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愛を値踏みした夫に、さよならを

愛を値踏みした夫に、さよならを

Von:  石見綾乃Abgeschlossen
Sprache: Japanese
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9Kapitel
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Zusammenfassung

妻を取り戻す修羅場

スカッと

ひいき/自己中

クズ男

愛人

逆転

スカッと

私の名前は杉本沙耶(すぎもと さや)。 夫の杉本和也(すぎもと かずや)が、地元のSNSで一気に話題になった。つけられたタグは「愛妻家の鑑」。 きっかけは、会議の合間を縫って、和也が私にお金を振り込み、写真まで添えてこまめに連絡していた姿を記者に撮られたことだった。 コメント欄は、そんな和也を絶賛する声であふれた。 【こういう人が理想の夫なんだよね。愛って、結局お金の使い方に出るよね】 ゼロから会社を立ち上げ、上場を果たすまでの10年間、私たちはずっと二人三脚でやってきた。 一番苦しかった頃には、日雇いで働いて、二人がその日食べるものを買うのがやっとだったこともあった。 あの頃、和也は私に言った。 「会社が軌道に乗ったら、沙耶にはもう二度と、こんな苦労はさせない」 その言葉どおり、和也はどれだけ忙しくなっても、欠かさず私にお金を振り込んでくれた。 私はずっと、それが今も変わらず愛されている証だと信じていた――あの日までは。 その日、研修が予定より早く終わった。 和也を驚かせたくて、何も知らせずに家へ帰った。 寝室のドアが少しだけ開いていた。 中から聞こえてきたのは、途切れ途切れの女の声と、荒い息遣いだった。 「キスは1回20万円。寝るのは1回100万円。避妊なしなら、さらに60万円」 「昨日は7回もしたじゃない。しかも避妊なしで。和也さん、今度は沙耶さんにいくら振り込んで、機嫌を取るつもり?」 和也が低い声で言った。 「黙れ」 私はスマホを握りしめた。 画面には、昨夜和也から振り込まれた760万円が表示されていた。 寝た分が7回で700万円。それに、避妊なしの60万円を足して760万円。 振り込まれたときは、「たった数日の研修なのに、こんな大金いらないよ」と笑っていた。 今になって、ようやく分かった。 あのお金は、私を安心させるためのものなんかじゃなかった。 和也が不倫を隠し通すために私へ振り込んでいた、ただの埋め合わせにすぎなかった。

