成子に聞かれ、他の三人が俯いてカップを覗いたのを見た。 由樹も下を見てコーヒーの表面を眺めるふりをしながら、 上目遣いで三人を観察した。みんながどう考えているのか知りたかった。 ここが今日の正念場と言っても良いだろう。 これ以上殺人の話を進展させてはいけない。 そうすれば、 元の比較的平穏な生活に戻ることができる。 「成子さん。 その、 まだこの話題を口にするのは、 ちょっと。 ねえ」 清江が明らかに困惑しながら言った。 計画を実行するかよりも、 成子の早まっている様子に驚いているような言い方だ。だが清江も殺人に乗り気ではないことが察せられた。 「清江さん、 よく考えて下さい。 殺害をするのに適したタイミングなんてないのですよ。 言えばいつでも行動して結果を得ることだってできるということです。 早くするだけ、 皆さんが望む生活が一刻も早く手に入るということになるのです。 早めに計画を立てるに越したことはないでしょう」 成子は清江の心配そうな顔を気にもせず、 自身の考えを開陳した。 明美が成子の言っていることは正しいと思ったのか、 顔を上げてコクコク頷いていた。 今の生活から一番脱却したいと考えているだろう明美は殺人をすることになっても反対しないに違いない。 「どう思いますか、 明美さん」 明美の顔を覗き込んで成子は満面の笑みで笑いかけていた。 明美が殺人に傾きそうな気配を察して聞いているのだろう。 だが成子がどうしてそんなに殺人をしたいのか理解できなかった。 「私もなるべく早くした方が良いと思います」 伏し目がちになって成子に同調した。 「ちょっと、 本気で言っているんですか」 清江が明美に突っかかった。 「ええ、 うーん。 ちょっ、 やっぱダメですかね」 明美は初対面の他人に責められたためか、 ビクついた。 由樹はそんな明美の姿勢に腹が立った。 簡単に自分の意見を曲げる人間が大嫌いだ。 夢を捨てきれていない隆広を見ているかのようだった。 「どっちなんですか、 明美さんは殺人なんかできるのですか、 できないのですか?」 由樹は身を乗り出して思わず明美に強く当たった。 彼女は由樹の顔を見ないようにコーヒーカップを見たまま動かない。 「そんな強く責めないであげて下さ
星乃珈琲に到着すると窓際の六人がけの席に案内された。ナルとリカと由樹が窓を背にした奥の椅子に座り、A子と五十代女性が手前の椅子に座った。由樹はA子のことを注視した。彼女は店に入ってからもキャスケットとマスクを外さなかった。旦那からの暴力によって顔が相当酷い状態になっているのだろう。全員が飲み物を注文して、店員が持って来てくれるまで誰も口を開かなかった。店員に聞かれる恐れがあるため、無闇に殺人計画のことを喋れなかった。「何だか緊張しますね」コーヒーを一口飲んでからナルは喋り出した。全員が作り笑いをした。笑っていられる状況の人間は一人もいないはずだ。「まずは自己紹介しますか」由樹は空気を換えるために率先して提案した。「そうですね、そうしましょ」リカが反応してくれる。「じゃあ、最初リカさんお願いしてもよいですか。リカさんから時計回りでしましょう」ナルの指示通りに自己紹介が始まった。「リカという名前でデスノートやってました。アンジェラです。出身はフィリピンのパンパンガです。よろしくお願いします。四年前にお金のためにフィリピンから日本に移住しまして、パブで働いています。その時、配偶者ビザを貰うために偽装結婚した相手と暮らしてます。その暮らしが嫌なんです。よろしくお願いします」リカことアンジェラは達者な日本語でしっかりと身の上話もした。由樹の予想は百パーセント的中していた。次の人からも現在の境遇について話さなければいけないことになった。自分だけ秘密主義は良くないだろう。由樹の中で線香の煙みたいにヒュルヒュルと不安感が立ち上って来た。嘘を言うべきか、本当のことを言うべきか、どこまでの嘘を言うべきか、また悩み始めた。「ナルという名前でやってました成子といいます。名前のナルコからナルと名乗っていました。私も旦那の存在に手を焼いております。家にいる時は寝っ転がっているだけ。金の稼ぎも大したことない。家事が一つでもできる訳でもない。どうしてこんな人と一緒にいるんだろうって、毎日不満で一杯です。でも、多分皆さんの方が苦労されているように見えますので、私は皆さんの幸福な生活を得るために少しでも助力できたらなって思っています。よろしくお願いいたします」由樹の番になった。やはり嘘を吐くことに
