ANMELDEN私の名前は杉本沙耶(すぎもと さや)。 夫の杉本和也(すぎもと かずや)が、地元のSNSで一気に話題になった。つけられたタグは「愛妻家の鑑」。 きっかけは、会議の合間を縫って、和也が私にお金を振り込み、写真まで添えてこまめに連絡していた姿を記者に撮られたことだった。 コメント欄は、そんな和也を絶賛する声であふれた。 【こういう人が理想の夫なんだよね。愛って、結局お金の使い方に出るよね】 ゼロから会社を立ち上げ、上場を果たすまでの10年間、私たちはずっと二人三脚でやってきた。 一番苦しかった頃には、日雇いで働いて、二人がその日食べるものを買うのがやっとだったこともあった。 あの頃、和也は私に言った。 「会社が軌道に乗ったら、沙耶にはもう二度と、こんな苦労はさせない」 その言葉どおり、和也はどれだけ忙しくなっても、欠かさず私にお金を振り込んでくれた。 私はずっと、それが今も変わらず愛されている証だと信じていた――あの日までは。 その日、研修が予定より早く終わった。 和也を驚かせたくて、何も知らせずに家へ帰った。 寝室のドアが少しだけ開いていた。 中から聞こえてきたのは、途切れ途切れの女の声と、荒い息遣いだった。 「キスは1回20万円。寝るのは1回100万円。避妊なしなら、さらに60万円」 「昨日は7回もしたじゃない。しかも避妊なしで。和也さん、今度は沙耶さんにいくら振り込んで、機嫌を取るつもり?」 和也が低い声で言った。 「黙れ」 私はスマホを握りしめた。 画面には、昨夜和也から振り込まれた760万円が表示されていた。 寝た分が7回で700万円。それに、避妊なしの60万円を足して760万円。 振り込まれたときは、「たった数日の研修なのに、こんな大金いらないよ」と笑っていた。 今になって、ようやく分かった。 あのお金は、私を安心させるためのものなんかじゃなかった。 和也が不倫を隠し通すために私へ振り込んでいた、ただの埋め合わせにすぎなかった。
Mehr anzeigen離婚が成立して間もなく、和也の生活は一気に崩れていった。それまで、和也がお金を出してくれるうちは何でも言うことを聞いていた亜美も、子どもが生まれたら私に渡すつもりだったと知り、さらに杉本グループの株価が急落して資産の一部まで差し押さえられると、態度を変えた。子どもを抱いたまま杉本グループの本社まで押しかけ、社員が見ている前で大騒ぎしたらしい。「こんな借金だらけの人に、この子まで巻き込まれたくない。養育費を払わないなら、こっちだって弁護士に相談するから!」その騒ぎまでSNSで拡散され、和也への批判はさらに強まった。取引先は次々と離れ、銀行からの督促も途切れなかった。以前は「愛妻家の鑑」ともてはやされ、「若手のやり手経営者」としても注目されていたが、今ではそのどちらの評価もすっかり地に落ちていた。そんな騒ぎが続いていたある日の夕方、仕事を終えて会社を出ると、少し離れた植え込みの脇に和也がしゃがみ込んでいた。無精ひげを生やし、頬はすっかりこけていた。以前はいつもきれいに着こなしていた仕立てのいいスーツも、今ではしわだらけだった。私に気づくなり、和也は慌てて立ち上がった。「沙耶……」駆け寄ってきたものの、伸ばしかけた手は、私に触れる前に止まった。「亜美はもういない。子どもも手放した。会社だって、もうどうでもいい。沙耶が戻ってきてくれるなら、もうそれだけでいい。ほかには何もいらない……」声は震えていた。「俺が悪かった。口座を止めたことも、亜美にスマホを渡したことも……全部、俺のせいだ。沙耶たちが何度も電話してたことも、お母さんが倒れてたことも、本当に知らなかったんだ……」和也は涙も拭わず、何度も同じように謝った。