LOGIN――時は少しさかのぼり、とある令嬢の物語が静かに幕を開ける。
彼女の名はエレナ・シルヴァーバーグ。 先ほどの出会いへとつながる、もう一つの物語が今、はじまる――。◇
深い深い闇の中で、一つの魂が漂っていた。
蜂蜜色の髪をした少女の魂。かつてエレナ・シルヴァーバーグと呼ばれた存在。「もう……わたくしなんて、いないほうがいいんですわ」
その声は、闇の中でかすかに響く。
「お母様も、わたくしのせいで……もう、なにもかも……」
愛した母を失った悲しみ。自分のせいで死なせてしまったという罪悪感。
すべてが重すぎて、もう生きていることさえ辛くて。その魂は、肉体の奥底へとゆっくりと自分を沈めていく。
まるで深い湖の底へと落ちていくように。静かに、静かに。 そして——暗闇の向こうから、別の光がやってきた。同じように傷つき、同じように孤独だった魂が。
「お願い……今度こそ、幸せになりたい」
二つの魂が、闇の中で出会った瞬間——
◆
頭がずきずきと痛む。まるで長い間眠り続けていたような、重い眠気が体を包んでいる。
私、白石香澄は薄っすらと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪華な天井。金色の装飾がきらきらと輝いて、まるでお城みたい。
……あれ?
そして——なんだろう、この香り?空気が違う。ただの空気じゃない。石鹸の香り、花の香り、かすかな香木の匂い、それから——悲しみ? 寂しさ?
え? 匂いで感情がわかるって、何それ……?
今まで嗅覚なんてそんなに敏感じゃなかったのに、まるで香りが色とりどりに見えるみたい。これって一体……?起き上がろうとして、愕然とする。私の腕が細い。すごく細くて、色白で、指先まで美しい。
そしてベッドの向こうには、これまた見たことのない豪華な調度品。私、死んだはずじゃ……
そうだ。学校でのいじめが酷くて、家に引きこもって、病気になって、そして——慌てて鏡を見ると、そこに映っていたのは知らない顔。蜂蜜色の縦巻き髪に金色の瞳をした、驚くほど美しい少女。
誰これ……私?
でも、この顔。どこかで見たような……。その時、断片的に記憶が流れ込んできた。豪華な屋敷、大きな庭、使用人たち、そして——香りの記憶。
母親の優しい声、花の香り、温かい手のひら。
だが同時に、深い悲しみと罪悪感も押し寄せてくる。(お母様……私のせいで……)
誰の記憶? この感情は一体……?
混乱の中、ゆっくりと思い出す。この顔、この髪、この部屋の装飾。そして流れ込んできた記憶の断片——ノクスレイン王国、シルヴァーバーグ家。私が最後にプレイしていた香水をテーマにした乙女ゲーム『恋と貴公子と百の香水』と、全部一致している。
まさか……エレナ・シルヴァーバーグ?
ノクスレイン王国の侯爵令嬢エレナ・シルヴァーバーグ。ヒロイン・リュミアに嫌がらせを繰り返し、最後は婚約破棄されて領地に幽閉される運命の、典型的な我が儘令嬢!! 転生しちゃったの? しかもゲームの世界の貴族令嬢に!?◆
ちょっと待って、冷静になりましょう白石香澄。
ベッドの縁に座り、必死に状況を整理する。転生した。それは間違いない。でも、なぜか時々この身体の持ち主——エレナの記憶が混じってくる。
深い悲しみと、何かに対する強い罪悪感。
この子も、辛いことがあったのかな……でも今は、目の前の問題に集中しなければ。エレナ・シルヴァーバーグの破滅ルートは確定してる。
このままだと最後は——
絶対に嫌! 今度こそ幸せになるって決めたんだから。 いじめられて、病気になって、誰にも愛されずに死んだ前世。でも今度は違う。この美しい身体で、素敵な人たちに囲まれて、きっと幸せになれる。
善行ムーブで破滅回避よ! まずは使用人さんたちと仲良くなって…… でも、困った。ゲーム知識はあるけど、貴族の生活なんて全然わからない。どういう言葉遣いをすればいいの? お食事のマナーは? 使用人さんにはどう接するのが普通?
うわあ、どうしよう……
あ、そうだ! ゲーム世界なら、ステータスとかスキルとか確認できるんじゃない?「ステータスオープン……ですわ!」
……何も起こらない。いやちょっとまって今私なんて言った?
