「ちょっと座って待ってくれる?」
咲月に向かって、羽柴は顎をくいと動かして応接用ソファーを指し示す。言いながらも指先はキーボードから離れず、カタカタというキーの打音だけが室内に響き続ける。咲月の位置からは大きなモニターの陰になって羽柴の顔だけしか見えなかったが、そのとても厳しい目がこちらを向いたのは一瞬だけ。
言われるまま二人掛けソファーの隅っこに背筋を伸ばして浅く座ると、咲月は足下に立て掛けていたトートバッグから履歴書を取り出して待った。面接というのは何回経験しても全く慣れない。しかも惨敗続きなのだから、苦手意識は高まるばかりだ。
昨夜に慌ててプリントアウトし直した履歴書。この一年間、いろんな企業へ何枚も提出してきたが、ほぼ全て送り返されてきた――不採用通知書と共に。
タンというエンターキーを叩く音。それを皮切りにデスクチェアをくるりと回転させてから、ようやくこのオフィスの代表である羽柴智樹が腰を上げる。黒のストレートパンツにライトグレーのVネックニット、かなり緩められているネクタイは深みのある橙色。こないだの隙の無いスーツ姿とはかなり雰囲気が違う。というか、就活の面接でこんなラフな面接官は初めてだ。調子が狂う。
モニターに向かっていたのとは別人のような、余裕のある笑顔で羽柴が咲月の前に手を差し出してくる。
「お待たせしちゃったね。じゃあ、履歴書を見せてくれる?」
「は……はいっ」咲月の目前の席にゆったりと座りつつ、履歴書を入れた封筒を受け取る。そして、緊張で顔を強張らせている咲月のことをちらりと見てから、紙面へ軽く目を通していく。やや俯き加減になると、長い睫毛の動きで彼が今どの辺りを見ているのかがよく分かった。
「うん、この住所なら特に引っ越して貰う必要はないね。本採用は4月に入ってからになるけど、それまでもアルバイトとして来る気ある? 今は短期バイトしてるんだっけ?」
「え……?」酔っ払った敦子が会話の流れでさらっと話していたことまでを、羽柴が覚えていることに驚く。というか、今「本採用」という言葉が聞こえたような気がして、自分の耳を疑う。
いくら叔母のコネがあるとは言え、そんな即断はありなんだろうか。というか、履歴書を軽く見ただけで、羽柴からはまだ何の質問も受けていないのだが? スタッフとしての素質とか資格とか、確認されるべきことは山ほどあるはずだ。これまで志望動機を聞かれなかった会社なんて一社も無い。「ああ、バイトの件は別にどちらでもいいよ。その辺りの細かいことは、原田君――あ、さっき君を連れて来てくれた彼ね。彼と打ち合わせてくれるかな。じゃあ、そういうことで」
一方的に話を終えると、羽柴は席を立つ。そして再びデスクへと戻っていくのを、咲月は茫然と見ていたが、すぐ我に返って立ち上がると、「失礼します」とペコリと頭を下げ、慌てて部屋を出る。資料室のような羽柴の個室を出る際、後ろから半笑い気味の声が聞こえた気がするが、気のせいだろうか。
「期待してるよ」
咲月が部屋から出て来たことはドアを閉める音で気付いたらしく、長髪に丸眼鏡の原田がすぐに駆け寄ってくる。どのタイミングで羽柴から指示を得ていたのかは分からないが、オフィスのフロアでパーテーションで仕切られた商談スペースへと当然のように案内された。
原田は何かのメモを見ながら、順に説明し始める。普段そういった人事関連の業務は別のスタッフが請け負っているが、今は別件で出てしまっているのだと少し眉を寄せていた。余計な業務をイヤイヤやらされてる感が全身から漂っている。話を聞いていると、予想通りに彼はデザイナー職で普段はテレワークの方が多いらしく、たまたま出社したところに、人事担当者から業務を押し付けられたのだという。
「このファイルに就業規定と雇用契約書が入ってるらしいんで。あと、次に来る時までに住民票を1通用意しておいてください。ええっと、それから――」
入社書類一式が咲月の目の前のテーブルの上に広げられていく。ついさっき面接を受けてきたばかりで、これは用意周到過ぎる。まるで、前もって採用が決まっていたかのように。
――え、本当にあの面接で受かったの?
