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愛のタイムリミット

愛のタイムリミット

By:  清瀬Completed
Language: Japanese
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綾野隼人(あやの はやと)が初恋の人・藤宮玲(ふじみや れい)が離婚したと知った夜、隼人は酔いつぶれるまで酒をあおった。 私・綾野依織(あやの いおり)が夜中まで世話をしているあいだに、ふと隼人のスマホのアルバムを開くと、中はその女の写真でぎっしりだった。 翌朝、酔いが覚めた隼人は「俺たち、ちゃんと式を挙げ直そうか」と私に言った。 それが、その女を国内に呼び戻すための餌だって、私はすぐに分かった。 私は笑って、その申し出を受け入れた。 ただ、隼人が式場の契約書に署名していく、その束の中に、一通だけ、離婚協議書をそっと紛れ込ませておいた。

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Chapter 1

第1話

綾野隼人(あやの はやと)が初恋の人・藤宮玲(ふじみや れい)が離婚したと知った夜、隼人は酔いつぶれるまで酒をあおった。

私・綾野依織(あやの いおり)が夜中まで世話をしているあいだに、ふと隼人のスマホのアルバムを開くと、中はその女の写真でぎっしりだった。

翌朝、酔いが覚めた隼人は「俺たち、ちゃんと式を挙げ直そうか」と私に言った。

それが、その女を国内に呼び戻すための餌だって、私はすぐに分かった。

私は笑って、その申し出を受け入れた。

ただ、隼人が式場の契約書に署名していく、その束の中に、一通だけ、離婚協議書をそっと紛れ込ませておいた。

……

「式場の契約書って、なんでこんなに分厚いんだ?」

隼人は眉間に皺を寄せながら、一枚一枚ページをめくるだけで、なかなかサインしようとしない。

さすがに夕凪市でも名の通ったビジネスエリートだけあって、そう簡単に人に騙される男じゃない。

けれど、その下から二枚目には、私がこっそり紛れ込ませた離婚協議書が挟まっていた。

私はうつむいたまま、それほど緊張してはいなかった。

「補償の条項がやたら多いみたいよ。時間あるなら、ゆっくり読んでみたら?」

どうせ、隼人にそんな時間があるはずがない。

今日は、隼人の初恋の人――玲が、こちらに戻ってくる日だ。

昔、玲が婚約したとき、隼人は腹いせのように私との結婚を選んだ。

そして今度は、玲が離婚して、隼人は酔いつぶれ、明け方に酔いが覚めるなり私に式を挙げ直そうと言ってきた。

全部、玲をこちらに呼び戻すための駆け引きにすぎない。

私たちの結婚なんて、あの二人の都合で振り回される道具にされただけだ。

やっぱり、と思った。

隼人の顔には、はっきりとした苛立ちが浮かんでいた。

「これから迎えに行かなきゃいけない人がいる。こんなの確認する暇はない」

その目の奥に、ふっと柔らかい光がよぎる。

さっきまでの不機嫌さは、全部私に向けられたものだ。

あの一瞬の優しさだけは、玲にしか向かない。

慌ただしくサインを終えると、隼人は私の前に背中だけを残して出て行った。

三日前、隼人は突然、式を挙げ直そうと言い出した。

隼人と結婚して五年になるが、派手な披露宴もなければ、大々的な発表もなかった。

互いの両親とごく親しい友人以外、誰も私たちが夫婦だなんて知らない。

ニュースで隼人が紹介されるときでさえ、肩書きの横にはいつも「未婚」の二文字が並んでいる。

たまに出るゴシップ記事も、決まって隼人と玲の、痛々しい恋の歴史を美談みたいに語っていた。

実は隼人と籍を入れているこの私には、そのどこにも名前を残す資格がない。

本当は、ここまで来るあいだずっと分かっていた。