「えーっと、ステータス? スキル確認ですわ?」
やっぱり何も。そして何、この口調!?
何度やっても、ゲームみたいな画面は出てこない。 あれ? なんで? 転生ものだったら普通……そうか、これはゲームじゃなくてゲーム世界なんだね。ゲームと同じ世界だけど、システム的な機能は使えないのかも。
「まあ、でも香りの感覚が鋭くなってるし、何かしらのスキルはあるのかな?」
その時、こんこんとドアがノックされた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
震え声。明らかに怯えてる。
「どうぞ」
入ってきたのは、栗色の三つ編みをした私と同年代くらいの女の子。ゲームで見たクラリスだ。
でも、彼女の表情は恐怖に満ちてる。「あの……お加減はいかがですか?」
まるで怯えた小動物みたいに、私の顔色を窺ってる。
どう答えればいいんだろう? 貴族のお嬢様らしく? でも、どんな言葉遣いが正しいの?「あ、あの……」
困っていると、突然記憶が浮かんだ。エレナの記憶——クラリスと過ごした日々、使用人への接し方、言葉遣い。
そして、どれだけ我が儘を言って困らせていたか。
うわあ……思わず顔が青くなる。なんて酷いことを……。ゲームだからって分かってても、やっぱり人を傷つけるのは嫌だ。今度は違う。優しくしなくちゃ。
「クラリス……さん、ありがとう。もう大丈夫ですわ」
自然に言葉が出てくる。エレナの記憶が教えてくれてる。
って、やっぱり語尾に『ですわ』がついてる!? オートでお嬢様口調になっちゃった!?「……え?」
クラリスの目が大きく見開かれる。
「あの……今、なんと……?」
「クラリスさんありがとうって言ったけど……おかしかったかしら?」
かしら!? なにこの自動変換機能!
「お、お嬢様が……『ありがとう』を……」
そして彼女の目に涙が浮かんだ。まるで奇跡を見たかのような表情で。
「本当に……お嬢様なんですか?」
あ、そうか。ゲームの中だから、安心して素直にお礼が言えるんだ。現実だったら、また裏切られるかもって怖くて、こんなに自然に優しくできないもん。
◆
朝食の準備をしてもらう間、私は屋敷を歩いてみることにした。
どこもかしこも豪華で、まさに貴族のお屋敷って感じ。ゲームで見てた通りだ。廊下で掃除をしてる女の子——ミラに声をかけてみる。
「おはようございます、ミラさん。掃除お疲れさまですわ。いつもありがとうですの」
ですの!? もう完全にお嬢様モードじゃない!
彼女は雑巾を取り落とし、震え上がった。「お、お嬢様……?」
「あ……ああ……」
ミラは涙を流しながら、何度も頭を下げる。
…って、攻略脳で考えちゃったけど、やっぱり人が泣いてるのを見ると胸が痛くなる。一体どれほど厳しく当たってたんだろう、元のエレナ。でもゲームの中だから、安心して謝れる。現実だったら、優しくしたって結局裏切られるかもしれないけど、ここなら大丈夫。
庭に出ると、老庭師のトーマスが作業をしていた。
「おはようですわ、トーマスさん」
トーマスはスコップを落とし、私をじっと見つめる。
「エレナ様……」
「お花、とても美しく咲いていらっしゃいますのね。お母様も、こんな風にお花を愛でていらしたのでしょう?」
いらっしゃいますの!? 花に対して敬語使ってるし!
その瞬間、トーマスの目に大粒の涙が浮かんだ。「そうです……奥様は、花を心から愛していらっしゃいました。そして、エレナ様のことも……」
私の中で、また深い悲しみが込み上げてくる。これはエレナの感情……データだ。
母親への愛と、失った悲しみと、そして——「奥様が戻ってこられたようじゃ……本当のエレナ様が」
ふと、枝の上で小鳥が鳴いた。
羽毛のような軽さで枝が揺れ、トーマスが目を細める。「今年もこの子たちは元気でなによりですな」
私の香りに誘われるように小鳥が私の肩に止まった。
「あら?」
小鳥小首をかしげちょん、と私の頬をつついた。
「……っ」
微かな痛みが、胸の奥にまで届く。その瞬間、胸の中で何かがはっきりと音を立てた気がした。
「おや、お嬢様は、この子たちに好かれているようですな」
トーマスの言葉に、胸の奥が温かくなり私は無意識に頬をゆるめた。
私は白石香澄だけど、この身体にはエレナのデータも残ってる。ゲームの中だから、安心して二人分の気持ちを大切にできる。肩から小鳥が飛び立っていく。
私たち、二人で幸せになるんだ。◆
夕食の時間。大きなダイニングルームで——って、どうやって座ればいいの? どのフォークを使えば?
