LOGIN「どう?
家族の借金は少しあるけど、学校の先生だ。
悪くないだろ?」
何が「どう」なのか。
ドヒョクはソンミンの手から酒瓶を取り上げ、自分でグラスへ酒を注いだ。
そして、一気に飲み干す。
少し酒が入れば、昨夜と同じ状態になるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
「今までとはちょっと違うタイプを集めてみたんだけど?」
だが、ドヒョクの隣へ座った相手は、目を合わせることすらできず小さく震えていた。
別にここで誰かと関係を持つつもりで来たわけではない。
ドヒョクはグラスを置き、小さく息を吐く。
一晩だけ。
それで確かめられれば十分だった。
彼は、自分をちらちらと窺っている者たちと、一人ずつ視線を合わせていく。
「…………」
そのとき、ふと思った。
――俺はここで、何をやってる。
昨夜のことは、ただのハプニングで終わらせると決めたはずだった。
それなのに、こうして確かめようとしている。
こんなことをするくらいなら、気になっている相手に電話をかけたほうが早かった。
「ちょっと失礼」
ドヒョクは部屋を出ると、スマートフォンを取り出した。
そして、一日中頭から離れなかった十一桁の番号を押していく。
名前も登録しないまま、覚えてしまった番号を。
だが。
呼び出し音が鳴るより早く、その理由は分かった。
着信拒否されていた。
「…………」
一日中悩んでいたことが、急に馬鹿らしく思えた。
どうせ最初から、繋がるはずなどなかったのだ。
ドヒョクはそのまま部屋へ戻ると、一直線にソンミンの前まで歩いていく。
「な、何だよ?」
大柄なドヒョクに見下ろされ、ソンミンは思わず肩を震わせた。
脅されるような間柄ではない。
それでも、あまりにも身体が大きく、しかも表情まで険しいものだから、反射的に身構えてしまう。
「スマホ」
「は?
俺の?」
ドヒョクは答えず、わずかに眉をひそめた。
ソンミンはぶつぶつ文句を言いながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。
「そんな近づかなくても聞こえるだろ……」
そんな文句など意に介さず、ドヒョクは昨夜手に入れた番号を入力した。
「この番号の持ち主。
身元を全部調べて送れ。
写真はいらない」
「うわぁ……。
誰だか知らないけど、気の毒だな」
ソンミンは番号を見つめながら、小さく呟いた。
ドヒョクは否定しない。
ソンミンはきっと、哀れな女か、それとも誰かが脅されている場面でも想像しているのだろう。
わざわざ訂正する必要もなかった。
説明できるような関係でもない。
結局ソンミンは、その番号を『気の毒』という名前で保存した。
「日付が変わる前に送れ。
終わったらすぐ消せ。
行くぞ」
「えっ!?
日付が変わる前!?
あと二時間もないぞ!?」
「仕事しろ、ホン・ソンミン」
「おい!
待て!
俺、酒飲んで……!」
最後まで聞かず、ドヒョクは店を出ながらテギュへ電話をかけた。
テギュはまだ駐車を終えたばかりだったらしく、突然の着信に慌てて応答する。
「戻れ」
「は、はい!?
今ですか!?」
普段なら、こんな聞き返し方は絶対にしない。
あまりにも突然で、思わず口をついて出てしまった。
さっき飲みに来たばかりなのに、数分で呼び戻されるとは誰も思わない。
いつもなら最低でも二時間は経ってから電話が来るはずだった。
「三分」
それだけ言う。
「ひぃっ!?
すぐ行きます!」
テギュが悲鳴のような返事をすると、ドヒョクは続けて命じた。
「本家に全員集めろ」
一瞬、
――えっ、今ですか?
