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サヨナラは音もなく

サヨナラは音もなく

By:  涼木Kumpleto
Language: Japanese
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生理予定日の前日。高校教師として働く私、伊藤栞(いとう しおり)は、婚約者で同僚でもある森山裕紀(もりやま ひろき)のスマホをふと目にしたとき、メモ帳アプリの画面にこんな一文が表示されているのを見つけた。 【明日は予定日。あらかじめバッグにナプキンと鎮痛剤を入れておくこと】 なんて気が利く人なんだろう。裕紀のさりげない優しさに触れて、思わず頬が緩んだ。 ところが翌日。下腹部を重い痛みが襲い、顔面蒼白で自分のバッグを探ったものの、そこには何も入っていなかった。 経血はスカートを赤黒く染め、教室では生徒たちに後ろ姿を指差されてクスクス笑われる始末。 きっと、裕紀は忙しくて入れ忘れただけ。そう思っていたのに―― 新しく赴任してきた教育実習生、望月あかり(もちづき あかり)のSNS投稿を見て、すっと血の気が引いた。 【働き始めて早々、神みたいな指導教官に当たっちゃった!な、なんと、私のためにナプキンと痛み止めを用意してくれたの!おかげで今回の生理はぜんぜん辛くないよー♡】 添えられていた写真は、一錠の鎮痛剤とナプキン、そして温かいジンジャーティーが入ったタンブラー。 写真に写っていた薬は、重い生理痛に悩む私が常に家にストックしているもの。ナプキンだって、肌が弱い私でもかぶれない、決まったメーカーの製品だった。 スマホの画面を閉じ、左手の薬指で光る婚約指輪をしばらく見つめる。 やがてゆっくりと立ち上がると、私は校長室へ向かい、海外の教育研修プログラムへの参加を申し出た。 付き合って7年。裕紀は、結局一度も私の生理周期を覚えてはくれなかった。 ――でも、もう大丈夫。これからは、覚えてもらう必要なんてないから。

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第1話
生理予定日の前日。高校教師として働く私、伊藤栞(いとう しおり)は、婚約者で同僚でもある森山裕紀(もりやま ひろき)のスマホをふと目にしたとき、メモ帳アプリの画面にこんな一文が表示されているのを見つけた。【明日は予定日。あらかじめバッグにナプキンと鎮痛剤を入れておくこと】なんて気が利く人なんだろう。裕紀のさりげない優しさに触れて、思わず頬が緩んだ。ところが翌日。下腹部を重い痛みが襲い、顔面蒼白で自分のバッグを探ったものの、そこには何も入っていなかった。経血はスカートを赤黒く染め、教室では生徒たちに後ろ姿を指差されてクスクス笑われる始末。きっと、裕紀は忙しくて入れ忘れただけ。そう思っていたのに――新しく赴任してきた教育実習生、望月あかり(もちづき あかり)のSNS投稿を見て、すっと血の気が引いた。【働き始めて早々、神みたいな指導教官に当たっちゃった!な、なんと、私のためにナプキンと痛み止めを用意してくれたの!おかげで今回の生理はぜんぜん辛くないよー♡】添えられていた写真は、一錠の鎮痛剤とナプキン、そして温かいジンジャーティーが入ったタンブラー。写真に写っていた薬は、重い生理痛に悩む私が常に家にストックしているもの。ナプキンだって、肌が弱い私でもかぶれない、決まったメーカーの製品だった。スマホの画面を閉じ、左手の薬指で光る婚約指輪をしばらく見つめる。やがてゆっくりと立ち上がると、私は校長室へ向かい、海外の教育研修プログラムへの参加を申し出た。付き合って7年。裕紀は、結局一度も私の生理周期を覚えてはくれなかった。――でも、もう大丈夫。これからは、覚えてもらう必要なんてないから。……プログラムへの参加申請書を提出したタイミングで、ちょうど放課後のチャイムが校内に鳴り響いた。校長は気まずそうにちらちらとこちらの顔を窺っていたが、ついにこらえきれなくなったのか口を開いた。「伊藤先生、森山先生とは来月お式だったわよね。ついこの間も招待状のデザインを考えていたのに、どうして急に……」校長が何を言いたいのかは、痛いほどわかっていた。海外の研修へ行けば、最短でも3年は帰国できない。結婚を控えたカップルが、そんな長期間の遠距離生活に耐えられるはずがないのだ。おまけに、私が長年裕紀の背中を追いかけ回し、7年もの