パニックになりそうになった瞬間、またエレナの記憶が浮かんだ。椅子の座り方、カトラリーの使い方、父との食事の作法。
ダイニングルームには既に男性が座ってた。初めて見る顔だけど——あ、記憶が浮かんできた。
威厳ある灰金の髪、鋭い琥珀の瞳。この人が父親、ジグムント・シルヴァーバーグだ。
「エレナ」
威厳のある声で名前を呼ばれる。
「はい、お父様」
「体調は問題ないか? 使用人たちが大騒ぎしているようだが」
「もちろん、問題はございませんわ!」
問題ございません!? 自分の父親に敬語!?
隣に控えるのは執事のクライスト。銀髪をオールバックにした、どこか冷たい印象の男性。 その視線が、じっと私を観察してる。「お嬢様の変化について、屋敷中が……驚愕しております」
クライストの声に、わずかな警戒が混じってる。
「変化って?」
「まるで……生き返ったかのような」
確かに、ある意味生き返ったのかもしれない。エレナも、私も。
「お父様もお忙しいでしょうに、わたくしのことまで気にかけてくださって。ありがとうございますわ」
わたくし!? しかもめちゃくちゃ丁寧!
ジグムントの手が止まった。クライストも、わずかに眉をひそめる。「……エレナ、本当に大丈夫なのか?」
「はい。今日から、新しいわたくしとして頑張りますわ」
新しいわたくしって何よ! この自動変換システム、どうにかならないの!?
でも…ゲームの中だから、こんな風に素直に感謝の気持ちを伝えられるのかも。現実だったら、家族にだって心を開くのは怖かったから。クライストの視線が、一層鋭くなった。まるで何かを探るように。
◆
夜、一人の時間。部屋を探索してると、ドレッサーの上に美しい香水瓶を見つけた。
これって……
透明なガラスに繊細な装飾。中身は淡いピンク色の液体。 恐る恐る蓋を開けてみる。ふわりと立ち上る香り。その瞬間——
記憶が溢れ出した。これはきっとエレナのデータ。幼い日、母マリアンヌと過ごした穏やかな時間。花の香りに包まれて、優しい声で物語を聞かせてもらった日々。
お母様……
涙が頬を伝う。これはエレナの涙だ。
愛した人を失った悲しみと、自分のせいで母が死んだという罪悪感。 でも同時に、私自身の記憶も蘇る。現代で一人ぼっちだった日々。 いじめられて、誰にも理解されずに死んでいった寂しさ。 二つの記憶が、香りを通して初めて混じり合った。あなたも、寂しかったんだね……
私はそっと呟く。「でも、もう大丈夫ですわ。今度は一緒ですもの。二人で幸せになりましょう」
ですもの!? このお嬢様口調、もう止まらない!
香水瓶を胸に抱きながら、私は誓う。エレナの記憶も、私の後悔も、全部背負って新しい人生を歩んでいこう。ゲームの中だから、安心して愛を信じられる。今度こそ、みんなと幸せになるんだ。
ヒロインのリュミアちゃんとも仲良くなって、素敵な攻略対象の男性たちとも友達になって。アルベール王子やルシアン王子、ガイルくんにユリウスくん、テオくんにノアくん——みんなゲームで見た通りの人たちがこの世界にいるなんて!
今度こそ、愛に満ちた日々を送るんだ。
外では夜風が窓を揺らし、まるで二つの魂を祝福するような優しい音を奏でていた。 そしてどこからか、かすかに花の香りが漂ってくる。うん、この世界で頑張ってみよう!
