로그인「春野小春さん。今日でクビです」
社長室に入って早々、九条美月さんにそう告げられた。 私は手にしていた書類を、危うく床に落としかける。慌てて抱え直した拍子に、いちばん上の紙が一枚、ひらりと滑った。 「あっ」 拾おうと身をかがめた私より先に、東條蓮社長の手がその紙を押さえた。 「ありがとうございます」 受け取ろうと手を伸ばす。けれど蓮社長は紙を私に返さず、机の上に置いた。 「話を聞いてくれ」 いつもと変わらない、静かな声だった。 美月さんは蓮社長の隣に腰かけている。大手企業を束ねる九条家の令嬢で、当社の取締役でもあり、蓮社長の婚約候補だという噂もある人だ。 今日の彼女は淡い色のスーツを着て、困ったように眉を寄せていた。 「社長秘書の小春さんが、機密資料を外部に流した疑いがあるそうです」 「私が?」 「小春さんの社員証で、資料室に入った記録が残っています」 美月さんはテーブルの上に数枚の紙を置いた。社員証の入退室記録と、流出した資料の一覧らしい。 「でも、この時間、私は来客用の会議室でお茶を出して、それから――」 「その記録は確認した」 蓮社長が、私の言葉をさえぎった。 私は彼の顔を見た。視線は書類に落ちたまま、こちらを向かない。 「社長、私は資料を持ち出していません」 「君の社員証が使われた記録がある」 「社員証なら、昨日の午後、資料室の前で落としました。拾ってくださった方がいたんですけど、まさかそれが……」 言いながら、昨日のことを思い返す。 廊下で社員証を落とし、数分後にそのことに気づいて戻ると、誰かが拾ってくれていた。顔を見てお礼を言ったはずなのに、急いでいて相手の名前までは確認しなかった。 「その話は初耳です」 美月さんが小さく首を傾けた。 「では、その方を探して説明してもらいます。社員証の記録だけでは、私が資料を持ち出したことにはなりません」 「小春さん。会社の機密が外部へ流出したのよ。そんな曖昧な説明だけで済ませるわけにはいかないわ」 美月さんの声に、責める響きはない。それなのに、返す言葉をひとつずつ塞がれていくようだった。 蓮社長がようやく顔を上げた。目が合う。 「調査が終わるまで、君をこのまま秘書室に置くことはできない。今日は帰ってくれ」 胸の奥が、すうっと冷えた。 「……私を信じてくれないんですか?」 尋ねると、蓮社長の眉がわずかに動いた。けれど、答えは返ってこない。 三年間、私は彼の秘書として働いてきた。 忙しい日に昼食を食べ忘れた蓮社長へ、こっそり栄養補助食品を机に置いたこともある。彼が「これは何だ」と聞くので、「社長の昼食です」と答えたら、「昼食にしては小さい」と真顔で返された。 そのときは、少し笑ってくれた。 そんなささやかなやりとりを、私は勝手に信頼の証だと思っていたのかもしれない。 「わかりました」 喉が詰まりそうになるのをこらえ、私は頭を下げた。 「お世話になりました」 「小春さん、あなたのためでもあるのよ。退職手続きについては、会社の規定に沿って――」 「美月さん」 蓮社長が、初めて彼女の言葉を止めた。 その声は低く、少しだけ硬かった。美月さんは口を閉じ、彼の横顔を見つめる。 蓮社長はそれ以上何も言わず、私にも目を向けなかった。 私は社長室を出た。 デスクへ戻ると、同僚たちが気まずそうに視線をそらした。 私物を片づけるため、引き出しを開ける。ペン立て、手帳、予備のストッキング。 最後に、奥にしまっていた小さな鈴を手に取った。 赤い糸のついた、古びた鈴。十年前の火事のあとから、ずっと手元にある。けれど、誰からもらったのかは思い出せない。なぜこれを大切にしているのかも、うまく説明できなかった。 掌にのせると、ちりん、とかすかな音がした。 「小春さん……」 主任秘書の佐伯さんが、心配そうに声をかけてくれた。 「大丈夫ですか」 「はい。大丈夫です。あ、でも、急すぎて明日も普通に出社しそうです」 「……小春さんらしいですね」 佐伯さんは困ったように笑った。私も笑ってみせる。頬がちゃんと上がっているかは、自分でもわからなかった。 荷物を抱えて、会社を出る。 最後に一度だけ社長室を振り返った。 あの扉の向こうに蓮社長がいる。呼び止めてくれるかもしれない。やっぱり信じている、と言ってくれるかもしれない。 けれど、扉は開かなかった。 * 翌朝。 目覚ましを止めた私は、いつもの癖で「今日も頑張りましょう」と声に出しかけた。 急に、今日から出社できないのだと思い出す。私は枕に顔をうずめた。 昨日の「クビです」という言葉が、耳から離れない。夢ではなく現実だった。 これから仕事を探さなきゃ。履歴書を書いて、求人を調べて、まずは朝ごはんを食べよう。 そう考えていると、スマートフォンが鳴った。 