隼人には、死ぬほど愛した女が一人だけいる。

結婚して五年、隼人なりの優しさがまったくなかったわけじゃない。ただ、その分はほんの少しだけだった。

私は私なりに愛情を注いで、ここに私がいることを、少しでも隼人の日常にしてもらおうとしてきた。

けれどこの家で、隼人の顔に本物の笑顔が浮かんだことは、一度もなかった。

そんな隼人が、あの日だけは一滴も飲まないはずの酒を浴びるように飲み、酔いつぶれるまで笑い顔を貼りつかせていた。

後でこっそり調べてみると、案の定、玲が離婚した日だった。

その夜も、夜中まで隼人の世話をしてから、玲の誕生日を入力して隼人のスマホのロックを外した。

アルバムを開くと、写真のデータが容量を埋め尽くしそうな勢いで溜まっていた。

そこに写っているのは、玲だけ。

私の姿は一枚もない。

電子アルバムの表紙だけは、隼人と私のウエディングフォトになっていた。

けれどその中の私の顔だけ、玲の顔に差し替えられていた。

籍を入れたとき、式なんかいらないと言い張っていた隼人が、写真だけはどうしても撮ろうと譲らなかったことを思い出す。

そういうことだったのか、と胸の奥で小さくつぶやいた。

その瞬間、私ははっきり悟った。

この五年の結婚生活は、そろそろ幕を下ろすべきなんだと。

残っているのは、離婚の手続きがすべて終わるまでの時間だけ。

カウントダウンの始まりだ。

手続きがすべて終わるまで、あと一か月。

ちょうど隼人が私に、式を挙げ直そうと約束したあの日までの期間も、同じく、あと一か月しか残っていない。

カウントダウンは、残り二十日。

隼人はそれまで以上に、朝早く出て夜遅く帰るようになった。

かつて口にした結婚式の約束なんて、最初からなかったみたいに。

たまに隼人の幼なじみのインスタが流れてきて、写真の隅にはいつも、女を連れて並んで歩く隼人の姿が小さく写っている。

その女の顔は、隼人のスマホのアルバムで見慣れた顔だった。
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第1話
綾野隼人(あやの はやと)が初恋の人・藤宮玲(ふじみや れい)が離婚したと知った夜、隼人は酔いつぶれるまで酒をあおった。私・綾野依織(あやの いおり)が夜中まで世話をしているあいだに、ふと隼人のスマホのアルバムを開くと、中はその女の写真でぎっしりだった。翌朝、酔いが覚めた隼人は「俺たち、ちゃんと式を挙げ直そうか」と私に言った。それが、その女を国内に呼び戻すための餌だって、私はすぐに分かった。私は笑って、その申し出を受け入れた。ただ、隼人が式場の契約書に署名していく、その束の中に、一通だけ、離婚協議書をそっと紛れ込ませておいた。……「式場の契約書って、なんでこんなに分厚いんだ?」隼人は眉間に皺を寄せながら、一枚一枚ページをめくるだけで、なかなかサインしようとしない。さすがに夕凪市でも名の通ったビジネスエリートだけあって、そう簡単に人に騙される男じゃない。けれど、その下から二枚目には、私がこっそり紛れ込ませた離婚協議書が挟まっていた。私はうつむいたまま、それほど緊張してはいなかった。「補償の条項がやたら多いみたいよ。時間あるなら、ゆっくり読んでみたら?」どうせ、隼人にそんな時間があるはずがない。今日は、隼人の初恋の人――玲が、こちらに戻ってくる日だ。昔、玲が婚約したとき、隼人は腹いせのように私との結婚を選んだ。そして今度は、玲が離婚して、隼人は酔いつぶれ、明け方に酔いが覚めるなり私に式を挙げ直そうと言ってきた。全部、玲をこちらに呼び戻すための駆け引きにすぎない。私たちの結婚なんて、あの二人の都合で振り回される道具にされただけだ。やっぱり、と思った。隼人の顔には、はっきりとした苛立ちが浮かんでいた。「これから迎えに行かなきゃいけない人がいる。こんなの確認する暇はない」その目の奥に、ふっと柔らかい光がよぎる。さっきまでの不機嫌さは、全部私に向けられたものだ。あの一瞬の優しさだけは、玲にしか向かない。慌ただしくサインを終えると、隼人は私の前に背中だけを残して出て行った。三日前、隼人は突然、式を挙げ直そうと言い出した。隼人と結婚して五年になるが、派手な披露宴もなければ、大々的な発表もなかった。互いの両親とごく親しい友人以外、誰も私たちが夫婦だなんて知らない。ニュー
