LOGIN「それでも駄目そうなの?」
ヘジンは心底驚いたように言った。
駄目どころか、余計に面倒なことになるのは目に見えていた。
あの男なら、間違いなくそうなる。
お金じゃない。
もっと別の方法が必要だった。
「それじゃなくて、その……性的に引くような方法とかない?」
「それなら、九八・三パーセントくらいの確率で逃げ出す方法があるよ」
妙に具体的な数字だった。
だからこそ妙な説得力もある。
……とはいえ。
あの男は、残り一・七パーセントのほうへ平気で入りそうな気もした。
普通じゃない、というのはそういう意味だ。
「何?」
とりあえず聞くだけ聞いてみよう。
どうせ今のジュハには、どんな方法でも試すしかなかった。
「自分が挿れる側だって言えばいいの」
「……私には、ないけど」
一瞬意味が分からなかった。
だがすぐに察し、ジュハはそう答えた。
もしそういう意味なら、自分には"それ"がない。
自然と、ドヒョクのものを思い出す。
あの、とんでもなく大きかったものを。
もちろん、自分には似たようなものすらない。
何となく自分の指先を見下ろく。
……これじゃ、どう考えても無理だ。
「ペニバン使えばいいじゃん」
何それ、と聞くより早く、ヘジンはスマートフォンの画面を見せてきた。
ジュハは思わず顔をしかめる。
こんなものを脚の間へ付けたいとは、とても思えなかった。
説明されなくても用途くらいは分かる。
それくらい分かりやすい形だった。
どこか凶器みたいにも見えた。
「実際にやる必要なんてないって。
これ見せて、『今度は私が挿れるね』って言うだけで逃げるよ」
そうなのだろうか。
ジュハは少しだけ心が揺れた。
そして、ドヒョクとの最初の出会いを思い返す。
あれほどしつこく「最後までしたい」と食い下がられ、結局二度も手伝う羽目になった夜を。
普通、初対面の相手へあんなことを言う人間なんているのだろうか。
もちろん、酔った勢いとはいえ応じてしまった自分も十分おかしかった。
……でも。
服の上からでも分かるほどだった、あれが少しだけ気になってしまったのだ。
あんなもの、一生のうちでそう何度も見られるものじゃない。
そんな予感があった。
だから、自分の目で確かめたかった。
全部、あの妙な好奇心のせいだ。
……いや。
やっぱり一番悪いのは酒。
それから、あの顔。
最後に、自分の好奇心。
その三つが重ならなければ、こんなことには絶対ならなかった。
「失うものはないでしょ」
いや。
それは全然違う。
もしあの頭のおかしい男が、本当に「挿れてください」と言い出したら話は別だ。
それでも。
何となく、そうはならない気がした。
あれだけ自分へ入れたがっていた人間だ。
逆のことなんて考えたこともないだろう。
……まあ、言われなくても、そんなことを想像するタイプには見えなかったけれど。
「でもさ、プライドくらいあるでしょ?」
「…………」
その一言で、ジュハの自信は一気になくなった。
プライド。
そんなものが欠片もなさそうなドヒョクの姿が浮かんだからだ。
八歳年下の女を「ご主人様」と呼び、何のためらいもなく跪いた男。
最初に会ったときとは別人すぎて、戸惑うほどだった。
初めて果てたあとも、急に人が変わったようだったけれど。
……とはいえ。
試してみる価値くらいはある。
プライドがあろうとなかろうと、一瞬くらいは動揺するはずだし。
もし本当にそういう流れになったとしても、途中で逃げ出すかもしれない。
「でも……どこに挿れるの?」
自分にないように、ドヒョクにもない。
ジュハは素朴な疑問を口にした。
作るにしたって、限界があるだろう。
「言葉で説明するより早いよ。
ほら、動画」
ヘジンが再生した映像を、ジュハは一分も見ていられなかった。
ドヒョクのプライドどころではない。
逃げ出したいのは自分のほうだった。
だが、ヘジンは驚くほど粘り強かった。
「一億ウォンでも駄目なら、これしかないって」
そう言われ。
ジュハは半ば泣きそうになりながら、十五分の動画を最後まで見る羽目になった。
新しい世界を知ってしまったのかどうかは、自分でも分からなかった。
◇
「脱いで」
ドヒョクのご主人様は、そんな言葉さえ平然と口にする。
もちろんドヒョクも、何のためらいもなく全部脱いだ。
ジュハから連絡が来るまでの三日間が、どれほど長かったのか。