わたしは心の中で呟いたのだった。夏の朝は、何かが始まる気配に満ちてた。 学園の中庭には、班ごとに集合した生徒たちが、大きなリュックサックを背負って整列してる。 澄んだ空に白い雲、花壇のラベンダーとローズマリーが香りを立てて、朝露の湿った土の匂いと混じり合う。(きた……完全にサバイバル実習イベントじゃん!) 私――白石香澄としての理性は、心の中で思わずガッツポーズを決める。 乙女ゲームの野外実習ルートといえば、ここから数々のスチルとイベントが開放されるはずなんだ。「お姉様、わくわくしますね!」 隣で、黒髪セミロングのミリアが両手を胸の前でぎゅっと握りしめてる。 スミレ色の瞳が、朝陽を受けてきらきらと輝いてた。「ええ、とても楽しみですわ」 にこりと笑って返すと、彼女はぱっと花が咲いたように微笑んだ。 その様子だけで、胸の奥がじんわり温かくなる。 でも、ふとミリアの笑顔の端に、また微かな陰りが見えた気がした。 班ごとの点呼の後、私たちは輪になって最初の話し合いを始めた。「それじゃあ、まずリーダーを決めましょう」 テオくんの提案に、みんなが顔を見合わせる。「リュシアで異議なし」 ガイルくんが即答して、ユリウスくんとノアくんも頷く。「わたくしも、リュシアさんにお任せしたいですわ」 ミリアも「はい!」と元気よく手を上げた。 満場一致でリーダーが決まると、リュシアちゃんは小さく頷いた。「分かった。それじゃあ、森に向かいましょう」 班ごとの点呼を終えて、私たちは森を歩き始めた。 リュシアちゃんは銀青色のボブカットを風に揺らして、黙々と前を見てる。 表情は相変わらず淡々としてるけど、ほんの少しだけ、口元が緩んでるのを見逃さなかった。(あ……可愛い。完全にスチル映えしてる) リュックから漂うハーブサシェの香りが、歩くたびにふわりと香った。 甘くて涼やかな香りが、森の気配を先取りするように漂う。 男子たちはというと―― ガイルくん(攻略対象A)は率先して重い荷物を背負って、頼もしさ全開だ。さすがは将来の騎士候補って感じ。 ユリウスくん(攻略対象B)は歩きながら道端の植物を観察してる。 テオくん(攻略対象C)は地図を確認しながら、効率的なルートを提案してる。 ノアくん(攻略対象D)は小さなメモ帳に何かを記録中。 私は内心でふふっと笑う。 これぞまさに
夏の空気は、どこか浮き立つような熱を帯びてる。 寮の窓から見える中庭の木々も、昨日より少しだけ青さを増してる気がする。今日の朝礼は、学園全体がざわざわしてて、生徒たちの足音や囁き声がいつもより弾んでた。 教室に漂うのは、緊張と期待が混じった独特の空気。 生徒たちが整列する中、教師が壇上に立って、厳かに告げる。「――本日より一週間後、フレグラントール学園恒例の"野外実習"を実施します」 教室の空気が一瞬でざわめきに包まれる。 私――いえ、白石香澄としての理性は、胸の奥で小さくガッツポーズを決めてた。(きた……! ついに野外実習イベント!) 教師は続ける。「実習は王都近郊の森にて行います。チームごとに行動し、自然観察、野外炊事、そして――協力して課題を達成することが求められます」 完璧だ。ゲームの第2章とまったく同じ設定じゃん。 しかも私、エレナとして図書館で過去の実習記録まで調べてた。森での共同生活、星空の下での語らい、そして学校に戻ってからの打ち上げパーティー――攻略対象たちとの距離が一気に縮まる黄金イベント。 脳裏に浮かぶのは、次々に解放されるイベントCGの数々。特に最終日の告白シーンは神がかってた。(やったぁ……これ絶対に、好感度爆上がりチャンスじゃん! フラグ管理、頑張らなきゃ!) ざわめく生徒たちの間で、私は誰にも見えない心のガッツポーズを決めた。 最前列のリュシアちゃんは無表情で話を聞いてたけど、隣でひそひそと囁くミリアが、私の腕をちょこんとつついた。「お姉様、楽しみですわね……!」「ええ、もちろんですわ」 でもミリアの表情に、一瞬だけ何か複雑なものが見えた気がする。 ……思えば、このときにはもう始まっていたのだ。 いや、もっと前から。◆ 午後の講堂は、高い天井に全学年の声が響いてざわざわしてた。 ステンドグラスから差し込む光の中、生徒たちは学年ごとに整列して立っている。私たちは2年生のエリアで、リュシアちゃんと並んで立ってた。少し離れた1年生のエリアでは、ミリアが私たちの方を見て小さく手を振ってる。 全学年の生徒が集まって、天井の高い空間に声が響く。壇上では上級生が教師に何かを耳打ちしてから下がって、教師が発表台に立った。 手にした紙を見下ろす教師の指先が、微かに震えてる気がする。 でも、きっと気の