以前なら、人前でこんな姿を見せることなど考えられなかった。けれど、そんな和也を見ても、もう腹は立たなかったし、責める気にもならなかった。昔のような気持ちは、何ひとつ残っていなかった。「和也」名前を呼ぶと、和也が顔を上げた。「今さら泣いてるのは、私にしたことを本気で後悔してるからじゃないよ。会社もお金も失って、亜美にも去られて、一人になったのが怖いだけでしょ」和也は何も言えなかった。「前は、私が和也のお金がなきゃ何もできないって、よく言ってたよね」私はそのまま続けた。「でも今
3か月後。S市はすっかり秋も深まり、街路樹の色づいた葉が歩道に積もっていた。鏡の中の私は、以前よりずいぶん痩せていた。でも、もう和也の顔色をうかがっていた頃の自分とは違っていた。離婚に向けて、私は和也の不倫の「料金表」や、生活費を止められた記録を一つずつ揃えた。母の治療費をすぐに用意できなかった経緯も時系列で整理し、すべて弁護士に渡した。それでも和也は離婚を拒み、今度は何とか私を引き止めようとした。会社の前で待ち伏せし、大きな赤いバラの花束を抱えて、社員や通行人が見ている前で土下座したこともあった。LINEも毎日のように何十通と届いた。最初のうちは、「沙耶、俺が悪かった」と謝るばかりだった。それがしばらくすると、「戻ってきてくれるなら、会社の株を半分渡す」に変わった。そんなLINEが届くたび、気持ちは冷めていくばかりだった。和也は、私がどうして戻らないのか、まだ分かっていなかった。亜美との不倫も、妊娠のことも、もちろん許せなかった。でも、私が本当に耐えられなかったのは、それだけじゃない。和也は、お金さえ握っていれば、私にいつでも言うことを聞かせられると思っていた。生活費を止め、口座まで使えなくして、私が折れるのを待っていた。そのせいで、母を助けたいときにさえ、必要なお金をすぐに用意できなかった。あのとき、ようやく気づいた。和也は、私を妻として大切にしていたわけじゃなかった。お金さえ渡しておけば、自分のそばに置いておけると思っていたのだ。そんな和也のもとへ戻る気は、もうなかった。一度だけLINEを返した。それが、和也に送った最後のメッセージだった。【お金で何でも解決できると思うなら、もう好きにすればいい。私はもう戻らない】会社の株を半分もらう気はなかった。私が受け取ったのは、もともと自分の持ち分だった株と、それに見合う不動産だけで、それ以上は求めなかった。これからの生活は、また自分で築いていけばいいと思っていた。この3か月で、私はこれまでの仕事で得た経験と人脈を生かし、投資コンサルの会社を立ち上げた。まだ規模は小さかったが、そこで得た収入はすべて、自分で働いて稼いだものだった。もう、どこへ行くにも誰かに報告する必要はなかった。何を言えば機嫌を損ねるかと気を遣うことも、S
母が息を引き取ってから、私は一度も泣かなかった。葬儀の手配も、役所への届け出も、必要なことはすべて自分で済ませた。叔父が何度も泣き崩れて動けなくなるたび、そばで支えて声をかけたのも私だった。周りからは、気丈だとか、しっかりしているとか、何度も言われた。でも、強かったわけじゃない。母が亡くなったことを、まだどこかで受け止めきれずにいた。ただ悲しすぎて、涙さえ出なかっただけだった。葬儀を終えて3日目、私は誰もいなくなった実家で、母の遺品を整理していた。箱の底から、編みかけの赤いセーターが出てきた。次の正月に私が帰ってきたら渡そうと、母が少しずつ編んでいたものだった。首元はもう少しゆったりさせたほうがいいかしら――そう言いながらセーターを編んでいた母の姿を思い出した。