Masuk夜の街を黒い車が静かに走っていた。
窓の外には派手なネオン。 だけど車内の空気だけが異様に重かった。 「……本当にここなんですか」 私が小さく聞くと、後部座席の榊さんがタブレットを見ながら頷く。 「はい。確認済みです」 そして少し言いづらそうに続けた。 「麗華とは別の女性と一緒ですね」 「……っ」 胸がずきりと痛む。 もう終わった相手。そう思っていたのにまだ心が痛む自分が情けなかった。 隣に座り窓の外を見る九条さんが煙草を咥える。 「行くぞ」 車が止まった場所を見て私は言葉を失った。 ラブホテル街だった。 派手な看板。 ピンク色のネオン。 安っぽい音楽。 圭吾はこんな場所にいた。 逃げ回っているはずなのに。 それも女と。 「……本当に最低」 思わず漏れる。 九条さんがちらりと私を見る。 「今さらだろ」 「……はい」 分かってる。 分かってるのに。 心のどこかでまだ少しくらい罪悪感を抱いていてほしかった。 でもあの人は違った。 「お前は車で待ってろ」 「嫌です」 即答だった。 九条さんが少しだけ眉を寄せる。 「見ない方がいい」 「ちゃんと終わらせたいんです」 震える声。 「逃げたまま終わるの嫌だから」 九条さんはしばらく黙る。 やがて小さく息を吐いた。 「……後悔すんなよ」 ホテルのエレベーターへ乗る私の心臓はうるさかった。 「七〇三号室です」 榊さんが小声で言う。 廊下には甘ったるい香水の匂いが漂っていた。 九条さんが部屋の前へ立つ。 コンコン。 「開けろ」 一瞬、部屋の中が静かになる。 そして。 「……は?」 聞こえてきたのは女の笑い声だった。 「この人誰〜?」 「……っ」 私は息を呑んだ。 部屋の中には、下着姿の女。 そしてベッドの上には――圭吾。 シャツもまともに着ていない。 酒の缶。 散らかったシーツ。 最悪だった。 「……美月?」 圭吾の顔から血の気が引く。 「な、なんでお前がここに居るんだ!」 私は何も言えなかった。 胸が冷えていく。 悲しいを通り越して、ただ気持ち悪かった。 「へぇ」 女が煙草を咥えながら笑う。 「もしかして奥さん?」 「……違う」 自然と口から出た。 もう本当に終わったんだと思った。 「お前さぁ」 九条さんが部屋へ入る。 「逃げ回ってる最中に女抱いてたのか」 圭吾が慌てて立ち上がる。 「ち、違う! これは……!」 「何が違うんだ。言ってみろ」 空気が一気に冷える。 女もさすがに異常を察したのか顔色を変えた。 「え、ちょっと……本当に誰なの……? どういう状況なの……?」 「お前は帰れ」 九条さんが女へ札束を投げた。 「……っ」 「何も見なかった事にしろ。口外したらどうなるかくらい自分で考えろ」 女は青ざめながら札束を掴み、服を抱えて逃げるように部屋を出ていった。 静寂。 残ったのは私達だけ。 「九条……ま、待ってくれ……!」 圭吾が後ずさる。 「俺はちゃんと返すつもりで……!」 「返す? こいつを捨てて逃げた奴が何を言ってんだよ。それに、組の金に手を出した時点で返す返さないなんて関係なく終わってんだよ」 九条さんの声は静かだった。 「し、仕方なかったんだ!」 「仕方ない? 女とホテルに居るこの状況も仕方がないのか?」 「……っ」 圭吾が言葉を失う。 私はそんな圭吾を見つめる。 昔は好きだった。 優しいと思ってた。 一緒に二人の未来を作るんだと思ってた。 なのに。 今目の前にいるのはただのクズ。 「美月……!」 圭吾が私を見る。 「違うんだ……!」 「何が?」 自分でも驚くほど冷たい声が出た。 「会社が苦しかった? 借金があった? だから不倫して横領したの?」 