「えっ……り、律!?」
驚きと混乱で、私の口から声が漏れた。思考はすでに停止し、目の前の光景をただ呆然と見つめることしかできない。
今、私の目の前に立っているのは、幼なじみで、今や国内外で活躍する人気トップモデルの神崎律だった。
完璧に整った顔立ちに、涼やかな目元。色素の薄いブラウンの髪が、彼のミステリアスな魅力を一層引き立てている。
その存在は、この薄暗いバーの空間を、まるでスポットライトが当たったかのように明るく照らしているように見えた。
今にも声を上げてしまいそうな私を制するように、律は素早く人差し指を自分の口元に当てた。
「しーっ。あまり大声出すなって!」
周囲をちらりと見渡す彼の涼やかな瞳に、微かな焦りの色が浮かんでいるように見えた。彼は芸能人だから、こんな場所で騒がれるのは困るのだろう。
──律。まさか、こんなところで会うなんて。
律とは、生まれたときから家が近所で、幼稚園から高校の途中までずっと一緒だった。いつも冷静で、まるで大人びた少年だった彼は、私の数少ない幼なじみの一人だ。
小学校に上がる頃には、その整った顔立ちから、近所では「天才美少年」なんて呼ばれていたっけ。女の子たちが彼の周りに集まって、いつも彼を目で追っていたことを覚えている。
だけど、私にとって律は、他の子と同じ、ごく普通の男の子だった。
私が転んで泣いていると、誰よりも早く駆け寄ってきて、優しい言葉をかけてくれる幼なじみ。
律はいつもそうだった。特別仲が良かったわけでもないのに、なぜかいつも律だけが私を気にかけてくれた。
高校に入ってからも律は、私が所属する文芸部の部室前でたまに声をかけてくれたり、図書室で隣に座って一緒に勉強したりすることもあった。
あの頃の時間は、今思えば、かけがえのない宝物だったのかもしれない。
高校2年生の途中、律がモデルにスカウトされて上京してからは、彼の活躍を雑誌やテレビで見かけることはあっても、彼と連絡を取り合ったり、直接会うことは一度もなかった。
彼のいる世界は、私にとってあまりにも遠い場所になってしまったと感じていたからだ。
律が上京して4年。私も大学進学を機に上京したけれど、まさかこんな、人通りの少ない路地裏のバーで再会するなんて……。
あまりにも突然の出来事に、私の頭は理解が追いつかない。
しかも、彼が私のことを今も覚えていてくれたなんて。その事実に、私の胸に温かい感情がじんわりと広がった。
私は目の前の律を、まじまじと見つめる。
4年ぶりに会った彼は、以前にも増して随分と垢抜けて、さらに大人っぽい雰囲気を纏っていた。やっぱり芸能人って、キラキラオーラがあってかっこいいな。
それにしても、普段は雑誌やテレビの中でしか見ない、身長185cmの国内外で活躍する人気トップモデルが、どうしてこんな薄暗いバーにいるのだろう?
そして、彼はなぜ私に声をかけてくれたんだろう。
アルコールのせいか、頭が混乱して、目の前がさらに霞んでいく。
視界に映る律の顔が、照明の光の中でぼんやりと滲む。まるで夢を見ているかのようだ。
律の突然の登場は、私にとっての現実と非現実の境界線を曖昧にさせた。
この苦しい現実から、彼が私を連れ出してくれるような、そんな幻想さえ抱いてしまいそうだった。
「律、あの……」
私は、ぐらつく視界の中で、どうして律が私に声をかけてくれたのか、何があったのかを尋ねようと口を開いた。
けれど、その声は音になる前に喉の奥で消えた。
律の端正な顔立ちが、目の前でゆらゆらと揺らめく。視界が急速に狭まり、思考が停止していく。
「……っ」
不意に、強い吐き気が込み上げてきた。
「おい、寧々!大丈夫か!?」
律が慌てて私の身体を支え、私の背中に回された彼の大きな手が、優しく、だけど確かな力でさすってくれる。
その温かさに、私の意識はゆっくりと遠ざかっていった。
