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第四十八話

last update Last Updated: 2025-07-10 10:38:04

 咲月が挙動不審だったのがいけなかった。急に顔を背けて声を震わせたから、羽柴は何か体調でも悪いのかと心配してくれただけだ。彼はいつも咲月の変化をよく見ていてくれる。咲月のデスクを社長室へ移動させたのだって、初めの頃は笠井とあまり仲良くできていなかったから気を使って席を離してくれたのだと、最近になってから気付いた。

 今だって、他のスタッフが出勤してくる前にできるだけ一人きりにならないようにと時間を使ってくれている。多分、咲月が知らなかっただけで彼は他にもいろいろと気を回してくれていたはずだ。だって、デザイナー達が同時に外へ出ることはほとんどなく、常に誰かがオフィス内にいることが多い。そのスケジュールを調整しているのは全て社長である羽柴。

 大学を卒業したばかりの社会人一年生の咲月が職場に対して居心地がいいと感じることができるのは、きっと彼のおかげだ。顧問弁護士である敦子からの紹介は何かしらの下心があって受けたんだろうけど、何がキッカケだったとしてもこのオフィスに就職させてもらえて良かったと心底思っている。

 最初の内定を取り消されて就活を一からやり直すことになって、どん底で惨めな気分だった咲月を救ってくれたことは決して忘れない。彼との出会いがなければ、きっと今頃は実家に強制的に戻らされていたはずだ。

「咲月ちゃん? 体調がすぐれないなら、休憩室のソファーでも横になった方が……」

「い、いえ、何ともないですっ。全然、平気なので!」

 赤くなった顔を手で覆い隠して棚にうつ伏せてしまった咲月に対して、すぐ真横から羽柴が声を掛けてくる。その声があまりにも近くから聞こえて、咲月は驚いて顔を上げる。

 吐息がかかりそうなほどの至近距離。熱がないかと心配した羽柴の手が咲月の頬に触れてこようとする。嫌なら簡単に払い除けることができるほど、そっと慎重に伸ばされた指先を咲月は身動きせずに受け入れた。

 羽柴の手は咲月とは比べ物にならないくらい大きくて、長い指先にはマニキュアが映えそうな整った爪。たくさんのデザインを生み出してきたその指が、愛おしむように咲月の頬を包み込んでくる。熱を持って火照った肌よりも、羽柴の手の方がさらに熱く感じたのは、珈琲が入ったカップを持っていたせいだろうか。

「……うん、熱はないみたいだね」

 ためらいもせずにすぐ離れて行く手を咲月は無意識に視線で追いかける
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  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十九話

     翌日の朝、咲月が出勤するとすでにオフィス内の照明が付いていた。でも、建物の前の駐車場に羽柴の車は見当たらず、どうしたんだろうと思いつつ中へ入ると、出迎えてくれたのはまだ眠そうな平沼の欠伸を堪えた顔だった。「おはようございます。平沼さん、お一人なんですか?」 室内を見回してもやっぱり羽柴の姿はない。平沼も残業した時用にと鍵を持たされているのは知っているから、今日は彼が一番乗りだったんだろうか。珍しいこともあるものだ。「うん、社長は今日はオフィスには来ないみたいっす。ずっと外回ってるって」「あ、そうでしたね」 彼がこんなに早くに出勤してきたのは昨日、咲月と約束したからだ。仕事終わりに駅前に新しくできたという洋風居酒屋に一緒に行くことになった。 ――平沼さんと二人きりって言われても、あまりピンと来ないんだけど。 歳が近いせいもあるし、彼の人懐っこいワンコ系の性格のおかげで、二人だけで話していても少しも緊張したことはない。気の合う男友達みたいな感覚って言ったらいんだろうか? 羽柴へと感じる緊張感やドキドキは一切ない。「さ、今日の仕事はさっさと終わらせて、久しぶりに定時で上がってやるぞー」 気合いを入れるように腕を天井に向けて伸ばし、平沼は自分自身に言い聞かせていた。いつもは出勤してすぐはパソコンのモニターを眺めながらタスクリストの確認をしたりして、ぼーっと過ごしている時間が長いのに。今日は来て早々で作業へと取りかかっている。 羽柴をオフィスで見ないままだったけれど、それでもその日の勤務は滞りなく終えることができた。川上と笠井も今日は外回りの予定は無かったらしく、一日中デスクに向かって仕事をしていた。途中で商談の来客が二件ほどあったりして、笠井も外へ出てのランチは無理だとコンビニで買って来たというサンドウィッチを休憩室に持ち込んでいた。営業職がメインになってからランチ合コンは全然参加してないみたいだ。 最近ではずっと一人だけだった定時上がり。平沼と並んでオフィスを出て、駅前のビルの地下階段を降りていく。深みのあるオレンジ色の照明がちょっと大人な雰囲気を醸し出している洋風居酒屋。系列店舗にパスタ専門店

