LOGIN結婚記念日、今まで一度も台所に立ったことのない夫の宮崎浩(みやざき ひろし)が、テーブルいっぱいの料理を作ってくれた。 私が一口食べるごとに、浩は細かく味を尋ねて、真剣にメモをとる。 途中、浩は寝室へ行き電話に出た。杉本瞳(すぎもと ひとみ)からの着信だ。 浩が席を外した隙に、何気なくノートを手に取った。そこには、私とは全く無関係なことがびっしりと書かれていた。 【いんげんは少し硬い。瞳はきっと好みじゃないな】 【きのこは少し塩辛い。瞳のために作る時は気をつけないと】 【羊肉はクセが強すぎる。瞳のために作る時は牛肉に変えよう】 戻ってきた浩がノートを取ろうとした時、私の動きを見て激昂した。「美希(みき)、お前は本当に教養のかけらもないな。勝手に触るなと言っただろう?」 反論しようと口を開くより先に、激しい頭痛に襲われた。目の前の浩の姿が揺らぐ。 「浩、なんだか気持ち悪いの……インゲンが生だったのかも……」 「だったら急いで書き留めないとな。瞳のために作る時は長めに火を通そう」 浩は私を一瞥もせず、メモをとりながら足早に玄関へ向かう。 「出かけてくる。お前は丈夫なんだから、つらいなら薬でも飲んでろ」 意識が遠のく中、もう一度電話をかけると、苛立った声が聞こえた。「そんな大ごとなのか?死ぬのか?死んだらまた連絡してこい!」 浩、もう二度と連絡はしない。
View More私はそのまま動画配信を閉じ、空港へ向かった。道中、浩から電話が鳴り止まなかったが、もう出る必要なんてなかった。電話に出ないと分かると、今度は何度もメッセージを送ってきた。【美希、どういうことだ?】【美希、お願いだから電話に出てくれ。もしかして、配信を見たのか?】【違うんだ。誤解だよ。あんな風に言ったのは瞳を落ち着かせるためだったんだ】【美希、瞳に送った離婚協議書ってなんだ?別れるなんて言ったことないだろ?】スマホの通知が止まらない。うんざりした私は、浩の連絡先をすべて着信拒否した。搭乗直前、10年住んだ街を振り返った。今は未来への期待で胸がいっぱいだった。祖母の故郷へ着き、手頃な民宿に落ち着いた。ここでの暮らしは心の蟠りがほどけていくようで、小さな町を散策する毎日が最高に心地よかった。浩は相変わらず、番号を変えて電話をかけてくる。諦めようとしない。私を探すために、なんと理恵にまで連絡をしていた。結局、スマホを解約し、昔の自分を完全に過去のものにした。気持ちを切り替え、かつての研究を再開した。以前の知識があるおかげで、スムーズに再出発できた。仕事に打ち込む毎日。充実して、とても楽しかった。ただ、浩とまた再会する日が来るとは思っていなかった。3年後。世界ロボットコンテストで、私が開発したセンサー技術搭載の高敏感特種ロボットが優勝した。質疑応答で、隅の方で手を挙げ続けていた男性を指した。立ち上がったその姿を見て、私は言葉を失った。そこにいたのは浩だった。浩はマイクを強く握り、目を真っ赤に潤ませて、震える声で尋ねた。「俺が聞きたいのは、ロボット開発に人生を懸けるように、もう一度俺たちもやり直すことはできないのか」震える体で涙を流す浩を見つめ、私は丁寧かつ突き放した態度で答えた。「ごめんなさい、もう結婚しています」まさかという顔で、しばらく呆然としていた浩が呟いた。「どうして?10年間も一緒にいたじゃないか。その思い出があるのに、なぜ簡単に他の誰かを愛せるんだ?一生、俺だけを愛すって言ってくれただろう?」私は小さく首を横に振り、淡々と答えた。「あなたもよく分かっているはずよ。愛情なんて、あなたの思っているほど強固なものじゃないって」その言葉を聞くと、浩はその場に崩れ落ち
彼女は歩み寄ると私を抱きしめ、いじらしい声で言った。「美希、随分と痩せたわね」私は苦笑しながら理恵を押し返し、からかうように返した。「もともと太ってなんていないわよ?」法律事務所を出たあと、私はあてもなく街をぶらついた。偶然なのか、それとも浩は私をコントロールしやすいと考えているのか。顔を上げると、少し先に浩と瞳の姿があった。二人の会話が、はっきりと耳に入ってくる。「もうこれ以上、美希に連絡するのはやめろ。俺は離婚なんてする気はない!」「浩、あなたのことが大好きだから、こうするのよ」「計画がバレたんだ。子供はおろしてくれ。俺はその子を残すつもりはないんだ。美希を傷つけるわけにはいかない」言い争う二人を眺め、私は口元をゆがめた。ほら、言ったでしょ。きっぱり関係を断てるはずがないのだ。結局、浩は私を放っておいても帰ってくるチョロい存在だと甘く見ている。愛を語る浩の姿を見て、急に笑いが込み上げてきた。浩の口から出る「愛」なんて、所詮その程度の安物だ。二人を視界から消すと、私は背を向けて家路についた。浩の帰りも早かった。私が家に着くと、彼はすでにソファに座っていた。「美希。遅かったね、家で退屈しちゃったよ!」スマホをいじりながらいい加減な返事をする浩に、私は持参した書類を突きつけた。「新しいプロジェクトの話があるの。署名して」中身も見ず、ペンを受け取った浩は流れるように署名した。「ああ、いいよ。お前のやりたいことは全部サポートするからさ」私が口を開く前に、浩のスマホが鳴り響く。ためらうような浩の視線に、私は殊勝なふりをして促した。「出たら?急用かもしれないでしょ」浩は促されるように、電話に出た。「なんだって?瞳、自決するって言ってるのか!?今どこだ?待っていろ、すぐに行く!」電話を切った浩に、私は先手を打って告げた。「杉本さん、近くに友達なんていないでしょ。元上司として行くのは当然よ。急いで、時間がないんでしょ?」私の言葉に感謝の眼差しを向けると、浩は慌ただしく服を掴んで飛び出していった。それと入れ違いに、私は自分の荷物をまとめ始めた。浩から貰ったものを、ゴミ箱へ。浩に繋がるあらゆる痕跡は、処分する。一通り終えてみて、気づけばここに住んで10年も経つのに、持ってい