私からこんな冷たい声色で言われると思っていなかったんだろう。 圭吾は黙り込んだ。 「その上逃げながら女とホテル?」 胸が痛い。 でも涙は出なかった。 「会社が苦しいならなんで嘘をついていたの? なんで相談してくれなかったの? 本当に最低」 それだけだった。 圭吾の顔が歪む。 「ま、待ってくれ……! 俺達夫婦だろ!?」 「もう違う。あなたが全て壊したんでしょ」 はっきり言えた。 「あなたの事、もう何も信じられない」 私がそう言葉にすると、九条さんは圭吾の胸ぐらを掴んだ。 「うっ……!」 「行くぞ」 「ま、待っ――」 「落とし前つける時間だ」 今までで一番低い声……。 圭吾の顔はみるみる真っ青になる。 「いやだ!! やめてくれ!」 榊さんが圭吾の腕を後ろへ捻り上げる。 「離せ!! み、美月!!」 私は動かなかった。 もう助けたいなんて思えなかった。 そのまま圭吾は無理やり部屋から連れ出された。圭吾は榊さんに腕を掴まれたまま顔を青くしていた。「ま、待ってくれ……! 本当に話すから……!」 さっきまで女とホテルにいた男とは思えないくらい情けない声だった。 九条さんはそんな圭吾を冷たく見下ろしている。「お前さ」 煙草を咥えたまま低く言う。「今、自分がどれだけダサいか分かってるか?」 圭吾の顔が歪む。「っ……」「自分に尽くしてくれた女捨てて逃げ回って、別の女抱いて最後は命乞い。救いようがねぇな」 その言葉が胸に刺さったのか、圭吾は悔しそうに唇を噛んだ。 「……行くぞ」 榊さんが圭吾を押す。 エレベーターへ向かう途中、圭吾が突然こちらを見た。「美月……!」 私は足を止める。「お前、本当にそっち側行くのか?」「……そっち側?」「極道だぞ!?」 圭吾が声を荒げる。「そんな奴ら信用するのか!? 危ない連中なんだぞ!!」 一瞬、空気が止まった。 でも。 次の瞬間、九条さんが小さく笑った。「おもしれぇな」 低い声。「誰のせいでこうなったと思ってんだ? そもそもその危ない連中に協力したのは誰だ」 圭吾が言葉に詰まる。「お前が捨てた女を俺が拾っただけだろ」「美月!」 圭吾が焦ったように言う。「騙されるな! こういう奴らは利用価値なくなったら簡単に捨てるんだよ!」 その瞬間。 九条さんの目がすっと細くなった。「……お前がそれ言うのか」 静かな声だった。 でも圧が怖い。 圭吾もすぐに青ざめた。「っ……」 圭吾が黙り込む。 私はそんな圭吾を見ながら、胸の奥がじわじわ痛むのを感じて
夜の街を黒い車が静かに走っていた。 窓の外には派手なネオン。 だけど車内の空気だけが異様に重かった。 「……本当にここなんですか」 私が小さく聞くと、後部座席の榊さんがタブレットを見ながら頷く。 「はい。確認済みです」 そして少し言いづらそうに続けた。 「麗華とは別の女性と一緒ですね」 「……っ」 胸がずきりと痛む。 もう終わった相手。そう思っていたのにまだ心が痛む自分が情けなかった。 隣に座り窓の外を見る九条さんが煙草を咥える。 「行くぞ」 車が止まった場所を見て私は言葉を失った。 ラブホテル街だった。 派手な看板。 ピンク色のネオン。 安っぽい音楽。 圭吾はこんな場所にいた。 逃げ回っているはずなのに。 それも女と。 「……本当に最低」 思わず漏れる。 九条さんがちらりと私を見る。 「今さらだろ」 「……はい」 分かってる。 分かってるのに。 心のどこかでまだ少しくらい罪悪感を抱いていてほしかった。 でもあの人は違った。 「お前は車で待ってろ」 「嫌です」 即答だった。 九条さんが少しだけ眉を寄せる。 「見ない方がいい」 「ちゃんと終わらせたいんです」 震える声。