と言いかけた。
だが今度はどうにか飲み込む。
「……分かりました」
そう答えた瞬間、電話は切れた。
最近はこんな横暴な命令も少なかっただけに戸惑ったが、考えてみれば珍しいことではない。
ドヒョクは昔から傍若無人で、自分の思うままに動く組のボスだった。
命令されたら従うだけだ。
テギュはすぐ部下たちへ連絡を回し、それから急いでドヒョクのもとへ車を走らせた。
すでに二分が過ぎていたからだ。
◇
「……何なんだ?」
「静かにしろ……」
深夜。
突然呼び出された組員たちは、集めておきながら何も話さないドヒョクを見て、小声でざわついた。
とはいえ、それも長くは続かない。
この時間に呼び出されること自体が久しぶりだった。
皆、ただならぬ空気を感じ取っている。
肝心のドヒョクは、一枚の紙をじっと見つめたまま微動だにしない。
何か重大なことが起きたに違いない。
誰もがそう思っていた。
静寂の中、三十分以上が過ぎる。
ようやくドヒョクが顔を上げたのは、その頃だった。
「人んちのボ……いや、代表のお名前を、そんな気軽に呼ぶもんじゃねぇよ」――やっぱり。あのバカ。人が来るって言ってなかったのか。珠葉の機嫌は一気に急降下した。この男は今、危うく「ボス」と言いかけた。そのうえ初対面の自分にいきなりタメ口。けれど珠葉はぐっと気持ちを抑える。怒られるべき相手は、こいつらじゃない。そう思った。「どうやって知ったのかは知りませんが、お引き取りください」「じゃあ、ここで合ってるってことね?」「だから、お帰りくださいって」こんな場所までタクシーで来る押し売りがどこにいるっていうんだ。珠葉は冷静に考えながらスマホを取り出した。あのとき会った"職場の人"たちの名前でも知っていればよかった。それもない以上、証明できそうなものは一つしか思いつかない。「これしか証明できるものないんだけど」「おじさん? それがどうし――」「……代表の番号じゃねぇか、それ」『おじさん』と登録された道赫の番号。そして何度も残っている通話履歴。二人は顔を見合わせ、小声で何か話したあと、結局また首を横に振った。「いや……どっかで名刺でも見て番号登録したのかもしれねぇし」「ちゃんと見て。こんなに何回も電話してるでしょ」「……いや、それでもな。うちの代表は、だからって家まで来れば会えるような人じゃねぇんだ」口調はさっきより少し柔らかくなった。それでも態度は頑なだった。珠葉は小さくため息をつく。道赫とのメッセージ履歴。あれを見せれば、自分たちの関係くらいすぐ証明できる。でも。あんな私的なやり取りを他人へ見せるなんて嫌だった。名刺には載っていない個人用の番号
「ディルド代わりに使ってあげる」『……』受話器の向こうから返事はなかった。思わず笑いそうになる。いや、もう少し漏れてしまったかもしれない。その小さな笑い声を、道赫は聞いていたのかもしれなかった。それでも彼は、しばらく何も言わない。やがて、一段低くなった声が返ってきた。『土曜日……ですか? 十二時に?』いつの間にか。「ここは郊外だから、タクシーは家の前まで来ません」そう伝えるつもりだったことすら忘れていた。今、自分が何を考えているのか。それすらよく分からない。ただ、頭の中は真っ白だった。彼女の言葉を、本当に正しく理解できているのかさえ怪しい。それでも。――とても、とても大事なことを言われた。その事実だけが、頭に残っていた。「うん」『……分かりました。お待ちしています』土曜日まで、あと二日。その二日がどれほど長く感じられるのか。このときの道赫は、まだ知らなかった。ただ、きっと長い時間になる。そんな予感だけがあった。珠葉は電話を切ると、長く息を吐いた。本当にこれでよかったのか。そう自分へ問いかけても、すぐには答えが出ない。こんな勢いで決めるために、今まで引き延ばしてきたわけじゃない。それでも。さっきの道赫の反応を思い返せば、きっと後悔はしない。たかがセックス。珠葉はそうやって自分へ言い聞かせる。けれど、「たかが」の一言だけで納得できるほど簡単でもなかった。だからもう一度、道赫のことを思い浮かべる。どんな意味であれ。自分へ本気で向き合ってくれる、あの整った顔の男を。そして彼へ言った通り、自