Magbasa pa
第2話
「いつまで突っ立ってるんだよ。早く乗れよ」その声でハッと我に返った。そういえば、スカートの後ろにはまだ大きな血のシミが残っている。タクシーのシートを汚すわけにはいかないと思い直し、私は助手席のドアを開けた。シートに腰を下ろそうとした瞬間、裕紀がちらりとこちらを一瞥し、黒いビニール袋を突き出してきた。「ちょっと待て。それに敷いてから座れ」袋を受け取ったものの、何のことか分からず固まっていると、裕紀はハンドルに手をかけたまま、呆れたようなため息をついた。「予定日が近いって分かってるなら、ナプキンくらい常備しとけよ。栞、お前もう28のいい大人だろ?少しは自分のことくらい自分で管理できないのか」そこでようやく、袋の中身がナプキンなのだと理解した。同時に、彼の容赦ない言葉が胸に突き刺さる。「血まみれの姿で一日中校内を歩き回るなんて。生徒たちから『伊藤先生、どこか悪いんですか』って聞かれて、こっちまで恥ずかしくてたまらなかったよ」――恥ずかしい、か。冷たいその言葉に、鼻先で再び、鉄錆のような血の匂いが蘇る気がした。本当は自分で用意するはずだったのだ。けれど、裕紀のスマホに残されたあのメモ書きを見てしまったから。7年付き合って、ようやく私のことを気にかけてくれるようになったのだと、浮かれて忘れてしまっただけ。結局のところ、裕紀が心から気遣っていたのは、私ではなかったというのに。袋を開けると、ピンク色のパッケージのナプキンがぽつんと一つ入っていた。表面にはうっすらと埃を被っており、どこか寂れた売店で適当に買った売れ残りだと一目でわかる。「持ってないなら他の奴に借りるなりすればいいだろ。いつまでも学校に引きこもって、おかげでこっちは1時間も待たされたんだぞ。早く着替えてこいよ。シートを汚されたくないからな」裕紀はまだ何かをくどくどと文句を言い続けていたが、その形の良い薄い唇が動くのを見ているだけで、ただひたすらに疲労感だけが募っていく。袋を閉じ、私は力なく口を開いた。「裕紀、私このメーカーのは使えないの」正確に言えば、市販されている一般的なナプキンは全滅だ。裏面についている粘着テープの糊に重度のアレルギーがあり、普段から少し触れただけでも肌が赤く腫れ上がってしまう。ましてや、一番デリケートな時期に、そんな
Magbasa pa
第3話
「こんな時間にタクシーなんて危ないだろ。もういい、明日洗車に行けば済むことだ」またこれだ。突き放すような冷たさと、過保護なほどの優しさ。私はシートベルトをぎゅっと握りしめた。喉の奥が詰まったように苦しい。気を紛らわせるようにスマホを取り出し、すでに予約を済ませていたウェディングフォトのスタジオにメッセージを送った。【お世話になっております。来週予定していたウェディングフォトの撮影をキャンセルしたいのですが、手続きはどうすればよいでしょうか】画面の向こうの担当者は、「入力中…」の表示を何度も出したり消したりを繰り返し、やがてためらいがちに返信をしてきた。【伊藤様、三日前にウェディングフォトのプランからペアのバースデーフォトへ変更の申し出がありまして、森山様のご希望で撮影もすでに前倒しで済んでおります。レタッチ済みのデータも今夜には仕上がる予定ですが……】【森山様から何も聞いていらっしゃらないのでしょうか?】その一文を目にした瞬間、全身の血の気がスッと引いていくのが分かった。画面の上に浮かせた指先が、小刻みに震えていることに気づく。スマホを取り落とさないよう、空いている方の手で自分の手首を強く押さえつけた。ゆっくりと顔を上げ、隣に座る裕紀を横目で見やる。彼は前を向いたまま、何事もなかったかのようにいつも通りの横顔でハンドルを握っていた。視線に気づいたのか、裕紀が顔を向け、少し刺々しい声を出した。「なんだよ。ちょっと文句言われたくらいで拗ねてんのか?」私は何も答えず、震えが収まった両手でゆっくりと文字を打ち込んだ。【その写真、私にも見せていただけますか?】担当者は再び何度か「入力中…」の表示を繰り返した後、数枚の写真と、十秒ほどの短い動画ファイルを送ってきた。【その際、森山様から「絶対にトラブルにはならない」と強く保証していただいたため、プラン変更と撮影の前倒しを承りました。伊藤様、どうか私どもを責めないでいただきたいのですが……】担当者がその後に送ってきた言い訳など、もうどうでもよかった。送られてきた画像をタップすると、見覚えのある顔が目に飛び込んできて、目の奥が焼けるように痛んだ。写っていたのは、望月あかり。学校に新しく来た教育実習生であり、裕紀がナプキンと鎮痛剤を差し入れた相手だ。写真は