翌朝目を覚ますとカーテンの隙間から薄い朝日が差し込んでいた。「……ん」 ぼんやりする頭を押さえながら体を起こす。 熱は少し下がったみたい。 でも昨夜の事を思い出した瞬間に顔が熱くなる。 九条さんに抱き上げられた事。 額へ触れられた事。 あの近すぎる距離。「……何考えてるの私」 小さく呟いて顔を覆う。 相手は極道だ。 怖い人。 普通なら関わる事すらない世界の人間。 なのに。 昨日の九条さんは、どうしようもなく優しかった。 ――コンコン。「起きたか」「は、はい!」 慌てて返事をするとドアが開く。 入ってきた九条さんは黒のシャツ姿だった。 昼間なのに妙に色気がある。「熱は」「もう大丈夫です」「顔見せろ」 近づいてきた九条さんの手が額へ触れる。「……っ」 また心臓が変な音を立てた。「少しマシか」「……はい」 九条さんは短く息を吐く。「なら飯食え」「え?」「食わねぇとまた倒れるぞ」 テーブルを見るとお粥が置かれていた。「……九条さんが?」「榊だ」「ですよね……」 少しだけ残念に思ってしまった自分が嫌になる。 すると九条さんが鼻で笑った。「なんだその顔」「べ、別に!」 慌ててお粥へ視線を落とす。 その時だった。 ブブッ――。 九条さんのスマホが震える。 少し空気が変わった気がした。 さっきまで少し柔らかかった表情が、一瞬で冷える。「……どうした」 電話へ出た九条さんの声は低かった。『若頭
深夜一時過ぎ。 私は借りた部屋のベッドへ座ったまま、ぼんやりスマホを見つめていた。 誰からの連絡もない。 静かすぎる夜。 なのに胸の奥だけが落ち着かない。「……眠れない」 小さく呟き私はベッドから降りた。 少し水を飲もうと思い部屋のドアを開けるとリビングは薄暗かった。 間接照明だけが点いていて、昼間よりずっと静かに見える。 その奥。 ソファに座る九条さんの姿があった。 片手に煙草。 もう片方にはグラス。 黒シャツのボタンが上から二つ外れていて、昼間よりずっと色気がある。 私は思わず足を止めた。「……起きてたのか」 低い声。「す、すみません」「謝んな」 九条さんは煙を吐く。「眠れねぇんだろ」「……はい」 図星だった。 「っ……」 急に目眩がして体がふらつく。 倒れそうになった瞬間、強い腕が腰を支えた。「おい」「……っ」 九条さんだった。 気づけば、ほとんど抱き寄せられるみたいな体勢になっている。「顔真っ青だぞ」「だ、大丈夫です……」「大丈夫な奴は倒れたりしねぇよ」 近い。 煙草と香水の匂いがする。 心臓が変な音を立てた。「座れ」 九条さんに半ば強引にソファへ座らされる。 すると額へ大きな手が触れた。「……熱あるな」「え?」「自覚ねぇのか」 言われてみれば、少し頭がぼんやりする。 ずっと気を張っていたせいかもしれない。「……すみません」「なんで謝る」 九条さんは呆れたようにため息を吐く。「待ってろ」
シャワーを借りたあと、私は案内された部屋で一人になった。 広い部屋。白と黒で統一された落ち着いた空間。 ホテルみたいに綺麗なのに、不思議と生活感がある。 ベッドの端へ腰を下ろし、私はぼんやり窓の外を見つめた。 高層階から見える夜景は今まで見た事のないくらい綺麗だった。 なのに何も感じない。 頭の中はぐちゃぐちゃだ。 数時間前まで普通に夕飯の献立を考えていた自分が、まるで別人みたいだった。「……はぁ」 深く息を吐いた、その時。 コンコン。「……はい」 ドアが開き、榊さんが姿を見せる。「失礼します」 手には紙袋があった。「若頭からです」「……?」「着替えとか最低限の物を買ってこいって」 渡された袋を開くと、部屋着や化粧水、歯ブラシまで入っていた。