その日の午後、私は一人で外出することにした。向かったのは、上京してから通っているお気に入りの古着屋さん。路地裏にある小さなその店は、独特の香りと、店主の個性あふれるセレクトで、私にとって特別な場所だった。ハンガーにかかった服たちは、どれも誰かの物語を背負っているようで、見るだけでワクワクする。店内を歩き回り、私は古着のワンピースに手を伸ばす。拓哉と一緒にいた頃は、彼の好みに合わせて、いつも同じような淡い色の服ばかり選んでいた。でも、今は違う。私は、自分の好きなものを選びたい。そう思いながら店内を見回すと、私はあるワンピースに目を奪われた。「うわあ、素敵!」この服、律が家でよく着ているシャツと似た、鮮やかなブルーだ。もし、この服を律に見せたら、彼はどんなふうに笑ってくれるだろう?そんなことを考える自分に、私はハッとした。ダメだ。また、律の視線で自分の価値を測ろうとしている。律の隣に立つためではなく、自分のために服を選びに来たはずなのに。それから私は何着か試着し、鏡の前に立つものの、目の前に映る自分の姿に違和感を覚える。なんか違う……。新しい服を着た私は、どこか自信がなさげで、背筋も伸びていない。この服は、誰かが選んでくれたものではない。自分で選んだ服だ。それなのに、どうしてこんなにも私に馴染まないのだろう。鏡の中の私は、まだ拓哉という呪縛から完全に解き放たれていないようだった。そして、律という存在に、また甘えようとしている自分もそこにいた。やっぱり、ダメだ……。私は黙って服を脱ぎ、最初にあった場所に戻した。古着屋さんからの帰り道、私はすっかり意気消沈していた。やっぱり、一人で立ち上がるのは難しいのかな。とぼとぼと歩いていると、スマホが震える。律からのメッセージだった。【今から帰るけど、寧々、今日は何が食べたい?】そのメッセージを見た瞬間、胸の奥が温かくなった。ああ、律が私を待っていてくれる。そう思うと、張り詰めていた心が少しずつ解き放たれていくのを感じた。早く律のマンションに帰ろう。スマホからふと、顔を上げたその先に、思わぬ人物が立っていた。「寧々……?」「あっ……」それは、同じ大学に通う、私と拓哉の共通の友人でもある、斎藤彩乃と田原美郷だった。「どうして、寧々がここにいるの?拓哉くんと住んでる家、この辺り
「そういえば、これ、まだ持ってるよ」律がポケットから出したのは、くしゃくしゃになった一通の手紙だった。それは、律が上京する前夜に私が書いた、彼へのエールだった。まさか、律が今でもそれを大切に持っていてくれたなんて……。胸の奥がキュンと締めつけられた。「それ、まだ持っててくれたんだね」「ああ。寧々からの手紙は、俺にとってお守りみたいなものだから」律が、照れくさそうに微笑んだ。「モデルとして挫折しそうになったときも、孤独に押しつぶされそうになったときも、この手紙を読み返して、いつも勇気をもらってきた。……寧々が書いてくれた、この一言一句が、俺を支えてくれたんだ」律の真剣な眼差しと、手紙を大切そうに撫でる指先。彼の幼なじみとしての優しさだけではない、深い愛情が深く、深く刻まれているように感じた。律の存在が、私にとってどれほど大きな支えであり、かけがえのない存在であったか。彼の揺るぎない優しさに触れるたび、私は改めてそのことに気づかされる。律は、そっと手紙を財布に戻すと、私の手を取り、温かい紅茶を注いでくれた。「明日、寧々が少しでも前向きになれるように、新しい服を買いに行こうか」彼の言葉に、私は驚いて顔を上げた。律が提案するそれは、まるで──。「きっと君なら、俺の隣で、誰よりも輝けるから」律の口から放たれた言葉が、私の心に深く響く。もしも、律が選んでくれた服を着て、彼の隣に立ったら……。こんな私でも、律に釣り合うのだろうか。律の温かい眼差しに包まれ、このとき私は初めて彼の隣に立つ自分を想像した。***その夜、私は眠れずにいた。真っ暗な部屋で、枕元の窓から差し込む月明かりだけが、ぼんやりと私の足元を照らしている。律の隣で眠る安らぎを感じる一方で、彼の優しさに甘え、このままでは、また誰かに依存してしまうのではないかという不安が、胸を締めつける。拓哉といた頃、私は彼に言われるがまま、自分の意見を失っていた。まるで、彼という大きな木に巻きついたツタのように、ただただ拓哉に寄り添うことしかできなかった。そんな自分を、もう一度繰り返してしまうのではないか……。私は、自分の足で立ち、自分の力で輝きたい。その思いが、頭から離れなかった。***翌朝、食卓で向かい合う律に、私は意を決して告げた。「律、あのね。新しい服は、自分で見つけるよ
