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ガラスの靴を捨てて、走り出す
ガラスの靴を捨てて、走り出す
流川芙美

第1話

流川芙美
「私、10年間付き合ってきた彼と別れたばかりよ。それでも、本当に私と結婚するつもり?」

向かいの席に座る男は一瞬沈黙し、そして私・江崎心(えざき こころ)を真っすぐ見つめ、静かに言う。「心、俺は10年間、君を待ち続けた」

胸がぎゅっと締め付けられる。「分かった……7日後に結婚しよう」

話がまとまると、バッグを手にカフェを出て、新幹線の駅へ向かう。

母・江崎佳代(えざき かよ)が亡くなってから、3日目だ。

この3日間、声が枯れるほど泣き続けた。母が亡くなったことは、私の周りにいる誰もが知っている。

ただ一人、10年間付き合ってきた恋人・清沢研(きよさわ けん)だけが知らない。

私と研は、互いの友人関係にはほとんど踏み込んでこなかった。

研は私を自分の友人たちに紹介したことはなく、私の友人に会おうとしたことも一度もなかった。

おまけに、研は大企業の社長として多忙を極めている。

1分1秒を争うような生活を送っているから、私のSNSを見るために時間を割くことなどあり得なかった。

母が亡くなったことだけではない。手術費を用意できず、それが原因で亡くなったことさえ、研は知らない。

だから、母の遺骨を納めたその日、私は決めた。研との関係を完全に断ち切り、別の男と結婚する。

どんよりとした空から冷たい雨が降り始める。そんなタイミングで、スマホが鳴った。

メッセージを送ってきたのは、研の秘書・恩田理沙(おんだ りさ)だ。

【江崎さん、明日、社長が出張されます。革靴を2足とスーツを3着、用意しておいてください】

まるで命令のようなメッセージを見つめる。

もう研と別れると決めたはずなのに、なぜか胸が苦しい。

研と付き合った10年間、その大半に理沙の影がつきまとっていた。

甘えるつもりで研にメッセージを送っても、返信してくるのは決まって理沙だった。

【申し訳ありません、江崎さん。社長はただいま会議中です。ご用件は私からお伝えします】

それどころか、避妊具から日々の食材、普段着の購入に至るまで、日常生活のあらゆることを理沙が取り仕切っていた。

それが嫌で、何度も研に不満をぶつけた。しかし、彼はいつも冷ややかな目で私を見下ろすだけだった。

「お前にはセンスも、物を見る目もない。だから能力のある理沙に任せているんだ。いったい何が不満なんだよ」

以前の私は、そんなふうに言われると、何も言い返せなかった。でも今はもう、どうでもいい。

確かに、国内の無名大学出身の私が、海外の有名大学院を修了した理沙に敵うはずがない。

理沙は経験も豊富で、取引先との交渉をこなし、研の身の回りまで抜かりなく管理している。

それに比べて私は、研の会社で10年働いているというのに、いまだに目立たない営業企画部の一社員にすぎない。

思わず鼻で笑ってしまう。研がそこまで理沙を重宝しているのなら、いっそ研を理沙に譲ってしまえばいい。

私はすぐに理沙へ返信した。

【研の荷物をまとめる暇はない。恩田さんが直接うちへ行って、準備してあげたら?】

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    清沢研・番外編心が結婚したときになって初めて、俺は、最愛の女を永遠に失ってしまったのだと気づいた。披露宴に乗り込んだあの日、本当は、心を連れ戻すつもりだった。自分が行けば、心は絶対に結婚をやめるはずだ。そう思い込んでいた。だが、披露宴の会場で、ウェディングドレス姿の心が親族たちと楽しそうにグラスを交わしているのを見た。吟の胸に寄り添いながら、近所のおばさんたちと声を上げて笑い合っている姿を見た。その笑顔を見た瞬間、その中に俺が入り込む隙などないと悟った。心は、自分の選択をした。そして、自分の手で自由を選び取った。実のところ、心が会社でどんな目に遭っていたのかも、理沙が俺に特別な感情を抱いていたことも分かっていた。