菜月と湊の出会いは遡ること十四年前、綾野の家の座敷だった。菜月の母親は菜月が物心つく頃には病気で還らぬ人となっていた。以来、郷士は男手ひとつで(家政婦の多摩さんもいるが)菜月を育てていた。
「菜月、ちょっと来なさい」
それは菜月が中学二年生に進級したばかりの四月、自室で数学の宿題に頭を悩ませていた時の事だった。父親のいつになく緊張した声色に何事かと座敷に顔を出すと色白で優しげな面差し、薄紫に藤の柄の色留袖を着た上品な女性が正座していた。
「菜月、父さんの友だちだ」
「お友だち?」
「そうだ」
「はじめまして、菜月さんね?」
「はい、はじめまして」
紹介された女性は ゆき と名乗り三十六歳だと言った。 ゆき は度々クッキーや手作りのマドレーヌを持って遊びに来た。父親は始終笑顔で、お手伝いの多摩さんも話し相手が出来たと喜んでいた。 それから二ヶ月経った頃、ゆき が一人の青年を連れて綾野の家を訪ねて来た。
「こんにちは菜月さん」
「 ゆき さん、こんにちは、この人は誰?」
ゆき はその青年の肩に手を添えながらお辞儀をするようにと促し、青年はポリポリと頭を掻きながら頭をペコリと下げた。
「私の息子の 湊 、よろしくね」
「湊、さん」 「はじめ・・・まして」
「初めまして、こんにちは」
湊 は上背があり大人びて見えたがどこかあどけなく、菜月はそのアンバランスさに魅力を感じた。白いシャツにジーンズがよく似合っていた。 (うわ、かっこいい) 菜月は胸のときめきを感じ、その整った顔立ちに見惚れた。
「菜月さん、湊 は小学五年生なの。色々教えてあげてね」
「・・・・・えっ!五年生!?」
まさか目の前の青年が年下でまだ小学生だと知った菜月は驚きを隠せなかった。湊 もまた、菜月の透き通るような美しさに心臓を鷲掴みされた。
(か、可愛い・・・な、菜月ちゃん)
お互いに一目惚れだった。
「ねぇねぇ、湊 くん」
「湊 でいいよ」
湊 は覗き込む菜月の薄茶の瞳に顔を赤らめた。
「湊 って綺麗な名前だね、何か意味があるの?」
「うん、お父さんが海上自衛隊に勤めていたんだ」
「だからみなと、船の港だね」
「そうなんだ」
「お父さんは船の上で働いているの?」
「僕が小さい頃に癌で死んじゃったんだ」
「・・・・ごめん」
「気にしないで」
湊 は菜月に向き直った。
「菜月ちゃんも可愛い名前だよね」
「菜月でいいよ」
「中学生なのに?年上だよ?」
「背が高いから 湊 の方が中学生みたいよ」
「そうかな」
「うん、中学三年生みたいだよ」
友達同士だという郷士と ゆき に連れ立って、菜月と 湊 は毎週のように一緒に出掛けた。海辺で波に戯れ、遊園地で笑い、キャンプに行き川で魚を釣った。いつしか二人は手を繋ぐようになり銀杏の樹が色付き葉が舞い落ちる頃、離れの縁側で初めての口付けを交わした。
「・・・・ちょっと恥ずかしいね」
「うん、恥ずかしいね」
それはほんの少し触れるほどの口付けだったが菜月と 湊 の胸は高鳴り、頬は紅葉のように真っ赤だった。初雪が灯台躑躅を白く覆う夜、菜月は郷士から十二月二十四日にパーティーをする事が決まったと告げられた。
「湊 !クリスマスパーティーをするんだって!」
「クリスマスパーティー!」
「 湊のお母さんも言ってた!?」
「うん、母さんも言ってた!」
二人は飛び上がって喜んだ。
「ねぇ湊、プレゼントの交換しない!?」
「プレゼント!いいね!」
「楽しみ」
「プレゼントかぁ、う〜ん、何が良いかな」
「みっ、湊 !それはまだ言わないで!」
「内緒?」
「そう、内緒ね」
菜月は本を読む事が好きだった。
「母さん!お婆ちゃんからもらったお年玉あるよね!」
「なに、なにか買うの?ゲームは駄目よ」
「ゲームじゃないよ!」
「なに買うの?」
「内緒!」