どう思い返してみても「はい」と「失礼します」くらいしか発した覚えがない。咲月が部屋を出入りするところだって、ほとんど見られてもいない。ということはつまり、
――さっきのは形だけの面接かぁ。結局、敦子叔母さんがいなかったら、就職先も見つけられないんだ、私……。
周りの同級生達なんて、一人で複数社から内定を貰ったりしているのに、自分はどこの面接にも受かることが出来無かった。実家を出て一人暮らしを始め、少しは自立できているつもりだったけれど、実際は全然だ。叔母の力を借りなければ働く会社さえ見つけられない。あまりにも非力過ぎて、情けなくなる。
とはいえ、コネ入社と言えど、叔母の名に恥じないよう頑張ろうという心意気だけは十分だ。咲月は一通りの入社手続きについて説明し終えた原田に向かって、意気揚々と質問する。
「入社までに勉強しておいた方がいいことって、何かありますか? 例えば資格とか、そういったものは――」
「えー、なんだろう……あ、車の免許って持ってます?」 「はい」 「なら、十分じゃないかなぁ。内勤だと車を使うことが多いだろうし」 「はぁ」叔母の七光りである咲月には何も期待されてないということか。そもそも自分はこの会社で何の仕事をする為に採用されるのかすら分かっていない。ここがデザイン会社だということは、名刺裏のQRコードを読み取って表示されたホームページで知った。お店の内装や看板、ウェブサイトなどを企業向けに提案しているらしい。そして、叔母が認めているくらいに業績は今のところ好調だということだ。
そんな会社で、自分に何ができるんだろうか。当然、知識もセンスも皆無だからデザインなんて無理。事務の経験もないし、せいぜい使いっぱしりくらいか。言われてみると確かに、外へお使いに出る為に社用車の運転は出来た方がいいのだろう。
「えっと、それから――入社前にもアルバイトに来るかもって聞いてるんだけど、それってどうなってます? 社長から何か言われました?」
「あ、どちらでもいいっておっしゃってました。安定して入れていただけるんなら、私は来週以降いつからでも」バイト先だったケーキ屋も閉店して、最近はずっと求人アプリで単発バイト情報を漁る日々だ。勤務先が毎回変わるのも最初は物珍しくて楽しかったが、さすがにずっとは気疲れする。配属先によっては派遣バイトは使い捨てだと思われているのか、無茶な業務も多くて心身共にヘトヘトになってしまう。できることなら同じところで腰を落ち着けて働きたい。
「了解です。だったら、アルバイト用の雇用契約書が別にあったはずなんだけど……すみません、僕じゃそこまでは分からないんで、今日は日程だけ決めさせて貰ってもいいですか? 必要な書類があれば、当日までには用意しといてもらうんで」
「はい、お願いします」 「基本的な勤務はカレンダー通りなので――」テーブルの隅に置かれた卓上カレンダーに手を伸ばして、原田が翌週の日付を確認する。次の月曜は人事担当のスタッフが確実にいるはずだからと、今日と同じ9時に来るよう指示された。
渡された契約書類をバッグにしまい込んで、咲月は何だかフワフワする気分でオフィスのドアを出る。来た時には電池切れだったセンサーが、軽やかな電子音を奏でて見送ってくれた。
「うーっす」 処理を終えたファイルを戻しに社長室を出ると、パソコンモニターから顔を上げた平沼がいつも通りの適当な挨拶をしてくる。週末にまた自転車で走っていたのか、少し日に焼けた顔に人懐っこい笑顔を乗せて。 ――やっぱり平沼さんはワンコ系だなぁ。 他人に警戒心を抱かさない、裏表を感じさせない平沼だけれど、社長室で羽柴からデザイン案をチェックして貰っている時はさすがに緊張して表情が強張っていることが多い。そういうところも知っているからこそ、彼に対しては嫌悪感は湧かない。分かり易いタイプは安心感がある。 その平沼がちょっと難しい表情になって咲月へと聞いてくる。「泉川さんってさ、今は笠井さんから引き継いだ事務がメインだろ? だったら前みたいにこっちにデスク戻した方が効率良くないの?」 両腕に抱えていたファイルを棚に片付けている咲月のことを、怪訝そうに見る。