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last update publish date: 2026-08-24 15:58:18

誘われた……。

名前も知らない、美しい人に。

それからの私は、明日のことしか考えられなくて、いても立ってもいられず、ブティックをはしごして、バーで着る洋服を調達した。

スペインらしいデザインや、大胆なデザインのドレスなど、色々試着した挙句、結局いつも着ているような清楚なワンピースを購入する。

そして翌日。

眼鏡をはずし、いつもはまとめている髪を下ろす。

ただそれだけで、戦場で鎧を脱いだような心細さを覚えるけれど……。

(変わっていたい……少しでも……)

私はそっと背筋を伸ばした。

少し早くバーについてしまった私は、あちこちから投げられるどこか熱い視線に、戸惑っていた。

自意識過剰かもしれないけれど、背筋を伸ばすだけで印象が変わるのは本当なのかも。

「ヘイ。一人? 一緒に飲まない?」

30歳くらいの外国人男性が笑顔で話しかけてきた。

「あ、連れがいます」

と言った瞬間、厚かましかったかな、と反省する。

名前も知らない人を連れだなんて……。バルセロナの熱気が私を少し大胆にさせているのかも。

「だよね。君みたいな美しい人が一人なんて有り得ない」

褒め言葉に、私は頬を赤らめる。

地味なワンピースだけど……自分には合ってるのかも。

あの人の目にも、少しは綺麗に……映るといいな……。

胸が高鳴る。

「一杯だけ、どう? 旅の記念に」

時計を見る。待ち合わせまでまだ30分以上時間がある。

つまり、あと30分で彼が目の前に……。

ドキドキが止まらなくなり、私は緊張を紛らわせようと頷いた。

「じゃあ、一杯だけ……」

それが大きな間違いだった。

生まれてはじめて酔ってしまった。

たった一杯のカクテルに。

 「……すいません……ちょっと……お手洗いに……」

ふらつきながら立ち上がる。

しばらくしてお手洗いから出ると、さっきの男が待っていた。

「大丈夫?」

顔を近づけてくる。駄目だ。男のつけている香水に気分がさらに悪くなる。

「すみません。少し……離れて……」

そう言うと、腕をがっちりと握り込まれた。

「部屋で休もう」

そんな。

とんでもない。

「いえ……」

身じろぎしたが、男の身体はびくともしない。笑顔でホールドされていて、そのままズルズルとどこかへ引っ張られる。

「助け……」

か細い悲鳴は乱暴にあてがわれた手のひらに吸い込まれる。

恐怖が這い上がってきた。

この人……やばい……。

「ほんとうはその気なんでしょ? 隠さなくてもいいんだよ? だって、君、隙だらけだよ?」

下卑た声に震え上がる。

(嘘でしょ。やだ。離して……!)

隙を見せるなと言われたばかりなのに、私って、なんて馬鹿なの……!

 

と、男性の身体が、一瞬で私から引き剥がされた。

ダン、という音が鼓膜に響き、次の瞬間、私は別な男に手を引かれ、背中の後ろへと導かれていた。

さっきの男は突き飛ばされたらしく、壁にぶつかり怒りに顔を赤くしている。

「……何すんだ、お前!」

ナンパ男は、私の前にいる男を睨んでいる。

私もまじまじとその後ろ姿を見た。

逞しい背中が、私とナンパ男の防波堤になっている。

あの人だ。

……良かった……。

怖かった。足が震えて座り込んでしまいそうで……壁に背中をつけて息を整える。

殴りかかろうとする男を避けながら、彼はくぐもった声で言った。

「お前、グラスに薬入れてないか?」

「……!」

「警察に突き出してもいいんだぞ。大事にしたくなければ、とっとと失せろ」

「くっ」

ナンパ男はバタバタと逃げていく。

「……ふう」

大きくため息をつくと、男性は振り向いた。

彼にとっても、大きな危険を乗り越えたのだ、とその重い溜息に思い知る。

彫刻のように丹精な美貌が、緊張に強張っている。

楽しい再会になるはずだったのに……。

「大丈夫か?」

悲痛にも聞こえる声にビクッと肩が揺れる。

はあはあ、と呼吸を刻み、やっと恐怖が遠ざかる。

代わりにいたたまれないほどの罪悪感が胸を満たした。

「ごめんなさい……っ」

私は震えながらそう言った。

「え……?」

「また……迷惑をかけてしまって……」

「馬鹿。そんなことより、君だろ」

「私なら……大丈夫……ちょっとだけ……びっくりしただけで……あ……」

私は、彼の拳から血が出ているのに気がついた。

「……怪我……」

「あ、ああ。さっき壁にぶつけたんだな」

彼は、なんてことない、という風に傷跡をぺろりと舐めた。

「手当て……させてください。私の部屋、近くなんです」

私は思わずそう言って、唇に拳を近づけたまま硬直している彼の様子にハッとした。

この反応は……どういう……?

私、何か、間違えた?

「部屋、ね」

彼は少し気まずそうにそうつぶやく。

女性に見惚れられるのがデフォルトの彼を、理由があるとはいえ個室に誘ってしまった。

(いけないっ……!)

……私は慌てた。

「あ、すみません。あの、その他意はなくて……下心で誘ったとか、そういうのじゃ……」

「……下心」

もう、彼はまじまじと、珍しい生き物を見るような目で私を凝視している。

……完璧に呆れているのだ。これ以上喋ると墓穴を掘りそう。

「……ごめんなさい……もう帰ります……」

しょんぼりと肩を落とし、入り口ドアに向かう私の腕が、強い力でつかまれた。

「待て」

「え……?」

「……足がふらついてる。歩けないだろ」

「そんな……大丈夫……あっ」

とん、と私は彼の胸の中へ倒れ込む。

「ほらな。薬がきいてるんだよ」

彼はそう言うと、ひょいと私を担ぎ上げる。

「……!? あっ……」

お姫様抱っこの姿で、私はたくましい腕の中にすっぽりと収まっていた。

「俺の部屋、ここの最上階」

「……!」

私は両目を大きく見開き彼を見た。

「……ケアが必要なのは俺じゃない。君だよ」

彼は、どこか優しい口調でそう言った。

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