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第1話「小春さん、今日でクビです」

작가: hana
last update 게시일: 2026-10-22 22:06:28

「春野小春さん。今日でクビです」

 社長室に入って早々、九条美月さんにそう告げられた。

 私は手にしていた書類を、危うく床に落としかける。慌てて抱え直した拍子に、いちばん上の紙が一枚、ひらりと滑った。

「あっ」

 拾おうと身をかがめた私より先に、東條蓮社長の手がその紙を押さえた。

「ありがとうございます」

 受け取ろうと手を伸ばす。けれど蓮社長は紙を私に返さず、机の上に置いた。

「話を聞いてくれ」

 いつもと変わらない、静かな声だった。

 美月さんは蓮社長の隣に腰かけている。大手企業を束ねる九条家の令嬢で、当社の取締役でもあり、蓮社長の婚約候補だという噂もある人だ。

 今日の彼女は淡い色のスーツを着て、困ったように眉を寄せていた。

「社長秘書の小春さんが、機密資料を外部に流した疑いがあるそうです」

「私が?」

「小春さんの社員証で、資料室に入った記録が残っています」

 美月さんはテーブルの上に数枚の紙を置いた。社員証の入退室記録と、流出した資料の一覧らしい。

「でも、この時間、私は来客用の会議室でお茶を出して、それから――」

「その記録は確認した」

 蓮社長が、私の言葉をさえぎった。

 私は彼の顔を見た。視線は書類に落ちたまま、こちらを向かない。

「社長、私は資料を持ち出していません」

「君の社員証が使われた記録がある」

「社員証なら、昨日の午後、資料室の前で落としました。拾ってくださった方がいたんですけど、まさかそれが……」

 言いながら、昨日のことを思い返す。

 廊下で社員証を落とし、数分後にそのことに気づいて戻ると、誰かが拾ってくれていた。顔を見てお礼を言ったはずなのに、急いでいて相手の名前までは確認しなかった。

「その話は初耳です」

 美月さんが小さく首を傾けた。

「では、その方を探して説明してもらいます。社員証の記録だけでは、私が資料を持ち出したことにはなりません」

「小春さん。会社の機密が外部へ流出したのよ。そんな曖昧な説明だけで済ませるわけにはいかないわ」

 美月さんの声に、責める響きはない。それなのに、返す言葉をひとつずつ塞がれていくようだった。

 蓮社長がようやく顔を上げた。目が合う。

「調査が終わるまで、君をこのまま秘書室に置くことはできない。今日は帰ってくれ」

 胸の奥が、すうっと冷えた。

「……私を信じてくれないんですか?」

 尋ねると、蓮社長の眉がわずかに動いた。けれど、答えは返ってこない。

 三年間、私は彼の秘書として働いてきた。

 忙しい日に昼食を食べ忘れた蓮社長へ、こっそり栄養補助食品を机に置いたこともある。彼が「これは何だ」と聞くので、「社長の昼食です」と答えたら、「昼食にしては小さい」と真顔で返された。

 そのときは、少し笑ってくれた。

 そんなささやかなやりとりを、私は勝手に信頼の証だと思っていたのかもしれない。

「わかりました」

 喉が詰まりそうになるのをこらえ、私は頭を下げた。

「お世話になりました」

「小春さん、あなたのためでもあるのよ。退職手続きについては、会社の規定に沿って――」

「美月さん」

 蓮社長が、初めて彼女の言葉を止めた。

 その声は低く、少しだけ硬かった。美月さんは口を閉じ、彼の横顔を見つめる。

 蓮社長はそれ以上何も言わず、私にも目を向けなかった。

 私は社長室を出た。

 デスクへ戻ると、同僚たちが気まずそうに視線をそらした。

 私物を片づけるため、引き出しを開ける。ペン立て、手帳、予備のストッキング。

 最後に、奥にしまっていた小さな鈴を手に取った。

 赤い糸のついた、古びた鈴。十年前の火事のあとから、ずっと手元にある。けれど、誰からもらったのかは思い出せない。なぜこれを大切にしているのかも、うまく説明できなかった。

 掌にのせると、ちりん、とかすかな音がした。

「小春さん……」

 主任秘書の佐伯さんが、心配そうに声をかけてくれた。

「大丈夫ですか」

「はい。大丈夫です。あ、でも、急すぎて明日も普通に出社しそうです」

「……小春さんらしいですね」

 佐伯さんは困ったように笑った。私も笑ってみせる。頬がちゃんと上がっているかは、自分でもわからなかった。

 荷物を抱えて、会社を出る。

 最後に一度だけ社長室を振り返った。

 あの扉の向こうに蓮社長がいる。呼び止めてくれるかもしれない。やっぱり信じている、と言ってくれるかもしれない。

 けれど、扉は開かなかった。

     *

 翌朝。

 目覚ましを止めた私は、いつもの癖で「今日も頑張りましょう」と声に出しかけた。

 急に、今日から出社できないのだと思い出す。私は枕に顔をうずめた。

 昨日の「クビです」という言葉が、耳から離れない。夢ではなく現実だった。

 これから仕事を探さなきゃ。履歴書を書いて、求人を調べて、まずは朝ごはんを食べよう。

 そう考えていると、スマートフォンが鳴った。

 画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねる。

 東條蓮。

 迷った末、私は通話に出た。

「もしもし」

『春野小春。今日から社長室付きの専属秘書として、戻ってきてもらう』

「……はい?」

 思わず聞き返した。寝ぼけているのかもしれない。頬をつねると、ちゃんと痛かった。

「戻るって、私、昨日クビだと言われたばかりですけど」

『解雇は決めていない。君には戻ってきてほしい』

「でも、機密資料を流した疑いがあるんですよね?」

『君が流したとは思っていない』

 昨日、聞きたかった言葉が電話越しに届いた。

 私はスマートフォンを握り直す。

「だったら、どうして昨日は何も言ってくれなかったんですか」

 短い沈黙のあと、蓮社長は答えた。

『詳しい説明は会社でする。今すぐ来い』

「今すぐって……急すぎませんか?」

『君は今日から俺の専属秘書だ』

 当然のように言い切られて、言葉に詰まる。

「蓮社長。私の予定も気持ちも、まだ何も聞いてませんよ」

『予定なら空けておけ。気持ちは、俺のそばで聞く』

 強引な言い方に、胸がどきりとした。昨日あんなに冷たかったのに、どうして急に。

 電話の向こうで、蓮社長の声がさらに低くなる。

『小春。俺のそばにいろ』

 命令みたいなのに、どこか切実に聞こえた。

『君を誰にも渡さない』

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