Magbasa pa
第4話
結婚式まで日がなかったから、特急料金を払って無理やりスケジュールをねじ込んでもらい、レタッチも急ぎでお願いした。それほどまでに私が心を砕き、苦労して手配した撮影枠を、裕紀は私に内緒で、あろうことか他の女にプレゼントしていたのだ。あれほど「写真が嫌い」だと言っていたくせに、あかりのためには5パターンもの撮影に文句一つ言わず付き合ったらしい。彼が写真を嫌いだったのか、それとも「私と」写真を撮るのが嫌だったのか。今の私には、もう区別がつかなかった。軽い衝撃とともに車が止まり、地下駐車場に到着した。スマホの画面であかりのSNSを開くと、案の定、新しい写真がアップされていた。ご丁寧に、裕紀の顔にはスタンプでモザイクがかけられている。【じゃーん!今年の誕生日プレゼント第1弾は、前倒しで撮ってもらった素敵な写真!誰かさん、ありがとう♡】車から降りた裕紀が、スマホを取り出していじるのが見えた。次の瞬間、あかりの投稿に裕紀からの「いいね」がついた。画面に光る小さなハートマークを見て、私は思わず乾いた笑い声を漏らした。私の投稿に、彼が自ら「いいね」を押してくれたことなんて、一度もなかったというのに。「家に着いたぞ。いつまで車に座ってるつもりだ?」私が動かないのを見て、外に出た裕紀が助手席の窓ガラスをコンコンと叩いた。窓ガラス越しに彼を見つめ、私は唐突に口を開いた。「望月さんと写真を撮りに行ったなら、いっそ私が予約したウェディングフォトのプランで撮ればよかったのに。どうせなら、ドレスとタキシードのほうがお似合いだったんじゃない?」裕紀の顔がサッと強張った。次の瞬間、不機嫌そうに眉間に深いしわを寄せる。「栞、お前急に何狂ったこと言ってんだよ」「私が苦労して手配したウェディングフォトの枠を勝手にキャンセルして、他の女とバースデーフォトを撮っておいて、何が狂ってるって? 狂ってるのは裕紀のほうでしょ!」声を荒らげないように耐えようとしたのに、結局は悲鳴のような声で自分の惨めさをぶちまけていた。私は裕紀を強く睨みつけ、どんな言い訳をするのか答えを待った。しかし、返ってきたのは心底面倒くさそうな舌打ちだった。「あかりはまだ新卒で、こっちに引っ越してきたばかりだから誕生日を祝ってくれる友達もいないんだよ。俺はあいつの指導教官
Magbasa pa
第5話
画面を埋め尽くしている不在着信の通知は、どれもこれもすべて裕紀からのものだった。メッセージアプリにも何十件もの未読が溜まっている。プレビュー画面から見える文面は、最初は苛立ち交じりの問い詰めから始まり、次第に焦りと哀願へと変わっていた。私はそれらにサッと目を通しただけで、メッセージを一つも開くことなく、そのまま裕紀の番号を着信拒否に設定した。メッセージアプリやSNSなど、私に連絡が取れるあらゆる手段をすべてブロックし、連絡先ごと消去する。到着ロビーの出口では、研修プログラムの現地コーディネーターがすでに待機していた。彼は私にスケジュールの資料と現地のSIMカードを手渡し、笑顔で労ってくれた。「伊藤先生、長旅お疲れ様でした。まずは滞在先へ向かってゆっくり休んでください。本格的な研修は明日からスタートになりますので」「ありがとうございます」資料を受け取り、軽く会釈をしてから、一行と共に滞在先へと向かった。見知らぬ匂いが混じる異国の風が頬を撫でる。その風に吹かれていると、昨日からずっと張り詰めていた神経が、不思議とゆっくり解けていくのを感じた。あてがわれた滞在先は学校側が用意したアパートメントで、室内は清潔に整頓されていた。窓を押し開けると、遠くに豊かな緑の風景が広がっている。部屋に足を踏み入れ、スーツケースを広げる。私が真っ先にしたことは、国内から持ち込んだ自分用のナプキンと鎮痛剤を取り出し、棚へ綺麗に並べることだった。