彼女は知らない。
下着まで脱ぎ終えたドヒョクを見ても、ジュハの表情はまったく変わらなかった。
ただ淡々と、
「後ろ向いて」
と言うだけだった。
ドヒョクはその視線を受けながら、おとなしく背を向ける。
ジュハは大きく描かれた背中の獣の刺青には目もくれず、その下へ視線を落とした。
……本当に、この大きな尻に挿れることなんてできるんだろうか。
そんなことを考える。
けれど、すぐに首を振った。
そのために、ここまで来たのだから。
三日間、散々悩んだ末に。
「朝から今まで、一度も連絡ひとつ寄こさなかった人?」「そ、その……兄貴が仕事の都合で朝方に寝ちゃって……。いえ、それより、その……申し訳ありません。俺が……」本当のところ、仕事だったのかどうかなんて基燦にも分からない。ただ必死で、自分のボスをかばっているだけだった。謝るべきなのは自分じゃない。それでも、とにかく頭を下げる。今この場で彼女の怒りを少しでも和らげられるのは、自分しかいないのだから。「私が門の人たちに『連絡してきたら二度と会えない』って伝えたのに、その人が今まさに電話してきてるんだけど?」珠葉は鳴り続けるスマホの画面を基燦へ見せる。基燦は心の中で悪態をついた。――あのクソ野郎ども……!伝言があるなら、真っ先にそれを伝えろよ!そう怒鳴って、頬でも引っぱたいてやりたかった。普段なら下剋上もいいところだ。だが、どうせこのあとボスに殺される身だ。今さら何の意味もない。「つ、伝言がうまく伝わってなかったみたいです……。本当に申し訳ありません」珠葉は、ひたすら謝り続ける基燦を見つめる。全部が全部、この人のせいじゃない。少し八つ当たりをしている気分になった。もちろん、任された仕事をちゃんとしていなかった基燦にも責任はある。彼が門で迎えてくれていれば。こんな長い塀沿いを、最悪な気分で歩き直すこともなかった。珠葉は冷え切った表情のまま電話へ出る。その声は、基燦の背筋が凍るほど冷たかった。「もしもし」『ご主人様……! 来られたんですね? 俺、昨日寝るのが遅くて……。いえ、それより伝えること全部伝えられてなくて、本当に――』慌て
基燦は、そろそろ道赫に言われていた仕事をしようと門へ向かっていた。だが、まだ着く前に。炳浩と万植が、誰かを悪しざまに罵っている声が耳に入る。「世の中、とんでもねぇイカレ女っているもんだな」「誰の話です?」「いや、見た目は普通のお嬢ちゃんだったんだが、ボスの名前を平気で呼び捨てにしてよ。"最後のチャンス"がどうとか――」まだ約束の時間までは一時間ある。少し世間話でもしてから門へ行こう。そう思っていた基燦だったが、その話を聞いた瞬間、慌てて腕時計へ目を落とした。「……え? いつですか!?」「五分くらい前か?」「やべぇ……。どうしました? 中へお通ししましたか?」「はぁ!? 何でお通しするんだよ? 追い返したに決まってんだろ!」炳浩は呆れたように聞き返す。あんな小柄なお嬢ちゃんを、わざわざ"お通し"する理由がどこにある。どう見ても様子のおかしい人間だったのだから。だが、その返事を聞いた途端。基燦の顔から血の気が引いていく。ごくり、と唾を飲み込んだ。……何でこんなに早く来たんだ。まだ時間あるのに。まずは状況を把握しなければ。炳浩も万植も、珠葉のことなど知るはずがない。よりにもよって、この二人だった。きっと、ろくな口を利いていない。今日に限って道赫が仕事を理由に大勢外へ出してしまい、門番が足りなかったのが運の尽きだった。炳浩と万植は、大田の仕事を片づけたばかりで待機中だったのだ。「……くそっ。ボス、今どちらです?」「寝てるんじゃねぇか?」だから連絡がつかなかったのか。基燦は震える手を落ち着かせるように、大きく息を吸う。「タクシーで来られました?」「ああ。タク