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Kapitel 1

第1話

寝室から聞こえていた物音が、ふいに途切れた。

その直後、どこか甘えるような女の声が聞こえてきた。何度も耳にしたことのある声だった。

「和也さん、今度はもうちょっと奮発してくれない?私も沙耶さんみたいに、いいバッグが欲しいな」

すぐに分かった。

4年間、私が援助を続けてきた苦学生、佐々木亜美(ささき あみ)の声だった。

ドアノブにかけた手が止まり、指先がすっと冷たくなった。

続いて聞こえた和也の声には、まだ気だるさが残っていた。

「お前と沙耶は違う。一緒にするな」

「何が違うんですか?」

亜美が甲高い声で笑った。

「結局、どっちも和也さんに養ってもらってるんだから、同じじゃないですか。沙耶さんのほうが年上だから、ご機嫌取りに余計お金がかかるってだけでしょ」

和也はそれ以上取り合わず、低い声で亜美を制し、シャワーを浴びるよう促した。

やがて、かすかな衣擦れが聞こえた。

私は震える足で玄関まで戻り、物音を立てないように家を出た。

ほんの数十秒のはずなのに、エレベーターが1階に着くまでがやけに長く感じられた。

車に戻ると、ついさっき和也から届いたメッセージを開いた。

【沙耶、会議終わった。600万円振り込んどいた。今日は早めに休めよ。俺はいつだって沙耶が一番だから】

添えられていたのは、コーヒーを手にした和也の後ろ姿の写真だった。

あんなことをした直後なのに、和也は何事もなかったように、いつもどおり私を気遣うメッセージを送ってきた。

私は送金履歴を開いた。

最初は20万円だった振込額が、回を重ねるごとにどんどん膨らみ、今では数百万円単位になっていた。

まるで、裏切りにもインフレがあるみたいだった。やることがひどくなるほど、埋め合わせの額も大きくなっていた。

思わず乾いた笑いが漏れた。その直後、涙が一滴、スマホの画面に落ちた。

しばらく車の中で気持ちを落ち着けてから、もう一度家に戻った。

和也は何事もなかったように、ソファでテレビを見ていた。

玄関の音に振り向いた和也は、私の姿を見るなり、一瞬だけ表情をこわばらせた。

「沙耶?もう帰ってきたのか?研修、あと2日あるんじゃなかったか?」

和也はすぐに立ち上がって私を抱きしめると、鮮やかなオレンジ色の箱を手に取り、私に差し出した。

「早く終わったなら、連絡してくれれば迎えに行ったのに。ほら、新しいバッグ。沙耶に似合いそうだと思って選んだんだ。どう?」

あまりにも自然に言うものだから、何も知らなければ疑いもしなかっただろう。

けれど今の私には、どこか機嫌を取ろうとしているように聞こえた。

これもまた、不倫を隠すための埋め合わせだった。

知られたくない。離れてほしくない。だから和也は、金で私をつなぎ止めようとしていたのだ。

何も知らない和也は、いつものように私の髪を撫でた。

「少し休んでろ。俺、シャワー浴びてくる」

しばらくして、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。

そのとき、ソファに置きっぱなしだった和也のスマホが震え、LINEの通知が届いた。

送り主は、亜美だった。

そこには、2000万円もするバッグを抱えた亜美の写真が添えられていた。

【バッグ届いたよ。和也さん、ありがとう】

写真の中で亜美が抱えていたのは、私が手にしていたバッグと同じブランドの限定品だったが、値段は比べものにならないほど高かった。

見比べているうちに、吐き気がこみ上げた。

亜美のためにあの限定バッグを手に入れるため、和也は店で購入実績を積んでいた。

私にくれたバッグも、その実績作りのために買ったものの一つにすぎなかった。

ふと、まだ二人で古いアパートに暮らしていた頃のことを思い出した。

冬になると隙間風が入るような部屋で、和也はたった1着しかなかった厚手の上着を私に着せ、これから先もずっと私だけを大事にすると誓ってくれた。

あの頃の約束を思い出すと、10年も和也を信じてきた自分が馬鹿みたいに思えた。

私は自分名義の株式関係書類と預金明細を揃え、弁護士に電話をかけた。