律の言葉の真意を探ろうと、私はゆっくりと顔を上げた。彼の眼差しは、真剣でどこか切ない光を宿している。「あの頃から、俺はずっと寧々を見ていた。寧々が辛いとき、俺はいつもそばにいたかったんだ」律の言葉は、私の胸に静かに染み込んだ。だけど、これは幼なじみとしての優しさだ。そう自分に言い聞かせるも、私の鼓動は早まるばかりだった。思い返せば律は、いつだって私のことを肯定してくれた。幼稚園でみんなの輪に入れずに一人でいたときも、小学校の運動会で転んだときも、律はいつも私に手を差し伸べてくれた。その大きな手が今、私の髪を撫でている。昔と変わらない優しさと、昔にはなかった熱を帯びたその手のひらに、私は戸惑いながらも、抗えない安らぎを感じていた。この心地よい関係は、本当にこのままの形でいて良いのだろうか。私は、律の眼差しに吸い込まれるように、じっと彼を見つめ返した。「……っ、どうして……」私は思わず、彼の言葉の真意を尋ねようと口を開いた。すると、律は静かに視線を逸らし、ぽつりと呟いた。「高校のとき、寧々と拓哉の姿を見て、どうしようもない気持ちになったことがあるんだ」律の言葉に、私の心臓が凍りついた。【律side】高校時代、寧々と拓哉の姿を見るたびに、俺の胸は鉛のように重くなった。高校2年の夏。廊下を歩く俺の耳は、教室の賑わいの中、いつもあいつの声を探していた。寧々……。「ねえ、拓哉。今日の数学の宿題で分からないところがあるんだけど……教えてくれない?」「いいよ、寧々。一緒にやろうか」拓哉の隣で楽しそうに話す寧々の姿を見つけ、俺は立ち止まった。寧々がニッコリと笑うたび、俺の胸はぎゅっと締めつけられる。息が詰まるような苦しさが、肺の奥からこみ上げてきた。楽しそうに笑う寧々の横で、拓哉が俺のほうをちらりと見て、にやりと笑う。「……っ!」その挑発的な態度に、俺は無意識に拳を握り
「り、律……?」ドキドキしながら、私は律に尋ねる。「ああ、ごめん。寧々」律の長い指が、私の唇からすっと離れた。その指先には、赤いソースがほんの少しだけついている。「寧々の口に、トマトソースがついてたから」そう言って律は、私の口元から取った赤いソースを、まるで何事もなかったかのようにペロッと舐めた。「……っ!」彼のまさかの行動に、私の思考は完全に停止した。信じられない、という気持ちと、胸の奥がじんわりと熱くなる感覚。そして、まるで心臓を直接握りしめられたかのような、甘い衝撃が全身を駆け巡った。顔も熱くなり、まるで全身の血液が沸騰したみたいだった。動揺を隠しきれず、私は言葉を失う。「ははっ。これくらいで、顔を赤くするなんて。ほんと可愛いなあ、寧々は」律は楽しそうに笑い、私のお皿に鶏肉を一つ乗せた。「ほら。料理、冷めないうちに早く食べよう」「う、うん……」律の笑顔に、私の心はまたもや大きく揺さぶられた。食事が進むにつれ、私の緊張は少しずつ解けていった。律は今日の仕事の話や、他愛ない昔話をしてくれる。「律は、モデルのお仕事、楽しい?」「楽しい、かな。でも、疲れるときもあるよ。そういうときは、不思議と寧々の顔が浮かんでくるんだ」「え……?」「寧々が昔、俺にくれた手紙にも書いてあっただろ?『律は律のままで十分だよ』って。あの言葉に、何度も救われたんだ」そうだったんだ。律の言葉に、胸の奥が温かくなる。彼の優しい眼差しに、心が解き放たれていくのを感じた。「そういえば、あの神社の裏の……大きな折れた木があった場所って、まだあるのかな?」「ああ、もしかして秘密基地?懐かしいね!小学生の頃、律と一緒によく遊んだ場所だ。雨の日も風の日も、あそこでコソコソお菓子を食べたり、漫画を回し読みしたりしたよね」幼い頃を思い出し、自然と笑みがこぼれる。私たちは、たちまち中学・高校時代の懐かしい思い出話に花を咲かせた。律が学校の体育祭では、いつもヒーローだったこと。女子にモテモテだったことや、二人の共通の知人の話……律と他愛ない会話で笑い合う時間は、心地よくて心が安らいだ。「律って、昔から足が速かったよね。体育祭でいつもダントツの1位だったし。かっこよかったなあ」私が笑いながら言うと、律はくすりと笑い、そっと私の頬に触れた。「俺は、図書室で静かに
