LOGIN「でもここは神楽さんのお宅なので、私は出ていきません」とっさにそう言ってしまった自分を、なんというか素直だと思った……「なんですって……?神楽の母である私が、出ていけと言ってるのよ?あなた、それを無視するの?」「私は神楽さんとここで話す約束をしているんです。……突然やって来たのはお母さまの方ですよね?」「……私に出ていけと言いたいの?」怒りすぎて血の気が引いてしまったのか、神楽の母青い顔でじっと紅を睨んだ。そんな母親に対し、紅は空気を和らげようと笑顔を作るが……「まぁ……私がこんなに怒っているのに、バカにしたように笑うのね?」「いえ、バカにしてないし出ていけとも言ってません。神楽さんのお母さまですから、一緒に夕飯くらい食べる気持ちはありますよ……?」やり取りを聞いて、神楽が声を押し殺して笑っている。ピシャリと母親に腕を叩かれ、やっと間に入る気になったらしい。「紅はこういう女性なんだよ。正直っていうかなんていうか。別に怒らせようとしてるわけじゃない。まぁ、俺もカッとしたことあるから母さんの気持ちはわかるけど」唇を震わせ、紅を睨みつける母に、神楽の声は届かないようだ。「いいわ、今日のところは失礼しますっ!」手にしていた紙袋をそこにドスンっと置き、じっと紅を睨みながらドアに向かう。なんと言って見送ったらいいか迷ったので、とりあえず頭を下げるだけにしておく。神楽も何も言うつもりはないようだ。「わかってるだろうけど……」ドアノブに手をかけたところで振り向き、母親は並んで立つ2人を見据える。「神楽は何としても鳳凰総合病院の加弥乃さんと結婚してもらうわよ?」神楽は呆れたように肩を落とし、ため息をついた。「……勘弁してくれ。俺も子供じゃないんだ」「お父さまがおっしゃってましたから!」姿勢を正し、笑顔まで作って言った言葉に、さすがの私たちも顔を見合わせる。「自分の意にそぐわない行動を取り続けるなら、医者を続けられると思うな、と……」笑顔になったのを、紅は見逃さなかった。……母親に対して強い怒りが湧き上がるのを感じる。私たちを黙らせたとでも思ったのだろうか。勝ち誇った笑顔を残し、母親は玄関の向こうに消えた。……何も言わなかったのは、状況がわからないからだ。紅は眉間にシワを寄せた怖い顔で、神楽の腕を引っ張ってリビングへと戻った。「
「答えなさい。……誰だと聞いているんです!」薄いグレーの地に大輪の花が描かれている夏物の着物を着た女性。紅に厳しい目を向け、ピシャリと言った。「私は片桐紅と申します。……失礼ですが?」聞き返すのは当然だろう。少々年配に見えるが、神楽のことだ……過去の女性に年上が含まれていてもおかしくない。「……あなたごときに名乗る気になれないわね」呆れたような表情で顔を少し傾け、値踏みをするように、目線だけで紅を上から下まで眺める女性。さすがの紅もカチンとした。栗色の髪を綺麗に結い上げ、きちんとメイクしているところを見ると……高級クラブのママに見えなくもない。けれど尋ねても名前も言わないのだから、どんな立場の女性なのかわからないし……ここは無視して料理の続きをすることにした。女性はそんな紅を厳しい目で見ながらも、特別咎めることなくソファに腰を下ろした。「……アイスコーヒーでも淹れてくださらない?」延々と無視する紅に、さすがに声を上げた女性。「はい」頼まれれば、淹れてあげないことはない。細長いグラスにアイスコーヒーを注ぎ、ミルクとシロップ、ストローを添えて持っていく。「あなた神楽の、何なの?」テーブルに出す間に、扇子で自らを仰ぎながらのんびり聞かれた。「神楽先生の専属クラークをしております」「クラーク……?」「病棟クラークです。医師の事務作業全般を担当したり、入院患者さんに各種手続きやご案内をするするスタッフのことです」スラスラ説明したのが気に入らないようだ。「私が聞いてるのはそういうことじゃないってわからない?……神楽とどういう関係なんだって聞いてるの!」「わかってましたが、聞かれないのにペラペラ喋るのもどうかと思いまして」「ふん!自宅で料理してて、仕事仲間とか、見え透いた嘘は言わないでよ?」とっさに、この人は院長の姉か何かで、二階堂総合病院の関係者なのかと思った。「正直に申し上げて、今は……」今は、私たちの関係をどう言葉にすればいいのか……迷ってしまった。「プロポーズをしたいと言われています。……いえ、されましたね。確か」「はっ……?!プロポーズしたっていうの?!……神楽があなたに?」「ちゃんと結婚しようと、言われました」よほどショックを受けたのか、姿勢を崩して後ろにのけぞってしまった。紅はとっさに倒れないよう支え
