ泣いている?ああ、人が多いから、良い恋人を演じ続けなければならないのだ。「安心しろ、詩織。お前を襲った二人はもう捕まっている」彼の表情は険しかった。「絶対に許さない」俺の指示も待たずに勝手な真似をするとは。あんな愚か者は生かしておく必要はない。「......おばあちゃんは?」詩織は包帯でぐるぐる巻きにされた両手と、指先に走る激痛を無視しようと努めた。「詩織、落ち着いて聞いてくれ」玲司は少しの間、沈黙した。「お前が10時間以上も意識を失っている間に、おばあちゃんは......」詩織はまるで石膏像のように、硬直したまま横たわっていた。彼女はかすれた声で、「おばあちゃん......どう......なったの」と呟いた。なんとなく察してはいたが、それでも、わずかな希望を捨てきれずにいた。「息を引き取った」玲司は早口で言葉を濁しながら言った。そして、すぐにこう続けた。「でも、安らかな最期だった。だからあまり悲しむな。これからは俺がそばにいる。そして、俺がお前を守るからな」詩織は頭が真っ白になり、しばらくの間、呼吸をするのも忘れた。あんなに急いで戻ってきたのに、おばあちゃんの最期に立ち会うことさえできなかった。胸に突き刺さるナイフのように、痛みが彼女の五臓六腑を締め付けた。泣くだろうと思っていたが、あまりにも強い痛みは、声も涙も奪ってしまった。彼女の顔に悲しみ一切なく、ただそこには麻痺したかのような冷静な表情があるだけだった。「遺体はどこ?会わせて」玲司は詩織を抱き上げ、車椅子に乗せて霊安室へ連れて行った。遺体と対面しても、彼女は涙を流さなかった。ただ、白い布の下から伸びる、冷たく痩せ細った手に触れた。詩織は身動き一つせず、まるで彼女自身も屍体になったかのようだった。「詩織、辛いなら泣いてもいいんだぞ」玲司は彼女のもう片方の手を握った。「俺はずっとそばにいるから」詩織はゆっくりと顔を向け、彼を冷ややかに見つめた。その瞳には、激しい憎しみと殺意が満ちていた。玲司の呼吸が一瞬止まった。激しい恐怖が彼の胸を締め付けた。詩織はい
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第7話
玲司は目をこすり、信じられない思いで画面を見つめた。「本当だ!玲司さん!静香さんは生きていた!」玲司の胸は高鳴り、何もかも忘れて、駆け出した。彼が出て行った直後、橘家の人間がやってきた。彼らは一日かけて世界中から専門医を橘家のプライベート病院に集め、万全の準備を整えていた。詩織と祖母はそこで安全に過ごせるはずで、彼らの情報が外部に漏れることもない。準備が整い次第、すぐに病院へ迎えに来ることになっていた。しかし、そこで彼らが見たのは、瀕死の詩織と、すでに息絶えた老女の姿だった。「ありがとうございます」そう彼らに言いながら、詩織は祖母の手に触れた。「でも、もう必要ありません。約束通り、私を海外に送ってください」祖母が生きているうちは、ただ彼女と一緒に遠くへ行きたいと思っていた。しかし、今、祖母は亡くなり、彼女には何も残されていない。だから、いつか必ず、ここに戻ってくる。玲司に、彼が犯した罪の代償を払わせるために。一方、玲司は藤原家に到着し、本当に生きている静香の姿を目にした。彼女はソファに座り、デザートを食べていた。彼が来たのを見て、彼女は少し照れくさそうに立ち上がった。「久しぶりね、玲司」玲司は自分の気持ちが分からなかったが、静香のもとへ駆け寄り、彼女の肩を掴んで問い詰めた。「お前は死んだはずだろ!死んだんじゃなかったのか!」静香は彼の剣幕に驚き、慌てて謝った。「ごめんなさい、玲司。わざと騙そうとしたわけじゃないの。ただ......私は小さい頃からずっと順風満帆で、マスコミにも天才だって言われてきたから、3年前の失敗を受け入れることができなくて。確かに自殺しようとしたけど、勇気が出なくて......でも、人に会うのも恥ずかしくて、笑われるのが怖くて......だから......親に死んだって嘘ついてほしいって頼んだの。それから色々な国を旅して、たくさんのことを学んだわ。井の中の蛙大海を知らずっていう言葉の意味も、やっと分かった。あの頃の私は本当に幼かったのね。私は天才なんかじゃなく、少し才能があっただけ。本物の天才に負けたって、恥ずかしいことなんかじゃない。だから、帰ってきたの。ごめんなさい、心配かけて」部屋にいた玲司の仲間たちは、気まずい雰囲気を感じ取り、彼らはわざと囃し立てた。「静香さん、
