FAZER LOGIN4
お姫様抱っこで運ばれたのは、最上階のスイートルーム。 とても広く……ロマンティックな部屋だった。 カーテンのない全面窓から、バルセロナの夜景が一望できる。 こんなところに、宿泊してるなんて……一体彼は何者なんだろう。 「あのっ。本当に、大丈夫ですから……下ろしてください」 彼の首筋に縋りながら、私は早口でそう告げた。 「馬鹿……他人のことなら擦り傷一つで涙目になってたくせに」 「だって、血が……」 「だから、自分のことを心配しろって言ってんの」 ソファに下ろされると思いきや、彼は素通りすると、奥にある重厚なドアを開けた。 キングサイズのベッドが目に入り、心臓が激しく波打つ。 「あ、あ、あ、あ、あのっ」 彼の香りが濃くなった気がする。獣のような……。 ドキッとした。 「私、そんなつもりじゃ……」 今更ながらに慌てた私は彼の腕の中で身じろぎした。 彼は、ベッドに膝を乗り上げて、そっと私を仰向けに横たえる。 逃れようとして、頭の中に鋭い痛みを覚え、また私は動けなくなる。 背中がマットにつくと同時に、黒い影が私の上に覆いかぶさる。 (どうしよう……私……このまま……?) ドキドキが止まらない。 彼の端正な顔が近づいてきて……。 逃げなきゃと思うのに、体が全然動かなかった。 彼の香りが鼻腔を満たし、私はギュッと目を閉じた。 後頭部に、何かが差し込まれる。 「よし」 妙に落ち着いた声。 目を開けると、彼がベッドから片足を下ろしたところだった。 (枕を……調節してくれただけ……!?) 頬が一気に赤らむのを感じる。 (キス……されるのかと思っちゃった…………!) 「じっとしてろ」 彼は厳しい顔でそう言うと、部屋から出ていった。 (まだ……安心できないわ……) 今私はスイートルームのダブルベッドに横たわっている。 逃げなきゃと思うのに、体が緊張で動けない。 やがて、彼がコップを載せたトレイを運んで戻ってきた。 彼はもう一度枕を調節すると、私の口にコップを近づけ、水を飲ませてくれた。 「……ありがとうございます……」 手慣れた様子に爆発しそうだった心臓が落ち着きを取り戻す。 「……悪かったな」 地を這うような低音で言うと、彼は項垂れた。 「俺が誘ったせいで、こんな……迎えに行くべきだった」 彼は申し訳なさそうに顔を歪める。 「今夜はここにいろ。朝になったら部屋まで送ってやる」 心の底から、心配してくれているのがわかる。 私なんかに。 泉の蓋が開いたように……感情が込み上げてくる。 「優しいんですね……」 私はつい、彼の頭に手をのばし、その頭をそっと撫でた。 「……は?」 彼は顔を上げ、心底呆れたような顔で私を見た。 「……っと、なんだ、この手は」 よしよしを続けている私をじっと見つめる。 「……落ち込んでるから……慰めようかと……私なんかのために……」 ポカン、と彼の口が開く。 そして、ふっと笑った。 「……もっと怒ってもいいんだがな。俺にも、あの男にも」 「え……?」 「傷つけられたのに、誰かの傷を気にする……君のような人間は初めてだ」 とくん、と心臓が甘くときめく。 私も初めて……。 そんな事言われたの……。 私は彼の腕を引き寄せた。 「あの……私……」 自分でも……何故そんな態度をとってしまったのかわからない。 でも……彼の手を離せない。 「ごめんなさい。嘘つきました……さっき……下心はない、なんて」 きっとトマトみたいに赤くなった顔で……私は彼をまっすぐに見る。 「……酔ってるな」 くぐもった声。私は首を左右に振った。 「……一杯だけです……」 「薬が……」 「もう抜けてます」 本当は見つめるだけで心臓が破裂しそうだった。でも、ぐっと堪えて瞳で訴える。 引いちゃ駄目だ。そう思った。 「なんて顔だ……」 くぐもった声。 半開きになった私の唇に、生温かいものが触れ、それが、彼の唇だと気づくのに数秒かかった。 「え?」 「え、じゃないだろ」 彼は素早い動きでシャツを脱ぐと、私の上に覆いかぶさってきた。 「あ、あのっ」 私は思わず逃げをうつ。 「おいこら待て」 たちまち両手首を握られて強い力でシーツの上に縫い留められる。 「……瞳が揺れてる……不安なんだな」 彼の目が優しげに細められる。 「……駄目だ。可愛い」 長い夜が始まった。 朝方3時に目がさめた。 下半身に残る鈍い痛み……。 