LOGIN延浩は追いかけて外へ飛び出したが、深雪の車が夜の闇の中へ消えていくのを、ただ呆然と見送ることしかできなかった。部屋へ戻った延浩は、力なくソファに腰を落とした。心は乱れ、何一つ考えがまとまらない。彼はスマホを取り出し、何度も何度も深雪に電話をかけたが、呼び出し音が虚しく響くだけで、応答はなかった。メッセージも数え切れないほど送った。だが、返事は一通も返ってこない。今回は、本当に怒らせてしまった。深雪はそう簡単に自分を許すはずがないと延浩ははっきりとわかっていた。脳裏に浮かんだのは、下瀬社長の顔だった。すべてのきっかけは、あの一通のメッセージ。あれがなければ、深雪に正体が知られることはなかった。延浩は強く歯を食いしばり、下瀬社長に電話をかけた。「......よくもやってくれたな!」突然の怒声に、下瀬社長は息をのんだ。何が起きたのかわからず、慌てて問い返した。「......どうかされたんですか?」「どうしたもこうしたもあるか!」延浩は怒鳴りつけた。「君が送ったあのメッセージ、深雪が見たんだ!」その言葉を聞いた瞬間、下瀬社長は血の気が引いた。「そ、そんな......若旦那、私は......わざとでは......深雪さんが目にするなんて、思いもしなくて......」「今さら言い訳しても無駄だぞ!」延浩は荒々しく遮った。「あの一通のせいで、深雪は僕と別れたんだ!」「別れた?」下瀬社長は思わず声を上げた。「そんなに深刻なことに?」「見ればわかるだろう!」延浩は低く唸るように言った。「今すぐ動け。何が何でも、深雪を探し出せ!」「はい! 若旦那、すぐに探します」下瀬社長は慌てて応じた。電話を切っても、延浩の胸のざわめきは収まらない。彼は立ち上がり、部屋を飛び出し、車を走らせた。目的地もなく、ただ街を彷徨っていた。深雪の会社にも、彼女の自宅にも、そして、二人で訪れたことのある場所すべて。それでも、彼女の姿は見つからなかった。胸の奥が、どんどん重く沈んでいった。もう、どこを探せばいいのかもわからない。そのとき、ふと一つの名前が頭をよぎった。寧々。延浩は最後の望みを胸に、車を墓地へと走らせた。墓地は夜の静寂に包まれていた
夜になり、二人は部屋へ戻った。深雪がシャワーを終えて出てくると、延浩は床まで届く大きな窓の前に立ち、電話をしていた。彼女は声をかけず、そっと近づいた。延浩は彼女の気配に気づいていないようで、そのまま低い声で話し続けている。数歩の距離まで近づいたところで、深雪は足を止めた。断片的に聞こえてくる会話はどうやら下瀬産業に関する内容のようだった。深雪の胸が、ずしりと沈んだ。延浩は通話を切り、振り返った。背後に立つ深雪を見た瞬間、彼の顔に驚きが走った。「......いつから、そこに?」その声はわずかなぎこちなさを帯びていた。深雪は答えず、ただ黙って彼を見つめた。その複雑な視線に、延浩は落ち着きを失い、彼女のそばへ歩み寄った。「僕は......」「説明はいらないわ」深雪は静かに、しかしきっぱりと遮った。「さっき、あなたのスマホのメッセージを見たの」延浩の顔色が、一瞬で青ざめた。あのメッセージを見られていた。深雪は噛みしめるように問いかけた。「下瀬社長は、どうしてあなたを『若旦那』と呼ぶの?」空気が凍りついたように、部屋が静まり返った。延浩の笑みはそのまま固まり、優しかった瞳に、かすかな動揺が走った。沈黙は、認めと同じだった。深雪は彼を見つめ、失望と痛みをにじませた。「答えて。どうして、下瀬社長はあなたを若旦那と呼ぶの?」声は震え、知らず知らずのうちに強くなっていた。「説明するから......」延浩が言いかける。「聞きたくない!」深雪の声は鋭く、切り裂くようだった。「欲しいのは言い訳じゃない。私は......真実が知りたいの!」彼女は、欺かれることに耐えられなかった。それが、最も信じていた相手からであれば、なおさらだ。延浩は深雪を見つめ、苦悩と葛藤に満ちた表情を浮かべt。もう、隠し通せないと悟ったのだ。「......申し訳ない」彼はうつむき、低い声で言った。「僕は......下瀬産業の後継者なんだ」その言葉は、雷のように深雪を打った。彼女の身体が大きく揺れ、数歩よろめいて壁にもたれかかった。それでも、ようやく立っている状態だった。「......何、言ってるの......?」信じられないというように、震える声で尋