使う資料をわざわざ運んで行き来するのは面倒じゃないかと、心配してくれているみたいだった。「そう言えば、そうですよね……」 平沼に指摘される前にも、咲月だってそう思ったことが無いわけじゃない。確かに社長の補助業務よりも最近は一般事務の仕事の方が多い。重いファイルや資料は全てデスクスペースの壁面にある棚に保管されている。以前の笠井はここでその仕事をこなしていたのだから、それを引き継いだ咲月が社長室内にデスクを置いているのは不自然だ。「川上さん達が戻って来たら、デスク運ぶの手伝うよ」 「でも、先に社長に確認取ってみないと。何か考えがあるのかもしれないし」 「あー……社長かぁ、何だかんだ理由付けてダメだって言いそうだけど、泉川さん的にはこっちの方が仕事はやり易くない?」 咲月は室内を改めて見回して、頻繁に使う資料の大半がこちらにあることを確かめる。どちらでも仕事ができないわけじゃないけれど、効率的なのは断然にこちらの方だ。 特に今日は先週末のこともあって、羽柴の顔をまともに見ることができない。変に意識してしまうくらいなら、デスクを移動させてもらった方がいいんじゃないかとも思えてきた。「打ち合わせを終わられたら、聞いてみますね
羽柴の言葉の真意が分からず、咲月は目をぱちくりさせる。 ――それって、スタッフの一人としてだよね……? あえて確認するのも逆に恥ずかしい。こういう時の上手な受け流し方なんて知らない。パクパクと口を動かせてみるが、何の台詞も出てこない。大人なやり取りなんて咲月にはまだまだ難易度が高過ぎる。 前を向き直すと、次の角を曲がればマンションが見えてくるところまで来ていた。このまま何も反応せずにやり過ごすのが賢明な気がして、咲月は両手をぎゅっと握りしめてひたすらフロントガラスから見える景色に集中する。変に意識し過ぎたせいで、手の平が汗でじっとりと湿っていた。 そんな咲月のことを羽柴が小さく笑ったような気がした。それは別に揶揄われたりバカにしたようなものでも無かったから、咲月はそっと横目で運転席を盗み見る。 隣でハンドルを握っている羽柴の横顔はとても優しい笑みを漏らしていて、オフィスでは見たことがない表情だった。センター分けされた前髪の下には、少し茶色がかった瞳と長い睫毛。日本人離れしているというほどではないが、鼻筋の通ったはっきりとした顔立ちは男性ながらも美人と言ってもいい。思わず見とれていると、信号が赤に変わったタイミングで羽柴が振り向く。「ん、どうした?」「あ、いえ……っ」 小首を傾げて不思議そうに見てくる羽柴の瞳は、外灯と反対車線のヘッドライトとが写り込んで煌めいて、それが妙に色っぽく見えた。ドキドキと高鳴り始める鼓動を隣にいる上司に気付かれてしまわないかと、咲月は焦り出す。 信号が青へ変わり、ウインカーを出しながら右折した車は咲月のマンションの前でゆっくりと停車する。バッグを抱え直し、運転席の羽柴へと礼を言おうと振り向いた咲月の頬にハンドルから離したばかりの彼の左手が触れてくる。咲月の頬に掛かっていた横髪を退けてくれたみたいだったが、その仕草があまりにも自然でドキッとしてしまった。 さっきの『愛おしむ』が頭の中でリフレインし始める。「しゃ、社長……?」「今日はお疲れ様。おやすみ」「えっと……おやすみ、なさい。――じゃなくて、送っていただいて、ありがとうございました」 ペコリと頭を下げてからドアを開けて車から降りる。「失礼します」と閉めながら運転席を覗くと、羽柴は変わらず優しい笑みを浮かべて咲月のことを見ていた。思わず「もう少し一緒にいたい
デザートのおかわりのチョコアイスを頬張っている時、叔母がニヤニヤと意味深な笑い顔を浮かべていたのは、きっと酔っぱらっているせいだと咲月は思い込んだ。一応は仕事上の接待の場なのに、そんな気の抜けた顔をしてと、逆に敦子のことを心配してしまったくらいだ。 食事会が終わり、咲月は当たり前のように乗り慣れた立石の車の方へ歩いていく。叔母達のマンションへの通り道に咲月の部屋はあるから、ついでに乗せていって貰うのが効率的だと思ったのだ。 でも、「咲月ちゃんは、こっち」と羽柴から腕を掴まれ、助手席のドアを開けて促される。