LOGINその日、道赫は一日中、珠葉から「迎えに来て」と連絡が来るのを待っていた。
試験勉強の最中に、あの性格でどうでもいいメッセージを送ってくるはずがない。
だから、日付が変わる頃に彼女から連絡が来たときも、ごく自然に車のキーを手に取った。
「……え? 来なくていい、ですか?」
「うん。今日は歩いて帰る。待つ時間のほうが長いし」
そんなことは道赫だって分かっている。
大学まで迎えに行くのに二十分。
そこから珠葉の家までは歩いて十分ほど。
それでも今までは、彼女は彼を呼んでくれていた。
彼が着く時間を逆算して、少し早めに連絡をくれるくらいには。
試験期間でも、夜に少しだけ顔くらいは見られると思っていたのに。
これでは、罰を受けているときと大して変わらない。
もちろん。
連絡くらいは取れるだけ、まだ救いだった。
「でしたら……明日は大学の前で待
「大したことじゃない。ただの噂だし。事実でもないんだから、腹を立てる必要ないと思って言わなかった」やっぱり。珠葉なら、そう言うと思った。こんなことを聞かされても黙っていた理由なんて、一つしかない。彼女は、自分自身の名誉なんて少しも気にしていない。あれだけ聞こえよがしに騒がれていたんだ。今日初めて耳にした話なわけがない。何日もそんな声を聞きながら、何事もなかったように大学へ通っていた。そのことを、自分は何も知らなかった。それが、たまらなく腹立たしかった。けれど。怒る相手は、決して珠葉じゃない。それくらい、道赫にも分かっていた。「何であれ、ご主人様の許可がなければ、俺は何もできません」「じゃあ、しなきゃいい」「他のことは考えなくていいです。せめて、俺の名誉だけは守ってください」もちろん、それは口実だった。自分の名誉なんて気にしない珠葉だからこそ、わざわざ持ち出した口実。彼は、ご主人様の許可がなければ動けない自分を知っている。だからこそ、理由が必要だった。珠葉はそっと下唇を噛む。大学にも通っていない彼に、守るべき名誉なんてあるのか。そんな考えが一瞬よぎる。けれど同時に。自分と同じように、彼まで「金で人を買った男」にされてしまったこと。そのことには、まったく思い至っていなかった。彼だって、何も悪くない。しかも、こうしてちゃんと許可まで求めている。たった一言。それだけでいいと言っている。難しいことじゃない。それでも。彼が何をするつもりなのか分からない以上、簡単には頷けなかった。「……暴力はダメ」「はい」返事は驚くほど早かった。まるで、その言葉を待っていたかのように。
その日、道赫は一日中、珠葉から「迎えに来て」と連絡が来るのを待っていた。試験勉強の最中に、あの性格でどうでもいいメッセージを送ってくるはずがない。だから、日付が変わる頃に彼女から連絡が来たときも、ごく自然に車のキーを手に取った。「……え? 来なくていい、ですか?」「うん。今日は歩いて帰る。待つ時間のほうが長いし」そんなことは道赫だって分かっている。大学まで迎えに行くのに二十分。そこから珠葉の家までは歩いて十分ほど。それでも今までは、彼女は彼を呼んでくれていた。彼が着く時間を逆算して、少し早めに連絡をくれるくらいには。試験期間でも、夜に少しだけ顔くらいは見られると思っていたのに。これでは、罰を受けているときと大して変わらない。もちろん。連絡くらいは取れるだけ、まだ救いだった。「でしたら……明日は大学の前で待っていましょうか?」「何時に終わるか分かんない。電話しながら帰るから、そのとき話そ」道赫は仕方なく「分かりました」と答えた。声だけでも聞けるなら、それでいい。家へ帰ったあとも、少しだけわがままを言った。せめてビデオ通話をしませんか、と。珠葉は「いいよ」とあっさり了承し、帰宅するとすぐにかけ直してきた。画面越しの彼女は、いつもとほとんど変わらない。少し疲れて見えるくらい。試験期間なんだから、それくらい当然だろう。道赫は何度か身体を気遣う言葉をかけ、珠葉の話を聞いてから電話を切った。そんな日が、何日も続く。試験期間中は一度も呼ばないつもりなのか。彼女は毎日欠かさず連絡をくれるのに、会おうとはしなかった。道赫もまた、長い我慢の時間を過ごす。首席を何度も取ってきた人だという。その努力も生活も、自分が邪魔したくはなかった。珠葉も