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第2話
その日、会社の共同経営者に呼び止められた。「このあとデザイン案を持って、クライアントのところに契約書のサインをもらいに行くわ。今回のクライアント、隼人社長の噂のお相手なんだって」私はうなずきながらも、どこか上の空だった。共同経営者とはいえ、私が隼人と知り合いだなんて誰も知らない。まして、私と隼人が内緒で結婚していることなど想像もしていない。クライアントのオフィスは、隼人の会社が入っているフロアのすぐ下だった。そこは、玲がこちらに戻って立ち上げた新しい会社で、綾野グループが出資している。最近の経済ニュースは、二人の初恋だの何だのと、昔の関係を掘り返した記事ばかりだ。社長室に通されると、やはりそこには隼人がいた。隼人は、きれいな箱を手にして、社長椅子に座る女へと差し出しているところだった。玲。隼人の表情が、私に気づいた瞬間にぴたりと固まった。その場にいた誰もが、空気の違和感に気づいた。玲がこちらを見る視線には、どこか面白がる色が混じっている。「こちらは?」隼人は口をつぐみ、どう説明するか言葉を選んでいるようだった。私は笑ってみせて、その場の全員に向かって自己紹介をした。「私は相羽依織(あいば いおり)と申します。今回のプロジェクトのデザイナーです。綾野さんとは……」隼人と私は、まるで打ち合わせたみたいに同時に続けた。「大学の同期です」その言葉が落ちた瞬間、デザイン案を握りしめた私の指先から血の気が引いていくのが分かった。力の入った指先が、紙の端にくっきりと跡を刻む。隼人のためにこうして取り繕うのは、これが初めてじゃない。隼人が私の存在を公にしたがらないのも、今に始まったことじゃない。いわゆる隠れ婚というやつで、世間から見れば私と隼人の関係は最初からなかったことになっている。そのくせ、私たちの終わり方だけは、とっくに決まっているみたいだ。そのあとの商談は、決して気持ちのいい雰囲気とは言えなかった。隼人はビジネスエリートの顔に戻り、玲の代理として容赦ない条件を突きつけてくる。「単価を、もう一割下げてください」隼人は、こちらの利益も限界ラインも、ぎりぎりまで削り取っていった。共同経営者はしばらく迷った末、歯を食いしばってうなずいた。「かしこまりました。さ
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第3話
「いずれはちゃんと公にするから。今はさ、何よりこの案件をちゃんと片づけるのが先だ」私は軽くうなずいただけで、そのことには触れなかった。本当は、今いちばん優先されるべきなのは、隼人と私のこれから迎えるはずの結婚式なんじゃないかとも思ったが、口には出さなかった。まして、その日が来たら離婚の手続きに完全に区切りがつくことなんて、わざわざ教える気にはなれなかった。結局、隼人にとって一番大事なのは、今も玲なのだから。案件が進むあいだ、隼人がわざと私と玲を会わせないように動いていることは、共同経営者の彼女にもさすがに勘づかれてしまった。彼女はどこか探るような声で私に聞いてきた。「あんた、綾野さんと昔なにかあったでしょ?」私は笑って首を振り「そんなわけないでしょ」と受け流した。共同経営者は不満そうに口を尖らせて、こう続けた。「何回もさ、すっごい後ろめたそうな目で、こっそりあんたのこと見てるじゃない。