ふと、目の前にいるこの人が、少しだけ以前よりも遠い存在になったような気がした。昼食のあと、延浩は午後に温泉へ行こうと提案した。深雪は断らなかった。頭を冷やし、考えを整理する時間が、どうしても必要だった。温泉は白い湯気に包まれ、やわらかな熱気が空気に満ちている。深雪は縁にもたれ、目を閉じ、湯の温もりを静かに味わった。隣に腰を下ろした延浩が、そっと彼女の手を握った。「どうした?なんだか元気がないように見えるけど」その声には、変わらぬ優しさと気遣いがあった。深雪は目を開け、延浩を見た。複雑な眼差しで、唇をわずかに動かした。問いかけたいことは山ほどある。でも、どう切り出せばいいのかわからなかった。結局、彼女は沈黙を選んだ。今の穏やかな時間を壊したくなかったし、何より、自分の異変を彼に悟られたくなかった。まだ、確かめる時間が必要だった。「何でもないわ。ちょっと疲れてるだけ」深雪は淡く微笑み、落ち着いた声で言った。「温泉に浸かれば、よくなると思う」延浩は疑う様子もなく、やさしくうなずいた。「それなら、ゆっくり休もう」語りかける声は、相変わらず穏やかで思いやりに満ちている。深雪は再び目を閉じた。一度芽生えた疑念は静かに根を張り、やがて大きく育っていく。光を遮り、進むべき道を見失わせるほどに。自分と延浩の間に、目に見えない亀裂が生じ始めていることを深雪は感じていた。「下瀬産業が最近、城東で進めている新規プロジェクト、かなり規模が大きいみたいね」何気ない口調を装いながら、深雪は彼の顔から目を離さず、わずかな表情の変化も見逃すまいとした。延浩は急須を手にしたまま、一瞬だけ動きを止め、視線を上げる。そして、優しい笑みを浮かべた。「そうなの?僕はあまり詳しくないな。下瀬産業のことは、ほとんど関わっていないから」口調は自然で、表情も穏やか。まるで本当に、何も知らないかのようだった。「そう?」深雪は語尾をわずかに上げ、ほとんど気づかれない程度の探りを入れた。「てっきり、下瀬産業の下瀬社長と親しいのかと思って。この前のパーティーで、ずいぶん話が弾んでいたでしょう?」延浩はお茶を注ぎ、深雪に差し出してから、ゆっくりと口を開いた。「ビジネスの場では、誰と
深雪の鼓動が、突然激しく跳ね上がった。下瀬社長?下瀬産業の、あの下瀬社長?なぜ下瀬社長が延浩にメッセージを?しかも、さきほど延浩が電話をしていた様子からすると、どうやら下瀬産業絡みの話だったようにも見える。不安と、そして言葉にできないほど微かな期待を胸に、深雪はその未読メッセージを開いた。文面は驚くほど短かった。たった一行。だが、その数文字は、雷のように深雪を打ち据え、彼女をその場に凍りつかせた。「若旦那、ご指示どおり、すべて手配しております」若旦那?その三二文字は、稲妻のように深雪の脳裏を貫いた。ぼんやりとしていた疑念が、一瞬で、くっきりとした輪郭を帯びた。若旦那。下瀬社長が、延浩を若旦那と呼んでいる?これまでの記憶が、一気によみがえた。下瀬産業との数々の提携。不自然なほど順調に進んだ案件。松原商事のプロジェクトに、度を越した支援。そして何より、延浩が一度でも、自分と一緒に下瀬産業関連の場に表立って姿を見せなかったこと。散らばっていた無数の断片が、見えない一本の糸に引き寄せられ、つながっていく。そして指し示したのは、深雪が到底信じたくなかった事実。延浩は......自分の本当の身分を隠していた。頭の中が真っ白になり、手にしていたスマホが、指先から滑り落ちそうになった。深雪はゆっくりと顔を上げた。少し離れた場所で、花を眺めている延浩を見た。