領主館での三度目の訪問は、これまでよりも穏やかな空気に包まれていた。 応接間に入ったとき、ミラベルはすでに席についていた。 椅子の背もたれに小さく体を預け、ちょこんと座るその姿は、まるで大きな家具に埋もれているようだった。「こ、こんにちは……きょうも、ありがとう……ございます……」 小さく手を膝に揃え、控えめに頭を下げる。 声はか細く、けれど前よりもほんの少しだけ張りがあった。 俺は軽く会釈し、今日の課題──招待状の文面添削──に取りかかる。 所作も発声も、変わらず整っている。 けれどその眼差しには、前回までにはなかった余白があった。 言葉の端に、間の取り方に、少しだけ自然な揺れが混じるようになった。「この一文、ご尊家の皆様にもよろしくお伝えくださいという表現ですが……」 俺がそう言うと、ミラベルは袖口をきゅっと指先でつまみ、少し考えるようにして小さく笑った。「……やっぱり、少しかしこまりすぎてしまいます……よね」 その笑みは、初めて言われたから笑うものではなかった。 彼女の中で何かが確かに変わりはじめている。 添削の合間、ふとした沈黙が訪れる。 窓の外、庭の百合が風に揺れているのが見えた。 そのとき──ミラベルが、ぽつりと呟くように言った。「……王都って、どんなところなんですか?」 突然の問いだった。 だが、そこには軽い興味というよりも、ずっと昔から温めていた問いのような響きがあった。 俺は少し考えながら答えた。「ノクスレイン王国は香りの王国と呼ばれているのはご存じですよね? その王都たるペルファリアには様々な香りが流れています」 俺は既に懐かしくなっている王都を脳裏に思い浮かべ、その光景を語る。「通りには香水店が並んでいて、花や果実、木の樹脂にスパイス……流行の香りは季節ごとに変わるんですよ。春は柑橘、夏はハーブ、秋には温かい煙のような香りも流行ります」 ミラベルは目を伏せ、胸元のリボンをそっと撫でながら、くすりと微笑んだ。「……お母さまが、よくそんな話をしていました」 その声は、どこか遠くを見ているようだった。「王都の香りは、季節の舞踏会みたいに入れ替わるのよって……楽しそうに、何度も」 彼女は手元に置かれた白いハンカチを、ちいさな手でぎゅっと握った。「お母さまは、王都に住んでいたことがあるんです
領主館は町の南、段丘の上にあった。 高台に築かれたその屋敷は、外から見れば石造りの地味な建物だが、門を抜けた瞬間に空気が変わる。 芝は短く刈られ、敷石には靴跡ひとつなく、花壇には季節外れの百合が咲いていた。 整いすぎている。どこか、誰かが無理をしてまで整えているような気配。 門を通ったところで年配の家令が現れ、俺を迎えた。 痩身で無表情だが、所作はまさに貴族の屋敷にふさわしい品格を感じさせる。「冒険者ギルドから参りました、フィンと申します。本日のお約束の件で」 俺は軽く頭を下げながら、用意していた依頼状を差し出す。 家令は一礼のままそれを受け取り、目を通すでもなく懐にしまい込んだ。 彼は無言で一礼すると、静かに先導を始めた。 歩き出してすぐ、低い声でぽつりと呟くように言った。「……お嬢様は、少々変わったお方でして」 一拍の間を置いてから続けた。「……それゆえに、どうか、ご無礼があっても……」 それだけ言うと、家令はそれ以上何も語らなかった。 けれど、その一言に、屋敷の人間が彼女をどう見ているかが滲んでいた。 敬意と距離。その両方があるような声音だった。 俺はその背を追う。 途中、廊下の掃除をしていたらしい中年の女性が、視線を上げぬまま深く礼をした。 屋敷に仕える者の動きまで、徹底されている。 案内された応接間もまた、完璧だった。 