来る時に「ちゃんと家まで送り届ける」と言ってくれたのはどうやら社交辞令じゃなかったらしい。「え、でも……」 行きと同じく、また羽柴のことを遠回りさせてしまうことになる。どうすればいいのか分からず、敦子の方を振り返ってみるが、叔母はまたニヤニヤと笑うだけだ。「それでは羽柴社長、咲月のことはくれぐれもよろしくお願いします」 そう言って、自分はあっさりと恋人の車の助手席に乗り込んで、バタンとドアを閉めてしまう。立石も形式ばった会釈を羽柴へと送ってから運転席に座り、そのまま二人は夜道を自宅マンションの方角へと消えていった。 ――さすがにここから駅までは歩けないか…… 初めて訪れた店だから、いまいち土地勘もない。電車で帰るから最寄り駅までで構いませんというつもりで、咲月は羽柴の車へと乗る。 来る時とは違い、外灯の明かりだけが頼りの車内は羽柴が操作するウインカーのカチカチという音が大きく響く。カーナビのモニターを見ると、近くに駅が表示されていたから、そこへとお願いするつもりで隣のシートを見る。 対向車のヘッドライトの明かりに浮かんだ羽柴の横顔が、普段見るのとは少し違って見えて声を発するのを躊躇う。薄暗い中で見る年上の男性というのは、こんなにも大人っぽくて色気のあるものなのか。その隣に自分みたいなお子様が座っているのは、思い切り場違いな気がしてくる。「あ、あのっ、社長……」「ん、何?」「近くの駅で下ろして
羽柴が独立する前に勤めていたオフィスも敦子の顧客だと聞いているから、その関係で川上のことも知っているのだろう。「あの川上さんがどうなったの?」と身を乗り出す勢いで興味深々な反応をしている。 オフィスで顔を合わせる川上は相変わらず人見知り全開で、いつもパソコンモニターの陰に隠れていて表情が見えない。会話も必要最低限でボソボソと小声で話すのもそのままだ。けれど何となく雰囲気が明るくなりつつあるな、と咲月も最近感じ始めていた。それは具体的にどうと聞かれたら答えられないけれど……「彼は元々、色彩感覚に優れているデザイナーですからね。営業のサポートが付いてさらに活躍してくれると思います」「あら、営業って確か、以前は事務をされていた女性だったかしら?」「ええ。咲月ちゃんが来てくれたおかげで、本来の業務に戻すことができて助かってますよ」 羽柴の言葉に、敦子はやっと安心したらしく「ちゃんと働いてるのね」と咲月のことを幼い子を褒めるような目で見る。「叔母の私の目から見ても真面目な子ですから、社長の元でしっかり社会を学ばせていただけるとありがたいですわ」「ええ、それはもちろん」「で、その川上さんと営業の女性がいい雰囲気っていうのは?」 羽柴が上手く逸らせたはずの話題を容赦なく掘り返してくる。デリカシーが薄れた発言になるのは、叔母が酔っぱらってきた証拠。隣に座る立石がさりげなくワイングラスを遠ざけて、水の入ったグラスを敦子の目の前に置いていた。お酒が入るとこうなるのが分かっているから、敦子は普段から仕事がらみの接待を受けないようにしていたのかもしれない。 店内が混雑し始めたのか、個室のドアの向こうから他の客の笑い声が聞こえてくる。咲月は目の前の鉄板で仕上げられ、各自の皿に盛り付けられていくサイコロステーキを見守っていた。個室ごとにスタッフが付いて鉄板で焼き上げてくれるスタイルで、熱々の食材が順に提供される。次の食材が焼き上がるまで少しタイムラグがあるから、敦子もいつも以上にアルコールへ手が伸びてしまったのだろう。ちょっとペースが早い。「いえ、以前に少し感じていた二人の間の険悪さが消えただけですよ