「離婚協議書を作ってもらえますか」

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9 Kapitel
第1話
寝室から聞こえていた物音が、ふいに途切れた。その直後、どこか甘えるような女の声が聞こえてきた。何度も耳にしたことのある声だった。「和也さん、今度はもうちょっと奮発してくれない?私も沙耶さんみたいに、いいバッグが欲しいな」すぐに分かった。4年間、私が援助を続けてきた苦学生、佐々木亜美(ささき あみ)の声だった。ドアノブにかけた手が止まり、指先がすっと冷たくなった。続いて聞こえた和也の声には、まだ気だるさが残っていた。「お前と沙耶は違う。一緒にするな」「何が違うんですか?」亜美が甲高い声で笑った。「結局、どっちも和也さんに養ってもらってるんだから、同じじゃないですか。沙耶さんのほうが年上だから、ご機嫌取りに余計お金がかかるってだけでしょ」和也はそれ以上取り合わず、低い声で亜美を制し、シャワーを浴びるよう促した。やがて、かすかな衣擦れが聞こえた。私は震える足で玄関まで戻り、物音を立てないように家を出た。ほんの数十秒のはずなのに、エレベーターが1階に着くまでがやけに長く感じられた。車に戻ると、ついさっき和也から届いたメッセージを開いた。【沙耶、会議終わった。600万円振り込んどいた。今日は早めに休めよ。俺はいつだって沙耶が一番だから】添えられていたのは、コーヒーを手にした和也の後ろ姿の写真だった。あんなことをした直後なのに、和也は何事もなかったように、いつもどおり私を気遣うメッセージを送ってきた。私は送金履歴を開いた。最初は20万円だった振込額が、回を重ねるごとにどんどん膨らみ、今では数百万円単位になっていた。まるで、裏切りにもインフレがあるみたいだった。やることがひどくなるほど、埋め合わせの額も大きくなっていた。思わず乾いた笑いが漏れた。その直後、涙が一滴、スマホの画面に落ちた。しばらく車の中で気持ちを落ち着けてから、もう一度家に戻った。和也は何事もなかったように、ソファでテレビを見ていた。玄関の音に振り向いた和也は、私の姿を見るなり、一瞬だけ表情をこわばらせた。「沙耶?もう帰ってきたのか?研修、あと2日あるんじゃなかったか?」和也はすぐに立ち上がって私を抱きしめると、鮮やかなオレンジ色の箱を手に取り、私に差し出した。「早く終わったなら、連絡してくれれば迎えに行
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第2話
翌朝、空が白み始めたばかりの頃、亜美からLINEが届いた。【沙耶さん、お腹がすごく痛くて……盲腸かもしれません】【一人暮らしで、もし何かあったらと思うと怖くて……病院まで付き添ってもらえませんか?】画面を見つめたまま、しばらく指が動かなかった。結局、私は亜美に付き添って病院へ行くことにした。病院に着いた頃には朝の受付が始まっていて、院内はすでに多くの人でざわついていた。受付で亜美が腹痛を訴えると、看護師は痛む場所を確認してから、少し首をかしげた。「この辺りの痛みだと、盲腸とは限らないですね。念のため、先に2階の婦人科で診てもらいましょう」「婦人科……?」亜美は一瞬体をこわばらせ、表情を曇らせた。検査を受けてほどなく、亜美が妊娠6週目だと分かった。けれど、妊娠を告げられても、亜美はほとんど動揺していなかった。亜美は私を振り返り、何気ない口調で尋ねた。「沙耶さん、結婚して長いですよね。妊娠したことも、ありますよね?自分がお母さんになるって分かったとき、どんな気持ちでした?」答えようとしても、喉の奥が詰まって声にならなかった。結婚して3年。私は二度、子どもを失っていた。最初の子を失ったのは、会社を立ち上げたばかりの頃だった。毎日のように営業先を駆け回り、無理が重なって倒れ、そのまま流産した。その後も、アルコールを受け付けない和也の代わりに接待の席で酒を飲み続けた。胃出血で病院に運ばれたとき、二人目も流産していたことを知らされた。それをきっかけに体を壊し、体外受精を続けた。何度も注射を打ち、治療を重ねたけれど、それでも妊娠することはなかった。どこか挑発めいた亜美の表情を見て、何か言おうとした、そのときだった。廊下の奥から、息を切らした和也が駆けてきた。ネクタイは曲がり、額には汗が浮かんでいた。「沙耶、どうした?会議の合間に位置情報を見たら、病院にいるって出て、本気で焦ったぞ」隣にいた亜美が唇を噛み、小さな声を出した。「和也さん……ごめんなさい。私が沙耶さんを呼んだんです……」和也は亜美を見るなり、冷たい声で言った。「具合が悪いからって、勝手に沙耶を呼び出すな。迷惑かけるな」ところが、亜美は怯む様子もなく、意味ありげに和也を見た。「ごめんなさい……でも私、体力ないじ