陽光が彼の横顔を縁取り、整った輪郭を際立たせていた。唇には、いつもと変わらぬ優しい笑み。完璧で、あまりにも、現実感のない姿。自分は彼のことをよく知っていると思っていた。二人の間には、隠し事などないと疑いもしなかった。それなのに、彼はこれほど重要なことを、胸の奥にしまい込んでいた。衝撃、疑念、戸惑い。さまざまな感情が一気に押し寄せ、深雪の心は激しく波立つようになった。それでも彼女は、必死に動揺を押し殺した。何事もなかったかのように振る舞うことにしたために。スマホを元の場所へ戻し、深く息を吸うった。表情を整え、平静を装ったまま、延浩のもとへ歩いていった。「何を見ているの?」深雪は彼の隣に立ち、穏やかな声で聞いた。まるで、先ほどの出来事など、何一つなかったかのように。延浩
深雪が起き上がると、パジャマが肩口からすべり落ち、白い鎖骨があらわになった。薄手の羽織を一枚手に取り、寝室を出て、延浩がどこへ行ったのか確かめようとする。リビングにも人の気配はない。バルコニーへ向かうと、そこに立つ延浩の姿が目に入った。背を向けたまま、携帯電話を手に、低い声で誰かと話している。深雪の位置から見えるのは、わずかに寄せられた眉だけ。いつもの柔らかな微笑みとはまるで違っていた。今の延浩は表情が硬く、どこか冷ややかで、別人のように見える。深雪は足音を殺し、もう少し近づいて話の内容を聞こうとした。しかし一歩踏み出したその瞬間、延浩は突然通話を切り、素早く振り向いた。深雪の姿を見た途端、彼の顔に明らかな動揺が走った。それは、静かな湖面に石を投げ込んだような、ほんの一瞬の波紋だった。だが、その乱れはすぐに消え、延浩の顔には再び穏やかな笑みが戻った。「おはよう」延浩は歩み寄り、自然な仕草で深雪の肩を抱いた。「起こしちゃったか?」深雪は彼を見つめ、さきほどの違和感に気づいていないかのように、静かな目をしている。「ううん、私も今起きたところ」淡く笑ってから、何気なく問い返した。「誰と電話してたの?ずいぶん真剣そうだったけど」延浩の笑顔はいっそう柔らかくなり、陽だまりのように、深雪の胸に浮かんだ小さな疑念を包み隠そうとした。「会社のことだよ。仕事の段取りを少し」軽く肩をすくめ、あっさりと続けた。「最近案件が多くてね」深雪はそれ以上追及せず、理解したというようにうなずいた。延浩は彼女の手を引いてダイニングへ向かった。テーブルには、深雪の好みに合わせた朝食が並んでいた。「朝食を作った。君の好きなものだよ」椅子を引き、優しく促した。「さあ、食べよう。食べ終わったら、少し散歩でもしようか」深雪は席に着き、ナイフとフォークを手に取った。動作はゆったりとして上品で、料理を味わっているようでもあり、何かを考え込んでいるようでもあった。延浩は向かいに座り、穏やかな視線で彼女を見守りながら、パンやミルクをさりげなく差し出した。その気遣いはいつもと変わらない。すべてが温かく、甘やかな日常そのものだった。もし先ほど、バルコニーで電話をしていたときの延浩の表
深雪は延浩を見つめ、しばらく何も言えなかった。周囲の取締役たちはその様子を目にし、誰もが羨望の表情を浮かべた。深雪が卓越した能力を持つだけでなく、これほどまでに優れた男性に寄り添われているとは、誰も予想していなかった。「行こう。家に帰ろう」延浩は深雪の手を取り、静かに言った。深雪はうなずき、彼に手を引かれるまま、会議室を後にした。「松原商事をコントロールできたお祝いも兼ねて、少し気分転換しないか。温泉リゾートに二日ぐらい行こうと思うんだが、どうだ?」車を運転しながら、延浩が提案した。「いいね」深雪は快く頷いた。ここまで長いあいだ張り詰めていたのだ。心身ともに休みが必要だった。車は市街地を抜け、郊外の温泉リゾートへと向かう。道中の景色は美しく、深雪の心も次第に解きほぐされていった。リゾートは静かで、澄んだ空気と花の香り、鳥のさえずりが心地よい。二人は露天風呂付きの豪華なスイートルームに案内された。