今の私にとって、これだけが唯一の安心感を与えてくれるお守りなのだ。荷解きを終えて一息ついた直後、スマホが唐突に震えだした。画面に表示されたのは見知らぬ電話番号だ。一瞬ためらったものの、通話ボタンをスワイプして耳に当てる。すると、スピーカーの向こうから、ひどく掠れた、慌てふためく裕紀の声が飛び込んできた。「栞、お前今どこにいるんだ!?俺が悪かった、頼むから帰ってきてくれ!」私の心は、波一つ立たないほど凪いでいた。淡々とした口調で返す。「森山先生。私、もう海外にいるの。私たち、これでおしまい」私の冷たい態度に裕紀は焦燥に駆られ、急激に声を荒げた。「おしまいってなんだよ!栞、いい加減にしろ!あかりのことなら、俺とあいつはただの指導教官と実習生だろ!世話を焼いたのだって、先輩としての責任から
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第6話
コーディネーターの警告と、私の拒絶に満ちた視線に射抜かれ、裕紀はついにそれ以上踏み込んでくることはできなかった。ただ、真っ赤に充血した目で私を見つめ、絞り出すように言った。「栞……俺は、絶対にお前を諦めないからな。ずっとここで待ってるから」私は何も答えず、きびすを返してコーディネーターと共に校門をくぐった。背中に突き刺さる裕紀の執念深い視線が、まるで重い鎖のように感じられた。けれど、もう大丈夫。この瞬間から、私が彼の鎖に縛られることは二度とないのだから。その後、裕紀は帰国することなく、なんと学校の近くにアパートを借りて居座った。毎日、研修先の校門付近で私の姿を待ち伏せしているのだ。大声で騒ぐことこそなくなったものの、その異様な執念は周囲の噂の的になっていた。私は彼を完全に空気として扱い、ひたすら研修のカリキュラムに没頭した。現地の教師たちから先進的な教育アプローチを学び、他の研修生たちと意見を交わす。毎日が新発見の連続で、充実した忙しい日々を送るうちに、裕紀の存在は私の意識からすっかり抜け落ちていた。そんなある日のこと。休憩時間に何気なくSNSのタイムラインを眺めていた私の目に、あかりの新しい投稿が飛び込んできた。アップされていたのは、手料理が並べられたテーブルの写真。そして、見覚えのあるエプロン姿の男の後ろ姿だった。添えられた文章を見て、私は思わず呆れ果てた。【森山先生、ありがとう♡ 遠く離れた異国にいても、故郷の味が食べられるなんて感激! あなたがそばにいてくれると、本当に安心するよ】――どうやら、あかりもわざわざこの国までやって来たらしい。写真に写る裕紀はエプロンを身につけ、キッチンで料理をしていた。その目元には、これまでに見たことがないほど甘く優しい光が宿っている。私に手料理を振る舞っていた時の、あの義務感丸出しの適当な態度とは雲泥の差だ。私は鼻で笑い、画面を上にスワイプしてその投稿をやり過ごした。胸の奥は驚くほど静かで、もう何の感情も湧き起こらなかった。ところが、それで終わりではなかった。なんと、あかりの方からメッセージアプリに直接コンタクトを取ってきたのだ。ご丁寧に新しいアカウントまで作って送られてきた申請メッセージには、一言こう添えられていた。【伊藤先生、少しお話ししたいことがあります
Magbasa pa
第7話
裕紀はポカンと口を開け、信じられないという顔をした。「偽造?違います、そんなはずはありません!これは、あかりが俺のために用意してくれたもので……」あかりの顔からスッと血の気が引いた。彼女は慌てふためき、必死で弁解を始める。「ち、違います、私じゃないです!私はただ森山先生のために手続きのやり方を聞いただけです。まさか偽造だなんて、本当に知らなかったんです!」途端に、二人は見苦しく責任をなすりつけ合い始めた。さっきまでの仲睦まじい恋人ごっこはどこへやら、醜い保身の言い争いを見下ろしながら、私は口角を上げて冷たく笑った。あかりが何か厄介事を起こすかもしれないと踏んでいた私は、事前に校長に「部外者の招待状に不審な点がないか確認してほしい」と耳打ちしておいたのだ。まさか本当に文書偽造にまで手を染めているとは、彼女の愚かさは私の想像以上だった。結局、裕紀は警備員に取り囲まれて事務室へ連行され、さらに現地の警察から事情聴取を受けることになった。