「人んちのボ……いや、代表のお名前を、そんな気軽に呼ぶもんじゃねぇよ」――やっぱり。あのバカ。人が来るって言ってなかったのか。珠葉の機嫌は一気に急降下した。この男は今、危うく「ボス」と言いかけた。そのうえ初対面の自分にいきなりタメ口。けれど珠葉はぐっと気持ちを抑える。怒られるべき相手は、こいつらじゃない。そう思った。「どうやって知ったのかは知りませんが、お引き取りください」「じゃあ、ここで合ってるってことね?」「だから、お帰りくださいって」こんな場所までタクシーで来る押し売りがどこにいるっていうんだ。珠葉は冷静に考えながらスマホを取り出した。あのとき会った"職場の人"たちの名前でも知っていればよかった。それもない以上、証明できそうなものは一つしか思いつかない。「これしか証明できるものないんだけど」「おじさん? それがどうし――」「……代表の番号じゃねぇか、それ」『おじさん』と登録された道赫の番号。そして何度も残っている通話履歴。二人は顔を見合わせ、小声で何か話したあと、結局また首を横に振った。「いや……どっかで名刺でも見て番号登録したのかもしれねぇし」「ちゃんと見て。こんなに何回も電話してるでしょ」「……いや、それでもな。うちの代表は、だからって家まで来れば会えるような人じゃねぇんだ」口調はさっきより少し柔らかくなった。それでも態度は頑なだった。珠葉は小さくため息をつく。道赫とのメッセージ履歴。あれを見せれば、自分たちの関係くらいすぐ証明できる。でも。あんな私的なやり取りを他人へ見せるなんて嫌だった。名刺には載っていない個人用の番号
「ディルド代わりに使ってあげる」『……』受話器の向こうから返事はなかった。思わず笑いそうになる。いや、もう少し漏れてしまったかもしれない。その小さな笑い声を、道赫は聞いていたのかもしれなかった。それでも彼は、しばらく何も言わない。やがて、一段低くなった声が返ってきた。『土曜日……ですか? 十二時に?』いつの間にか。「ここは郊外だから、タクシーは家の前まで来ません」そう伝えるつもりだったことすら忘れていた。今、自分が何を考えているのか。それすらよく分からない。ただ、頭の中は真っ白だった。彼女の言葉を、本当に正しく理解できているのかさえ怪しい。それでも。――とても、とても大事なことを言われた。その事実だけが、頭に残っていた。「うん」『……分かりました。お待ちしています』土曜日まで、あと二日。その二日がどれほど長く感じられるのか。このときの道赫は、まだ知らなかった。ただ、きっと長い時間になる。そんな予感だけがあった。珠葉は電話を切ると、長く息を吐いた。本当にこれでよかったのか。そう自分へ問いかけても、すぐには答えが出ない。こんな勢いで決めるために、今まで引き延ばしてきたわけじゃない。それでも。さっきの道赫の反応を思い返せば、きっと後悔はしない。たかがセックス。珠葉はそうやって自分へ言い聞かせる。けれど、「たかが」の一言だけで納得できるほど簡単でもなかった。だからもう一度、道赫のことを思い浮かべる。どんな意味であれ。自分へ本気で向き合ってくれる、あの整った顔の男を。そして彼へ言った通り、自
「大したことじゃない。ただの噂だし。事実でもないんだから、腹を立てる必要ないと思って言わなかった」やっぱり。珠葉なら、そう言うと思った。こんなことを聞かされても黙っていた理由なんて、一つしかない。彼女は、自分自身の名誉なんて少しも気にしていない。あれだけ聞こえよがしに騒がれていたんだ。今日初めて耳にした話なわけがない。何日もそんな声を聞きながら、何事もなかったように大学へ通っていた。そのことを、自分は何も知らなかった。それが、たまらなく腹立たしかった。けれど。怒る相手は、決して珠葉じゃない。それくらい、道赫にも分かっていた。「何であれ、ご主人様の許可がなければ、俺は何もできません」「じゃあ、しなきゃいい」「他のことは考えなくていいです。せめて、俺の名誉だけは守ってください」もちろん、それは口実だった。自分の名誉なんて気にしない珠葉だからこそ、わざわざ持ち出した口実。彼は、ご主人様の許可がなければ動けない自分を知っている。だからこそ、理由が必要だった。珠葉はそっと下唇を噛む。大学にも通っていない彼に、守るべき名誉なんてあるのか。そんな考えが一瞬よぎる。けれど同時に。自分と同じように、彼まで「金で人を買った男」にされてしまったこと。そのことには、まったく思い至っていなかった。彼だって、何も悪くない。しかも、こうしてちゃんと許可まで求めている。たった一言。それだけでいいと言っている。難しいことじゃない。それでも。彼が何をするつもりなのか分からない以上、簡単には頷けなかった。「……暴力はダメ」「はい」返事は驚くほど早かった。まるで、その言葉を待っていたかのように。