渋谷駅のハチ公前に到着した。 相変わらず人の数が多い。 スマホを取り出して旦那デスノートから、 コミュニティのチャットスペースを開いた。〈到着しました〉〈私もいます〉 A子からメッセージが帰って来た。 自然と体がビクンとなった。この人混みの中に殺人を考えているA子がいると思うと、自分も同族のはずなのに一気に現実感が薄くなる。 何やら今までの人生とは繋がりがない、 別次元の渋谷に立っている気がした。〈どんな格好をしていますか〉 由樹が聞くと、A子が自分の服装の特徴を書いて送って来た。 黒のブラウスに黒のストレートパンツという上下黒の格好で分かりやすい服装をしているようだ。 目深にキャスケットも被っていると教えてくれた。 辺りを見渡すと、A子らしき人物を見付けた。上下黒でキャスケットを被っている女性がJR線の改札の前に立っていた。〈見つけたので、そちらに向かいます〉A子に向かって近づいた。A子も由樹に気付いたらしく固まってこちらを見ていた。彼女の目線は由樹の方から逸らすことができなくなっていた。 彼女の眼前に近付くと、 A子は急に目線を逸らしてスクランブル交差点にある大型ビジョンを見始めた。キャスケットを深く被って大きめのマスクをしていたため、顔が見えなかった。「A子さんですか」 彼女は消え入りそうな声で肯定した。 全く顔は見えないが、 恐らくお世辞にも美人とは言えないような人なのだろうと見た。 身長は平均くらいで由樹よりも頭一つ分ほど小さかった。体は異常に痩せ細っているように見えた。幸薄そうな白灰色のオーラが全身から醸し出されている。この女が殺人を考えているという事実に、ヌメリとした気持ち悪さのようなものを感じる。「名無しさんですか」「そうです。 今日はよろしくお願いします」 丁重に腰を曲げて挨拶した。 A子も彼女に倣った。「何だか久々にまともに人と会話したような気がします。ありがとうございます」A子は完全に憔悴しているようだ。マスクと帽子の間から見える眼球はゴミが詰まった水晶のように濁っていた。「今から二人来るみたいですね。 ナルさんと五十代女性さんが渋谷に着いたみたいです」由樹はスマホの画面でチャットをA子に見ながら言った。しばらくすると、年を召して痩せ細った短
※今日も仕込みの仕事のため隆広は早めに家を出た。彩花を保育園に送り届けてから、一人で朝食を取った。今日は金曜日。五人で集まる約束をしていた日だ。皮肉な晴天とはまさに今日だ。会話する場所は渋谷のハチ公口近くにある星乃珈琲だった。静か過ぎるところで喋るよりも人が多くいるところが良いだろうというナルの発案だった。由樹はまだ行くべきか迷っていた。他の人はどうするつもりなのかリカにでも尋ねたかった。だが、あのコミュニティで聞けば、リカ以外の人も自分の発言を見ることができる。行った場合、殺人をすることになる確率は五十パーセントだ。行かなければ殺人をする確率はゼロパーセントだ。そう考えれば絶対に行かない方が良い。だが他の四人の会話を聞いた以上、自分の身に危害が及ぶ可能性も考慮しなければならない。ならば、行って殺人をやめるように説得することが得策だとも考えられた。彼女たちは人を殺そうとしている。会話を聞いた上で来なかった人間も口封じのために殺そうと考える可能性も無きにしも非ずだ。あんなチャット機能などどうして付けたのか。管理人の死神の神経を疑った。ストレス解消のための投稿サイトだったにも拘わらず、本当の殺人を促すとはとんでもない人間だ。洗面所に行き、鏡を覗き込んだ。自分でも惚れ込んでしまうほど、色白で美人な女性が立っていた。隆広が褒めてくれた美貌が綺麗に映し出されている。このままの生活を失いたくない。熱烈にそう思う。自分が犯罪者になる可能性があると分かった瞬間に、平穏な日常がどれほどありがたいものかを理解することができた。鏡に向かってニコッと笑いかけた。薄桃色の唇の口角が綺麗に上がる。口元に皺がよることもなく滑らかに白い肌がうねる。目を見開いて白目の白さを確認した。血管が一本も見えず、オパールのように美しい。髪の毛を手櫛で整える。鎖骨の辺りまで伸びた髪の毛先は横に広がることなくまとまっている。溜め息が出た。自己肯定感の裏に隠れる自信のなさが思考を止めると自然と沸き出る。自分の弱さに嫌気が差す。テーブルに腰かけ、旦那デスノートのコミュニティに入ってみた。自分と同じように行くか迷っている人がいないかどうか確認してみた。五十代女性が二十分ほど前に発言していた。〈皆さん、本当