彼らのことは、もうどうでもいいはずなのに。未練なんて、ないはずなのに。二人の姿を見るだけで傷つき、そして気になるなんて……。未だ過去に囚われている自分に、嫌気がさした。***昼休み。大学のカフェテリアは、多くの学生たちの話し声で賑わっている。私が窓際の席で一人、カルボナーラを頬張っていると。私の席の近くで、何人かの女子学生が楽しそうにスマートフォンの画面を覗いているのが目についた。カフェテリアの喧騒が、遠いBGMのように聞こえてくる。その中に、私の心をざわつかせる声が混じっていた。「ねぇ、見た?律くんの新しい雑誌の表紙!今回の髪型も最高すぎない?」「わかる〜!やばいよね、リアル王子様じゃん!写真集とか出ないかな?」「ほんと、なんであんなに完璧なの?拝みたいレベル!」耳に届いた彼女たちの会話に、私の肩がビクッと跳ねた。まさか、大学で律の話題が出るとは思わず、私は持っていたフォークを落としそうになる。慌てて周囲を見回すものの、誰も私のほうを見てはいない。ドキドキするのを感じながら、私は体勢を整える。家に一緒に住んでいると、つい忘れがちだけれど。律は有名人なんだな。彼女たちが話す『律くん』は、私の知っている律とあまりにもかけ離れていた。彼らは、雑誌やテレビの中の、手の届かない完璧な王子様しか知らない。私は、あの子たちの知らない、無防備な寝顔や、料理をする真剣な横顔を知っている。彼が私の隣で優しく微笑んでくれることは、私だけの特権であるかのようにも思えた。……だけど、そんなささやかな優越感は、すぐに不安へと変わる。彼女たちの楽しそうな声が、遠い世界から聞こえてくるようだ。「私たち、住む世界が違うんだ……」そう、私と律は住む世界が違う。同時にそのことを、改めて痛感した。彼は手の届かない太陽で、私は暗い影の中でこそこそと生きている。律とのこの秘密の関係は、いつまで続くのだろう。いつか、私の存在が彼を苦しめることになるのでは……?そんな不安が、胸をぎゅっと締めつけた。***「ただいま」私が大学から帰ると、律のマンションには彼の温かい気配が満ちていた。「おかえり、寧々。夕飯、もうすぐできるからな」キッチンに立つ律が、こちらを見て微笑んでくれる。その手には、慣れた様子で玉ねぎを刻む包丁が握られていた。「うん。ありがとう」
拓哉との婚約破棄、そして律との秘密の同居生活が始まって、早くも一週間が経とうとしていた。やっぱり、このままじゃダメだ。律の完璧な気遣いが隅々まで行き届いた部屋は、あまりにも快適だった。けれど、その居心地の良さは、同時に私の心を蝕んでいく甘い毒のようにも感じられた。このまま彼の庇護のもとで安穏と暮らしていては、私は本当にダメになってしまう。そう強く感じた私は、春学期が始まってしばらく休んでいた大学へ、再び向かうことを決意した。「寧々、どこか行くのか?」服を着替え、身支度を整えて玄関に向かうと、リビングから律が声をかけてきた。「うん。大学に行こうと思って」律は持っていたマグカップをそっとテーブルに置き、私を真っ直ぐ見つめる。その瞳の奥に、何かを試すような光が宿っているように感じられた。「そっか……あのさ、分かってくれていると思うけど……」ああ、たぶん、律と決めた同居のルールのことだな。私は律の言葉を遮り、彼の不安を打ち消すように答えた。「うん。私がここで律と暮らしていることは、絶対に誰にも言わないよ。もちろん、大学の友達にも、家族にも。それから、ここへは誰も連れ込まないから」私の言葉に、律の表情がふっと緩む。安堵したような、それでいてどこか満足げな微笑みが、彼の口元に浮かんだ。「ありがとう。分かってくれているなら良いんだ。大学、頑張ってな」「うん。それじゃあ、いってきます」「いってらっしゃい」律に見送られながら、私は家を出た。ドアが閉まる音を聞くと、ようやく緊張の糸が少しだけ緩んだ。マンションを出る際は、周囲に不審な視線がないか細心の注意を払った。律との生活と、いつもの大学での日常。この二つの世界は、私の心の中にだけ存在する秘密の橋で繋がっていた。そして、その橋はあまりにも脆く、今にも崩れ落ちそうな気がした。電車を乗り継ぎ、大学の最寄り駅に降り立つ。見慣れた景色、学生たちの活気ある声。懐かしさに安堵する一方、この日常に嘘をついていることへの罪悪感が胸に広がった。「あっ、寧々!久しぶりー!最近、大学で見かけないから心配してたんだよ〜」校門をくぐると、後ろから明るい声が聞こえた。振り返ると、金髪のショートボブが似合う友人の斉藤彩乃が、満面の笑みで駆け寄ってくる。隣には、サラサラのセミロングヘアが特徴の、おっとりとした田原