自分で仕掛けておいて、もしかしたら眠れないかもしれないと思ったわりに爆睡したようだ。翌朝、携帯の目覚ましで起きた紅は、玄関の警報装置を解除してドアを開ける。すると……そこに神楽は倒れていなかった。駐車場の車にも開けた形跡はなく、家の周りに誰かが歩いた形跡もない。もしかしたら、神楽は昨夜、本当に外泊したの?……あの若い女性と?深いため息をつきながら、おでこに手を当てる。帰ってきても入れないようにしたのは自分なのに、そのせいで外泊したのは明らかなのに、胸の痛みはズキズキと脈打ち血を流す。覚悟していたとはいえ、本当に女性との外泊なら……私はすぐにここを出ていこう。「もう、自分でマンションを買おうかな」仕事も辞めて、今度こそ神楽と距離を置こう。……亮子と恋人関係になったなら、芹沢専務に復職できるよう協力をお願いすることもできる。そこまで考えて出勤したのに……「神楽先生、緊急オペよ」坂谷さんが神楽からの伝言を伝える。「ご家族さまが到着したら、入院手続きのご案内、それから病状説明をするための談話室の確保……ですって」「わかりました。……あの、神楽先生は何時頃からオペに?」坂谷に変わり、通りがかった看護師長が答えた。「昨夜遅くにフラッと医局に来たのよ。そしたら救急の要請が来て、神楽先生が対応するからって、そのまま手術になったの」……思いきり自分を恥じた。つまらない嫉妬を拗らせて神楽を締め出して。彼にとって休む時間があればそれはチャンスで、私はそれをいたずら程度の気持ちで奪った。女性関係はクズでも、神楽は誠実な医者だ。……それは、自分でも認めていることだったのに。紅はユニフォームに着替え、神楽が言付けた仕事を始めた。手術を終えた神楽に、素直に謝罪しようと心に決めて。神楽が手術室から出てきたのは午後になってからだった。「あ、神楽先生……お疲れさまです」目の下にうっすら影が入って、疲れているのは火を見るより明らか。「ご家族さまは今、お食事に出られています。先生も少し、いかがですか?」病院近くのベーカリーで買っておいたたまごサンドを差し出す。「……飲み物がペットボトルのコーヒーで、」申し訳ない……と言おうとした紅の口を、神楽の胸が塞いだ。「……紅、昨日はごめん」素直に謝ると決めたのに、先に謝られて出ばなをくじかれた。「帰っ
「え……?!芹沢専務と?」約束の20時を少しだけ過ぎて、亮子と落ち合った2人の行きつけのバー。「うん。美味しくいただいたら、あちらが執着し始めて」「出た……小悪魔亮子!」いただいた、というのは関係を持ったということ。……まったく、私はつい先日はじめてを経験をしたばかりなのに、親友はこの上級者ぶり。「それで……?ちゃんと付き合う気あるの?」「そうねぇ……」聞いたのはもちろん、亮子を心配してのことだ。芹沢専務は落ち着いた大人ながら、女性関係は少し緩いようだから。「あちら次第ね。1ヶ月以内にプロポーズしてきたら、結婚してもいいかも」「え?そんなに本気で考えてるの?結婚はそんなに急いでしなくても……」「よく言う……!1年も契約結婚した人が!」余裕の笑顔で笑う亮子を見てなんとなくホッとした。結婚してもいい、なんて言って、主導権は完全に彼女が握っているようだから。そこへ、注文したチーズリゾットとシーザーサラダ、白身魚のフリットが運ばれてきた。ハイボールで乾杯し、しばらくお互いの仕事の話をしていたのだが……「紅はどうなのよ、その後神楽先輩とは」聞かれたくなかった質問が飛んてきて、思わずビクッと背筋が伸びてしまう。「ははぁ〜ん、その反応は……まさか、もしかして?」「デートしようとか言うから、海水浴に行こうって言ってやったの。