湊 は貯金をATMで卸すと北風が吹く中、悴む手を擦りながら本屋へと急いだ。どの本が良いのかさっぱり分からなかったがクリスマスらしい臙脂色の小説本を選んだ。それは手に取るとずっしりと重かった。 「これ下さい!」 「2,900円になります」 「あの、プレゼントでお願いします!」 本屋の店員は顔を赤らめる少年に微笑みかけた。 「リボンは何色に致しますか?」 「あっ!その赤と緑のリボンでお願いします!」 生まれて初めて大好きな女の子に贈る本を手にした 湊 の声は上擦り額に汗をかくほど緊張した。
本屋からの帰り道は思わず笑みが溢れた。 「菜月、喜んでくれるかな」 ところが楽しいはずのクリスマスイブに菜月と 湊 は失恋した。その日のパーティーはクリスマスパーティーではなく、郷士と ゆき の入籍を披露する場だった。郷士は思春期の菜月や 湊 の心境を考えると二人の再婚を言い出せずにいた。
「どうして!」
「菜月」
「どうして最初に言ってくれなかったの!?」
菜月の目には涙が浮かび、湊 の表情は強張っていた。
「どうして ゆき さんがお母さんになるって言ってくれなかったの!」
「菜月、すまん」
「どうして!」
ポロポロと涙を溢した菜月はリビングルームのテーブルから立ち上がり自室の襖を力任せに閉めた。湊 は慌ててその背中を追い、郷士と ゆき は溜め息を吐いた。
「・・・・どうして」
「菜月、部屋に入って良い?」
「私と湊、きょうだいになっちゃうの?」
「・・・菜月」
二人が隠れて手を繋いだ灯台躑躅に白い雪が降り積もった。涙声になった二人は向かい合って座った。
「・・・・菜月は本が好きだから」
「ありがとう、見て良い?」
「うん」
菜月は湊からのプレゼントを膝の上に置くとゆっくりとリボンを解いた。赤と緑のリボンが今は悲しい。そして包装紙のセロテープを破らないように剥がした。
「・・・赤毛のアン」
菜月はその臙脂色のずっしりと重い小説本を胸に抱き締めてまた涙を流した。
「菜月、大丈夫?」
ひとしきり泣いた菜月は勉強机の引き出しから小さな箱を取り出し一本のネックレスを取り出した。銀色の鎖の先には青い錨のモチーフが揺れていた。
「これは船の錘なの」
「おもり」
「そう、船を港に繋いでおく為の錘、湊に似合うと思って」
涙で瞼を真っ赤に腫らした菜月は湊の首にその鎖を掛けて微笑んだ。
「ありがとう」
「・・・うん」
菜月と湊は最後の口付けを交わした。 悲しいクリスマスイブの夜から十四年の時が過ぎた。年齢を重ねた菜月と湊は世間一般的な姉と弟として距離を置くようになっていた。 けれど繋いだ指先、触れた唇の温もりと優しさは今も二人の心に残っている。
金沢市の1等地、香林坊。百万石大通りに面した堂々たるビルに、きさらぎ広告代理店の事務所と如月倫子の自宅があった。天井にはクリスタルのシャンデリアが光を弾き、寒色から暖色へと織りなすグラデーションが美しいペルシャ絨毯が床を彩る。そこに置かれたマホガニーの応接セットは、豪奢な空間に重厚な気品を添えていた。このビルを一棟所有する資産家、如月進次郎が倫子の夫だった。「佐々木冬馬さん」「はい」「弁護士さんですか」「はい、綾野住宅株式会社、顧問弁護士の佐々木と申します」 佐々木の前に、美濃焼のティーカップが置かれた。如月倫子の顔は青ざめ、指先が小刻みに震えていた。「どういったご用件でしょうか?」 佐々木の厳しい目が如月倫子の姿を捉えた。「奥さまにお話がございまして、お伺い致しました」「家内に、ですか?」「はい」「なら、私は席を外しましょうか?」「いえ、如月さまにも同席して頂きたい案件でございます」「案件?」 佐々木は無言でアタッシュケースを開き、複数枚の写真をテーブルに並べた。「如月さまにはこちらをご覧頂けたらと思いお持ち致しました」「これ、は」「奥さまがホテルの客室に入室された際に撮影された物です」 進次郎は写真を手に取り、目を凝らした。然し乍ら、写真に写るその横顔は、本人とは断定出来なかった。「これは、この女性は」「奥さまです」「顔が見えない、間違いじゃないのか?」 佐々木は、菜月が撮ったニューグランドホテルロビーでの如月倫子の写真を取り出した。黒いワンピースに真珠のネックレス、如月倫子が身に着けたネックレスは、進次郎が結婚5周年の記念に妻に贈った物と酷似していた。