セーターを手に取ると、柔らかな毛糸が指先に触れた。その瞬間、ずっと張りつめていたものが切れた。「お母さん……っ」セーターを胸に抱きしめたまま、私はその場に崩れ落ちた。一度あふれ出した涙は、なかなか止まらなかった。息が苦しくなるほど泣き、声も出なくなる頃には、どれだけ時間が経ったのか分からなくなっていた。ようやく少し落ち着いて顔を上げると、鏡の中には、ひどくやつれた自分が映っていた。そのとき、叔父から聞いた母の最期の言葉を思い出した。母は最後まで、自分のことは沙耶のせいじゃないから責めないでほしい、あの子にはちゃんと生きてほしいと叔父に言い残していたそうだ。母が最後まで願っていたのは、私が「ちゃんと生きる」ことだった。和也の言うままに暮らし、自分の気持ちまで押し殺して生きていく。そんな毎日を、母が望んでいたはずはない。もう、あの人のそばに戻るつもりはなかった。私は涙を拭い、セーターを丁寧に畳んで箱に戻した。それからスマホを手に取った。電話をかけた相手は、大学時代の同級生だった。卒業後に弁護士になり、離婚問題を多く扱っていた。「もしもし。私、離婚したいの。できるだけ早く進めたいんだけど、お願いできる?」それから3日後、私はS市へ戻った。和也のいる家には戻らず、そのまま同級生の法律事務所へ向かった。次に和也と顔を合わせたのは、離婚の条件を話し合う場だった。私は黒いスーツに身を包み、髪も短く切っていた。向かいに
悠はうつむいたまま、和也と目を合わせようとしなかった。「突然の脳出血だったそうです。昨夜、緊急手術が必要になったんですが、ご家族が費用を工面している間に容体が急変して……今朝方、息を引き取られたそうです」和也は力が抜けたように椅子へ腰を落とした。手術の金が足りなかった?そんなはずがない。昨夜、沙耶には2000万円も振り込んでいた。あの金を使えていれば、母親を助けられたかもしれない。「なんで……なんで俺に言わなかったんだ……」和也は呆然としたまま、震える手を見つめた。「社長……」悠は言いにくそうに続けた。「昨夜、奥様の叔父様から何度も電話があったそうです。ただ、何度かけてもつながらなかったり、途中で切られたりしていたようで……」和也ははっと顔を上げた。切られた?そこでようやく、昨夜のことを思い出した。亜美から、妊娠中に必要なものを買いたいからスマホを貸してほしいと言われ、そのまま渡したのだった。それから朝まで、スマホには一度も触れていなかった。嫌な予感がして、すぐに通話履歴を開いた。昨夜、浩司と沙耶から何度も着信が入っていた。時間を確認した途端、指が止まった。どれも、沙耶の母が倒れたあとにかかってきたものだった。短い間隔で何度も着信があり、中には数秒で切れていたものもあった。昨夜、スマホはずっと亜美の手元にあった。沙耶も浩司も何度も電話をかけていたのに、和也は何も知らず、亜美の隣で眠っていた。その間に、沙耶の母は亡くなっていた。「車を用意しろ!」和也は勢いよく立ち上がった。その拍子に、背後の椅子が倒れた。悠が車を手配するのも待てず、和也は自分で駐車場へ向かった。そのまま車を飛ばし、高速道路に入ってからもほとんど速度を落とさなかった。沙耶の地元の総合病院に着いた頃には、すっかり夜も更けていた。受付で確認すると、母親の遺体はすでに葬儀社の安置施設へ移されたあとだった。沙耶も病院にはいなかった。そのとき、悠から電話が入った。「社長、奥様の居場所が分かりました。ご実家のお墓へ行かれたそうです」沙耶の実家の墓は、山の中腹にあった。雨でぬかるんだ坂道を、和也は革靴が泥だらけになるのも構わず駆け上がった。しばらくすると、墓石の前にしゃがみ込んで