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第3話

Author: パントウ・ロ
誰もが信じられないといった目を向ける中、私はバッグを取って、そのまま個室を出た。

出る前に、まずはレストランの化粧室に寄って、顔や服についた小麦粉を落とす。

身なりを整え、個室の前を通り過ぎると、中から楽しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。

「悠人、本当に遥香に振られるかもしれないよ?それでも平気な顔して飲んでるなんて」

悠人の、気にも留めない声が返ってくる。

「あいつなんて、俺が指先で合図すりゃ、すぐ言いなりになって戻ってくるんだ。

信じないならさ、今夜飲み終わって帰ったら、機嫌を取ってやるところを見せてやるよ。賭けるか?」

「いいぜ、賭けようじゃないか。毎回おまえが勝つなんて、俺は信じちゃいない」

「いや、やめとくよ。毎回おまえに負けっぱなしだ」

無表情の裏で、心の中では静かに血が滴り落ちている。

七年もの間、彼と付き合ってきたのに、私の価値は、彼の友人たちの間で交わされる賭けのネタ以上のものではない。

ぼんやりしたままレストランを飛び出し、思わず硬い体にぶつかった。

橘啓介(たちばな けいすけ)がわずかに眉を上げ、静かな声に微かな怒りを滲ませて口を開く。

「どうしたんだ?そんなにぼろぼろになって」

まさか、こんなところで彼に会えるとは思わなかった。

慌ててバッグからハンカチを取り出し、顔についた水滴をぬぐい、ぎこちなく彼の前に立つ。

「大丈夫……うっかり小麦粉がついただけ」

そう言ってふと見ると、彼の高価なスーツが私のせいで白く汚れ、水まで染みていた。思わず、また口をついて謝ってしまう。

「ごめんなさい、全部私のせい。服を汚してしまったから、もしよければ脱いでくれれば、私がきれいに洗って返す」

啓介は何も言わなかった。

ただ、深く澄んだ瞳で、私が嘘をついていることを見抜いたようだ。

「遥香、今日から僕たちは夫婦だ。謝る必要なんてない。服一着なんてどうでもいい。君が僕を殴ったって、それはきっと僕が悪いからだ」

低くて落ち着いた声が、まっすぐ耳に届く。

頬が一気に熱くなるのを感じる。

幸い、それ以上小麦粉のことを追及することもなく、啓介は私を店の外まで送り、上着を脱いで、私の頭の上にふわりと掛けてくれた。

「雨も降って寒い。君、薄着なんだから、風邪ひくな」

そう言われると、途端に寒さが身にしみてくる。

思わず身震いすると、次の瞬間、啓介が私を抱き寄せた。

ちょうど身を起こそうとしたとき、耳元に聞き慣れた声が響く。

「橘社長、奇遇ですね。まさかこんなところで会えるとは」

瞬時に全身がこわばり、私は啓介の胸に顔を押しつけたまま、身じろぎ一つもできない。

悠人はにやりと笑い、啓介の腕の中にいる私を横目で見ながら、わざとらしく言う。

「どうやら橘社長の楽しい時間を邪魔しちまったみたいですね。いったいどこのお嬢さんが、橘社長にここまで可愛がられているんです?」

彼の話が終わるやいなや、私は頭にかけられた上着をぎゅっと握りしめた。啓介が突然それを取ってしまうのを不安でたまらない。

こんな気まずい場面、想像するだけで胸が潰れそうになる。

ところが啓介は、私を抱いたまま二歩ほど進むと、ふいに足を止め、振り返って悠人に冷たく言い放つ。

「おまえには関係ない」

そのまま彼は私を抱き上げ、車に乗せた。

我慢できず、私はつい笑い声を漏らしてしまう。

薄暗い車内で、彼の色気を帯びた切れ長の瞳が、不意にじっと私を射抜いた。

「そんなにおかしいか?」

降りしきる雨が、すでに啓介の服を濡らしていた。

私はまだ彼の胸に身を預けていて、薄いシャツ越しに、濡れて張りついた布の下の熱を帯びた胸板を感じている。

やがて、彼の視線が次第に熱を帯びていくのが分かる。

今日、彼と婚姻届を出し、ウェディングフォトも撮って夫婦になったけれど、それでも彼は顔見知りになっただけの他人にすぎない。

私はすぐに身を起こし、椅子の端に身を縮めて寄りかかり、真顔になった。

「いいえ、少しもおかしくなんかない」

マンションまで送ってもらい、車を降りた私は唇をかすかに噛みながら彼に礼を言う。

啓介は軽く眉を上げ、後の座席から小さなケーキ箱を取り出した。

「今日が君の誕生日で間違いないよな?今日主役の遥香、お誕生日おめでとう」

思いがけない嬉しさに目を見張り、私は彼を見つめる。

「どうして今日が私の誕生日だって分かったの?」

啓介はケーキの箱を開け、一本ずつろうそくを立てて火を灯していった。

そして婚姻届の受理証明を取り出して、そこに記された日付を指した。

「ここに書いてあるだろ。僕は、二人の記念日は全部覚えておくって言ったはずだ。まさか忘れたのか?」

その瞬間、耳の先まで熱くなったのを感じる。

ケーキをそそくさと食べ終えると、そのまま一気にマンションへ駆け戻った。

悠人は、いつの間にか帰ってきていた。手にはケーキを持っている。

見た瞬間、私は大方察しがつく。

これが、彼なりの「機嫌取り」というやつだ。

「またどこ行ってたんだよ。ずいぶん遅かったな。ちょっと冗談言ったくらいで怒るなよ。

ほら、ロウソク吹け」

私は黙ったまま、壁に掛けられた時計に目をやった。針はすでに十二時を回った。

小さくため息をつき、口を開く。

「悠人、いつになったら私を本気で大事にしてくれるの? もう私の誕生日は終わったのよ」

彼の瞳に一瞬だけ後ろめたさがよぎったが、それでも、まだ強気な態度で言う。

「たかが数分遅れただけだろ。大げさにするなよ。むしろ感謝してほしいくらいだ。俺以外に、誰が誕生日を祝ってくれるっていうんだ?

今日はな、おまえのために飲みの席をいくつも断ってきたんだ。恩知らずな真似はやめろよ」

私は平然と彼を玄関の外へ押し出し、心の奥に薄い嘲意が滲む。

この男は、いつも自分をどれだけ献身的で立派かのように語りたがる。

「記憶でもなくしたの? もう別れるって言ったはずよ。私の誕生日に、あんたの出る幕はない」

遅れて事の次第を悟った悠人の目が、私の肩に掛けられた上着へと吸い寄せられる。

一瞬で、彼の顔は歪み、殺気を帯びた声で怒り狂ったようにわめき散らす。

「この服、誰のだ?どう見ても男物だろ。それにこの香りは男がつけるコロンじゃないか。おまえのはずがない!

それに、出かけたときはこの服着てなかったよな!

おまえ、よくも俺を裏切ったのか?」
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