あれはさ、まだ完全にはクズになりきれてない男が、元カノを見るときの目だよ」私は一瞬言葉を失って、ここ最近の隼人の様子を頭の中でゆっくり巻き戻した。見えていなかったわけじゃない。ただ、これまでのことを思うと、その視線にどんな意味があるのか、どうしても信じきれなかった。残り十日。その日は、本来ならプロジェクトの定例ミーティングの日だった。玲はわざとなのか何なのか、ミーティングのあとも私と長く話し込んできて、私は、きっと隼人との関係をなんとなく察したんだろうと感じていた。それでも私は、何事もないふりで当たり障りのない返事だけを返した。打ち合わせが終わると、隼人が珍しく自分から私を家まで送ると言い出した。そんなのは初めてだった。「お前の仕事ぶり、正直、俺の想像以上だった」結婚して五年、隼人に正面から褒められたのは、これが初めてだった。資料をまとめていた手が止まり、私は思わず隼人の顔をまじまじと見てしまった。隼人はしばらく迷ってから、ようやく口を開いた。「あのさ、式のことなんだけど、まだ間に合うか?」私は視線を落とし、その言い方で、隼人が式自体をなかったことにしたがっているのだと察した。理由なんて、玲のこと以外に考えられない。「じゃあ、やめようよ。もう日もないし」私は顔を上げたが、
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第4話
隼人がここ最近なにを考えているのか、正直よく分からないし、わざわざ分かろうとも思わない。私は気づかれないように、少しずつ家の荷物を外に運び出し始めた。それでも、隼人には結局ばれてしまった。その日、打ち合わせが終わったあとで、隼人から「ちょっと俺のオフィスに来ないか」と声をかけられた。ソファに腰を下ろした途端、隼人が切り出した。「最近、荷物けっこう運び出してないか?家にもほとんど帰ってきてないよな」私はうなずいて、前から用意しておいた言い訳を口にした。「うん、前の家でしばらく過ごそうと思って」隼人の表情に、少しだけためらいが浮かんだ。「結婚式のこと、ずっと考えてた。やっぱり、挙げ直してもいいかなって……」私はその言葉を途中で遮った。「もう残りの時間もないし、いいよ」隼人は目を丸くした。「残りって、どういう意味だ?」私は迷いながら、もうサインしてある離婚協議書をここで見せるべきかどうか考えた。ちょうどそのとき、玲から電話がかかってきて、その考えから私を引き戻してくれた。隼人のスマホの画面に表示された名前を見て、私は笑って言った。「先に仕事してきて。私たちのことは、急いで話すような話じゃないから」隼人はドアノブに手をかけてから、気まずそうに振り返り、あらためて約束を口にした。「明日、必ず前の家に行く」でも翌日になっても、その約束が守られることはなかった。私は前の家のソファに座り込み、うつむいたままスマホの画面を見つめていた。カウントダウン、残り十二時間。ニュースアプリに、ローカルニュースの通知がぽんと表示された。新しい案件の発表会で、玲がカメラの前に立ち、その少し後ろには隼人の姿が映っていた。昨日隼人がくれた約束の言葉を思い出して、私はつい、自分でも笑ってしまうくらいの苦い笑みを浮かべた。もし隼人が、これが私と過ごせる最後の十二時間だって知っていたら、約束を破ったりはしなかったんだろうか。しなかったかもしれないし、それでも平気で破ったかもしれない。どちらにせよ、その答えはもうどうでもよかった。私は何時間かかけて、部屋の中をひととおり片づけた。がらんとした昔の家には、もともと私のものなんてほとんど残っていない。それでも、私たちが最初に夫婦になった場所だと思うと
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第5話