※ 成子成子は埼玉県秩父市のアパートに移った。これも夫からの指示だ。部屋に入ると居室は二室あり、廊下に小さなキッチンがある。キッチンも居室も段ボールとプチプチと呼ばれる気泡緩衝材で覆われていた。薄暗い部屋の中、一人で灰色のソファに座った。夫と知り合った際に一緒に上京してカフェを開こうとお願いしたことがある。夫に反対されてこの話はなかったことになったが、今でも気持ちは残っていた。実際に夫はいないが関東には来ることができた。成子の体内に手毬ほどの大きさの期待感が生まれていた。ここで夫の望み通りの働きができれば、彼も認めてくれるのではないかと淡い期待だ。仄暗い部屋の中で時計がカチャカチャ音を立てながら秒針を刻む。 夫にはやるべきことが伝えられている。成子は旦那デスノートの新しいチャットの機能を使って、まずは馬鹿を集める。現在、A子、リカ、五十代女性、名無しという女たちと会話をしている。まずはコイツらを夫のために犠牲にしようじゃないか。 「待っていてね。雄作さん」成子の声は段ボールや気泡緩衝材に吸い込まれて響かなかった。いつかは貴方とカフェを経営したいですと声は届かなくても願いは込めた。無味無臭の部屋の中に甘ったるい匂いがしたような気がした。コーヒーと一緒に大きなショートケーキを売りたい。 ※ 由樹隆広が仕事から帰宅して来た。由樹は隆広と娘の彩花の声を聞きながらカレーを煮込んでいた。周囲から見たら何の不満もない一般的な家庭に見えるだろう。だが、この一家も最悪なことが起きれば崩壊する。今日の昼間の旦那デスノートでのやり取りを思い出した。〈じゃあ、皆さんの旦那さんを順番に殺してしまいますか〉ナルという名のユーザーが発した言葉だ。その発言に対して死神が後押しした。〈イイですね。それで皆さんの人生は一気に晴れると思いますよ〉他の四人は何も言わないうちに同意したと見做されて会話は終了した。奇跡的に全員東京とその近辺の県に住んでいた。今度の金曜日に渋谷のハチ公改札前で五人集まることに決まった。本当にそれぞれの旦那を殺すかどうかその日に決める予定になった。「今日はカレーか。いいね」いつの間にか隆広が隣に立っていた。ビックリして大きな声を出た。「どうしたの、急に大きな声を出し
死神とは確かここのサイトの管理人の名前のはずだ。管理人がどうしてこのコミュニティに入って来たのか。それぞれのコミュニティを覗いているのだろうか。今朝作ったばかりの機能が役割を果たしているか確認しに来たのかもしれない。〈どうも、旦那デスノート管理人の死神です。皆さんの会話をお聞きしていました。すみません、勝手に覗き込んでおりまして〉死神の発言に驚いた。管理人はコミュニティに参加した時点より前の会話も閲覧できるようだ。管理者なのだから当たり前だ。死神は連続で発言を送信した。〈皆さん、本当はもっとたくさんの口汚い悪口を言いたいのだと思います。もっと旦那の愚かな部分を共有して、心底からのデトックスをしたいに違いあるません。死神には全てお見通しですよ。いつも皆さま当サイトに投稿して下さっているのですから〉〈ええ、確かにそうですが〉A子が初めて死神に反応した。〈そうでしょう。ですからもっと旦那のクズなところを言い合うのです。だってそのためにここのグループに入って会話を始めたはずですからね〉死神の言っていることは正当な言い分だった。由樹は何を書こうか迷っているとナルが発言した。〈そうですよ。こんな普通の会話をしていては駄目ですね。死神さんありがとうございます。私たちはお互いの胸襟を開いて、人間のゴミクズ、つまりは旦那との生活の灰汁を絞り出してみんなで共有し合って傷を癒していくことが大事なのですね。いつも通りに旦那を晒し首にするべきなのですね〉〈そういうことです。これまでは投稿によって共感を得ていました。だが、本当に心の底から鬱憤が晴れましたでしょうか? 投稿だけでは限界があるのです。リアルタイムで会話が流れるチャット機能ですと、ハイクオリティのコミュニケーションを取ることができます。質の良いコミュニケーションの手段に使われた言葉もその分重みを得るでしょう〉死神の長広舌は続く。二吹き出し連続で発言が投稿された。〈チャットならば、皆さんの想いはここにいる全員に百パーセントに近い形で伝えることができます。会話に重みがありますから皆さんの苛立ちの重量も伝わるのですね。そういう会話が発生することは死神が一番に望むこと。皆さんは憤りを少しでも減らして旦那の死を願い続ける。これが大事なのです〉〈そう