寝息にハッとして横を見ると、彼は私の隣りで、綺麗な寝顔を晒していた。 最高の夜だった。 こんなに丁寧に抱かれたことは一度もない。 目を閉じると、彼の指の動きや、唇の感触……様々な事が脳裏に浮かぶ。 幸せな……甘く切ない数時間。 きっとまた、落ち込む日々はあるだろうけど、その度にこの夜を思い出そう。前を向いて歩いていこう。 背筋を伸ばす。 ゼロだった自信が……満ちていく。 これから少しずつ増やしていこう。 寝ている間中、私の頭を支えてくれていた彼の逞しい左腕。 その拳に、私は持っていた絆創膏を貼った。 守ってくれて負った傷。その傷が、とても愛おしくて……。 ベッドからおりると衣服を着替え、持っているだけのお金をサイドテーブルにのせた。 彼にもらったものは、プライスレス。 だからこそ、対価を払いたかった。 ゴミ女と言われた私に惜しみなくくれた、優しさと温もりに感謝をこめて。 日本に帰国すると、私は即アパートを借りた。 有給休暇はあと3週間。会社には達也と直美がいる。 (退職するしかないのだろうか) 一部上場企業とはいえ、リゾート会社の経理を3年という微妙なキャリアだ。転職できたとしても確実に待遇は下がるだろう。 (駄目よ。浮気をされた側が、損をするなんて……絶対に) スペインで出会った、名前も知らない彼を思い出す。 彼ならきっと、真正面から問題と立ち向かい、突破してしまうのだろう。 (……自信を持たなきゃ。たとえ嘘でも) 背筋を伸ばした瞬間、 「うっ」 吐き気がした。 トイレに駆け込みすっきりした後、もしや、という疑惑が頭をよぎり……。 訪れた産婦人科で妊娠を告げられた。 (彼の子だ……) 名前も知らない、彫刻のように美しい男の顔と、その声が、頭の中をぐるぐると回り始めた。「おはようございます。長い間、休んでしまって申し訳ありませんでした」 頭を下げる私に、どこか周りはよそよそしい。 (迷惑をかけたから仕方ない) そう思おうとしたけれど、何かが変だ。急だったとはいえ、休暇は許されているし、うちはメンタルの不調による休職にも寛大な会社だ。なんと失恋休暇まで設けられているほどなのだ。理由は人事部への呼び出しで判明した。 「実は、君にハラスメントの申告がでてる。しばらくはメインの仕事を離れてもらうよ」私は両目を見開いた。「そんな……一体誰が……」「本人の許可をもらってるから言っておこう。営業部の白石達也くんだ。つきあっているんだろう?」「……達也……あ、いえ、白石さんが?」「一週間前から会社を休んで心療内科に通ってる。君からメッセージ一本で振られて傷ついたそうだ。それだけじゃなく日常的に暴言もあったんだろ? 実際やつれているからね」そんな……!わなわなと全身が怒りに震える。「言いがかりです」「まあ、やってる方は無自覚って場合が多いからね」なんということだろう。私は確実に疑われている。ただ生真面目に生きてきた。達也と比べれば、確実に私が信用されていると思っていた。甘かった。「とにかく一度話し合ってみるように」釈然としないまま部屋を出る。ゴミ女呼ばわりする彼が、私に未練があるとは思えない。このまま私がフェードアウトしたら、邪魔者がいなくなって大喜びのはずなのに……。達也の気持ちがわからない。「ゆーり」 と、誰かに背中を思いっきり押された。よろめいたが、転ぶ前にブレーキをかけ、思わずお腹をおさえながら視線を向けると、そこにはいたずらっぽい笑みを浮かべた直美がいた。(……この嘘つき。よくも平然と私の前に出てこれたわね……!)怒りに全身の血が沸騰する。直美はくねくねしながら私を上目使いに見た。 「ねえ。どこに行ってたの? メッセージ、ブロックするなんて、私、何か悪いことした?」私はマジマジと彼女を見た。白々しすぎて吐きそうだった。「失礼します」わざと丁寧な口調で言う。直美の表情が一瞬で変わった。「もしかして、本気で怒ってんの? なあぜ?」「自分の胸に聞いてみれば? 心当たりがあるはずよ」そう言って彼女の傍らをすり抜ける。「待ちなさいよ!」強い口調で呼び止められた。振