「大したことじゃない。ただの噂だし。事実でもないんだから、腹を立てる必要ないと思って言わなかった」やっぱり。珠葉なら、そう言うと思った。こんなことを聞かされても黙っていた理由なんて、一つしかない。彼女は、自分自身の名誉なんて少しも気にしていない。あれだけ聞こえよがしに騒がれていたんだ。今日初めて耳にした話なわけがない。何日もそんな声を聞きながら、何事もなかったように大学へ通っていた。そのことを、自分は何も知らなかった。それが、たまらなく腹立たしかった。けれど。怒る相手は、決して珠葉じゃない。それくらい、道赫にも分かっていた。「何であれ、ご主人様の許可がなければ、俺は何もできません」「じゃあ、しなきゃいい」「他のことは考えなくていいです。せめて、俺の名誉だけは守ってください」もちろん、それは口実だった。自分の名誉なんて気にしない珠葉だからこそ、わざわざ持ち出した口実。彼は、ご主人様の許可がなければ動けない自分を知っている。だからこそ、理由が必要だった。珠葉はそっと下唇を噛む。大学にも通っていない彼に、守るべき名誉なんてあるのか。そんな考えが一瞬よぎる。けれど同時に。自分と同じように、彼まで「金で人を買った男」にされてしまったこと。そのことには、まったく思い至っていなかった。彼だって、何も悪くない。しかも、こうしてちゃんと許可まで求めている。たった一言。それだけでいいと言っている。難しいことじゃない。それでも。彼が何をするつもりなのか分からない以上、簡単には頷けなかった。「……暴力はダメ」「はい」返事は驚くほど早かった。まるで、その言葉を待っていたかのように。
その日、道赫は一日中、珠葉から「迎えに来て」と連絡が来るのを待っていた。試験勉強の最中に、あの性格でどうでもいいメッセージを送ってくるはずがない。だから、日付が変わる頃に彼女から連絡が来たときも、ごく自然に車のキーを手に取った。「……え? 来なくていい、ですか?」「うん。今日は歩いて帰る。待つ時間のほうが長いし」そんなことは道赫だって分かっている。大学まで迎えに行くのに二十分。そこから珠葉の家までは歩いて十分ほど。それでも今までは、彼女は彼を呼んでくれていた。彼が着く時間を逆算して、少し早めに連絡をくれるくらいには。試験期間でも、夜に少しだけ顔くらいは見られると思っていたのに。これでは、罰を受けているときと大して変わらない。もちろん。連絡くらいは取れるだけ、まだ救いだった。「でしたら……明日は大学の前で待っていましょうか?」「何時に終わるか分かんない。電話しながら帰るから、そのとき話そ」道赫は仕方なく「分かりました」と答えた。声だけでも聞けるなら、それでいい。家へ帰ったあとも、少しだけわがままを言った。せめてビデオ通話をしませんか、と。珠葉は「いいよ」とあっさり了承し、帰宅するとすぐにかけ直してきた。画面越しの彼女は、いつもとほとんど変わらない。少し疲れて見えるくらい。試験期間なんだから、それくらい当然だろう。道赫は何度か身体を気遣う言葉をかけ、珠葉の話を聞いてから電話を切った。そんな日が、何日も続く。試験期間中は一度も呼ばないつもりなのか。彼女は毎日欠かさず連絡をくれるのに、会おうとはしなかった。道赫もまた、長い我慢の時間を過ごす。首席を何度も取ってきた人だという。その努力も生活も、自分が邪魔したくはなかった。珠葉も
その日、珠葉はホテルで眠ってしまった。「私が寝たら隣の部屋行って」そう言っておきながら。道赫は寝息を立てる珠葉をしばらく見つめ、その穏やかな呼吸を耳に焼きつけてから、静かに隣の部屋へ移った。寝顔を見せてくれるようになった。それだけでも、どれほど大きな変化なのか。道赫にはよく分かっていた。翌朝、大学まで送ると、「あとで連絡する」そう一言だけ残して、珠葉はさっさと校内へ消えていく。道赫もそこでようやく家へ向かった。珠葉も、ときどき道赫のことを思い出した。それでも昨日よりはずっと勉強に集中できていた。試験期間だというのに、余計なことばかり考えていたくはない。だから普段以上に意識して机へ向かう。ただ、ときどき周囲が妙にざわつく。試験期間中の大学は、物音一つ立てるのも遠慮するくらい静かなはずなのに。どこか落ち着かない空気だけが漂っていた。それでも珠葉は気にも留めなかった。◇「ご飯行こ」昼休みになると、友人の恵珍が珠葉の肩を軽く叩いた。珠葉はようやく伸びをして頷く。恵珍は同じ学科ではない。二年生のとき偶然仲良くなって、それからずっと付き合いが続いていた。五年制の珠葉とは違い、本来なら四年で卒業できるはずだったが、「青春を取り戻してくる!」と言って一年休学したせいで、結局まだ同じ大学へ通っている。「何食べる?」「トッポッキ」「りょーかい」そんな他愛ない話をしながら北門へ向かう。歩いているだけでも、周囲のざわつきがどこか気になった。店へ入り注文を済ませると、珠葉がぽつりと言う。「今日、大学なんか変」「それ……ちょうどその話しようと思ってた」「え? 何か知ってるの?」珠