その日、珠葉はホテルで眠ってしまった。「私が寝たら隣の部屋行って」そう言っておきながら。道赫は寝息を立てる珠葉をしばらく見つめ、その穏やかな呼吸を耳に焼きつけてから、静かに隣の部屋へ移った。寝顔を見せてくれるようになった。それだけでも、どれほど大きな変化なのか。道赫にはよく分かっていた。翌朝、大学まで送ると、「あとで連絡する」そう一言だけ残して、珠葉はさっさと校内へ消えていく。道赫もそこでようやく家へ向かった。珠葉も、ときどき道赫のことを思い出した。それでも昨日よりはずっと勉強に集中できていた。試験期間だというのに、余計なことばかり考えていたくはない。だから普段以上に意識して机へ向かう。ただ、ときどき周囲が妙にざわつく。試験期間中の大学は、物音一つ立てるのも遠慮するくらい静かなはずなのに。どこか落ち着かない空気だけが漂っていた。それでも珠葉は気にも留めなかった。◇「ご飯行こ」昼休みになると、友人の恵珍が珠葉の肩を軽く叩いた。珠葉はようやく伸びをして頷く。恵珍は同じ学科ではない。二年生のとき偶然仲良くなって、それからずっと付き合いが続いていた。五年制の珠葉とは違い、本来なら四年で卒業できるはずだったが、「青春を取り戻してくる!」と言って一年休学したせいで、結局まだ同じ大学へ通っている。「何食べる?」「トッポッキ」「りょーかい」そんな他愛ない話をしながら北門へ向かう。歩いているだけでも、周囲のざわつきがどこか気になった。店へ入り注文を済ませると、珠葉がぽつりと言う。「今日、大学なんか変」「それ……ちょうどその話しようと思ってた」「え? 何か知ってるの?」珠
「えっ……八棟? 東京じゃなくて、ソウルで? それって相当広くない?」「ええと……ソウルの端のほうなので、ほとんど京畿道みたいな場所です。でも、ご主人様の大学からなら車で二十分くらいですよ」珠葉は身を乗り出すように道赫へ近づいた。今日の彼女は、いつになく積極的だ。その様子を見て、道赫は小さく笑う。やっぱり、自分に腹を立てていたわけではなかったらしい。そう思えるくらいには、素直な反応だった。「試験終わったら行ってもいい?」「もちろんです」来週末くらいだろうか。道赫は頭の中でざっと予定を思い浮かべる。外で一緒に食事をするだけでも苦労していた。それが家へ来てくれるなら、自分で作ったわけじゃなくても食事くらいは用意できる。それだけでも十分嬉しい。運が良ければ、一度だけじゃ済まないかもしれない。「……でも、家族と住んでるんじゃないの?」「いえ。今は家族は一緒じゃありません。俺一人と、あとは子たちが少し」「へぇ? 何人くらい?」――ああ。これじゃ、あいつらを全員どかすわけにもいかないな。道赫は少しだけ考えた。本当のことは言いたくない。でも、嘘もつきたくない。迷った末、変に取り繕うことなく答える。「五十人くらいです。でも昼間はみんな出てるので、あまりいませんよ」適当に片づけておけばいいか。そんな結論の返事だった。珠葉は素直に頷く。五十人。そんな大人数で暮らしているとは思わなかった。そもそも韓屋に住んでいることすら、今日初めて知った。でも、知るタイミングとしては悪くない。試験さえ終われば、少しは余裕もできる。「分かった」そう言って珠葉は、またベッドへごろんと寝
「今日はどうしたんですか?」道赫は珠葉の隣へ寝転び、彼女の髪を指先に絡めて遊びながら尋ねた。珠葉は何でもないように、「何が?」と返す。その返事が妙に嬉しかった。いや、本当は返事なんてどうでもよかった。こうして肩を並べて話す、この時間そのものが嬉しい。以前なら行為が終わればすぐ追い返していた彼女が、今ではこうして隣にいることを許してくれる。それだけで十分だった。だから、何を話すかなんて大した問題じゃない。「今日はずいぶん激しかったですね、ご主人様」「そう?」知らないふりか。道赫は珠葉の顔をじっと見る。本当に気づいていないのか、それとも惚けているだけなのか。どう見ても白を切っている顔で、思わず吹き出した。「ええ、すごく。ほら、さっき俺、泣いちゃったじゃないですか」目元を拭う仕草まで添えてみせる。珠葉は「そんな気分だっただけ」とでも言いたげに、その話をさらりと流した。道赫は少し考える。正直、思い当たる理由がない。「大学で何かあったんですか?」「ない。そんなの」それなら、どうして。理由もなくあんなふうになる人ではない気がして、また考え込む。指の間をすり抜ける柔らかな髪を感じながら、おそるおそる口を開いた。「さっき、俺が実家に帰ったから怒りました?」「は? 何言ってんの。そんなわけないでしょ」珠葉は、自分が少し強く否定しすぎたことくらい分かっていた。でも、この問いだけは絶対に否定しなければならない。たとえ本当だったとしても。本当のまま認めるわけにはいかない。ここで口にしてしまえば、すべてが変わってしまう。自分のものにしたいなんて。そんな感情は、まともじゃない。だからこそ、認めた瞬間、それは弱みになる気がし