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     咲月が挙動不審だったのがいけなかった。急に顔を背けて声を震わせたから、羽柴は何か体調でも悪いのかと心配してくれただけだ。彼はいつも咲月の変化をよく見ていてくれる。咲月のデスクを社長室へ移動させたのだって、初めの頃は笠井とあまり仲良くできていなかったから気を使って席を離してくれたのだと、最近になってから気付いた。 今だって、他のスタッフが出勤してくる前にできるだけ一人きりにならないようにと時間を使ってくれている。多分、咲月が知らなかっただけで彼は他にもいろいろと気を回してくれていたはずだ。だって、デザイナー達が同時に外へ出ることはほとんどなく、常に誰かがオフィス内にいることが多い。そのスケジュールを調整しているのは全て社長である羽柴。 大学を卒業したばかりの社会人一年生の咲月が職場に対して居心地がいいと感じることができるのは、きっと彼のおかげだ。顧問弁護士である敦子からの紹介は何かしらの下心があって受けたんだろうけど、何がキッカケだったとしてもこのオフィスに就職させてもらえて良かったと心底思っている。 最初の内定を取り消されて就活を一からやり直すことになって、どん底で惨めな気分だった咲月を救ってくれたことは決して忘れない。彼との出会いがなければ、きっと今頃は実家に強制的に戻らされていたはずだ。「咲月ちゃん? 体調がすぐれないなら、休憩室のソファーでも横になった方が……」「い、いえ、何ともないですっ。全然、平気なので!」 赤くなった顔を手で覆い隠して棚にうつ伏せてしまった咲月に対して、すぐ真横から羽柴が声を掛けてくる。その声があまりにも近くから聞こえて、咲月は驚いて顔を上げる。 吐息がかかりそうなほどの至近距離。熱がないかと心配した羽柴の手が咲月の頬に触れてこようとする。嫌なら簡単に払い除けることができるほど、そっと慎重に伸ばされた指先を咲月は身動きせずに受け入れた。 羽柴の手は咲月とは比べ物にならないくらい大きくて、長い指先にはマニキュアが映えそうな整った爪。たくさんのデザインを生み出してきたその指が、愛おしむように咲月の頬を包み込んでくる。熱を持って火照った肌よりも、羽柴の手の方がさらに熱く感じたのは、珈琲が入ったカップを持っていたせいだろうか。「……うん、熱はないみたいだね」 ためらいもせずにすぐ離れて行く手を咲月は無意識に視線で追いかける