あかりもまた文書偽造への関与を厳しく問われ、滞在先の学校へ通報されたことで、教育実習生の資格そのものを一発で取り消される処分が下った。警備員に連れられていく二人の惨めな背中を見送りながら、私はようやく胸を撫で下ろした。だが、これで終わりではない。これはまだ始まりにすぎない。あの二人が私から奪い、踏みにじったものの代償は、これから少しずつ、確実に支払わせてやるつもりだ。……その後、裕紀は警察の取り調べを受け、公文書偽造の罪で重い罰金を科せられた上に入国制限リストに登録され、強制的に帰国させられた。教育実習生という身分を剥奪されたあかりも、逃げるように帰国したらしい。彼女が空港から飛び立つ直前、SNSには「責任逃ればかりの最低な男」と、すべての罪を裕紀になすりつけるような恨み言が書き込まれていた。あの二人のくだらない茶番が綺麗に片付いたおかげで、私はようやく心置きなく研修に打ち込むことができるようになった。この半年間、私はスポンジが水を吸うように、すべてを吸収するつもりで懸命に学んだ。現地の先進的な教育実践に積極的に参加し、自分自身の指導スキルを飛躍的に向上させただけでなく、ついには研修プログラムの「優秀研修生」の表彰を受けるまでに至ったのだ。そんなある日のこと。研修の一環で、現地のモデル
Magbasa pa
第8話
――裕紀だった。よれよれのカジュアルな服に身を包み、髪はボサボサ。頬はこけ、目は落ち窪んでいる。かつて学校で「エリート教師」として自信に満ち溢れていたあの姿は、もう見る影もなかった。彼も私に気づいたようだ。死んだ魚のようだった瞳にパッと異様な光が宿り、周りの目も気にせず、ズカズカとこちらのテーブルへ近づいてきた。「栞!やっと見つけた、本当に栞なんだな!」裕紀の声は酷く掠れており、その顔には狂気じみた歓喜と、押し付けがましい後悔が入り混じっていた。「お前を探すために、ずっと……ずっと待ってたんだ。やっと会えた!」私は不快感に眉をひそめ、無意識のうちに辰海のほうへ体を寄せていた。すると、辰海は私の手を下からそっと、けれど力強く握りしめてくれた。そして、私を庇うように裕紀の前に立ち塞がると、穏やかだが氷のように冷たい声で告げた。「森山さんですね。何かご用でしょうか? 申し訳ありませんが、栞は今、僕の恋人です。これ以上、彼女に付き纏うのはやめていただきたい」裕紀の顔から、一瞬にしてスッと血の気が引いた。彼は信じられないというように私を見つめ、それから辰海が私を庇うように握っている手へと視線を落とした。その瞳には、かつてないほどの苦痛と深い悔恨が入り混じっていた。「恋人……? 嘘だろ、栞。お前、本当に俺を見捨てるのか? 悪かった、俺が全部悪かった!だから、もう一度だけチャンスをくれないか!」裕紀は必死に身を乗り出し、すがるような声を張り上げた。「あかりとはもう完全に縁を切ったんだ! あいつはただの嘘つきだった、俺は騙されてたんだよ! 今になってやっと分かったんだ、俺が本当に愛しているのは……お前だけだって!」どれほど必死に後悔を口にされても、私の心は湖面のように静まり返ったままだった。私は辰海に握られていた手をそっと抜き、裕紀を真っ直ぐに見据えて、淡々とした声で告げた。「裕紀。私、もうあなたを愛してないの。過去のことはもう二度と思い出したくない。だから、お願い。もう二度と私の人生に関わらないで」裕紀がなおも何かを言おうと口を開きかけた瞬間、辰海が一歩前に出て、私の視界から彼を完全に遮った。「森山さん、いい加減にしてください。これ以上しつこくするなら、本当に警察を呼びますよ」辰海の底冷えのする声と、
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第9話
