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第4話

last update Date de publication: 2025-08-08 13:16:23

土曜日の夜。

私は、疲れた身体を引きずるようにして帰宅した。

アパートの明かりが見える角を曲がる前に、私は大きく深呼吸をして乱れた気持ちを整える。

今日はちゃんと、拓哉と話をしよう。そう、朝からずっと決めていたのだ。

もう、これ以上曖昧な関係を続けるのは無理だったから。

……しかし、その直前、家の前から聞こえた声に、私の足は縫い付けられたように止まった。

「早く帰れよ、莉緒。寧々に見られたらまたややこしくなる」

それは、拓哉の声だった。その声には、苛立ちと焦りのようなものが滲んでいる。

その後すぐに、震えるような山下莉緒の声が続いた。

「ごめんね、拓哉くん……あの投稿はすぐに消すから、怒らないで?無視もしないで……お願い」

「分かったから。ただし、次はもうないからな」

拓哉のどこか諦めたような、突き放すような口調。なぜか、私の胸に詰まっていたものが、少しだけ和らいだような気がした……けれど──。

「ねえ、拓哉くん。もう、私にはチャンスはないの?」

山下さんの懇願にも似たその言葉に、さっき少しだけ落ち着いた心が、また音を立てて激しく揺らいだ。全身に、冷たいものが駆け巡る。

それからしばらく沈黙が続く。どれほどの時間が経ったのだろう。張り詰めた空気の中、やがて拓哉が口を開いた。

「悪いけど、俺は寧々と婚約してるんだ……」

その言葉を遮るように、莉緒がすぐさま言葉を紡ぐ。

「そんな婚約なんて、破棄しちゃえばいいじゃない。……さっきキスしたとき、あなただって気持ちよさそうにしてたでしょ?」

……キス?えっ、拓哉がキス!?

言葉の意味を理解する間もなく、次に拓哉の怒った声が飛び込んできた。

「ねえ、拓哉くん」

「ちょっ!おい、莉緒、離せって……んっ!」

山下さんが拓哉の腕を、半ば強引に引っ張った……と思ったら。

そのあとに聞こえてきたのは、聞くに耐えない、けれど誰でもすぐにわかるような音だった。

何が起きているのか、聞くだけでもう分かってしまう。私の脳裏に、嫌悪と絶望が同時に押し寄せた。

足元がぐらつき、立っているのがやっとだった。

ここで引き返すべきか、それとも勇気を振り絞って、この裏切りを問いただすべきか。どちらの選択も、私にはあまりにも重すぎた。

足は、地面に張り付いたように動かない。

……どれだけ時間が経ったんだろう。

山下さんの甘い吐息が聞こえたとき、ようやく私の意識は現実に戻った。

私は、その場に呆然と立ち尽くす。

裏切りの現実があまりにも衝撃的で、頭が真っ白になった。

吐き気が込み上げてくるのを必死に堪え、私は慌てて踵を返し、その場から逃げるように無我夢中で走り出す。

1秒でも早く、ここから離れたかった。

拓哉と山下さんの姿を、これ以上見たくなかった。彼らの声も、もう聞きたくなかった。

気がつけば、冷たい夜風が頬を撫でていた。どれほど走ったのか、いつの間にか涙はもう乾いていた。

私は、見慣れない通りをさまよっていた。行くあてもなく、ただひたすらに。

ふと前を見ると、見慣れないバーのネオンが薄暗い路地を照らしていた。まるで私を誘うかのように、微かに光を放っている。

私は吸い寄せられるように店に入り、カウンターの隅に座った。

バーテンダーに勧められるがまま、泥酔するまでお酒を煽る。

ウイスキーにカクテル……気づけば、どれくらいグラスを空けたか分からなくなっていた。なんだか、頭がクラクラする……。

酔いが回ってぼうっとした頭で、目の前にあるグラスを見つめる。

私は自分の人生がまるで壊れた砂時計のように、一瞬で崩れ去っていくのを感じていた。

「もう、誰にも頼れない……私には何も残ってない。私には、何の価値もないんだ……」

グラスを握りしめながらつぶやく私の声は、震えている。周りの音が遠のき、頭の中はぐちゃぐちゃだ。

「もう一杯……!」

震える声でバーテンダーに告げる。もう、自分の身体がどうなってもいい。この底なしの絶望から、一刻も早く逃れたかった。

しかし、その願いとは裏腹に、私の目の前には、現実という名のさらに大きな嵐が、牙を剥いて待ち受けているような気がしてならなかった。

グラスを握りしめた私の手が、カラン……と小さな音を立てる。

その瞬間、ふと肩に誰かの手が置かれた。

「もう、誰……?」

泥酔し、意識が朦朧としていた私は、煩わしさに顔をしかめた。そのとき──。

どこかで聞いたことのある、ひどく冷たく、けれどどこか落ち着いた低い声が、かすかに耳に届いた。

「君、随分と酔ってるな」

私はゆっくりと顔を上げた。目の前の光景が、ぼんやりと霞んでいる。

「いいかげん飲むのはやめて、家に帰ったほうがいいんじゃないか?」

「なっ……何よ、余計なお世話なんですけど!」

家に帰ったほうがいいだなんて、何なのこの人!

いくらなんでも、初対面の人に対して失礼じゃない?腹が立った私は、隣の人に構わずさらに飲み続けようとすると。

「まったく……君も、相変わらずだな」

吐き捨てるような、呆れた声が再び聞こえた。今度は、声の主が少しだけ私に近づいたように感じた。

「まさか、こんな場所で会うなんてな」

あれ、この声は……どこか聞き覚えのある声に、ハッとしたときだった。

「君……一条寧々だろ?」

名前を呼ばれ、私の心臓がドクンと大きく跳ねた。

顔を上げ、目を凝らして相手を見つめる。そして次の瞬間、私の頭に、ひどく冷たい水がかけられたかのように、酔いが一気に吹き飛んだ。

──私に声をかけてきたのは、昨日、ネットのニュースで見たばかりの人気モデル……神崎律だった。

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