浩が身を寄せてきた瞬間、私は反射的に手を伸ばして彼を突き放した。それを見て、浩の瞳に悲しげな色が浮かんだ。「どうして拒絶するんだ?」私は何度も後ずさりして浩との接触を避け、淡々と口にした。「風邪をひいてるから、移したくないの」言い終えると浩を無視し、背を向けてまた眠りについた。夜が静かすぎて、隣で浩が何度もため息をつくのが聞こえた。昔の私なら、すぐに浩を抱きしめて、愛おしそうに慰めてあげただろう。けれど今は、ただ煩わしいとしか思えなかった。「すごく眠いの。自分の部屋に帰ってくれない?隣にいると安眠できないの」言葉が終わると、辺りは途端に静まり返った。しばらくして、浩がゆっくりと起き上がり、部屋を出て行くのがわかった。浩が去ると、私はすぐに再び意識が遠のいた。その夜は、信じられないほど深く眠ることができた。翌朝、スマホに目をやると、理恵からメッセージが届いていた。【離婚協議書は作成済みよ。都合のいい時に取りに来て】理恵に返信をしてから、私は適当な航空券を予約した。行き先なんてどこでもよかった。ただ、この街からも浩からも消えたかっただけだ。偶然にも、その便は祖母の故郷行きだった。寝室から出ると、キッチンで忙しく働く浩が目に入った。私に気づいた浩は慌ててエプロンを脱ぎ捨て、嬉しそうに駆け寄ってきた。「美希、起きたか?朝飯はもうできてるぞ。さっさと顔洗っておいで!」浩は、しつこく急かしてきた。昨日から何も食べていなかったこともあり、空腹がピークに達していた。ダイニングテーブルで夢中になって食べている私を見て、浩はしてやったりという顔をした。浩と10年も一緒にいれば、彼が何を考えているかなんて手に取るようにわかる。結局、浩にとって私は「扱いやすい女」だと思っているのだ。何をされても、ちょっと優しくすればすぐ元に戻ると思っている。だけど今は、いちいち反論するのも面倒だった。勝手にそう思わせておけばいい。「どうだ、味は?」期待に満ちた浩の顔を見ながら、私は微笑んで頷いた。「前回よりも、ずっとマシね」その言葉に浩は一瞬きょとんとした後、急に私の手を握りしめた。「前のことは本当に悪かったよ、大丈夫だったか?」心配そうな顔を見つめ、私は淡々と答える。「大丈夫よ。平気じ
私は唇をかみ、スマホのメッセージ欄にゆっくりとこう打ち込んだ。【分からない。ただ、あの時の私は頭が真っ白だったことしか覚えてないの】【美希、10年よ。宮崎さんはもう昔の純粋な男じゃない。まだあの頃のままで止まってるのは、あなただけよ】目の前の浩を見つめながら、走馬灯のように過去の記憶が脳裏をよぎった。浩と私は幼なじみだった。もっとも、顔を合わせればケンカばかりするような関係だったけれど。ある日、両親が離婚した。親権は母に渡ったが、母は仕事が忙しく、祖母のもとで暮らすことになった。あの頃の私は、本当につらかった。周りからは厄介者扱いされ、「親を離婚させた」と噂されることさえあった。そのストレスから、私は次第に重度の鬱を患うようになった。そんな私の異変に気づいたのが浩だった。あの日、全てに絶望し、消えてしまおうとした私の元へ。浩は電話に出ない私を心配して駆けつけ、倒れていた私を見つけてくれたのだ。あの冬の豪雪の中、浩は私を背負い、何度も転びながら病院へ運び込んで命を救ってくれた。それをきっかけに、二人の距離は激変した。私たちの間に、初めて二人だけの秘密ができたのだ。大学2年目の大晦日、大勢に囲まれて告白されていた浩を見た私は、思わず割り込んで彼の手を引き、その場を離れた。それは人生で一番勇気を出した瞬間だった。浩は笑みを浮かべ、目を輝かせながら私を見つめた。「美希、俺のこと好きなのか?」我に返る間もなく、理性を抑えられなくなった私はただ頷いた。こうして私たちは、自然と恋人同士になった。情熱的な恋人たちと同じように、ぶつかりながらも全力で互いを求めていた。大学卒業後、私たちは入籍し、夫婦になった。今日まで、あっという間の10年だった。けれど10年の月日は、必ずしも強固な絆を保証するものではない。私の沈黙を見て、浩はそっと私の手を握り、恐る恐る口を開いた。「美希、怒るなって。もう10年も一緒じゃないか?今回だけは許してくれないか?」目の前の浩を見つめ、私は自嘲気味に笑った。「いいよ」それを聞くと、浩は期待を込めた顔で言った。「本当か?本当に怒ってないのか?」私は曖昧にうなずき、小さくつぶやいた。「うん」愛がなければ、怒りすら湧かない。「お腹すいただろう?冷めないう
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