その日、道赫は一日中、珠葉から「迎えに来て」と連絡が来るのを待っていた。試験勉強の最中に、あの性格でどうでもいいメッセージを送ってくるはずがない。だから、日付が変わる頃に彼女から連絡が来たときも、ごく自然に車のキーを手に取った。「……え? 来なくていい、ですか?」「うん。今日は歩いて帰る。待つ時間のほうが長いし」そんなことは道赫だって分かっている。大学まで迎えに行くのに二十分。そこから珠葉の家までは歩いて十分ほど。それでも今までは、彼女は彼を呼んでくれていた。彼が着く時間を逆算して、少し早めに連絡をくれるくらいには。試験期間でも、夜に少しだけ顔くらいは見られると思っていたのに。これでは、罰を受けているときと大して変わらない。もちろん。連絡くらいは取れるだけ、まだ救いだった。「でしたら……明日は大学の前で待っていましょうか?」「何時に終わるか分かんない。電話しながら帰るから、そのとき話そ」道赫は仕方なく「分かりました」と答えた。声だけでも聞けるなら、それでいい。家へ帰ったあとも、少しだけわがままを言った。せめてビデオ通話をしませんか、と。珠葉は「いいよ」とあっさり了承し、帰宅するとすぐにかけ直してきた。画面越しの彼女は、いつもとほとんど変わらない。少し疲れて見えるくらい。試験期間なんだから、それくらい当然だろう。道赫は何度か身体を気遣う言葉をかけ、珠葉の話を聞いてから電話を切った。そんな日が、何日も続く。試験期間中は一度も呼ばないつもりなのか。彼女は毎日欠かさず連絡をくれるのに、会おうとはしなかった。道赫もまた、長い我慢の時間を過ごす。首席を何度も取ってきた人だという。その努力も生活も、自分が邪魔したくはなかった。珠葉も
「もう、今にもイきそうですけど」「そんなわけない」 軽い挑発のつもりだった。 平然と言い返したつもりなのだろうが、その声は少しも格好よくなかった。 思った以上に震えていたからだ。 緊張しているようには見えなかった。 それでも、その声を聞いた途端、ジュハは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。「そうですか?」 その一言が、ひどく挑発的に聞こえた。 どこまで耐えられるか試してみる、とでも言いたげに。 ドヒョクは少し意地になった。 だが、酒の入った身体は意思とは裏腹に勝手な反応を始める。 ここ数年、まともな性行為から遠ざかっていたせいかもしれない。 ――いや。 そんなものは
「まあ、この辺ならホテルなんていくらでもありますし」 この辺りはラブホテルだらけだった。 ドヒョクはジュハの言葉に、小さく周囲を見回す。 生まれながらの坊ちゃん育ちで、こんな場所に来たことは一度もない。 もっとも、今さら二人でタクシーに乗ってホテルを探すというのも、それはそれで妙な話だった。「ふーん」「手でしかしませんけど。 それでもいいなら」「……何?」 ずいぶんと肝が据わっていた。 自分より倍は大きな男に向かって言う言葉とは思えない。 世間知らずなのか。 それとも、何か根拠のない自信でもあるのか。 酒に酔っているはずなのに、その瞳だけは不思議なほど生き生きとして
ジュハは、新学期初日からかなり酒を飲んでいた。 五年制の建築学科も、いよいよ最後の後期。 卒業制作の展示会も終わり、あとは卒業論文を書くだけ。 長かった学生生活も、ようやく終わる。 そう思うと、なぜだか無性に酒が飲みたくなった。 大学生活四年半の間、ここまで飲んだことは一度もない。 建築学科は酒を飲む人が多いイメージだったが、ジュハ自身は酒を好まなかったため、そこまで飲む機会もなかったのだ。 だから、その日の彼女は珍しく酔っていた。 道で大柄な男とぶつかったとき、何も考えず軽く頭を下げて謝ったのも、そのせいだった。「謝り方にしては、ずいぶん適当だな?」 そう言われ、ジュ
「どう? 家族の借金は少しあるけど、学校の先生だ。 悪くないだろ?」 何が「どう」なのか。 ドヒョクはソンミンの手から酒瓶を取り上げ、自分でグラスへ酒を注いだ。 そして、一気に飲み干す。 少し酒が入れば、昨夜と同じ状態になるかもしれない。 そんな考えが頭をよぎる。「今までとはちょっと違うタイプを集めてみたんだけど?」 だが、ドヒョクの隣へ座った相手は、目を合わせることすらできず小さく震えていた。 別にここで誰かと関係を持つつもりで