机の脚に至るまで磨き込まれ、絵画は傾きなく額装されている。 座っていいのか不安になるほど整然とした空間。着席を促してから、一礼をして家令は下がってゆく。 入れ替わるようにメイドがお茶を運んできた。 しばしの時間がすぎる。 ──そして、扉が開いた。 現れたのは、まるでおそるおそる舞台に出てきた子猫のような気配をまとった人物だった。 淡い色合いのドレスに身を包み、細い首元には控えめなリボンの飾り。 肩より少し長く伸ばしたふわりとした亜麻色の髪。 歩みは慎重で、スカートの裾を踏まないよう気をつけている様子が微笑ましい。 顔立ちは愛らしく、どこかあどけなさが残る。 年齢は十五歳だったっけ。 その存在は、まるで守ってあげたくなるような、小動物めいた可憐さがあった。「は、初めまして……ミラベル・オルシエールと申します……」 声は震えるようにかすかで、喉の奥から押し出すような高音。
副支部長のヴァルターに連れられ、受付にたどり着く。 そこには茶髪の受付嬢とは別に、中年の女性事務員が書類整理をしていた。 ヴァルターが軽く顎を引くと、女性事務員が小さく頷いた。 ──あ、なるほど。この二人、阿吽の呼吸だ。 単純な上下関係じゃない。どちらかというと、共犯者みたいな。「では、よろしくお願いしますね、フィンさん」 「はい、頑張ってみます」 軽く俺の肩を叩いて、ヴァルターは奥に消えていく。 その背中を見送りながら、俺は思った。(まずは、この支部の空気に慣れることから始めよう。急いでも、ボロは出してくれなさそうだ)「レミィです、よろしくお願いいたします!」 「フィンです。色々教えてくださいね」 受付嬢のレミィさんに改めて挨拶されて、俺は大きく頷いた。レミィさんは、さっそく手元の書類を一つ俺の元によこす。「じゃあ、まずは軽い依頼からですね。今日の午後に一件、町の配達をお願いしてます」 ……流れるように仕事が振られた。うん、わかってたけどね。 初日は配達。 二日目は行商人の護衛任務の手配。 三日目には、魔物避けの結界符を届ける手伝いで、郊外の農場まで歩いた。 やってくる冒険者は目白押し。 冒険者ギルドの仕事というのは、つまるところ雇われの口利きだ。 魔物退治に薬草集め、護衛に猫探しまで──依頼の中身は多種多様。 だが根っこはどれも同じ。 困ってる誰かに代わって、それを片づけてほしいって話だ。 だからギルドは、冒険者の溜まり場でもあり、腕の貸し借りを仲立ちする場所でもある。 剣の腕があっても、求められてるのが薪割りなら話にならない。 必要なのは、適材適所。そして、それを見極める目。 それが俺の、表向きの役目ってわけだ。 仕事を進めるうち、何人もの冒険者と顔を合わせた。 怒鳴ってばかりの男。剣を磨くことしか考えてない女。ギルドの帳簿を盗み見ようとする若造。 善人も悪人も、平等に火薬のような空気をまとっていた。 町も、店も、通りも──どれも熱を持ちすぎている。 だからこそ、少しずつ見えてくるものがある。 俺は密かに調査を進めていた。 物資の搬入リスト、冒険者への支払い記録、業者との取引履歴──数字の裏に隠された痕跡を探す。 ヴァルターと商人たちの会話にも耳
王都ペルファリアから馬車でおよそ一ヶ月。 峠を越えた瞬間、乾いた風と一緒に、喧騒と土埃と──欲望のにおいが押し寄せてきた。 帝国との境界近く、王国の西端にある町、グランヘルデ。 もともとは砦の跡地にできた、寂れた辺境の村だったらしい。 けれど今は、町全体が膨れあがっていた。 地中から遺構らしきものが見つかった──それが全ての始まりだ。 未踏破、構造不明、魔物出没。 だが同時に、古代の魔導具、未知の鉱石、魔物素材── 資源と価値の塊が地中に眠っているとなれば、当然、欲に駆られた連中が集まる。 それは、王国史に幾度も刻まれてきた、ダンジョン・フロンティアの始まりだった。 通りには、肩をぶつけ合って歩く冒険者たち。 武具屋の前には魔物の素材が雑に吊るされ、簡易宿の玄関には今日潜る者の名簿が晒されている。 昼から賭けに興じる者、情報屋の小声に耳を傾ける者、買い込んだポーションを胸元に詰めていく者。 