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第8話
「もったいないわね。あんなに準備していたのに、個展が中止になっちゃうなんて」スタッフは絵を片付けながらため息をついた。「葛城さん、個展の後に彼氏にプロポーズする予定だったんでしょ?指輪も用意してたのに」玲司はその場に立ち尽くした。プロポーズ?彼女は今日、俺にプロポーズするつもりだったのか?指先に微かな電流が走ったような気がした。それはすぐに全身に広がり、最後に心臓に集まり、激しい痛みとなった。玲司は、なぜ自分が胸を痛めているのか分からなかった。彼が茫然としている間に、スタッフは壁の絵をすべて外し終え、壁は何もない空っぽの状態になった。彼と詩織の間にも、何も残っていない。突然、玲司は駆け出した。狂ったように走り出し、あらゆる手段を使って詩織を探し始めた。絶望のあまり、彼女が自殺でもしたら......という恐怖に駆られていた。しかし、3日間探し続けても、何も見つからなかった。病院を出てから、彼女はまるで煙のように消えてしまったのだ。「玲司さん、こんなに探しても見つからないってことは......」どこか知らない場所で、ひっそりと自殺したのかもしれない。しかし、仲間は玲司の険しい顔を見て言葉を詰まらせた。それ以上、口にすることはできなかった。それから、玲司は昼夜を問わず、1週間探し続けた。過労死するのではないかと心配した仲間たちは、「玲司さん、このままじゃ体がもたない。少しは休んでから探そう」と彼を説得した。玲司は黙ったまま、目を開けていた。彼は目を閉じることができなかった。閉じれば、様々な幻覚が見えてくる。絶望した詩織が、あらゆる方法で彼の目の前で死んでいくのだ。その光景は彼を恐怖に陥れ、心臓を締め付けた。そうして半月が経ったある日、極度の疲労から、玲司は川に転落した。気がつくと、彼は病院にいた。ベッドの脇には両親が座っている。母は静かに啜り泣いていた。「ほんとバカな子ね、あんた川に落ちて溺れかけたのよ?お母さんを心配させないでちょうだい!あの詩織って子ははただの一般人じゃない。あなたがあの子にした仕打ちを知ってるかどうかは分からないけど、たとえ知っていて、まだ生きていたとしても、あなたに楯突く勇気なんてないわ。なのに、何であんな女を探すのにそんなに必死なの?」玲司は両親の高齢出産で生まれた子
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第9話
海外の病院で、橘家の跡取り娘である橘珠希(たちばな たまき)は、そこで治療を受けている詩織を見舞った。3ヶ月前、橘家は詩織を海外に送ってからすぐに、専門医に彼女を診せた。医師たちは、彼女の両手両足は治るが、治療とリハビリは非常に苦痛を伴うものになり、並大抵の覚悟では耐えられない、との診断を下した。詩織は手術を受けることを選んだ。3ヶ月間で、彼女は6回の手術を受け、今は術後の回復期にある。「詩織、今日は調子はどう?」珠希は持ってきた花束と弁当をテーブルに置いた。詩織は彼女に微笑みかけた。「ええ、痛みはあるけど」無数の針が傷口を刺すような激痛だった。医師は痛み止めを打とうかと聞いてきたが、この痛みを忘れないために、いつか、玲司に何倍にもして返してやるために、彼女は拒否した。珠希は笑顔の詩織を見て、心の中でため息をついた。