夕方になりオフィスに戻ってきたばかりの羽柴の車の助手席へ、咲月は緊張しながら乗り込んだ。クライアントを梯子していたという羽柴は車のエンジンを切ることなく、オフィスへは一瞬顔を出しただけの多忙ぶり。少し疲れが滲み出た表情が心配になる。「言っていただければ、お店まで一人で向かったのに……」「そういうわけにはいかないよ、咲月ちゃんはうちの大事なスタッフなんだから。責任をもって、ちゃんと迎えに行くし家までも送り届けるつもりだ」 社長の外回り先を考えると咲月を迎えに来た分、かなり時間を食ったはずで、現地集合にしていた方が楽だったはずだ。それにきっと敦子叔母さんに言えば、一緒に車に乗せてって貰えただろう。 咲月が気を使ったつもりの言葉に、羽柴はちょっと拗ねたような顔を見せる。初めて見たその横顔に、咲月は少しばかりドキッとした。 ――原田さんが、変なこと言うから…… 可愛がられてるというのを、単なる子ども扱いの延長だと思い込もうとしていたのに、ビジネス以外の顔を不意打ちで見せられてしまうと、変な期待をしてしまう。 羽柴のことをそういう対象で見るつもりなんて無かったのに、ここ最近はおかしなことばかりだ。多分、七瀬がオフィスに訪れたことで彼の周りのそういうことを意識してしまったからだ。 彼があの打算的な女性のことを端から相手していなかったと聞いてホッとしたのは本当だ。 その後、車の中で二人でどんな会話をしたのかはあまり覚えてはいない。とにかく変な意識しないように、部下として振舞うことに必死だった。 今日の会食で使う店は羽柴が以前に言っていた、彼のお勧めのうちの一つらしい。「海鮮が美味しい鉄板焼き屋さんなんだけどね、しっかりお肉もあるから心配いらないよ」 初対面の印象が強いのか、彼はいまだに咲月のことを食べ盛りだ思っている節がある。まあ確かに食べるのは嫌いじゃないけど、と先日も叔母に向かって焼肉をリクエストしたところだったから咲月にも自覚はあるが。 店に着くとちょうど駐車場には立石の車が停められているところだった。その二つ隣のスペースに羽柴も駐車すると、四人で挨拶を交わしながら店の入り口へと向かう。「咲月、ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べているの?」 久しぶりに顔を合わせた敦子が、心配そうに顔を覗き込んでくる。電話やメールでやり取りすることは多
本格的に営業業務が中心となり始めた笠井のファッションは、以前のふんわり綺麗系オフィスカジュアルはほぼ封印されて、キャリアウーマン風スタイルへ変わっていていた。いわゆる形から入るタイプだったらしい。緩く巻かれていた髪はすっきりとアップにし、ウエストラインを強調したパンツスーツ率が高い。でも、スーツはどちらかというとベージュやライトグレーといった明るい色合いの物が多いところは着こなし上手な笠井らしく華やかで、いまだにスーツというと黒のリクルートスーツしか持っていない咲月にはとても参考になる。参考にはなるが、咲月にはさっぱり似合わない自信もある。 事務スペースの壁面棚から必要なファイルを探して抱えると、咲月は誰もいない静かなオフィス内を改めて見回していた。笠井と川上の二人は昼過ぎから取引先のところへ出掛けているし、平沼は今日は在宅ワークで出勤して来ていない。羽柴も別の商談で出ているし、今日の午後は夕方まで完全に一人きりの予定だ。誰もいないのに照明が点けっぱなしなオフィスには空調と冷蔵庫が唸る音くらいしか聞こえない。 と、普段と違う状況に少し寂しさを覚えていた咲月だったが、いきなり入口から聞こえてきた「いらっしゃいませ」という電子音に、思わず身体をビクつかせた。 これだけ人の気配が無い時は入口のドアが開く音で先に気付きそうなものだが、考え事をしていたせいか全く聞こえていなかった。普段はそうでもなかったはずなんだけど、今日はやけにセンサー音が大きく聞こえて、かなりビックリしてしまった。振り返って見ると、長髪を無造作に後ろで束ねた銀縁の丸眼鏡の男性が立っていた。四月の飲み会以来全く顔を見せていなかったデザイナーの原田だ。 彼は今日もデニムに黒色のジャケットを羽織っていたから、初めて会った面接の日のことを思い出す。飲み会は一瞬だけ顔を出して、速攻で帰って行ったから一言も喋ることはなかった。だから、咲月の彼への印象は面接の時で完全に止まってしまっている。「あ、原田さん、お久しぶりです」「ええっと……、お久しぶり、です」 少し困惑した表情の原田の反応から、きっと咲月の名前が思い出せないのだろうということはすぐに察した。けれど、それにはあえて触れなかった。よく考えたら、そんなことを弄り合うほど彼とは親しくはない。もし相手が平沼だったら速攻で突っ込んでいたかもしれないが