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第3話
病院を出た私は、その足で会社へ向かった。和也と二人で、何もないところからここまで育ててきた会社だ。離婚するとしても、自分の持ち株まで手放すつもりはなかった。ところが最上階の会議室に入ろうとしたところで、以前は私の顔を見るたびに頭を下げていた取締役の一人に呼び止められた。「奥様、申し訳ありません。今日は役員だけの会議ですので、こちらにはお入りいただけません」一瞬、何を言われたのか分からなかった。思わず乾いた笑いが漏れ、行く手を遮る男の手を払いのけた。「私、取締役で、この会社の第2位株主なんだけど。いつから役員じゃなくなったの?」取締役は気まずそうに目を伏せ、手元の資料を開いた。「奥様は1年前、不妊治療に専念するため、保有株の管理と議決権を社長に一任する書類に署名されています。現在、会社の意思決定権はすべて社長にあります」頭の中が真っ白になった。1年前、私は体外受精がうまくいかず、心も体も疲れ切っていた。そんなとき、和也が分厚い書類の束を持ってきた。手続きに必要だからと言われ、私はろくに中身も確認せず署名した。まさか、あのときから私を経営から外すつもりだったなんて。信じたくなくて、その足で法務部へ向かった。法務部長は私と目を合わせようともせず、震える手で資産明細を差し出した。「奥様……保有されていた株式は、3か月前にすでに譲渡済みです。今、奥様のお手元に残っているのは……社長から渡されている家族カードだけです」3年間、私は身を削るように働き、徹夜の会議も一度や二度ではなかった。それなのに、私が不妊治療に追われている間に、和也は私の知らないところで持ち株を奪い、取締役の地位まで取り上げていた。「和也!」私は社長室のドアを蹴るようにして開けた。和也は椅子に深く腰掛け、驚く様子も見せなかった。まるで、私が来ることなど最初から分かっていたようだった。泣き腫らした私の目に気づくと、和也は眉をひそめた。「沙耶、なんで会社に来たんだ?疲れてるだろ。無理するな、座れよ」立ち上がって近づいてきた和也を、私は思い切り押しのけた。「私の株、どういうこと?私を取締役から外したのも、和也なの?」持っていた書類を、和也の前に叩きつけた。和也はため息をつき、ゆっくり椅子に座り直した。その顔
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第4話
会社を出た私は、何も考えられないままタクシーに乗り、街の西の外れにある家へ戻った。1年前、和也が私に不妊治療に専念してほしいと言って、静かに過ごせるようにと買った家だった。ソファに腰を下ろし、これからどうすればいいのか考えていたとき、突然スマホが激しく震えた。「沙耶!」電話の向こうから聞こえてきたのは、母の弟、木村浩司(きむら こうじ)の切羽詰まった声だった。「お母さんが脳出血で倒れた!今から緊急手術だって。病院からも、すぐに200万円用意してほしいって言われてる。沙耶、何とかならないか?」頭の中が真っ白になった。すぐに送金しようとしたが、和也に止められた口座はまだ使えなかった。ほかの口座も片っ端から確認した。それでも、今すぐ用意できるだけのお金はどこにもなかった。不妊治療を始めてから、私は会社の仕事を離れていた。それまでに貯めていたお金も、ほとんど会社の運転資金につぎ込んでいた。震える手で和也に電話をかけた。今すぐ200万円を用意できるとしたら、頼れるのはもう和也しかいなかった。何度呼び出しても出なかった。もう駄目かと思った頃、ようやく電話がつながった。「もしもし?」けれど、聞こえてきたのは和也ではなく、鼻にかかった気だるげな亜美の声だった。「亜美?和也は?代わって。急いでるの」「沙耶さん、そんなに慌ててどうしたんですか?」