それでその……いろいろあって、」素敵だな、と感じてしまったエピソードなど、恥ずかしくて口にできない。「ヤったね?」「ヤ……っ」「もう……!本当に紅は、悪女なんだか可愛いんだか、アンバランスがたまんないのよ!」ケラケラと笑いながら、亮子がおしぼりを投げてくるので、もちろんこちらも投げ返す!親友との他愛のない話は心を軽くする。……昼間食堂で見かけた神楽と若い女の子のやりとりも、紅はすっかり忘れることができた。2時間ほど飲んで、店を変えるか解散するか……という話になった頃、亮子の携帯が着信を伝える。紅に断って電話に出た亮子。……話しぶりから、芹沢専務からの着信のようだ。「迎えに来るって言って聞かない……」「いいじゃない。今からなら電車で帰れるから、解散しよう」きっと芹沢専務は車で来るだろう。そして私も一緒にいたら、送ると言い出すに違いない。そんな気を使わせることに少し気疲れを感じ、紅は店を出て早々に駅に向
「やっぱり、この病院を継ぐのは颯真先生なのね……それで神楽先生は政略結婚でもして、鳳凰総合病院へ行くのかしら?」坂谷に誘われてランチに行くと、なぜかうっとりした表情で聞かれて……困った。「さぁ、どうでしょう」神楽が見合い……京香との結婚がなくなり、両親は大病院の令嬢をあてがってきたというわけか。海への一泊デートから、神楽とはあまり会えないでいた。同じ家にいながら不思議ではあるが、それだけ自宅に帰れないか帰宅が遅いということ。仕事では専属クラークらしくそばにいることは多いが、話すことは業務に関わることばかりだ。要するに、私は神楽を支えるような行動はまったくしておらず、日々自分の生活をして仕事をしている毎日を過ごしているだけ……「興味ないの?片桐さんだって年頃じゃない!それに、神楽先生と仲良しのような気がしてたんだけどなぁ」ため息をついてから、ジュルっとカレーうどんを啜る坂谷。……金色の汁が、紅の制服に飛んだ。「あらやだっ!ごめんなさい!」「いえ……」制服は紺色だから汁が飛んでも目立たない。……それより頬に飛んできた小ネギのほうが気になる。「あの、看護師さんとランチするときは、カレーうどんは絶対にダメですよ?」「あらま、どして?」看護師さんのユニフォームは薄いピンク色だからだ。……飛んできたカレーうどんの汁は、確実にその色を残すだろう。いつの間にかうどんを食べ終わり、茶碗に盛られたご飯を汁にぶち込んでかき込む坂谷。……なんだか、坂谷さんは清々しいほど力強い人だ。紅は頬の小ネギを取りながら、実は手をつける気になれないキツネうどんを見下ろしていた。「きゃーっ!!たいへんっっ!」広い食堂に響き渡る女性の黄色い悲鳴に、紅も坂谷も視線を向けた。声を上げた女性は窓際のテーブルに座っていたらしい。立ち上がった姿は、白衣や職員の制服とはまったく違うフリルたっぷりのワンピースという格好。医師の誰かを訪ねてきて、一緒にランチをしているという場面だと思われるが……「やだ、あのフリフリ……神楽先生のお客?」「そう、みたいですね」同じテーブルの向かいに、まさに噂の張本人がいて、坂谷と目を合わせた。「ご、ごめんなさい!」きっとまだ若い……20代前半と思われる可愛らしい女性が、椅子から立ち上がって慌てている。周りの人は一瞬向けた視線を外しな
「……だから言ったのに」翌朝、ベッドから起き上がれない紅。初めて感じる下半身の重だるさに呻いた。「……だって、あんなにアクロバットな格好させられると思わなかったから」「……待て。アクロバットな格好なんてさせてないぞ?普通に足を開かせただけだろ」いや、膝を折って太ももの裏を押されて……なんて。……具体的な指摘は恥ずかしすぎて言えない。本当はさっと起きてカーテンと窓を開け、昨夜の色っぽい雰囲気を吹き飛ばして平常時に戻りたかった。なのに立たない腰が、嫌でも昨夜の行為を思い出させる。「紅……」加えて神楽が甘い……お互い何も身につけていない体が毛布のなかで触れ合い、首筋に触れた唇が、背中にまで下りていく。「あ……っあの、神楽さん……お腹すきましたね?!」「そうだな。……だからもう1回紅を食べて、」遊んでいるのか、からかっているのか……口づけた背中に舌が這う感覚に体を震わせる。