画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねる。 東條蓮。 迷った末、私は通話に出た。 「もしもし」 『春野小春。今日から社長室付きの専属秘書として、戻ってきてもらう』 「……はい?」 思わず聞き返した。寝ぼけているのかもしれない。頬をつねると、ちゃんと痛かった。 「戻るって、私、昨日クビだと言われたばかりですけど」 『解雇は決めていない。君には戻ってきてほしい』 「でも、機密資料を流した疑いがあるんですよね?」 『君が流したとは思っていない』 昨日、聞きたかった言葉が電話越しに届いた。 私はスマートフォンを握り直す。 「だったら、どうして昨日は何も言ってくれなかったんですか」 短い沈黙のあと、蓮社長は答えた。 『詳しい説明は会社でする。今すぐ来い』 「今すぐって……急すぎませんか?」 『君は今日から俺の専属秘書だ』 当然のように言い切られて、言葉に詰まる。 「蓮社長。私の予定も気持ちも、まだ何も聞いてませんよ」 『予定なら空けておけ。気持ちは、俺のそばで聞く』 強引な言い方に、胸がどきりとした。昨日あんなに冷たかったのに、どうして急に。 電話の向こうで、蓮社長の声がさらに低くなる。 『小春。俺のそばにいろ』 命令みたいなのに、どこか切実に聞こえた。 『君を誰にも渡さない』「春野さん、雇用条件はこちらです。昨日の件で、給与や待遇に変更はありません」 佐伯は書類を差し出した。 小春は受け取り、目を通す。正式に解雇されたわけではない。頭ではわかっていても、昨日まで働いていた職場が、どこかよそよそしく感じられた。「昨日は退職したつもりで、荷物までまとめてしまいました」「無理もありません。九条さんが社長の指示で訂正を出し、正式な解雇ではなく、調査のため一時的に帰宅してもらっただけだと社内に伝えています」 佐伯の落ち着いた声に、小春は小さくうなずいた。 蓮は昨日、美月の発言をその場で否定すべきだったと謝ってくれた。それでも、何も説明されないまま帰されたときの寂しさは、まだ胸の奥に残っている。「私の席は、どちらになりますか?」「こちらです。ご案内します」 佐伯に案内されたのは、社長室に入ってすぐのガラス張りの仕切りの内側だった。蓮のデスクからよく見える、小さなスペースだ。「丸見えですね」「社長のご指示です」 佐伯は困ったように笑った。「ここであくびをしたら、社長にも見えるんですね」「勤務中は、できれば控えてください」「気をつけます。見られていると思うと、あくびも緊張しそうです」 小春が真剣な顔で答えると、佐伯はこらえきれずに笑った。 デスクには、淡いクリーム色のデスクマットと木目のきれいなペン立てが置かれていた。端には小さな観葉植物。小春の好きな柑橘系の紅茶も用意されている。「私の好みに合わせてくださったんですか?」「すべて社長から頼まれました」 紅茶は、蓮がいつも好んで飲んでいるものと同じ銘柄だった。小春も以前から好きだったが、蓮まで同じものを選ぶとは知らなかった。 小春は給湯スペースで紅茶を淹れ、カップを机に置いた。柑橘の香りがふわりと広がる。 昨日は目も合わせてくれなかったのに、どうして自分の好みを覚えていたのだろう。 小春の胸に温もりが広がる。うれしいと思う自分に、少し戸惑った。 小春が椅子を引いたとき、社長室の奥の扉が開いた。 美月が出てくる。先ほどまで蓮と話していたらしいが、手には書
東條グループに着くと、受付の人が目を丸くした。「春野さん、昨日退職されたんじゃ……」「私もそう思っていたんですけど、今日から専属秘書として復帰だそうです」 そう答えると、受付の人は困ったように笑った。私だって、まだ状況をうまく飲み込めていない。 社長室へ向かうエレベーターの中で、私は何度もスマートフォンを確認した。蓮社長からの連絡は、さっきの電話だけ。詳しい説明は会社ですると言ったきり、何も届いていない。 扉が開き、社長室の前に着く。深呼吸してからノックをした。「入れ」「失礼します」 蓮社長はデスクで書類に目を通していた。私を見ると、ペンを置く。「来たか」「はい。復帰のお話、詳しく聞かせてください」「君は社長室付きの専属秘書として働く。勤務条件は佐伯に確認させる」「そういうことではなくて……どうして、昨日クビだと言われた私を戻したんですか?」「機密資料の件は調査中だ。君の社員証が使われた記録だけで、犯人だと決めつけることはできない」「それはわかっています。でも、昨日は『このまま秘書室に置くことはできない』っておっしゃいましたよね」 蓮社長は答えるまでに、少し間を置いた。「会議室にいた社員に確認が取れた。記録にある時刻、君が来客対応をしていたことは確認できた。少なくとも、君が資料室に入ったという記録は事実ではない」「では、私への疑いは晴れたんですね?」