亜美はのんびりした口調で答えた。「和也さんなら今、シャワー浴びてますよ。しばらく出られないと思います。スマホも預けてくれたんです。妊娠中に必要なもの、好きに買っていいって」「亜美、お願いだから――」「お金のことでしょ?」私の言葉を遮るように、亜美の声が急に冷たくなった。「沙耶さんが言うこと聞かないなら、その分、私に使ってもらえばいいだけじゃないですか。これだけあれば、高級な産後ケアホテルにだって泊まれるし、体にいいものも好きなだけ買えますし」「母を助けるためのお金なの!お願いだから、和也に代わって!」亜美は鼻で笑った。「それがどうしたんですか?さっき浩司さんからも電話がかかってきましたけど、私が切っておきました。和也さんは何も知りませんよ。助けてもらおうなんて思わないほうがいいです」全身から血の気が引いた。「どうして…
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第5話
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、和也はゆっくり目を覚ました。いつもの癖で隣に手を伸ばすと、すぐそばから眠たげな声が聞こえた。「和也さん……今、何時……?」伸ばしかけた手が止まった。隣で眠っていたのは亜美だった。その顔を見た瞬間、なぜか苛立ちと物足りなさが込み上げた。昨夜ここに泊まったのは、亜美をなだめるためでもあったが、沙耶にも少し思い知らせるつもりだった。自分がいなければ何もできないということを、少しは分からせたかったのだ。ところが、亜美と一晩過ごしても、頭に浮かんだのは昨日の沙耶ばかりだった。朝になれば、沙耶のほうから電話してくると思っていた。帰ってきてほしいと下手に出て、最後には自分から謝ってくる。いつもそうだった。この5年間、どれだけ喧嘩をしても、最後に折れるのは沙耶だったからだ。沙耶が自分との関係を捨てられるはずがない。杉本和也の妻という立場も、今の暮らしも手放せるはずがない。和也はそう決めつけていた。ベッドを出てシャツを着ると、リビングへ向かった。そこでスマホを手に取ると、午前3時に届いたLINEが一件、未読のまま残っていた。送り主は沙耶だった。その名前を見て、和也はわずかに口元を緩めた。やはり沙耶のほうから折れてきたのだと思った。だが、メッセージを開いた瞬間、その笑みは消えた。【カードを止めたなら、もういいよ。私のものは、自分で取り戻すから】メッセージの意味が分からず、和也はすぐに沙耶へ電話をかけた。けれど、返ってきたのは自動音声だった。「おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、かかりません」何度かけ直しても、つながらなかった。「何なんだよ。まだ意地張ってるのか?」次第に苛立ちが募り、和也はスマホをソファに放り投げた。「分かったよ、沙耶。そこまでやるなら勝手にしろ。俺の金なしで、いつまでやっていけるか見ててやるよ」和也はそのまま家を出て、会社へ向かった。住宅街を抜けたところで、予備のスマホが鳴った。秘書の高橋悠(たかはし ゆう)からだった。和也は車を路肩に寄せ、電話に出た。「何だよ、朝から」「社長、大変です。今すぐSNSを見てください!」「何をそんなに慌ててるんだ?」「昨日の送
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第6話
悠はうつむいたまま、和也と目を合わせようとしなかった。「突然の脳出血だったそうです。昨夜、緊急手術が必要になったんですが、ご家族が費用を工面している間に容体が急変して……今朝方、息を引き取られたそうです」和也は力が抜けたように椅子へ腰を落とした。手術の金が足りなかった?そんなはずがない。昨夜、沙耶には2000万円も振り込んでいた。あの金を使えていれば、母親を助けられたかもしれない。「なんで……なんで俺に言わなかったんだ……」和也は呆然としたまま、震える手を見つめた。「社長……」悠は言いにくそうに続けた。「昨夜、奥様の叔父様から何度も電話があったそうです。ただ、何度かけてもつながらなかったり、途中で切られたりしていたようで……」和也ははっと顔を上げた。切られた?そこでようやく、昨夜のことを思い出した。