「……はぁ……」短く息を吐き、珠葉はゆっくりと上体を起こした。道赫の舌は思っていた以上に熱く、湿っていた。主導権を握られるような感覚だけは嫌で、自分なりにやってみたものの。思い描いていたものと現実は少し違っていて、思うようにはいかなかった。それでも、このくらいなら十分満足だ。道赫の目が、燃えるように熱を帯びていたから。本人は気づいていないようだけれど。そのあとは、いつもと似ているようで少し違った。珠葉はいつもより乱暴に腰を打ちつける。彼が甘い声を漏らすたび、笑っていたあの表情もない。ただ真剣な顔で、一心に彼を責め続けた。「はぁ……んっ……! うっ……! 速、すぎます……っ、ご主人様……あっ……!」「気持ちいいくせに。大げさ」そうだろうか。そもそも、ご主人様との行為が嫌だったことなど一度もない。どれほど翻弄されようとも。今日はいつもより荒っぽい彼女を見ながら、少しだけ可哀想なふりでもしてみようかと思った。「んっ……あぁ……でも……っ、速っ……んっ……!」潤んだ目を作るのは難しくなかった。強い刺激だけで自然と涙が滲むくらいなのだから。いつもより少しだけ弱々しく見せればいい。けれど珠葉は、そんな道赫を哀れむどころか。むしろ少し楽しそうだった。「触ってもないのに、その勃ってるチンポ」もちろん、それだけが理由じゃない。道赫は少しだけ理不尽さを飲み込み、もうひと押ししてみることにした。潤んだ瞳の
「どう? 家族の借金は少しあるけど、学校の先生だ。 悪くないだろ?」 何が「どう」なのか。 ドヒョクはソンミンの手から酒瓶を取り上げ、自分でグラスへ酒を注いだ。 そして、一気に飲み干す。 少し酒が入れば、昨夜と同じ状態になるかもしれない。 そんな考えが頭をよぎる。「今までとはちょっと違うタイプを集めてみたんだけど?」 だが、ドヒョクの隣へ座った相手は、目を合わせることすらできず小さく震えていた。 別にここで誰かと関係を持つつもりで
ドヒョクは、その十一桁の電話番号をじっと見つめていた。 名前を登録しようにも、何と保存すればいいのか分からない。 昨夜は、酔い潰れるほど飲んだわけではない。 それでも朝になると、ようやく頭が冷えてきた気がした。 そもそも、なぜ番号を聞いたのか。 自分でもはっきり覚えていない。 あの女と、この先どうするつもりだったのか。 昨夜のことは、ちょっとしたハプニングとして終わらせればいい。 そう自分に言い聞かせながら、ベッドを降りた。 もしかすると、昨日
「もう、今にもイきそうですけど」「そんなわけない」 軽い挑発のつもりだった。 平然と言い返したつもりなのだろうが、その声は少しも格好よくなかった。 思った以上に震えていたからだ。 緊張しているようには見えなかった。 それでも、その声を聞いた途端、ジュハは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。「そうですか?」 その一言が、ひどく挑発的に聞こえた。 どこまで耐えられるか試してみる、とでも言いたげに。 ドヒョクは少し意地になった。 だが、酒の入った身体は意思とは裏腹に勝手な反応を始める。 ここ数年、まともな性行為から遠ざかっていたせいかもしれない。 ――いや。 そんなものは
「まあ、この辺ならホテルなんていくらでもありますし」 この辺りはラブホテルだらけだった。 ドヒョクはジュハの言葉に、小さく周囲を見回す。 生まれながらの坊ちゃん育ちで、こんな場所に来たことは一度もない。 もっとも、今さら二人でタクシーに乗ってホテルを探すというのも、それはそれで妙な話だった。「ふーん」「手でしかしませんけど。 それでもいいなら」「……何?」 ずいぶんと肝が据わっていた。 自分より倍は大きな男に向かって言う言葉とは思えない。 世間知らずなのか。 それとも、何か根拠のない自信でもあるのか。 酒に酔っているはずなのに、その瞳だけは不思議なほど生き生きとして