4お姫様抱っこで運ばれたのは、最上階のスイートルーム。とても広く……ロマンティックな部屋だった。カーテンのない全面窓から、バルセロナの夜景が一望できる。こんなところに、宿泊してるなんて……一体彼は何者なんだろう。「あのっ。本当に、大丈夫ですから……下ろしてください」彼の首筋に縋りながら、私は早口でそう告げた。「馬鹿……他人のことなら擦り傷一つで涙目になってたくせに」「だって、血が……」「だから、自分のことを心配しろって言ってんの」ソファに下ろされると思いきや、彼は素通りすると、奥にある重厚なドアを開けた。キングサイズのベッドが目に入り、心臓が激しく波打つ。「あ、あ、あ、あ、あのっ」彼の香りが濃くなった気がする。獣のような……。ドキッとした。「私、そんなつもりじゃ……」今更ながらに慌てた私は彼の腕の中で身じろぎした。彼は、ベッドに膝を乗り上げて、そっと私を仰向けに横たえる。逃れようとして、頭の中に鋭い痛みを覚え、また私は動けなくなる。背中がマットにつくと同時に、黒い影が私の上に覆いかぶさる。(どうしよう……私……このまま……?)ドキドキが止まらない。彼の端正な顔が近づいてきて……。逃げなきゃと思うのに、体が全然動かなかった。彼の香りが鼻腔を満たし、私はギュッと目を閉じた。後頭部に、何かが差し込まれる。「よし」妙に落ち着いた声。目を開けると、彼がベッドから片足を下ろしたところだった。(枕を……調節してくれただけ……!?)頬が一気に赤らむのを感じる。(キス……されるのかと思っちゃった…………!)「じっとしてろ」彼は厳しい顔でそう言うと、部屋から出ていった。(まだ……安心できないわ……)今私はスイートルームのダブルベッドに横たわっている。逃げなきゃと思うのに、体が緊張で動けない。やがて、彼がコップを載せたトレイを運んで戻ってきた。彼はもう一度枕を調節すると、私の口にコップを近づけ、水を飲ませてくれた。「……ありがとうございます……」手慣れた様子に爆発しそうだった心臓が落ち着きを取り戻す。「……悪かったな」地を這うような低音で言うと、彼は項垂れた。「俺が誘ったせいで、こんな……迎えに行くべきだった」彼は申し訳なさそうに顔を歪める。「今夜はここにいろ。朝になったら部屋まで送ってやる」心
誘われた……。名前も知らない、美しい人に。それからの私は、明日のことしか考えられなくて、いても立ってもいられず、ブティックをはしごして、バーで着る洋服を調達した。スペインらしいデザインや、大胆なデザインのドレスなど、色々試着した挙句、結局いつも着ているような清楚なワンピースを購入する。そして翌日。眼鏡をはずし、いつもはまとめている髪を下ろす。ただそれだけで、戦場で鎧を脱いだような心細さを覚えるけれど……。(変わっていたい……少しでも……)私はそっと背筋を伸ばした。少し早くバーについてしまった私は、あちこちから投げられるどこか熱い視線に、戸惑っていた。自意識過剰かもしれないけれど、背筋を伸ばすだけで印象が変わるのは本当なのかも。「ヘイ。一人? 一緒に飲まない?」30歳くらいの外国人男性が笑顔で話しかけてきた。「あ、連れがいます」と言った瞬間、厚かましかったかな、と反省する。名前も知らない人を連れだなんて……。バルセロナの熱気が私を少し大胆にさせているのかも。「だよね。君みたいな美しい人が一人なんて有り得ない」褒め言葉に、私は頬を赤らめる。地味なワンピースだけど……自分には合ってるのかも。あの人の目にも、少しは綺麗に……映るといいな……。胸が高鳴る。「一杯だけ、どう? 旅の記念に」時計を見る。待ち合わせまでまだ30分以上時間がある。つまり、あと30分で彼が目の前に……。ドキドキが止まらなくなり、私は緊張を紛らわせようと頷いた。「じゃあ、一杯だけ……」それが大きな間違いだった。生まれてはじめて酔ってしまった。たった一杯のカクテルに。 「……すいません……ちょっと……お手洗いに……」ふらつきながら立ち上がる。しばらくしてお手洗いから出ると、さっきの男が待っていた。「大丈夫?」顔を近づけてくる。駄目だ。男のつけている香水に気分がさらに悪くなる。「すみません。少し……離れて……」そう言うと、腕をがっちりと握り込まれた。「部屋で休もう」そんな。とんでもない。「いえ……」身じろぎしたが、男の身体はびくともしない。笑顔でホールドされていて、そのままズルズルとどこかへ引っ張られる。「助け……」か細い悲鳴は乱暴にあてがわれた手のひらに吸い込まれる。恐怖が這い上がってきた。この人……やばい……。「ほ