「えっ……八棟? 東京じゃなくて、ソウルで? それって相当広くない?」「ええと……ソウルの端のほうなので、ほとんど京畿道みたいな場所です。でも、ご主人様の大学からなら車で二十分くらいですよ」珠葉は身を乗り出すように道赫へ近づいた。今日の彼女は、いつになく積極的だ。その様子を見て、道赫は小さく笑う。やっぱり、自分に腹を立てていたわけではなかったらしい。そう思えるくらいには、素直な反応だった。「試験終わったら行ってもいい?」「もちろんです」来週末くらいだろうか。道赫は頭の中でざっと予定を思い浮かべる。外で一緒に食事をするだけでも苦労していた。それが家へ来てくれるなら、自分で作ったわけじゃなくても食事くらいは用意できる。それだけでも十分嬉しい。運が良ければ、一度だけじゃ済まないかもしれない。「……でも、家族と住んでるんじゃないの?」「いえ。今は家族は一緒じゃありません。俺一人と、あとは子たちが少し」「へぇ? 何人くらい?」――ああ。これじゃ、あいつらを全員どかすわけにもいかないな。道赫は少しだけ考えた。本当のことは言いたくない。でも、嘘もつきたくない。迷った末、変に取り繕うことなく答える。「五十人くらいです。でも昼間はみんな出てるので、あまりいませんよ」適当に片づけておけばいいか。そんな結論の返事だった。珠葉は素直に頷く。五十人。そんな大人数で暮らしているとは思わなかった。そもそも韓屋に住んでいることすら、今日初めて知った。でも、知るタイミングとしては悪くない。試験さえ終われば、少しは余裕もできる。「分かった」そう言って珠葉は、またベッドへごろんと寝
ドヒョクは、その十一桁の電話番号をじっと見つめていた。 名前を登録しようにも、何と保存すればいいのか分からない。 昨夜は、酔い潰れるほど飲んだわけではない。 それでも朝になると、ようやく頭が冷えてきた気がした。 そもそも、なぜ番号を聞いたのか。 自分でもはっきり覚えていない。 あの女と、この先どうするつもりだったのか。 昨夜のことは、ちょっとしたハプニングとして終わらせればいい。 そう自分に言い聞かせながら、ベッドを降りた。 もしかすると、昨日
「もう、今にもイきそうですけど」「そんなわけない」 軽い挑発のつもりだった。 平然と言い返したつもりなのだろうが、その声は少しも格好よくなかった。 思った以上に震えていたからだ。 緊張しているようには見えなかった。 それでも、その声を聞いた途端、ジュハは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。「そうですか?」 その一言が、ひどく挑発的に聞こえた。 どこまで耐えられるか試してみる、とでも言いたげに。 ドヒョクは少し意地になった。 だが、酒の入った身体は意思とは裏腹に勝手な反応を始める。 ここ数年、まともな性行為から遠ざかっていたせいかもしれない。 ――いや。 そんなものは
「まあ、この辺ならホテルなんていくらでもありますし」 この辺りはラブホテルだらけだった。 ドヒョクはジュハの言葉に、小さく周囲を見回す。 生まれながらの坊ちゃん育ちで、こんな場所に来たことは一度もない。 もっとも、今さら二人でタクシーに乗ってホテルを探すというのも、それはそれで妙な話だった。「ふーん」「手でしかしませんけど。 それでもいいなら」「……何?」 ずいぶんと肝が据わっていた。 自分より倍は大きな男に向かって言う言葉とは思えない。 世間知らずなのか。 それとも、何か根拠のない自信でもあるのか。 酒に酔っているはずなのに、その瞳だけは不思議なほど生き生きとして
ジュハは、新学期初日からかなり酒を飲んでいた。 五年制の建築学科も、いよいよ最後の後期。 卒業制作の展示会も終わり、あとは卒業論文を書くだけ。 長かった学生生活も、ようやく終わる。 そう思うと、なぜだか無性に酒が飲みたくなった。 大学生活四年半の間、ここまで飲んだことは一度もない。 建築学科は酒を飲む人が多いイメージだったが、ジュハ自身は酒を好まなかったため、そこまで飲む機会もなかったのだ。 だから、その日の彼女は珍しく酔っていた。 道で大柄な男とぶつかったとき、何も考えず軽く頭を下げて謝ったのも、そのせいだった。「謝り方にしては、ずいぶん適当だな?」 そう言われ、ジュ