私はチケットを裏返して隼人に見せた。そこには、ここから三千キロも離れた街の名前が記されていた。隼人は眉をひそめて「なんで急にそんな遠くまで行くんだ。ひと言も相談なしで、もし何かあったらどうするつもりだ」と言った。私は肩をすくめて、「大げさだよ。ただの異動みたいなものだし」と淡々と答えた。隼人は私の手首をつかみ、納得いかない様子で「そんな急に?やっと一緒に一つ案件をやったばかりだろ。途中で放り出すつもりか」と食い下がった。私はそっと隼人の指をはがして、一歩だけ距離を取った。「案件はもうほとんど終盤だし、あとは共同経営者に任せるよ。私には、別に進めなきゃいけない仕事もあるから」でも、その一歩引いた動きが、隼人の胸にははっきりと刺さった。隼人は戸惑いを隠せない目で私を見つめ、伸ばしかけた手を小さく震わせたまま、どうしても下ろせずにいた。何かを悟ったみたいに、隼人はおそるおそる聞いてきた。「お前は……いつ戻ってくるんだ?」私は首を横に振り、笑って「戻らないよ」と答えた。悲しみが隼人の顔一面にじわじわと広がっていき、信じられないものを見るような目で私を見つめながら、手を伸ばしては、私に一歩ずつ下がられてかわされる。まるで急に捨てられた子犬みたいに、近づきたくても、怖くて踏み出せないでいる。隼人は慌てて外へ飛び出していき、どこからか大きなバラの花束を抱えて戻ってきた。バラは九百九十九本もあった。付き合い始めてから結婚するまで、一度だって隼人からもらったことのない、派手な愛の形だった。隼人はその花束を私の前に差し出し、「ここに来るまでのあいだに、式の段取りを全部決めた。今週末にやろう」と言った。「依織、行くのはやめろよ。ずっと欲しがってた式だろ?今週は、ちゃんとお前のそばにいるから」私は目の前の大きな花束を見つめながら、結婚したばかりの頃に、一輪だけでいいからバラが欲しいと隼人にねだった日のことを思い出した。あのときの隼人は、あっさりと首を振った。あとになって隼人の日記を見て知ったのは、プロポーズのバラは、自分が本当に一番愛している相手にしか渡さないつもりだったということだ。そんな彼からこんな大げさな花束を渡されたら、本来なら胸が高鳴ってもおかしくないのに、不思議なくらい心は静かだった。ああ、本当
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第6話
隼人は話しているうちに、少しずつ声を荒げていった。私はこれ以上隼人とやり合う気にはなれず、キャリーケースを握り直して背を向け、一言だけ残して歩き出した。「離婚協議書はテーブルの上に置いてあるから、自分で見て」私はタクシーを呼んで、空港へ向かった。隼人はその言葉を聞くなり、前の家の中へと駆け込んでいった。テーブルの上には、前から用意していた離婚協議書が置かれていて、そこには隼人の名前がはっきりとサインされていた。彼の字はいつも力強くて、隼人の「人」の最後の払いだけは、妙に長く引く癖があった。そんな自分の字を、隼人が見間違えるはずがない。ただ、いつの間に自分が私との別れの書類にサインしてしまったのか、彼はまだ気づいていないだけだ。私は空港へ向かう車の中で、隼人からの電話を受けた。けれど通話ボタンには触れず、スマホからSIMカードを抜き取って、ぽきりと折った。その一部始終を見ていた運転手さんが、からかうように言った。「彼氏と喧嘩でもした?」私は首を横に振って、「違います。元夫なだけです」と答えた。運転手さんは話し出したら止まらないタイプで、そのまま舌が滑り続ける。「何があったらそこまでこじれるんだ?浮気でもされたのかい?」運転手さんのその質問に、私は一瞬、どう答えればいいのか分からなくなった。隼人と玲が、本当に一線を越えたわけでもないのかもしれない。あれだけ玲に気を配っていても、いつもギリギリのセーフなところだけはきっちり守っていて、誰にも決定的な証拠なんて掴ませない。玲のほうも、いつだって真面目な顔で、周りから見ればただの優秀な秘書にしか見えない。「……そんなところですかね」それを聞いた運転手さんはすっかり勢いづいて、今どきの男は本当に家のことを考えないって、自分の婿の愚痴まで混ぜて延々と話し続けた。どうやら彼自身の痛いところに触れてしまったらしく、私はそのまま運転手さんの独り言みたいな愚痴を、黙ってしばらく聞いていた。気がつけば、もう空港に着いていた。私はキャリーケースを引きながら車を降り、チェックインを済ませて荷物を預け、保安検査の列に並んだ。出発までは、あと一時間半。ようやく、十年も私を締めつけてきた生活に、さよならが言える。保安検査の順番がもうすぐ回ってくると