28月のスペイン。燃えるように熱く、そして、情熱的な……日本とはまるで違う国。嫌な記憶を捨て去るように、足がくたくたになるほどあちこち回った。念願のサクラダファミリアには圧倒された。無駄の塊なんて、とんでもなかった。私は大きなものが好きだ。自然でも生き物でも、建物でも。自分があまりにもちっぽけだから、逆に心惹かれるのだろう。(来て良かった)そう思う。 一通り観光を終えた私は駅前公園のベンチに腰掛けた。近くには大道芸人がいて、超絶テクニックのジャグリングを繰り出している。私の拍手に頭を下げる大道芸人。帽子に5ユーロ札を投げ込む。笑顔のサムズアップが返ってきた。日本だったら、私は極度の恥ずかしがりやで、見知らぬ芸人とコミュニケーションなんて絶対に出来ない。変わらなきゃ……。これからは、強引に引っ張ってくれる人も、背中をおしてくれる人もいないのだから。と、背後で、誰かが笑う声がした。振り向くと目が合う。若い男女が、大道芸人を指差して、鼻をつまんでいた。(どういうこと?)彼らは私の前に回り込むと、小馬鹿にした様子で、帽子に何かを入れた。そして、ケラケラと顔を見合わせて笑ったのだ。その乾いた音が達也たちのそれと重なり、私は帽子を覗き込む。そして……ガムの食べかすを見つけた。 (なっ……) 大道芸人は悲しげに肩をすくめている。その姿が、ごみ処理女と言われてしまった自分と重なり胸がいたんだ。(わざわざ侮辱する意味がわからない…………この人は……きっと誰かを喜ばせたくて……芸を披露しているだけなのに……)私だって……。ただ、真面目に生きていただけなのに……。いつしか私は拳をぎゅっと握りしめていた。「あの!」私は立ち上がり、無法者を呼び止めた。振り向かない。追いかけようとした時、目の前に誰かが現れて……私は思わずつんのめる。「あっ。すみません……」ぶつかりそうになったのを謝ろうとして、まじまじとその背中を見つめた私は、その広くて逞しい背中にはっとした。(……大きい……!)多分、180センチは超えてそうな……だけどスリムなその男性に、何故だか釘付けになってしまう。その人は腰をかがめ、帽子からゴミを拾うと、たたっと無法者たちを追いかける。「落とし物だよ」英語だった。無法者カップルたちは気づかない。男
「おめでたですね」 医師がモニターを指差しながら告げた言葉に、私は内診台の上で凍りついた。 (赤ちゃんが……? 嘘でしょう) 一瞬の戸惑いの後、電光石火のようにスペインの生あたたかい空気が蘇る。灼熱の夜。シーツが汗でぐっしょりになるほど、熱く激しく抱き合った。まるでギリシャ神話に出てくるアポロンのように彫りの深い美貌が脳裏をよぎり、心臓が甘い音をたてた。私は本当に愚かな女だ。名前も、住んでいる場所も、何も知らない相手なのに。まるで、愛する人を思い出したみたいに、ときめくなんて。「おめでとうございます」看護師の笑みは柔らかく、私はそっとまだ平らなお腹に手をあてた。命が、今、ここにある。特別な夜の忘れられない輝きが、否応なしに私の心を震わせて……。私は「ありがとうございます」と小声で答えた。 ◆ あれは二ヶ月ほど前のこと。出張先の業務が思いの外早く終わり、私は恋人、白石達也の待つアパートに一日早く帰宅した。驚かせようと、玄関ドアをそーっと開ける。赤いハイヒールが目に入った。(あれ? こんな靴、持ってたっけ)一瞬そう思った私は、本当に鈍感だったと後から思う。ベッドルームから、女性の嬌声が聞こえてきて、やっと私は気がついた。恋人の留守中に浮気相手を部屋に引っ張り込む。そんなドラマみたいなことが、己の身に降り掛かっているのだ、と。不安をかきわけるようにして廊下を進む。ベッドルームのドアは大きく開かれていたが、直視する勇気を持てず、部屋の前で立ち尽くした。これは、夢だ。悪夢を見ているんだ。私は自分にそう言い聞かせた。一言、今から帰るとメッセージを送っておけば、こんな場面には出会わなかった。最近、あまり……してなかったから……きっと、彼も魔が差して……。甘い言い訳に逃げ込みそうになった私を、睦言が現実へと引き戻す。「……ねえ、いいでしょ。私……百合とは全然違うでしょ」「当たり前……っ。あいつ、女としては終わってるから」吐息と嬌声、ベッドの軋む音、そして……小馬鹿にしたようなクスクス笑い。え……?スマホカメラを立ち上げて、恐る恐る中を覗いた私の前に、衝撃的な場面が飛び込んできた。仰向けになった達也の体に馬乗りになり、のけぞっている、アッシュピンクの巻き髪姿。|田中直美《たなかな