市場も、酒場も、裏通りの娼館も、どこも満員だ。 熱気はある。だが、それは生命力ではなく、何かもっと乾いた、切羽詰まった熱だ。 町の空気は、重く、鋭く、荒れている。 ここには、金と命と魔力を賭ける者しかいない。 ────さて、ここからは少しだけ本気を出していこう。 王都のようにのんびりした雰囲気でやっていては、トラブルを招くばかりだとも思うしね。 いつもは半分閉じている瞼をしっかりあけ、瞳を凝らす。 辺境にいる間は、これで行くかな。 ……疲れるけど。 ギルド支部は、町の北端、段丘の上に建っていた。 白い壁と青い屋根の仮設庁舎。王国式の意匠を模してはいるが、どこか無理がある。 建物の前には、王国の旗と、ギルドの青い紋章旗が並んで掲げられていた。 風に翻るそれらを見上げながら、俺は小さく息をついた。(さて……一ヶ月ぶりの仕事か。今度は、ちょっと違うけど) ハルデンから聞いた話は単純だった。 副支部長ヴァルター・グレインの不正疑惑。物資の横流し、予算の私物化、報告書の改竄。 ただし相手は元商人で、証拠隠滅は巧妙。正面から追及しても尻尾を掴ませない。 だから俺が来た。表向きは「人手不足解消のための応援職員」として。 実際は、地味に、静かに、観察して回る係として。 支部の中は、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。 この時間なら
ジークはしばらく黙っていたが、突然くるりと踵を返し、カウンターの前へ向かった。「じゃあ、その接客勝負ってやつ、やってやるよ。今すぐに! この店に合った形で勝負してやる。俺の未来視スキル、ナメんなよ?」 ジークと俺は並んでカウンターに立った。 いや、対して広くないカウンターに男二人、しかも一人は鎧着てって。 狭っ! 俺は、この勝負を持ちかけたことを少しだけ後悔していた。 と、ちょうどそのとき、ドアが開いて客がひとり入ってきた。中年の職人風の男だ。 一見して、仕事帰りでないのはわかった。 靴裏には薄く湿った泥が付着し、その縁には干からびかけた水草の繊維。ズボンの膝には、ついさっき
(逆に言えば……この香りを使って、虫を別の場所に誘導することも可能かもしれない) 俺は肩にかけた鞄から、小型の香煙炉を取り出した。回収した調香樹脂を仕込んで、犯人の仕掛けを逆利用してみよう。「クラリスさん、少し手伝ってもらえますか?」「は、はい!」 彼女と協力して香煙炉を設置し、火を灯す。じわりと甘く湿った香りが広がっていく。 しばらくすると、通気口のひとつから、小さな黒い影がぞろりと顔を覗かせた。「……来ました」 香りの通り道をつたって、虫たちが一列になって進んでいく。「……お見事です」 クラリスさんが呆けたように声を漏らす。 と、その時だった。「クライスト、これは一
馬車が学園の敷地に入ったとき、私は窓の外をじっと見つめていた。 改めて思い返してみても、この学園——フレグラントール学園は、本当に規模が大きい。 魔導、調香、教養、対人応対……多岐にわたる学科が並び、いずれも王都きっての才女たちが集まっている。学問のレベルも高いけれど、実技系の授業も充実していて、実習室や調香室、さらには温室や図書館、中庭まである。 まるで、ひとつの小さな街みたいだ……! 学園内には、教員の居住区や男子寮、複数の女子寮まで整備されている。私が今回入寮するのは、その中でも"高等貴族向け"とされるスピカ寮。少人数制で、部屋も基本は一人か二人。特別待遇、というほどではない
◇あの令嬢がムーア商店を訪れてから数日。 フィンはいつものように、朝の日課を始めていた。◇ ムーア商店の朝は掃除から始まる。「……お前は何故そこに?」 俺の視線の先、コーヒー豆が床の隙間に挟まってる。 しかもちょうど箒が届かない位置に。 狙ったようにピタリと、床板の間にはまり込んでいる。 糸目でじーっと見つめながら、箒の先でつついてみる。 コロコロ。 逃げた。 さらに奥に転がって行きやがった。「……お前、わざとやってるだろ」 コーヒー豆に向かって真剣に文句を言ってる自分が情けない。 でも毎日毎日、同じ場所で同じことになるんだから、もはや豆