「え……」「サイズは適当に見繕いました。問題あったら言ってください」「い、いえ……」 私は戸惑う。 極道ってもっと怖い人達だと思っていた。 もっと乱暴で威圧的で。 でも九条さん達は少なくとも私にはそういう態度を取らない。「……ありがとうございます」「礼なら若頭にどうぞ」 榊さんは軽く笑った。「あの人、不器用ですから」「不器用……」「はい。優しくするの下手なんですよ」 少し意外だった。 確かに九条さんは口も悪いし目つきも怖い。 でも缶コーヒーを渡してくれたり、部屋を用意してくれたり。ずっと優しくしてくれている。「……どうして、そこまで」 思わず呟くと榊さんは少し考えるように黙った。「若頭、昔から“巻き込まれた人間”を放っておけないんです」「……え?」「まぁ、そのせいで余計な面倒背負うことも多いんですけどね」 そう言って苦笑する。 その時、廊下の向こうから低い声が聞こえた。「榊」「……噂をすれば」 榊さんが肩を竦める。 部屋の入口に九条さんが現れた。 黒いシャツにスラックス。 煙草を咥えた姿は相変わらず怖い。「長居しすぎだ」「すみません」 榊さんは軽く頭を下げる。「じゃあ俺はこれで」 そう言って出て行った。 部屋に沈黙が落ちる。 九条さんは私を見るなり言った。「少しは落ち着いたか」「……はい」 本当は全然落ち着いてない。 でもこれ以上迷惑をかけたくなくて、そう答えた。「嘘つけ」 でも即座に見抜かれてしまう。「顔
九条さんに連れられ、私は黒塗りの車へ乗せられたまま街を走っていた。 窓の外には綺麗な夜景が流れていく。 だけど何も頭に入ってこない。 離婚。 不倫。 横領。 極道。 数時間前まで普通の主婦だったはずなのに、突然別世界へ放り込まれたみたいだった。 「……あの」 恐る恐る口を開く。 「なんだ」 「本当に……圭吾は、その……黒瀬組のお金を……?」 ハンドルを握る運転手の横で、九条さんは煙草を咥えたまま答えた。 「証拠は揃ってる。実際お前の住んでいた家はあんな状態だっただろ」 淡々とした声。 「お前の旦那、元々は頭回るタイプだったんだろうな。金の流し方が妙に綺麗だった」 「……」 「だが欲をかきすぎた」 車内に煙草の匂いが広がる。 「女に入れ込み、見栄張って、背伸びして、最後に道を踏み外した」 確かに最近の圭吾は明らかに羽振りが良すぎた。 車も更に一台高級車を買い、高級時計も買っていた。 でもそれは会社が成功しているからだと思っていた。 私はそう信じていた。 「……私、何も気づけなかった」 小さく呟くと、九条さんは窓の外を見たまま言った。 「気づける女ならとっくに逃げてる」 しばらくして車が止まる。 連れて来られたのは高層マンションだった。 「降りろ」 エレベーターへ乗り、最上階へ向かう。 部屋へ入ると、驚くほど静かだった。 黒を基調とした広い部屋。 余計な物がほとんどない。 でも不思議と冷たすぎる感じはしなかった。 「ここ……」 「俺の部屋だ」 あまりにも自然に言われて、私は固まった。 「えっ……!?」 「あまり騒ぐな」 九条さんはジャケットを脱ぎながらソファへ座る。 「しばらくここにいろ」 「む、無理です!」 「じゃあ帰る場所もなくただひたすら一人で歩くか?」 その一言で黙るしかなかった。 今の私には行く場所がない。 「……お邪魔します」 「それでいい」 九条さんは面倒そうに言いながら煙草へ火をつけた。 その時だった。 コンコン。 部屋のドアがノックされる。 「若頭」 入ってきたのは黒服の男だった。 年齢は三十代くらい。 鋭い目つきだけど、九条さんほど怖くはない。 「榊です」