亜美から、妊娠中に必要なものを買いたいからスマホを貸してほしいと言われ、そのまま渡したのだった。それから朝まで、スマホには一度も触れていなかった。嫌な予感がして、すぐに通話履歴を開いた。昨夜、浩司と沙耶から何度も着信が入っていた。時間を確認した途端、指が止まった。どれも、沙耶の母が倒れたあとにかかってきたものだった。短い間隔で何度も着信があり、中には数秒で切れていたものもあった。昨夜、スマホはずっと亜美の手元にあった。沙耶も浩司も何度も電話をかけていたのに、和也は何も知らず、亜美の隣で眠っていた。その間に、沙耶の母は亡くなっていた。「車を用意しろ!」和也は勢いよく立ち上がった。その拍子に、背後の椅子が倒れた。悠が車を手配するのも待てず、和也は自分で駐車場へ向かった。そのまま車を飛ばし、高速道路に入ってからもほとんど速度を落とさなかった。沙耶の地元の総合病院に着いた頃には、すっかり夜も更けていた。受付で確認すると、母親の遺体はすでに葬儀社の安置施設へ移されたあとだった。沙耶も病院にはいなかった。そのとき、悠から電話が入った。「社長、奥様の居場所が分かりました。ご実家のお墓へ行かれたそうです」沙耶の実家の墓は、山の中腹にあった。雨でぬかるんだ坂道を、和也は革靴が泥だらけになるのも構わず駆け上がった。しばらくすると、墓石の前にしゃがみ込んで
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第7話
母が息を引き取ってから、私は一度も泣かなかった。葬儀の手配も、役所への届け出も、必要なことはすべて自分で済ませた。叔父が何度も泣き崩れて動けなくなるたび、そばで支えて声をかけたのも私だった。周りからは、気丈だとか、しっかりしているとか、何度も言われた。でも、強かったわけじゃない。母が亡くなったことを、まだどこかで受け止めきれずにいた。ただ悲しすぎて、涙さえ出なかっただけだった。葬儀を終えて3日目、私は誰もいなくなった実家で、母の遺品を整理していた。箱の底から、編みかけの赤いセーターが出てきた。次の正月に私が帰ってきたら渡そうと、母が少しずつ編んでいたものだった。首元はもう少しゆったりさせたほうがいいかしら――そう言いながらセーターを編んでいた母の姿を思い出した。セーターを手に取ると、柔らかな毛糸が指先に触れた。その瞬間、ずっと張りつめていたものが切れた。「お母さん……っ」セーターを胸に抱きしめたまま、私はその場に崩れ落ちた。一度あふれ出した涙は、なかなか止まらなかった。息が苦しくなるほど泣き、声も出なくなる頃には、どれだけ時間が経ったのか分からなくなっていた。ようやく少し落ち着いて顔を上げると、鏡の中には、ひどくやつれた自分が映っていた。そのとき、叔父から聞いた母の最期の言葉を思い出した。母は最後まで、自分のことは沙耶のせいじゃないから責めないでほしい、あの子にはちゃんと生きてほしいと叔父に言い残していたそうだ。母が最後まで願っていたのは、私が「ちゃんと生きる」ことだった。和也の言うままに暮らし、自分の気持ちまで押し殺して生きていく。そんな毎日を、母が望んでいたはずはない。もう、あの人のそばに戻るつもりはなかった。私は涙を拭い、セーターを丁寧に畳んで箱に戻した。それからスマホを手に取った。電話をかけた相手は、大学時代の同級生だった。卒業後に弁護士になり、離婚問題を多く扱っていた。「もしもし。私、離婚したいの。できるだけ早く進めたいんだけど、お願いできる?」それから3日後、私はS市へ戻った。和也のいる家には戻らず、そのまま同級生の法律事務所へ向かった。次に和也と顔を合わせたのは、離婚の条件を話し合う場だった。私は黒いスーツに身を包み、髪も短く切っていた。向かいに
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第8話