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十七話

    「やっぱりこの並びが賑やかでいいねー」 六台のデスクが三台ずつ向かい合う並びを平沼は満足そうにしている。咲月が入社する前は笠井のデスクがお誕生日席になっていたし、多分それの状態が長かったはずだ。なのに平沼があまりにも嬉しそうにしているから、同僚として歓迎してもらえてるんだなと咲月も合わせて微笑み返す。 分かり易く機嫌のいい平沼とは対照的に相変わらず物静かな川上とは、最近あまり顔を合わせる時間が少なくなっていた。昼前出勤だし日中は笠井と一緒に外回りに出ていることが多く、咲月がオフィスにいる時間帯はいないことが増えたからだ。 笠井の隣の席の川上が、どこか雰囲気が変わったような気がして咲月は首を傾げる。髪型なんかは以前のままで、服のテイストも別に大きく変わってはいない。元々から川上は独特な色合わせをする人で、初めて合った時はそのちぐはぐさに驚いたはずだった。 ――あれ……? 何か、川上さんってこんなだっけ? シャツもパンツも上着も、以前の川上が着ていたのと色もデザインもあまり変わらないように見える。でも、なぜか今日はそれがしっくりきて、その独特の配色がとてもお洒落な印象を与えてくるのだ。その理由が分からずにモヤモヤしていると、向かいの席に戻ってきた笠井がこっそりと咲月へ耳打ちした。「川上さん、私が勧めたショップで服を買うようになったのよ」 「ああ、だから……」 「年齢を気にして落ち着いたお店で買ってたみたいだけど、彼の体型だと若い子向きのお店の方が合うわよって」 痩せ型で背の高い川上にはスリムなデザインが多い店の方がいいと、笠井がいくつか勧めたところ最近はそこで買うようになったらしい。選ぶ形やカラーは以前とあまり変わらないけれど、体型に合っているから着こなしに差が出て野暮ったさが消えたのだ。  元々、川上は色彩感覚に優れたデザイナー。洋服の色合わせに関して、その抜群のセンスが発揮でき、お洒落感がアップしたってことだろう。  咲月は心の中で「さすがです、笠井さん」と呟きながら、大きく頷き返した。 きっと服装以外にも川上にはいろいろと変化があったんだろうなと思いつつ、咲月はパソコンのモニターへと向かう。まだ決算なんかは経験していないけれど、通常業務の範囲は一人でこなせるようになってきた。それに伴って、笠井も出勤時間を一時間遅らせて営業の仕事に専念し始め

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十六話

    「うーっす」 処理を終えたファイルを戻しに社長室を出ると、パソコンモニターから顔を上げた平沼がいつも通りの適当な挨拶をしてくる。週末にまた自転車で走っていたのか、少し日に焼けた顔に人懐っこい笑顔を乗せて。 ――やっぱり平沼さんはワンコ系だなぁ。 他人に警戒心を抱かさない、裏表を感じさせない平沼だけれど、社長室で羽柴からデザイン案をチェックして貰っている時はさすがに緊張して表情が強張っていることが多い。そういうところも知っているからこそ、彼に対しては嫌悪感は湧かない。分かり易いタイプは安心感がある。  その平沼がちょっと難しい表情になって咲月へと聞いてくる。「泉川さんってさ、今は笠井さんから引き継いだ事務がメインだろ? だったら前みたいにこっちにデスク戻した方が効率良くないの?」 両腕に抱えていたファイルを棚に片付けている咲月のことを、怪訝そうに見る。使う資料をわざわざ運んで行き来するのは面倒じゃないかと、心配してくれているみたいだった。「そう言えば、そうですよね……」 平沼に指摘される前にも、咲月だってそう思ったことが無いわけじゃない。確かに社長の補助業務よりも最近は一般事務の仕事の方が多い。重いファイルや資料は全てデスクスペースの壁面にある棚に保管されている。以前の笠井はここでその仕事をこなしていたのだから、それを引き継いだ咲月が社長室内にデスクを置いているのは不自然だ。「川上さん達が戻って来たら、デスク運ぶの手伝うよ」 「でも、先に社長に確認取ってみないと。何か考えがあるのかもしれないし」 「あー……社長かぁ、何だかんだ理由付けてダメだって言いそうだけど、泉川さん的にはこっちの方が仕事はやり易くない?」 咲月は室内を改めて見回して、頻繁に使う資料の大半がこちらにあることを確かめる。どちらでも仕事ができないわけじゃないけれど、効率的なのは断然にこちらの方だ。  特に今日は先週末のこともあって、羽柴の顔をまともに見ることができない。変に意識してしまうくらいなら、デスクを移動させてもらった方がいいんじゃないかとも思えてきた。「打ち合わせを終わられたら、聞いてみますね