「これは・・倫子だ」「はい」 次いで、佐々木は湊がBluetoothで撮影した写真を机に置いた。仲睦まじく腕を組む男女の姿、それは明らかに如月倫子だった。「佐々木さん、この男は誰ですか?」「お恥ずかしながら、当家、綾野住宅株式会社、社長の綾野賢治です」「倫子が、綾野住宅の社長と」「そのようです」 進次郎の隣に座る如月倫子の顔から血の気が引き、能面のように白く色を変えた。「これは、1度の事ですか?」 佐々木は菜月が録音した2人の会話を進次郎に聞かせた。それは、3ヶ月前の高等学校の同窓会から不倫関係が始まっていた事、毎週金曜日に逢瀬を重ねていた事を指
四島忠信は息子である綾野賢治に手を挙げ、怒りをぶつけたが、心の奥では自身も綾野住宅株式会社に対して後ろ暗い秘密を抱えていた。賢治が引き起こした内容証明郵便の騒動以来、忠信は眠れない夜が続いた。綾野住宅との企業提携と養子縁組の裏で、彼自身の過去の行いが明るみに出る恐れがあった。 その日は程なくして訪れた。綾野住宅からの使いが会社に現れ、忠信を呼び出したのだ。重い足取りで応接室に向かう彼の脳裏には、賢治の軽率な行動と自身の隠し事が交錯した。四島工業の信頼が崩れる危機の中、忠信は使者の冷たい視線を感じながら、過去と向き合う覚悟を迫られた。「きょ、今日はなんの用だね」 自身の愚かさを誤魔化すように、四島忠信は応接セットの椅子にふんぞり返った。けれどソファの手摺りに置いた手のひらには汗をかいていた。その隣には、四島工業株式会社の顧問弁護士が気不味い表情で立っていた。「わたくし、綾野住宅株式会社の顧問弁護士、さ」「佐々木だろう。知っとるわ」「お世話になっております」「今日はなんの用だ、俺は忙しいんだ、手短に頼む」「はい」 真向かいに座る佐々木は冷静な表情で、アタッシュケースから書類を取り出すと、それらをマホガニーのテーブルに並べた。四島忠信の顔色が変わった。*銀行通帳の出入金のコピー*過去一年間分の取引詳細*発注書のコピー*請求書と領収書*資材の相場価格一覧「これが、なんだ」「弊社が御社とお取引させて頂いた際の発注書になります」「そうだな」「こちらが請求書と領収書のコピーになります」「そうだな」 佐々木は一昨年前の請求書とここ一年間の請求書を比較して見せた。「これまでパソコンで印字されていた請求金額を手書きに変更された理由をお聞かせ願えませんでしょうか」 顧問弁護士が忠信の耳元で何やら囁いている。「あぁ、事務員が年配の社員に変わってな」「はい」「パソコンが苦手だそうだ」「パソコンの操作が不得手で手書きに変更されたという事でお間違いないでしょうか」「そう言っていた」「ありがとうございます」 佐々木は一枚の請求書を取り出した。「こちらは数日前、弊社に届いた請求書になります」 顧問弁護士の顔色が変わった。手渡された請求書は、湊が手にした請求金額が未記入の”空の請求書”だった。「事務員が間違えたんだ」「記入し忘れたと
賢治がアルファードをグラン御影503号室の駐車スペースに後方発進しようとギアを入れ替えた瞬間、激しい衝突音と何かを引き摺る振動が車体後部から響いた。耳をつんざく金属音に心臓が跳ね、賢治は慌てて運転席から飛び降りた。駐車場の薄暗い照明の下、アルファードの後部バンパーが隣のコンクリート柱に食い込み、擦り傷が痛々しく走っていた。引き摺られたゴミ箱が転がり、中身が散乱している。賢治は額に汗を滲ませ、周囲を見回した。如月倫子の入れ知恵が頭をよぎる。 「備えあれば憂いなし」。この事故は単なる不注意か、それとも何か仕組まれたものか?湊の事故の記憶が重なり、賢治の胸に不穏な影が差す。「な、なんだよ!これ!」 自宅の駐車場に置かれたコンクリートの三角錐に、賢治は呆然と立ち竦んだ。「ち、畜生!」 賢治は三角錐を移動させようと屈んでみたが、コンクリートの塊は微動だにしなかった。賢治は怒りに任せてそれを蹴った。革靴を跳ね上げるコンクリート。「い、痛ぇ!くそ!」 賢治は自慢の車を路上に放置し、マンションのエントランスへと向かった。