3か月後。S市はすっかり秋も深まり、街路樹の色づいた葉が歩道に積もっていた。鏡の中の私は、以前よりずいぶん痩せていた。でも、もう和也の顔色をうかがっていた頃の自分とは違っていた。離婚に向けて、私は和也の不倫の「料金表」や、生活費を止められた記録を一つずつ揃えた。母の治療費をすぐに用意できなかった経緯も時系列で整理し、すべて弁護士に渡した。それでも和也は離婚を拒み、今度は何とか私を引き止めようとした。会社の前で待ち伏せし、大きな赤いバラの花束を抱えて、社員や通行人が見ている前で土下座したこともあった。LINEも毎日のように何十通と届いた。最初のうちは、「沙耶、俺が悪かった」と謝るばかりだった。それがしばらくすると、「戻ってきてくれるなら、会社の株を半分渡す」に変わった。そんなLINEが届くたび、気持ちは冷めていくばかりだった。和也は、私がどうして戻らないのか、まだ分かっていなかった。亜美との不倫も、妊娠のことも、もちろん許せなかった。でも、私が本当に耐えられなかったのは、それだけじゃない。和也は、お金さえ握っていれば、私にいつでも言うことを聞かせられると思っていた。生活費を止め、口座まで使えなくして、私が折れるのを待っていた。そのせいで、母を助けたいときにさえ、必要なお金をすぐに用意できなかった。あのとき、ようやく気づいた。和也は、私を妻として大切にしていたわけじゃなかった。お金さえ渡しておけば、自分のそばに置いておけると思っていたのだ。そんな和也のもとへ戻る気は、もうなかった。一度だけLINEを返した。それが、和也に送った最後のメッセージだった。【お金で何でも解決できると思うなら、もう好きにすればいい。私はもう戻らない】会社の株を半分もらう気はなかった。私が受け取ったのは、もともと自分の持ち分だった株と、それに見合う不動産だけで、それ以上は求めなかった。これからの生活は、また自分で築いていけばいいと思っていた。この3か月で、私はこれまでの仕事で得た経験と人脈を生かし、投資コンサルの会社を立ち上げた。まだ規模は小さかったが、そこで得た収入はすべて、自分で働いて稼いだものだった。もう、どこへ行くにも誰かに報告する必要はなかった。何を言えば機嫌を損ねるかと気を遣うことも、S
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第9話
離婚が成立して間もなく、和也の生活は一気に崩れていった。それまで、和也がお金を出してくれるうちは何でも言うことを聞いていた亜美も、子どもが生まれたら私に渡すつもりだったと知り、さらに杉本グループの株価が急落して資産の一部まで差し押さえられると、態度を変えた。子どもを抱いたまま杉本グループの本社まで押しかけ、社員が見ている前で大騒ぎしたらしい。「こんな借金だらけの人に、この子まで巻き込まれたくない。養育費を払わないなら、こっちだって弁護士に相談するから!」その騒ぎまでSNSで拡散され、和也への批判はさらに強まった。取引先は次々と離れ、銀行からの督促も途切れなかった。以前は「愛妻家の鑑」ともてはやされ、「若手のやり手経営者」としても注目されていたが、今ではそのどちらの評価もすっかり地に落ちていた。そんな騒ぎが続いていたある日の夕方、仕事を終えて会社を出ると、少し離れた植え込みの脇に和也がしゃがみ込んでいた。無精ひげを生やし、頬はすっかりこけていた。以前はいつもきれいに着こなしていた仕立てのいいスーツも、今ではしわだらけだった。私に気づくなり、和也は慌てて立ち上がった。「沙耶……」駆け寄ってきたものの、伸ばしかけた手は、私に触れる前に止まった。「亜美はもういない。子どもも手放した。会社だって、もうどうでもいい。沙耶が戻ってきてくれるなら、もうそれだけでいい。ほかには何もいらない……」声は震えていた。「俺が悪かった。口座を止めたことも、亜美にスマホを渡したことも……全部、俺のせいだ。沙耶たちが何度も電話してたことも、お母さんが倒れてたことも、本当に知らなかったんだ……」和也は涙も拭わず、何度も同じように謝った。以前なら、人前でこんな姿を見せることなど考えられなかった。けれど、そんな和也を見ても、もう腹は立たなかったし、責める気にもならなかった。昔のような気持ちは、何ひとつ残っていなかった。「和也」名前を呼ぶと、和也が顔を上げた。「今さら泣いてるのは、私にしたことを本気で後悔してるからじゃないよ。会社もお金も失って、亜美にも去られて、一人になったのが怖いだけでしょ」和也は何も言えなかった。「前は、私が和也のお金がなきゃ何もできないって、よく言ってたよね」私はそのまま続けた。「でも今
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