かつて、詩織がインタビューを受けている映像を見たことがあった。その頃の彼女は優しい笑顔で、心から幸せそうだった。しかし、今はいつも笑顔ではあるものの、目には鋭い憎しみが宿っている。あの時の出来事が、彼女に大きな傷跡を残したのだ。「ごめんなさい」珠希は罪悪感に苛まれていた。「あの時、私を助けようとしなければ、あなたの両親は......あなたも、こんな目に遭うことはなかったのに」当時、6歳だった彼女は、敵に手足を縛られ、燃え盛る車の中に閉じ込められていた。たまたまそこを通りかかった詩織の両親が彼女を助けてくれたのだ。しかし、詩織の両親は車の爆発に巻き込まれて亡くなってしまった。詩織は首を横に振った。「あなたのせいじゃないわ。謝らないで。そうだ、ちょうどよかった。お願いしたいことがあったの」最近、彼女は榊家の資料を調べている。芸術家特有の勘だろうか、玲司の父のインタビュー映像を見て、詩織はこの男は人を殺したことがある、しかも一人だけじゃない、と感じた。そこで、珠希に頼んで、榊家とトラブルになった後で行方不明になっている人物がいないか調べてほしいのだ。珠希はためらった。「人を殺した?榊家の人々は確かに傲慢だけど、まさか......」彼女は半信半疑だったが、すぐに人を送り込んだ。半年以上かけて調査した結果、榊家とトラブルになった人物の多くが、行方不明になっていることが分かった。さらに、榊家によ
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第10話
2年の歳月が、あっという間に過ぎ去った。夏の終わりの夕方、一機の飛行機が空港に着陸した。夕日に照らされながら、詩織はゆっくりとタラップを降りた。珠希から電話がかかってきた。「運転手が空港で待ってるわ。刑務所の方にも連絡しておいたから、そのまま面会に行けるように手配してある。それから、夜はあなたが以前よく行っていた店で一緒に食事をしよう」詩織は微笑んで電話を切ると、空港ロビーに入った。すると、若い女性に呼び止められた。「すみません、ちょっと待ってください」女性はサングラスで隠れた詩織の顔を見つめながら言った。「わっ、横顔が捜索願が出されている詩織さんにそっくりですね!」「......捜索願?」「ええ、榊家がもう2年以上も前に出したんですよ」女性はスマホの画面を詩織に見せた。「ほら、榊家の一人息子の恋人、詩織さんが2年前に失踪したんですって。情報提供者には4億円もの謝礼金が出るそうなんです」「2年間も音信不通なのに、まだ諦めてないんですよ。お金持ちな上に、すごく一途なんて!」女性は興奮気味に話し続けた。「それに、この2年間毎日祈祷師や占い師なんかを家に呼んで、恋人が生きているかどうか、どこにいるのかとか、色々占ってもらってるらしくて......ちょっとおかしくなっちゃったのなって、みんな言ってるんです」詩織は何も言わず、鼻で笑って、ロマンチックなラブストーリーに夢中になっている女性を通り過ぎた。空港の外に出ると、マイバッハが待っていた。迎えの車だ。30分ほど後、詩織は刑務所に到着した。今日、彼女が面会するのは、かつて彼女の足を轢いた運転手だ。「お前......足が......どうして......」詩織が入ってくると、運転手はまるで幽霊でも見たかのような顔をした。「ええ、私自身も驚いているわ。あなたが運転する車が、私を轢いて、何度も足をひき潰した。3年間、私は障害者だった。なのに、こうして歩けるようになった。まさに奇跡ね」詩織は無表情で「裁判では、あなたはすぐに罪を認め、懲役15年の判決を受け入れた。まるで、ただの交通事故だったかのようにね」と言った。少し間を置いてから、詩織は続けた。「でも、私が調べたところによると、あなたには病気の娘がいて、ただの運転手だから、手術費用も治療費も払えない。玲司の指示通りに私
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