「とても素敵な場所ね」深雪は大きな窓の前に立ち、外の景色を眺めて感嘆した。「気に入ってくれてよかった」背後から延浩がそっと抱き寄せ、囁いた。「延浩......ありがとう」深雪は振り返り、真剣な眼差しで言った。「何が?」延浩は笑って尋ねた。「私のためにしてくれた、すべてに」延浩は彼女の鼻先を軽くなぞり、愛おしそうに言った。「温泉に入ろう」彼は深雪の手を取り、温泉へと導いた。温かな湯が肌を包み込み、連日の疲れが静かに溶けていく。深雪は縁に身を預け、目を閉じて、久しぶりの静けさを味わった。延浩は隣に座り、優しく彼女の肩をほぐした。「子どもの頃の、何か面白い思い出はある?」延浩がふと尋ねた。「子どもの頃?」深雪は目を開け、懐かしそうに微笑んだ。「昔はガキ大将だったのよ。みんなを連れて木に登って鳥の巣を探したり、川で魚を取ったり......」懐かしむように語るその声には温もりがあった。延浩は耳を傾け、微笑んで聞いた。夕方になると、リゾートではキャンプファイヤーが催された。二人はカジュアルな服に着替え、焚き火のそばへ向かった。燃え盛る炎が人々の笑顔を照らし、歌と踊りで賑わいを見せていた。延浩はステージに招かれ、ギターを手にラブソン
深雪は精神的に激しいショックを受けただけで、身体的には比較的軽い傷で済んだ。治療が終わると、警察が直接訪ねてきた。警察と一緒に芽衣と静雄も現れた。「深雪さん、すべては私の責任なの。怒ってるなら、私を殴ったり罵ったりしていいよ。陽翔を許してあげて。彼はまだ若くて、これから長い人生が待ってるの。あなたが訴えるなら……彼の人生は終わりよ!」芽衣はそう言いながら、直接深雪の前に跪いた。彼女の必死な様子を見て、深雪はただただ滑稽に感じた。深雪は今、傷だらけでここに座っているのに、芽衣はまるで彼女の傷が見えないかのように振る舞った。まるですべてが深雪自身が仕組んだ芝居のように扱
静雄は小切手をさっと取り戻し、冷たく鼻で笑うと、そのまま背を向けて立ち去った。彼が今日ここに来たのは、この女に最後のチャンスを与えるためだったが、まさか彼女がこんなにも図々しい態度をとるとは思っていなかった。そうなれば、もう遠慮する必要もないのだ。松原グループに戻ると、静雄は全面的な反撃を開始した。これまで長年松原グループを掌握してきたのは、松原家の血筋だけでなく、自身の実力もあるからだった。敵の要を突くことの重要性を、彼は十分に理解していた。今、深雪がこれほど強気なのは延浩が原因だ。だから、狙いは延浩に絞った。やがて延浩の顧客の数名が離れていき、彼は苦境に立たされ
深雪は本当に、静雄がここまで厚かましいとは思ってもみなかった。今や事態はここまで進んでいるのに、彼は正々堂々とこうして自分の前で話すなんて信じられなかった。深雪は彼を真っ直ぐに見つめた。これほど直接的に彼を見たのは何年ぶりだろう。以前は彼の前ではいつも卑屈な態度をとっていたが、今はもうそんな腰を屈めるのはやめようと思った。彼女は深く息を吸い込み、冷静に話し始めた。「松原、私はもうあなたのことが好きじゃないの。これからはあなたのことも要らない。今はただ離婚したい、自分のものを取り戻したいだけよ。寧々は女の子で、体も弱い。あなたたちはそんな子が好きじゃないんでしょう
寧々の写真を見つめながら、深雪の胸の痛みは少しも和らぐことがなかった。彼女は深く息を吸い、小声で言った。「寧々、あっという間にもうすぐ一か月になるのよ。どうしてそんなに冷たいの?ママに会いに来ないの?あの世は楽しい?おじいちゃんとおばあちゃんに会えた?大好きなりんご飴はある?」話しているうちに、深雪の涙は止まらなくなった。彼女は力いっぱい涙を拭い、笑いながら言った。「寧々、天国からママが見えてる?ママはちゃんといい子にしてて、毎日ちゃんと暮らしてるよ!寧々、ママはすごく会いたいよ。夜は夢に来てね。元気にしてるか知りたいの」我慢すればするほど、深雪の涙はどんどん増えていき