先ほどの無駄な行為で傷ついた右足の親指が痛い。賢治は思わず顔を顰めた。「な、なんだ、なんだこれ」 見上げると、大理石の階段や辰巳石のフロアには、青いビニールシートが養生テープで固定されていた。「はい、こっち」「オーライオーライ」 エレベーターからはカバーに包まれた家電製品が運び出され、路肩に駐車した引越し業者のトラックに積み込まれている。(引越予定者は居ない!申請義務違反だ!違約金を徴収してやる!) 次々と運び出される大型家具。到着するエレベーターには段ボールが満載で、賢治は肩で息をしながら非常階段を使い5階まで上らなければならなかった。「オーライオーライ、ストップはい、ストップ」「そっち持ち上げて、はい、OK!」(505号室か506号室のババァだな) 賢治は、家賃の支払いが滞りがちだった、高齢入居者の顔を思い浮かべながら廊下の角を曲がり愕然とした。「な、なんだよ、これ、何だよ!」 複数の引越し作業員が、503号室とエレベーターの間を忙しなく出入りしていた。「おい!待てよ!何を勝手に!戻せよ!」 賢治が慌ててその袖に縋り付くと、引越し作業員は訝しそうな顔をした。「はーい、これが最後」「オーライ、オーライ」 次々と
デジタルカメラを手に二人はベッドに横になった。先ほどまでの緊張感は解け、自然と笑みが溢れた。「これで賢治さんの不倫の証拠は揃ったよ」「あぁ、疲れた」「菜月、お疲れ」 菜月がベッドのシーツに包まりながら柔らかく微笑むと、湊がその隣に肘を突いて寝転んだ。無邪気な笑顔で振り返る菜月の隣には、穏やかな面差しの湊が横たわっていた。二人の間に静かな時間が流れる。湊の息遣いが近く、菜月の心に温かな波を立てた。彼女の短く刈り上げた髪を、湊はそっと撫で、かつての「天使の羽根」を懐かしむように目を細めた。事故の傷跡、右腕の包帯、頬の絆創膏はまだ痛々しいが、彼の微笑みは変わらない。この瞬間だけは倫子や賢治の影を忘れたかった。二人の視線が絡み合い、シーツの柔らかさと湊の温もりが心を解す。湊の手が髪を滑る感触に、菜月は新たな自分と過去の自分を重ね合わせる。「菜月、男の子みたいになっちゃったね」「思い切っちゃった、ちょっとだけ後悔してる」「そのうち伸びるよ」「うん」 菜月の目頭に熱いものが溢れた。「菜月は、賢治さんと暮らした時間を切り落としたんだよ」「うん」 菜月が長く伸ばした髪をバッサリと切ってしまうには、よほどの覚悟と深い思いがあったに違いない。「菜月」「なに?」「これからは僕の為に髪を伸ばして欲しいな」「うん」 菜月の頬に温かな涙が静かに伝った。湊は彼女をそっと抱き寄せ、涙の跡に優しく口付けた。菜月の両手はゆっくりと湊の背中に回り、ワイシャツの布地を強く握った。二人の体温が少しずつ上昇し、まるで互いの心を溶かすように絡み合った。湊の右腕の包帯が擦れる感触も、頬の絆創膏の硬さも、菜月には愛おしく感じられた。彼女の短髪を撫でる湊の手は、かつての「天使の羽根」を惜しむように、だが今を受け入れるように優しかった。ニューグランドホテルでの倫子との対峙、賢治の依頼、事故の影。それらは今、遠い世界の出来事だった。菜月の涙は、過去への惜別と新たな決意の混ざり合い。湊の温もりに身を委ね、彼女はワイシャツ越しに彼の鼓動を感じた。シェードランプの光が二人の輪郭を柔らかく照らし、シーツの皺が刻む静寂の中で、時間はただ二人だけのものだった。「そういえば、母さんがさ」「お母さんがどうしたの?」 菜月は不思議そうな顔で湊を見上げた。「僕たちが、奥の和室でキスしているのを見