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十五話

     羽柴の言葉の真意が分からず、咲月は目をぱちくりさせる。 ――それって、スタッフの一人としてだよね……? あえて確認するのも逆に恥ずかしい。こういう時の上手な受け流し方なんて知らない。パクパクと口を動かせてみるが、何の台詞も出てこない。大人なやり取りなんて咲月にはまだまだ難易度が高過ぎる。 前を向き直すと、次の角を曲がればマンションが見えてくるところまで来ていた。このまま何も反応せずにやり過ごすのが賢明な気がして、咲月は両手をぎゅっと握りしめてひたすらフロントガラスから見える景色に集中する。変に意識し過ぎたせいで、手の平が汗でじっとりと湿っていた。 そんな咲月のことを羽柴が小さく笑ったような気がした。それは別に揶揄われたりバカにしたようなものでも無かったから、咲月はそっと横目で運転席を盗み見る。 隣でハンドルを握っている羽柴の横顔はとても優しい笑みを漏らしていて、オフィスでは見たことがない表情だった。センター分けされた前髪の下には、少し茶色がかった瞳と長い睫毛。日本人離れしているというほどではないが、鼻筋の通ったはっきりとした顔立ちは男性ながらも美人と言ってもいい。思わず見とれていると、信号が赤に変わったタイミングで羽柴が振り向く。「ん、どうした?」「あ、いえ……っ」 小首を傾げて不思議そうに見てくる羽柴の瞳は、外灯と反対車線のヘッドライトとが写り込んで煌めいて、それが妙に色っぽく見えた。ドキドキと高鳴り始める鼓動を隣にいる上司に気付かれてしまわないかと、咲月は焦り出す。 信号が青へ変わり、ウインカーを出しながら右折した車は咲月のマンションの前でゆっくりと停車する。バッグを抱え直し、運転席の羽柴へと礼を言おうと振り向いた咲月の頬にハンドルから離したばかりの彼の左手が触れてくる。咲月の頬に掛かっていた横髪を退けてくれたみたいだったが、その仕草があまりにも自然でドキッとしてしまった。 さっきの『愛おしむ』が頭の中でリフレインし始める。「しゃ、社長……?」「今日はお疲れ様。おやすみ」「えっと……おやすみ、なさい。――じゃなくて、送っていただいて、ありがとうございました」 ペコリと頭を下げてからドアを開けて車から降りる。「失礼します」と閉めながら運転席を覗くと、羽柴は変わらず優しい笑みを浮かべて咲月のことを見ていた。思わず「もう少し一緒にいたい

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十四話

     デザートのおかわりのチョコアイスを頬張っている時、叔母がニヤニヤと意味深な笑い顔を浮かべていたのは、きっと酔っぱらっているせいだと咲月は思い込んだ。一応は仕事上の接待の場なのに、そんな気の抜けた顔をしてと、逆に敦子のことを心配してしまったくらいだ。 食事会が終わり、咲月は当たり前のように乗り慣れた立石の車の方へ歩いていく。叔母達のマンションへの通り道に咲月の部屋はあるから、ついでに乗せていって貰うのが効率的だと思ったのだ。 でも、「咲月ちゃんは、こっち」と羽柴から腕を掴まれ、助手席のドアを開けて促される。来る時に「ちゃんと家まで送り届ける」と言ってくれたのはどうやら社交辞令じゃなかったらしい。「え、でも……」 行きと同じく、また羽柴のことを遠回りさせてしまうことになる。どうすればいいのか分からず、敦子の方を振り返ってみるが、叔母はまたニヤニヤと笑うだけだ。「それでは羽柴社長、咲月のことはくれぐれもよろしくお願いします」 そう言って、自分はあっさりと恋人の車の助手席に乗り込んで、バタンとドアを閉めてしまう。立石も形式ばった会釈を羽柴へと送ってから運転席に座り、そのまま二人は夜道を自宅マンションの方角へと消えていった。 ――さすがにここから駅までは歩けないか…… 初めて訪れた店だから、いまいち土地勘もない。電車で帰るから最寄り駅までで構いませんというつもりで、咲月は羽柴の車へと乗る。 来る時とは違い、外灯の明かりだけが頼りの車内は羽柴が操作するウインカーのカチカチという音が大きく響く。カーナビのモニターを見ると、近くに駅が表示されていたから、そこへとお願いするつもりで隣のシートを見る。 対向車のヘッドライトの明かりに浮かんだ羽柴の横顔が、普段見るのとは少し違って見えて声を発するのを躊躇う。薄暗い中で見る年上の男性というのは、こんなにも大人っぽくて色気のあるものなのか。その隣に自分みたいなお子様が座っているのは、思い切り場違いな気がしてくる。「あ、あのっ、社長……」「ん、何?」「近くの駅で下ろして

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