「よくもぶとうとしたわね!このままタダで済むと思わないでよ!」あかりはバッグからスマホを引ったくるように取り出し、画面を裕紀に突きつけた。「私とのツーショットも、偽造を頼んできた時のメッセージ履歴も、全部証拠として残ってるんだからね!これをネットにばら撒かれたら、もう二度と教師なんかできなくなるわよ!」裕紀の顔色が一瞬にして土気色に変わった。彼は慌てて泥だらけのまま這い上がり、あかりのスマホを奪い取ろうと飛びかかった。「ふざけるな!そんなことしてみろ、絶対にお前を許さないぞ!」ついに二人は掴み合いの取っ組み合いを始めた。互いの服を引きちぎらんばかりに引っ張り合い、口汚い言葉で罵り合う。その姿は、あまりにも醜く滑稽だった。周囲の野次馬たちは面白半分にスマホを構え、二人の醜態をパシャパシャと撮影し始めている。私たちは少し離れた場所から、その騒ぎを静かに見下ろしていた。隣に立つ辰海と顔を見合わせる。私の心には、もはや彼らに対する同情の欠片すら残っていなかった。すべては自業自得だ。あの二人は、自分たちの浅ましい欲望と嘘で、自らの人生を根元から腐らせてしまったのだから。やがて、遠くからパトカーのサイレンが鳴り響いてきた。誰かが通報したのだろう。駆けつけた警察官によって、裕紀とあかりは二人揃ってパトカーへと押し込まれた。公共の場での乱闘騒ぎと迷惑行為で連行されていったのだ。その後、風の噂で聞いた話によれば、あかりは本当に証拠の画像や動画をネット上にばら撒いたらしい。裕紀の悪事はあっという間に拡散されて大炎上し、事態を重く見た国内の勤務校は、すぐさま裕紀を懲戒免職処分にしたという。もちろん、あかりもただでは済まなかった。招待状の偽造や私に対する名誉毀損が明るみに出たことで、教育業界から完全に追放されただけでなく、法的な裁きを受けることになった。職も名誉もすべて失った裕紀は、親戚や友人からも白い目で見られ、裕紀の両親も心労のあまり倒れて入院してしまったそうだ。追い詰められた裕紀は、またしても私にすがりつこうと連絡を試みたようだが、あらゆる連絡手段を遮断されている今、私の元へその声が届くはずもなかった。それらすべての顛末を知った日。辰海は私の手をそっと握り、優しく微笑みかけてくれた。「もう、全部終わったね。これからは
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第10話
決勝の当日。私は仕立ての良いスーツに身を包み、自信を持ってステージの中央に立った。堂々とこれまでの成果を披露していく。私が提案した授業は活気に満ちており、アプローチも独創的だと、審査員と観客の双方から高い評価を得た。そして、審査員から「最優秀賞」として私の名前が読み上げられた瞬間、熱い涙がワッと込み上げてきた。この一年以上の血の滲むような努力が、ようやく報われたのだ。客席に目を向けると、辰海が私に向かって微笑んでいた。その眼差しは、まるで自分のことのように誇らしげで、どこまでも優しかった。大会を終えた後、私は研修先の学校から思いがけない推薦状を受け取った。なんと、現地の最難関校で教鞭を執らないかという破格のオファーだったのだ。それと同時に、私の実績を聞きつけた国内の複数の名門校からも、「帰国してうちの学校に来てほしい」という熱烈なスカウトが舞い込んできた。これにはずいぶんと頭を悩ませた。海外の恵まれた教育環境とキャリアアップのチャンスを取るか、それとも住み慣れた国内へ戻るか。私が決めかねているのを見抜いた辰海は、優しくこう言ってくれた。「栞がどんな道を選んでも、僕は全力で応援するよ。もし帰国するなら、僕も一緒に帰る。ここに残るなら、僕もずっとここで栞のそばにいるから」その真っ直ぐで誠実な言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。じっくりと考え抜いた末、私は帰国する道を選んだ。海外の環境は素晴らしいけれど、やはり自分の基盤は国内にある。それに……かつて私を蔑み、傷つけた人たちに、今の私がどれほど変わったか、どれほどの成果を手にしたのかを、胸を張って見せつけたいという思いもあった。研修プログラムの最終日。荷造りを終えた私は、辰海と共に帰国の途に就く飛行機へ乗り込んだ。機体がふわりと滑走路を蹴り上げて宙に浮いた瞬間、窓の外に広がる青空と白い雲を見つめながら、私の胸はこれからの未来への期待で満ち溢れていた。国内へ戻れば、また新しい環境と様々な課題が待ち受けているだろう。でも、今の私にもう恐れはない。私には辰海という最高のパートナーがいて、何より、自分自身で勝ち取った揺るぎない自信があるのだから。国内に戻ると、元の勤務先の学校から熱烈な歓迎を受けた。なんと校長自らが空港まで出迎えてくれ、わざわざ私のために歓迎
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