「その時刻に資料室へ入った疑いは晴れた。社内にも訂正を出す。昨日は調査のために帰ってもらっただけで、解雇したつもりはなかった。だが、美月さんの言葉をその場ではっきり否定すべきだった」「でも、私には何の説明もありませんでした」「すまない」 蓮社長の謝罪は短かった。けれど、逃げずに私を見ていた。「君を疑っていたわけじゃない。だが、説明せずに決めたのは俺の間違いだ」 私は彼の顔を見つめた。昨日は何も言ってくれなかったのに、今日は戻ってきてほしいと言う。信じていいのか、まだわからない。「これからは、私のことならちゃんと説明してください」「わかった」「あと、専属秘書って、具体的には何をするんですか?」「今までとほぼ同じだ。俺のスケジュール管理、会議の準備、来客対応」「つまり、今までのお仕事に『社長の目の届く範囲にいる』が追加ですか?」「そういうことだ」「それ、契約内容
「春野小春さん。今日でクビです」 社長室に入って早々、九条美月さんにそう告げられた。 私は手にしていた書類を、危うく床に落としかける。慌てて抱え直した拍子に、いちばん上の紙が一枚、ひらりと滑った。「あっ」 拾おうと身をかがめた私より先に、東條蓮社長の手がその紙を押さえた。「ありがとうございます」 受け取ろうと手を伸ばす。けれど蓮社長は紙を私に返さず、机の上に置いた。「話を聞いてくれ」 いつもと変わらない、静かな声だった。 美月さんは蓮社長の隣に腰かけている。大手企業を束ねる九条家の令嬢で、当社の取締役でもあり、蓮社長の婚約候補だという噂もある人だ。 今日の彼女は淡い色のスーツを着て、困ったように眉を寄せていた。「社長秘書の小春さんが、機密資料を外部に流した疑いがあるそうです」「私が?」「小春さんの社員証で、資料室に入った記録が残っています」 美月さんはテーブルの上に数枚の紙を置いた。社員証の入退室記録と、流出した資料の一覧らしい。「でも、この時間、私は来客用の会議室でお茶を出して、それから――」「その記録は確認した」 蓮社長が、私の言葉をさえぎった。 私は彼の顔を見た。視線は書類に落ちたまま、こちらを向かない。「社長、私は資料を持ち出していません」「君の社員証が使われた記録がある」「社員証なら、昨日の午後、資料室の前で落としました。拾ってくださった方がいたんですけど、まさかそれが……」 言いながら、昨日のことを思い返す。 廊下で社員証を落とし、数分後にそのことに気づいて戻ると、誰かが拾ってくれていた。顔を見てお礼を言ったはずなのに、急いでいて相手の名前までは確認しなかった。「その話は初耳です」 美月さんが小さく首を傾けた。「では、その方を探して説明してもらいます。社員証の記録だけでは、私が資料を持ち出したことにはなりません」「小春さん。会社の機密が外部へ流出したのよ。そんな曖昧な説明だけで済ませるわけにはいかないわ」 美月さんの声に、責める響きはない。それなのに、返す言葉をひとつずつ塞がれていくようだった。 蓮社長がようやく顔を上げた。目が合う。「調査が終わるまで、君をこのまま秘書室に置くことはできない。今日は帰ってくれ」 胸の奥が、すうっと冷えた。「……私を信じてくれないんですか?」 尋ねると、蓮
「小春さん、今日でクビです」身に覚えのない機密資料の流出を疑われ、社長秘書の春野小春は、九条美月から突然解雇を告げられる。蓮に長年想いを寄せ、婚約候補と噂される美月は、明るく少し天然な小春を疎ましく思っていた。仕事の失敗に見せかけた嫌がらせを重ね、小春を蓮から遠ざけようとする。ところが翌朝、蓮は小春を社長室付きの専属秘書として呼び戻す。社内に情報を流した人物がいると疑う蓮は、小春を危険から守るため、解雇を表向きの措置にしていたのだ。「俺のそばにいろ。君を誰にも渡さない」突然の再採用と強引な言葉に戸惑う小春。蓮は彼女を守ろうとするあまり、過保護で独占的な態度を見せる。小春はその理由がわからないまま、蓮の不器用な優しさに少しずつ心を揺さぶられていく。やがて蓮は、赤い糸のついた小さな鈴を見て、小春が十年前の火事で自分を救ってくれた少女だと気づく。鈴を渡し、「必ずまた会おう」と約束した相手が、目の前にいたのだ。しかし小春は、火事で大切な人を失い、そのショックで一部の記憶を失っていた。蓮との約束も、彼のことも覚えていない。美月の嫉妬が二人を追い詰め、機密資料流出の真相も少しずつ明らかになる。蓮は小春を守ることと、彼女の気持ちを尊重することの間で揺れる。小春もまた、過去の約束ではなく、今の自分の想いと向き合っていく。小春は蓮の不器用な愛情に気づき、自分の意思で彼の隣を選べるのか。美月は、蓮を想い続けることで何を失っていくのか。クビ宣告から始まった二人が、過去の傷と疑いを乗り越え、互いの気持ちを結び直す恋愛物語。