エレベーターの扉がゆっくりと閉まる。「菜月」「湊、びっくりしちゃった」 湊に手を引かれた菜月は、賢治に見つかる事を恐れ2018号室を何度も振り返った。けれどそれは杞憂に終わった。湊がカードキーをドアノブに翳すとカチっと軽い音がして、2011号室の扉に緑のランプが点った。「この部屋はどうしたの?」「僕たちの作戦会議の部屋だよ」 壁の電源スイッチにカードキーを差し込むと、夜景の中に温かなオレンジの明かりが灯った。2人の姿が大きな窓に映った。「あああああ、ドキドキした!」 湊が振り返ると、床に座り込んだ菜月がいた。その首には、黒い一眼レフカメラがぶら下がって揺れていた。「菜月、お疲れ」「う、うん、本当に疲れた!緊張した!」 湊が菜月の前に、室内履きスリッパを置き、微笑んだ。「あ、ありがとう」「どういたしまして」 湊は菜月の首からストラップを外し、窓際のソファに腰掛けた。「どう、ちゃんと撮れてる?」 湊は、菜月が撮影した画像を1枚、1枚、確認した。そのどれもが、賢治の不倫行為の証拠となるものばかりだった。「すごいよ菜月、これなら興信所のスタッフに採用されるよ」「本当!?良かった!」 やや薄暗いが2018号室に入る賢治と”女”の後ろ姿が写っている。ただ、如月倫子の顔が曖昧だった。「如月倫子の顔が欲しいな」「ごめん」「菜月のせいじゃないよ、こんな角度じゃ僕でも無理だよ」「うん」「如月倫子が部屋から出る瞬間を撮ろう」「でも、いつ?」 賢治と如月倫子が入室した時刻は20:20。2人が情事を終えて客室の扉を開ける時刻など、皆目分からない。「賢治さんはいつも23:00過ぎには帰って来ていたんだよね?」「でも今は、私が家に居ないから泊まりかも」「そうだね」 長丁場になる事は予想が付いた。「泊まりだとしたら明日の朝」「でも油断は出来ないね」「うん」 菜月と湊は客室の扉を10cmばかり開け、廊下の様子を窺った。そこに人の気配はなく、菜月と湊の2人しかいないような気さえした。「これじゃ不審者だね」 そこで一眼レフカメラを手にした湊が閃いたとばかりに廊下に出た。「ちょっ、ちょっと湊!どうしたの!」 湊は廊下に置かれた観葉植物の鉢植えの中にカメラを忍ばせ、シャッターを押した。1回目は気に入らなかったらしく、2回目の撮影は
「菜月」「は、はい」「これはどういう事なの」「だって」「だってじゃないでしょ!」 怒った湊は、菜月の手からスプーンを奪い取り、苺パフェの主役を口に頬張った。「あっ!いちご!」「いちご!じゃないよ!」「だって」 機嫌の悪い湊は、左の中指でテーブルの上をトントンと叩きながら菜月を睨み付けた。「勝手な事しないの」「だって湊が」「右手が怪我してるからって言いたいんでしょう」「だって、カメラが使えないじゃない」「とにかく!」 スプーンが菜月の目の前でぐるぐる回った。「うっ」「それならそれで出来る事だって有るよ」「どんな事」 少し落ち着いた湊は、テーブルに届いたブラックコーヒーの白いカップに口を付けた。「ちゃんとよく聞いて」「う、うん」 湊は声を潜めた。「賢治さんと如月倫子の写真は、とにかく1枚でも多く撮る事」「う、うん」「2人が並んでいる事が前提だよ」「分かった」 そして湊は、身軽な菜月が2人を追尾し、客室の部屋番号を確認する事を提案した。「その部屋番号を僕に教えて」「分かった」 そして、フロントで待機している湊が2人の客室に隣接する客室をリザーブする。「それでどうするの?」「賢治さんと如月倫子が部屋から出て来た所をカメラで撮るんだ」「出来るかな」「出来るかな、じゃなくてするんだよ」「う、うん」 不安げな菜月の手のひらを、湊がそっと握った。「気付かれないように」「うん」「無理しないように」「うん」その時、湊の表情が変わった。「菜月」 湊はコーヒーカップをゆっくりとソーサーに戻し、上機嫌で苺パフェを頬張っている菜月の腕を掴んで強く揺さぶった。「な、菜月」「ん」「カメラ、カメラ」「あっ」 ドアボーイがお辞儀をした隣には、焦茶のスーツの賢治が如月倫子を探して佇んでいた。その焦茶のスーツは、賢治が菜月と結納を交わした時に着ていた物だった。菜月は、この1年が次々と穢されてゆく感覚に陥った。(賢治さん)カシャ 人待ち顔の、賢治の面差しを連写する、菜月の腕は怒りに震えた。カシャ ソファに座る賢治は左手首の時計を気にしていた。約束の時間から10分が過ぎていた。賢治は脚を組み、肘を突いて携帯電話を弄り始めた。カシャカシャ ドアボーイが恭しくお辞儀をした。「菜月、あれが如月倫子だね