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第7話
私は胸のつかえがふっと取れたような気分で、この見知らぬ海辺の街に降り立った。新しいSIMカードを買って差し込み、まずは共同経営者に連絡した。そのあとSNSの連絡先から、隼人に関係する人たちを片っ端からブロックした。空港で隼人がどれだけ泣き崩れていたかを撮った動画がいくつも送られてきたけれど、一本たりとも再生しなかった。全部ブロックして削除してしまえば、スマホの中はすっきりして、あの手のうんざりする出来事はもう二度と入り込んでこない。こっちでは新しい会社を育てることに全力を注いで、仕事のメインも少しずつこちらに移していった。毎日バタバタ忙しくしていると、男のことなんて考えている暇もない。誰かの機嫌を気にしなくていい日々が、こんなに気楽だなんて知らなかった。共同経営者からオンライン会議の電話がかかってきて、向こうの案件が無事に大成功で終わったと興奮気味に報告してきた。ここまで来るのに本当に山あり谷ありだったけれど、終わってみればきちんと実を結んで、私たち二人の稼ぎには一切傷がつかなかった。ついでに聞いてみた。私が手を離れたあとで、このプロジェクトに何かあったのかどうか。共同経営者は特に気にしたふうもなく、「大したことじゃないよ。綾野グループ側で前に窓口をやってた女性が、なんか大きなミスをやらかしたらしくてクビになったって話」とあっさり教えてくれた。「社長があれだけ大事そうにしてたから、てっきり訳アリの関係かと思ってたけど、結局はその程度だったみたいね」それを聞いて、私は鼻で笑ってしまった。そうだ、まだ夫婦だった頃でさえ、隼人は平気な顔で自分の利益のために私の取り分を切り詰めてきた人だ。隼人と玲の関係だって、結局のところ曖昧なままの「いい感じの相手」に過ぎない。隼人みたいな男は、結局いつだって一番大事なのは自分自身だけだ。共同経営者は、そのうちこっちにも顔を出して、ここの取引先も一緒に広げようと言ってくれた。私たちはもう何年も組んできた相棒みたいなものだから、この前別れたときも本当は名残惜しくて仕方なかった。まさか彼女まで追いかけて来てくれるとは思わなかったけれど、私にとってはこれ以上ないくらい心強い話だ。こっちでは小さな一室だけを仕事場として借りていて、今いるスタッフは、まだ入ったばかりのア
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第8話
共同経営者は一週間後にこちらへ来たものの、環境が合わなかったのか、着いた途端にダウンしてしまった。私は仕方なく彼女のホテルまで看病に行き、明日会うクライアントの資料を弱々しく渡されて、中身を見て思わず固まった。世の中にここまで仕事を愛してる人がいるとは。とはいえ彼女が倒れた以上、代わりに行くのは私しかない。どうせこれは私たち二人の商売だ、どっちがやったって仕事は仕事だ。なのに、ホテルに着いた瞬間に激しく後悔した。私はすぐ共同経営者に電話して、「相手が隼人だなんて一言も聞いてないんだけど」と文句を言った。半分息も絶え絶えだったくせに、その一言で一気に元気を取り戻した。「ありえないって、私がそんな初歩的なミスするわけないでしょ!」私と共同経営者が電話越しに状況をあれこれ考えていると、背後から隼人が歩いてきた。