「たっ……食べられません。私はもう、つかまって食べられちゃって骨と皮です!」高らかに宣言する紅に、神楽は子供のような笑顔を見せた。「……まだたっぷり美味しそうな肉がついてるみたいだけど?」ウエストに回った大きな手が胸元に上がってくる気がして、紅はガシッとその手を止めた。「私は目的を果たしたので満足なんです!」「目的って?」「一応、知らなかったことを経験したので……」止まった手がウエストに絡みついてギュッと抱きしめられた。「ってことは、食べられたのは俺か?」はぁ……可愛い、と吐息まじりの声。今の神楽は何を言っても甘い夢から覚めてくれそうにない。やっと起きて歩けるようになり、ホテルのレストランでブランチをいただいて、帰ることになった午後。家に到着しても自分のバッグひとつ持たせてもらえず、手を取られてエスコートされながら家に入った。「もう……1人で歩けるので」リビングに入っても手を離してもらえず、紅は自分からそう伝えた。すると神楽はソファに紅を座らせ、自分も横に腰掛けて言った。「昨夜は無理をさせてごめんな。できる限り自制したんだが、紅にはつらい時間だったかもしれない」そんなことはない……何度も、神楽先輩……と呼んでしまいそうになった。あの時の片思いが時を超えて叶った喜びは、不本意ながらちゃんと胸に湧き上がっている。「これからはもう……あんなふうにな
「英語は大丈夫だけど……」『じゃあ歌ってみる?ラバークラブMiAってガールズバーなんだけど』「うん。期間は?」『まずは一晩、2回ステージ。バラードを歌ってほしいみたいよ』亮子はクラブやBARの起ち上げやプロデュースをする仕事をしている。その関係で、こういうバイトの情報が早い。亮子が関わった店なら大丈夫だろう……その日の夕方、紹介された店に行ってみた。「亮子さんに聞いてます!まずは一曲、聞かせてもらえますか?」面接は歌のみ。難なく合格をもらった。手渡された衣装はシルバーグレーのシンプルなドレス。ヘアメイクはプロが入ってやってくれた。呼ばれるまで待機するよう言われ、若い女の子た
「紅か……?」神楽との契約結婚を終え、まず向かったのは実家だった。「……お久しぶりです」手を止めず、顔も向けずに返事を返す娘に、父はわかりやすくイラ立つ。「はんっ!久しぶりに来たと思えば……なんだ?泥棒のマネごとか?」「お母さんの服を取りに来ました。そろそろ暑くなるので」「お前は、口を開けば母さんのことしか言わないな?」……あんたが口にしないからだ。今日も、ギリギリのところで言葉を飲み込む。父と言い争ってスッキリした事など一度もない。むしろ逆……怒りと悲しみ、そして絶望。父は昔から、私にそんな感情しか教えなかった。「……多分、今回持ち出せば、この家からお母さんの私物はなく
「君が契約結婚を引き受けたのは、俺への復讐か?香織と同僚だったってことは、当時から俺の話を聞いていた?」「香織さんは、別れた夫とセフレ関係になってつらいって言ってました。だから契約結婚を終えてからの相談ですね」「俺と出会ったのは偶然?……それとも探し出して、」ずいぶん話が意外な方向へ行くので……らしくもなく、動揺していた。それにまさか、梨沙子のことも知っているとは。「香織さん、夫の名前は伏せてましたよ。でもある日酔った勢いで「神楽」って名前と医者だって漏らして。あの料亭で出会ったのは偶然です。めずらしい名前だったからピンと来たんですよね」紅はソファから立ち上がり、携帯に表示される
「荷物、それだけだったか?」やがて、契約満了の日。見せつけるようにスーツケースを転がし、神楽の目の前に置く。「はい。このお宅にはすべてそろっていたので、ありがたく使わせていただきました」枕、毛布、シーツ、バスタオル、バスローブ……「引っ越し先の住所を教えてくれたら送るよ?使い慣れたものは手放したくないだろ?」「……あなたはそうかもね」使い慣れた契約妻を、今も時々美味しくいただいてる。「……え?」「……使わせてもらった枕、抱きしめて寝てくれません?私のことを思い出して」不思議そうな顔に作り笑いを返した紅に、今度は驚いた顔をするので、本気で吹き出してしまった。「冗談ですよ!