それでも、あえて見て見ぬふりをした。それどころか、ときどき理沙と親密に過ごすことさえあった。俺は試していたのだ。心が口にしていた「一生、俺から離れない」という言葉が、本当なのか確かめたかった。しかし、心と別れて初めて気づいた。彼女を試していたのではない。自らの手で、かけがえのない人を永遠に手放してしまったのだ。エレベーターで初めて心と出会ったときのことを、俺は一生忘れないだろう。心は、驚くほど明るく、生き生きとしていた。両手に何10杯ものコーヒーを抱えながらも、愚痴ひとつこぼさなかった。大金持ちの家に生まれ育った俺は、数え切れないほどの権力争いを見てきた。それは兄弟が憎み合い、親子の情すら利益で繋がっているような世界だった。だからこそ、心がどうしてあんなにも無防備で、屈託のない笑顔で生きていけるのか、理解できなかった。彼女には金がなかった。父親は早くに亡くなり、大学の学費すら奨学金を借りてまかなっていた。母親も、小さな仕立て屋で、細々と生計を立てていた。それでも、心は一度も人生を恨んだことがなかった。そんなところに惹かれたのかもしれない。俺は自分から心に近づいた。そして、思った通りだった。甘い言葉をかけ、金に物を言わせると、半年もしないうちに、心は俺に夢中になった。それでも俺は、心と一緒に暮らす時間が好きだった。彼女は本当に純粋だった。俺に何かをねだることもなく、豪邸に住んでいながらも、ずっと安価な日用品を使い続けていた。いいものを知らないだけだと思った俺は、理沙に命じて心の

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  • ガラスの靴を捨てて、走り出す   第7話

    帰りの飛行機では、1時間ほどスマホの電源を切っていた。着陸して電源を入れると、メッセージが大量に届いていた。すべて、会社の同僚たちからだった。【嘘でしょ、江崎さん。社長と秘密で付き合ってたなんて、隠すの上手すぎ!】【江崎さん、すみません!もし今までに何か気に障ることをしていたなら、謝ります】どうやら、私と理沙の言い争いを、トイレに隠れていた女性社員がこっそり撮影し、社内のLINEグループに投稿したらしい。ようやく事情を把握したところで、タイミングを見計らったかのように研から電話がかかってきた。「今すぐメッセージを送って、俺の恋人だという噂を否定しろ」研が言い終わるか終わらないかのうちに、電話の向こうから理沙の泣き声が聞こえてくる。「社長、お願いです。辞めさせてください。こんな屈辱、とても耐えられません……」理沙がそう訴えると、研はそれ以上何も言わず、一方的に電話を切った。私は呆れて首を横に振る。銀行口座やいろいろなアカウントにこの電話番号を登録していなければ、今すぐ番号を変えてしまいたいくらいだ。けれど、そんな不快な気分は、すぐに吹き飛んだ。空港の到着ロビーの出口で、周防吟(すおう ぎん)が微笑みながら私を待っている。吟に向かって大きく手を振り、胸を高鳴らせて駆け寄っていく。「寒くない?どのくらい待ってたの?」吟は、しばらくじっと私を見つめてから口を開く。「朝の5時には来てたよ。君が……気持ちを変えてしまうんじゃないかって、怖かったんだ」胸がぎゅっと締め付けられる。深く息を吸ってから、まっすぐ吟を見つめる。「私から結婚してほしいって言ったあの瞬間から、後悔なんてしてないよ」途端に、吟の瞳がうっすら潤む。歩み寄って吟の腰に腕を回した。そしてスマホを取り出し、二人で肩を寄せ合うツーショットを撮る。「会社の人たちに、私と研のことが知られちゃったの。研から電話が来て、誤解だって説明しろって。もともとそのつもりだけど、始まりが秘密だったんだから、終わりも秘密のままでいい」吟は嬉しそうに笑った。「それで今の写真を送るの?だったらいっそ、俺たちの結婚式の招待状を送ろう」そう言うと、吟は私のスマホを受け取り、グループLINEに用意していたWeb招待状の画像を送信した。【皆さん、お

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