「俺がそっちのクライアントに頼んだんだ。お前に会いたくて。」私は振り向いて隼人と向き合った。隼人は三メートルほど先で立ち止まり、それ以上近づこうとしなかった。一言でも言い間違えれば地雷を踏むとでも思っているのか、隼人の仕草はすっかりおそるおそるになっていた。「お前が俺に会いたくないのは分かってる。でも、どうしても諦められない。依織、もう一度だけチャンスをくれないか」私は大げさに目線をそらして、「どんなチャンスよ。ここから消えるチャンスならあげてもいいけど?」と言い放った。結局その食事も最後まで付き合わずに席を立ったし、共同経営者も元のクライアントを捕まえて、勝手に担当を差し替えたことにガツンとクレームを入れた。あのクライアントは、取引先にここまで言われたのは生まれて初めてだったろう。文句を言われっぱなしで、反論することさえできなかった。共同経営者はさんざん言いたい放題言ってすっきりしたあとで、「それでもさ、綾野さんと組もう」と私に言ってきた。この人、正気?と心の中でツッコんだ。でも彼女は続けた。「あの人さ、いったん期待させておいて一気に突き落とされたときの顔、見たくない?『絶対にお前を手に入れる』みたいな顔してるの見るだけで腹立つのよ。ここはきっちり思い知らせてやらなきゃ」本来なら、隼人に対してはとっくに何の感情も動かなくなっていた。でも今回は、そんな静かな生活の中に隼人が土
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第9話
「消えて」この一言だけで十分で、これ以上の言葉を隼人に割いてやる気は一つもなかった。共同経営者が立てたあの作戦でまだスカッとする前に、先に隼人のせいで気分を台無しにされた。隼人は、私が本当にここまで冷たく突き放したことが信じられないらしく、立ち上がって腕をつかもうとしたが、イケメン店長に止められた。「もうやめときなよ。彼女、はっきり消えろって言ってたでしょ」隼人は私の前ではやたらと弱腰なくせに、相手が他人となると途端に強気になる。「お前に関係ないだろ」隼人は店長を頭のてっぺんから足もとまで値踏みするように眺め、それから私に向かって声を張り上げた。「俺と結婚しない理由が……こいつ、ってわけか?こいつに何ができる。ケーキ売ってるくらいで、家賃が払えると思ってるのか?」私はカッとなって振り向きかけたが、その前に店長が隼人の目の前で人差し指をひらひら振った。「それ、誤解だから。うちの店、もともと家賃なんてかからないんだよ。このビル、実は俺のなんだ。ついでに言うと、ケーキ作りはただの趣味みたいなものさ」まさかイケメン店長が自分の大家さんだったなんて、夢にも思わなかった。慌てて契約書に書かれた名前を何度も見直すと、店長は「ああ、それ母の名義なんだ」と説明した。今はそのお母さんが太平洋のどこかで釣り三昧らしく、家のことは全部自分が任されているから、「俺のビルって言っても間違いじゃないでしょ」と笑っていた。私は口をぽかんと開けたまま、ちゃっかり店に残っていたケーキを全部さらっていった。もちろん、その場では一円も払わずに。もっとも翌日にはちゃんと支払いに行って、「昨日はちょっとした冗談ってことで」ときちんと頭を下げた。店長にお金の心配はいらないのは分かっていたから、代わりに前から空いていたカウンターの隙間を埋めるような小さなオブジェをひとつプレゼントした。昨日助けてくれたお礼、ということにして。店長は特に何も言わず、ただ一つだけ聞いてきた。「つまりさ、あいつを退場させたいってこと?」彼が言っているのは、私と共同経営者がここでこそこそ話していた作戦のことだ。たまに立ち聞きしていたらしく、大体の筋だけは把握しているようだった。「君たちのやり方、まだ優しすぎるよ。俺の言うとおりにすれば、あいつなんて
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